風雅の誠は不易なのだから、何も古典から学ばなくても、今その人が一番感動できる作品から学べばその方がいいのではないか。昔のものでも今のものでも貫通するものは一のはずだ。それが不易流行説から軽みへの変化だったのかもしれない。
さて、今日は旧暦一月二十五日。ちょっと早いけど二月の俳諧を読んでみよう。
同じ元禄二年の二月七日、大垣の嗒山の江戸旅宿での興行。発句は、
かげろふのわが肩に立かみこかな 芭蕉
春は寒い日と暖かい日が交互に来るので、いまだに紙子が手放せない。寒いからといって紙子を着るとすぐまた暖かくなる。まるで紙子を着た我が肩に陽炎が立つかのようだ。
もちろん、その一方でみちのくの旅の計画も着々と進められていたのだろう。紙子は旅に欠かせないアイテムで、その紙子の上にまだ幻のみちのくの景色が陽炎のように浮かぶという意味も込められていたのだと思う。
それを受けて曾良は、
かげろふのわが肩に立かみこかな
水やはらかに走り行音 曾良
と返す。
春の水の流れる音が聞こえます、というだけの脇だが、「やはらかに走り行く」というところに旅の無事が込められているように思える。
第三。
水やはらかに走り行音
杣のやに独活のあへものあつらへて 嗒山
芭蕉と曾良の二人の江戸勢がこの日は来客になり、嗒山がそれをもてなす亭主になる。
杣(そま)は杣木取る人で山に住んでいる。亭主としてここでは脇のように客人二人をもてなす気持ちを込めて、「独活のあへものあつらへて」とする。
四句目。
杣のやに独活のあへものあつらへて
身はかりそめに猿の腰懸 此筋
此筋も大垣の人で、父は荊口、上の弟は千川、下の弟は文鳥と俳諧一家だ。此筋とはこの後芭蕉と曾良の長い旅の後、大垣で再会することになる。
独活の和え物をご馳走になるのは旅人で、猿の腰掛に腰を下ろすような仮の宿、ということになる。
猿の腰掛といえば後に芭蕉が幻住庵に滞在するときに、椎の木の上にそういう名前の腰掛を作っている。
五句目。
身はかりそめに猿の腰懸
いさよひもおなじ名所にかへりけり 曾良
月の定座だが「いさよひ」という月の字のない月を選んでいる。
十五夜だけでなく、十六日も見ようと、名所を離れかけたが戻ってきた。猿の腰掛に腰かけているように居所を定めない。
六句目。
いさよひもおなじ名所にかへりけり
こころをかくすもの売の秋 芭蕉
物売りだけど風流の心があって、月の名所が離れがたいが、それを隠している。隠れ風流というべきか。
初裏。
七句目。
こころをかくすもの売の秋
萩原は露ににれてもおもしろき 此筋
隠れ風流だから、萩原で露に濡れても嬉しいのだけど、びしょ濡れで気持ち悪いとか言っているのかな。
八句目。
萩原は露ににれてもおもしろき
ブトふりはらふともの松明 嗒山
「ブト」は蚋(ぶよ)のこと。今では「ブユ」が正しいことになっているのか、ウィキペディアの項目はブユになっている。「関東ではブヨ、関西ではブトとも呼ばれる。」とある。血を吸うので松明で追払う。もっぱら朝夕の薄暗いときに活動する。
九句目。
ブトふりはらふともの松明
五月まで小袖のわたもぬきあへず 芭蕉
この年は寒くて五月まで小袖の綿を抜かなかった。暑くなったころにはブユが現れる。
初表の月の定座に「月」の字がなかったので、ここで「五月」を出してバランスを取ったのだろう。同じようなことは元禄五年の「けふばかり」の巻でも行われていて、十三句目の「宵闇」の句を月としたため十五句目に「八月」を出している。
十句目。
五月まで小袖のわたもぬきあへず
おちたる髪をときそろへつつ 曾良
小袖の綿を抜かなかったのを病気のせいとした。悪寒だけでなく抜け毛もひどい。
十一句目。
おちたる髪をときそろへつつ
恋られてこふ人よりも物ぐるし 嗒山
「恋(こひ)られて」とそういう言い回しがあるんだなと思う一句で、近代なら「恋されて」になるところだ。「恋する」という言葉は意外に新しいのかもしれない。もともと恋の動詞は「こふ」だったし。
まあ男は恋られてもいいけど、女の方はやはりストーカーは怖い。髪も抜け落ちるくらい苦しむ。
『校本芭蕉全集 第四巻』の注に、
朝な朝なけづれば積る落ち髪の
乱れて物を思ふころかな
紀貫之(拾遺集)
の歌を引いている。
十二句目。
恋られてこふ人よりも物ぐるし
ほそく書たる文のやさしき 此筋
これは逆に男が恋られていて、恋する女の細い文字に気恥ずかしくなる。
中世の連歌だと、恋の句は恋する気持ちを詠むもので、恋される句は本意にそむくということになる。
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