今日で旧暦一月も終わり。
楊海英さんの『内モンゴル紛争─危機の民族地政学─』(二〇二一、ちくま新書)を読んでて、そういえば最近聞かなくなった言葉に「民族自決主義」というのがあるなと思った。戦後の植民地支配から脱却するときに盛んに用いられたこの言葉は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
戦後多くの国が独立した後、主に欧米諸国では労働力として多くの移民を入れて、そこで発生した民族対立にまさか自分の国を移民のために割譲するわけにもいかず、かといって追い返すどころか、アメリカのように新規の不法入国者を阻止することすらできず、それで多民族主義を掲げて民族自決主義を葬り去ろうとしているのではないか。
多民族主義は理想としては立派だが、例えば車は右側を走るべきだという主張と左側を走るべきだという主張を共存させることが無理なように、異なる社会習慣の共存は難しい。常に強権による暴力的な統一の影がちらちらする。多民族共存のためには単一の文化習慣を強要することも許されるというなら、今の中国と何ら変わらない。
軋轢が絶えず、相互理解といっても人間の頭は限界がある。こんな未来で本当にいいのか。
香港の問題も独立という切り札が何で奪われてしまっているのか。同じことは台湾にも起こりはしないのか。カタルーニャの独立をなぜ支持しないのか。なぜ世界の民族問題の解決に「民族自決権」を封印しようとするのか。習近平が笑ってるよ。
それでは『三冊子』の続き。
「師末期の枕に、門人此後の風雅をとふ。師の曰、此道の我に出て百變百化す。しかれどもその境、眞草行の三ッをはなれず。その三ッが中にいまだ一二をも不盡と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100~101)
芭蕉の臨終のときに立ち会った門人は支考、維然、之道、伽香、舎羅、呑舟、正秀、去来、乙州、木節、丈草、李由、其角といった面々だった。木節が医者で支考、舎羅、呑舟は介護要員だった。
芭蕉のこの言葉は『花屋日記』にも記されているが、この書物自体が後の人の書いた偽書なので、『三冊子』のこの言葉を拝借しただけだと思われる。となると、この言葉の出所ははっきりしない。ただ、芭蕉追善の俳諧興行に多くの門人が集まったので、その時に誰かから聞いたのだろう。
「眞草行」は書の楷書、行書、草書に喩えたもので、おそらく楷書の俳諧は古池の句や猿に小蓑の句にある程度は窮まったとしても、それをさらに軽く崩した行書草書の俳諧が未完成ということなのだろう。軽みの風は未だ完成しなかったということだ。草書の俳諧は後に惟然が試みることになる。この言葉が本当に末期の枕で発されたなら、当然惟然も聞いていた。
「俳諧いまだ俵口をとかずとも云出られし事度々也。高くこゝろをさとりて俗に歸るべしとの教なり。常に風雅の誠をせめさとりて、今なす處俳諧に歸るべしと云る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)
俳諧は未だに未開封で、開拓の余地がたくさんある。芭蕉はそう思っていたようだ。それは一面では正しかった。俳諧興行は芭蕉の時代に既に衰退し始めていた。寛文・延宝の頃の寺社で行われた華やかな、一種の舞台芸術としての俳諧は既に天和の頃には廃れ、貞享以降は私邸で少人数が集まっての歌仙興行がほとんどだった。
芭蕉の死後はさらにこうした句を連ねて行く長連歌の形式の俳諧は衰退し、発句と川柳点が残っていった。
ただ、俳諧そのものは衰退しても、俳諧が生み出した精神はその後の様々な大衆芸術に受け継がれていった。芭蕉が切り開いた延宝・天和のシュールギャグや貞享以降のあるあるネタは今日の芸人に余すところなく受け継がれている。
風雅の誠は日本の大衆文化に深く根を下ろし、いわゆるジャパンクールと呼ばれる世界を魅了する日本の文化の根底は芭蕉によって切り開かれたといっても過言でない。
その基本となるのは「高くこゝろをさとりて俗に歸るべし」という帰俗の精神だと言ってもいい。この言葉はよく蕪村の離俗と対比されるが、離俗は単に俗を離れるだけで、ともするとエリート意識に陥る。これに対し帰俗は俗を離れた上で再び俗に帰るという二段階を必要とする。
これは仏教でいう和光同塵の考え方から来たものだろう。元は老子からきた言葉だが、仏教に取り入れられ、日本では神仏習合の基礎にもなっている。
和光同塵はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「光を和らげ塵に同ずること、すなわち、自らの智徳(ちとく)の光を隠して世俗のなかに立ち交じること。『老子』第4章、第56章に「其(そ)の光を和し、其の塵に同ず」として出る。それがのちに仏教に取り入れられ、『注維摩詰経(ちゅうゆいまきつきょう)』や天台の『摩訶止観(まかしかん)』では、仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)教化のために、その本身を変じて応化(おうけ)の姿をとることをいうようになった。さらに日本では本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に関して用いられるようになり、仏・菩薩が日本の神祇(しんぎ)としてかりに姿を現すことをさすようになった。和光垂迹ともいう。[末木文美士]」
とある。
日本の神仏習合の根幹だということは、日本人の精神そのものだといってもいい。日本ではいかなる天才もいかなる知識人もお高くとまっていることを嫌い、大衆にもわかりやすく説明することを求められる。企業でもトップ自らが現場に入り、ともに汗を流すことを良しとする。この考え方は日本の社会にしみついている。北野監督はいかに世界的に権威のある映画賞を受賞しようとも日本では「コマネチ!」だし、今もコメンテーターと称して馬鹿なことを言っている。
天皇が実際の統治をせずに無や空としてふるまうように、どんな偉い人でも権威を振りかざしてふんぞり返ってはいけない。それは日本の文化の基本だ。
離俗はただ俗を離れるだけだが、帰俗はそこからさらに先の境地になる。芭蕉も旅をしたり幻住庵や無名庵に籠ることもあるが、江戸や京都に滞在する時間もそれなりに長い。この時期はまさに市隠といっていいだろう。「大隠は市に隠る」という言葉もある。goo辞書の「デジタル大辞泉」に、
「《王康琚「反招隠詩」から》真の隠者は、人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗人にまじって町中で超然と暮らしているということ。大隠は朝市 (ちょうし) に隠る。」
とある。日本のオタク文化を支えているのもこの市隠の伝統なのかもしれない。
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