2021年3月1日月曜日

 二月二十六日の『三冊子』の脇の付け方の所で、あの時は脇の相対付の例を挙げあられなかったが、ようやく見つけた。『冬の日』の四番目の歌仙、「炭売の」の巻が相対付けだった。

 炭売のをのがつまこそ黒からめ  重五
   ひとの粧ひを鏡磨寒     荷兮

で「炭売」と「鏡磨」が対になっている。
 句の方は、材木商をやっている私は炭売のようなもので妻まで煤けて黒くなってますという発句に、炭売が人様のために妻を黒くしているように、鏡磨もまたひとの粧ひのため寒い中を鏡を磨いでいてくれる。卑下することではありません、と応じる。

 それでは「三冊子」の続き。

 「月の定座をこぼす事、師のいはく、五十句より内にはあるべからず。奥に至つては少の興にも成るものなり。哥仙はくるしかるまじ、略の物故也。月の座、月の字有時も差合たる時は、異名にてすべし。異名の仕かた人々の作意にあるべしと、師の詞也。又、師のいはく、月は上句勝たるべし。落月、無月の句つゝしむべし。時によるべし、法にはあらずと也。星月夜は秋にて賞の月にはあらず。もし、ほ句に出る時はす秋にし、他季にて有明などする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.98)

 月の定座は百韻の場合は一句ぐらい落としてもいいということだろう。ただ、初表の場合は発句の季節のこともあるので、除外であろう。二表十三句目、三表十三句目、名残表十三句目のうち二つは守る。「奥に至つては少の興にも成るものなり」は終盤に変化をもたらす分にはいいということか。
 歌仙では定座をあまり厳密に守ってしまうと窮屈で身動きが取れなくなるし、もともと略式なので厳密さは要求されない。
 月の定座に月の字が出せない場合はいくつか考えられる。日付などの日の字が打越にある場合、天象の日の字から三句去ってない場合。日付などの月の字から三句去ってない場合などがそれにあたる。「有明」も月に準じて同様に去り嫌いがある。その時は月の異名を用いるというが、どうやるかは不明。
 「月は上句勝たるべし」は定座以外の各懐紙の裏の月は七七の下句でもいいが、五七五の上句の方が勝るということ。
 「落月、無月の句つゝしむべし。時によるべし、法にはあらずと也。」例外は元禄五年の「けふばかり」の巻で、十三句目に芭蕉自身が、

   船追のけて蛸の喰飽キ
 宵闇はあらぶる神の宮遷し    はせを

の句を付けている。これは月の出る前の闇で月の字もない。このあと十五句目で、

   北より荻の風そよぎたつ
 八月は旅面白き小服綿      酒堂

で字だけの「月」を出してバランスをとったという。これは「底を抜いた」ということか。
 「星月夜」の句は、元禄二年春の「衣装して」の巻二十九句目に、

   打れて帰る中の戸の御簾
 柊木に目をさす程の星月夜    曾良

の句があり、柊の句で冬になっている。また、同じ春「かげろふの」の巻二十三句目に、

   おきて火を吹かねつきがつま
 行かへりまよひごよばる星月夜  嵐蘭

の句がある。ここでは秋の扱いになっている。二十九句目の定座に月の句があり、賞の月としては扱われていない。
 星月夜は付け句でも発句でも稀で、この例外的な二句を見ても闇の恐ろしさの方がまさり、近代のような星空の美しさを詠むことはなかった。星空は昔はあまりに当たり前のことで、失われて初めてその美しさが見直されたのではないかと思う。昔の人からすれば月のない闇は恐怖であり、落月無月を嫌うのもそのためだったと思う。

 みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉

 『野ざらし紀行』伊勢でのこの句も、闇と嵐の中で伊勢の神木にすがる句で、

  何事のおはしますをば知らねども
     かたじけなさの涙こぼれて
              西行法師

の歌の心だった。

 「月といふ字に五句隔と新式にあり。師の曰、表に月二ッ稀に有。此時は月數八ッ也。名の裏はまれにも月なしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.98)

 『応安新式』には七句可隔物のところに同季とともに「月与月」とある。他に松と松、竹と竹、夢と夢、涙と涙、船と船、田と田、衣と衣が七句隔になっている。俳諧では五句隔で貞徳の『俳諧御傘』に、

 「月と月 五句去也。声に読てもおなじ。但、月次の月には三句去べし。」

とある。
 「師の曰、表に月二ッ稀に有」というのは紹巴より前の時代には定座がなく、七句去りで何回でも出しても良かったからで、明応八年(一四九九年)の『宗祇独吟何人百韻』では三句目、十一句目、十九句目、三十一句目、四十四句目、五十二句目、六十句目、六十九句目、八十四句目、九十二句目と月が十句ある。月が八つに定まったのは紹巴の頃からであろう。それ以前は上限もなければ下限もなく、各懐紙の表裏に一句という決まりもなかった。
 定座は連歌の形骸化の一つで、本来連歌は花の下で誰もが平等に機知を競い合うことで盛り上がったのだが、やがて戦国時代の武家社会の厳しい上下関係から花や月は偉い人の詠むもので、下々のものは遠慮するようになっていって、ちょうど宴会などでお皿に最後の一個だけ誰も手を付けずに残るみたいに、懐紙の終わりまで誰も花を付けずに残ってしまったために、懐紙の最後の長句(上句)が定座になっていった。
 こうした新しい時代の連歌の習慣が江戸時代になって町人の俳諧にも残ってしまったことから、やがて俳諧は堅苦しいといって敬遠されていったのではないかと思う。芭蕉亡き後は誰もこうした習慣を変えようだとか底を抜こうだとかいう人がいなくなり、急速に形骸化していったことは十分想像できる。惟然の超軽みの風が最後の抵抗だったのだろう。

 「花の事は花四本の内、下の句は一句ばかり、定座まれにもこぼす事なしと也。賞花の句、前句への付心か。又その一句の心か。賞は梅、菊、牡丹など下心にして仕立、正花になしたる句、その木草にしたがひ、季を持たすべきか。或は正月に花を見る、また九月に花咲など云いかゞと云ば、師の曰、九月に花咲などいふ句は、非言也。なき事也。たとへ名木を隠して花と計云とも正花也。花といふは櫻の事ながら都而春花をいふ。是等を正花にせずしては花の句多く出る。賞輕しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.98~99)

 定座というルール自体が連歌の歴史の中では新しいので、定座の規則も戦後の末期から江戸時代初期に確立されたもので、古説とあっても、大体その頃の説と見ていい。貞徳や宗因もこうした新しい時代の連歌のルールに基づいて俳諧のルールを模索してきたといっていい。
 そこでは初裏、二裏、三裏、名残裏の花の定座の内、一つだけなら七七の下の句にしてもいいという慣例もあったのだろう。
 賞花という言葉は月の所で「賞の月」とあったのに対応する言葉だろう。「賞は梅、菊、牡丹など下心にして仕立、正花になしたる句」とあるから音は一緒でも正花とはまた別の物と思われる。一般に「梅の花」「菊の花」「牡丹花」とあっても正花とはカウントされず、秋の「花野」も同様に正花にはならない。定座とは関係なく使用できる。
 「か」という語尾で書かれている「賞花の句、前句への」から「花咲など云いかゞ」までは土芳が芭蕉に問うた言葉で、実際にこれらをたとえ「賞花」と呼んだにせよ「正花」になることはない。芭蕉ははっきり答えている。「九月に花咲などいふ句は、非言也。なき事也。」つまり、桜以外の花を心は花だと言って正花にするなんてことはありえない。
 それで気になるのが先にも述べた、貞享二年六月二日東武小石川ニおゐて興行の「賦花何俳諧之連歌」という古式による俳諧百韻の一巻で、「清風涼しさの凝くだくるか水車 清風」を発句とする。
 この巻では初表に、

   みちの記も今は其侭に霞こめ
 氈を花なれいやよひの雛     清風

 二表に、

   いかなればつくしの人のさはがしや
 古梵のせがき花皿を花      清風

 三表に、

   一陽を襲正月はやり来て
 汝さくらよかへり咲ずや     芭蕉

 名残表に、

   定家かづらの撓む冬ざれ
 低く咲花を八ッ手と見るばかり  素堂

の句があることだ。初表は春の正花、二表の花皿は貞徳の『俳諧御傘』では春で正花になるが、ここでは無季として扱われている。三表は『去来抄』「故実」に、「先師曰、さればよ、古は四本の内一本は桜也。」とある。そして名残表はヤツデの花になっている。ただ、「花を八ッ手」という微妙な言い回しは賞花をここではヤツデと見る、というふうに取れる。土芳の「賞花の句、前句への付心か。又その一句の心か。」というのはこのことを言ったとも考えられる。
 元はといえば古式を「花裏表に一本宛」の誤解だったのかもしれない。さすがに八本の花は無理があって、ヤツデを賞花にするという苦肉の策もあったのかもしれない。
 「花といふは櫻の事ながら都而春花をいふ」の「都而」は「すべて」と読む。ただ、元は春の桜の花でありながら、比喩として春にならない正花もある。貞徳の『俳諧御傘』には、

 餅花 正花也、冬也・植物に二句也。
 花よめ・花婿 恋也、雑也、正花を持也。人倫也。植物に非ず、春に非ず。
 花かいらき 正花を持也。春にはあらず、植物にあらず。
 花うつぼ 雑也。正花にもする也。うへものにあらず。
 ともしびの花 正花を持也。春にあらず、植物にあらず、夜分也。
 花火 正花を持也。春に非ず、秋の由也。夜分也。植物にきらはず。
 花がつを 正花を持也。春にあらず。生類にあらず。うへものに嫌べからず。
 作り花 正花也。雑也。植物に二句去べし。
 花ぬり 漆の事也。雑也。正花をば持也。植物にあらず。
 花がた 小鼓にあり。正花にはなれども季はもたず、植物にならず。

などがある。ただ、確かに蕉門ではあまり用いられていない。
 また、松意編の『談林十百韻』の「されば爰に」の巻では二裏に、

   童子が好む秋なすの皮
 花娵(嫁)を中につかんてかせ所帯 雪柴

の句があるが、そのあとの句が「春風」「雪消て」と続き、春として扱われている。似せ物の花に関してはその場の判断にゆだねられることが多かったのかもしれない。
 「革足袋の」の巻の三裏には、

   一夏はすてに秋いたる也
 法の花火江湖の波の夕景色     正友

の句は「花火」を定座に用いている。「露」「虫の声」「秋いたる」ときて花火だから秋扱いと思われる。次の句に「彼岸」とあるが、その次が「かやるとはおもはさりしをなかし者」なので、彼岸を無季扱いしたか、それとも「花火」を春として春二句で捨てたかということになる。
 宗因編『大阪独吟集』の「素玄独吟の二裏に、

   七つさがれば門をさす月
 花の火もあだにちらすな城の内   素玄

は、「冷し」「秋淋し」「月」ときて、この後に「鑓梅」「雪とけて」とそのあと「角田がはらの浪のわれふね」と無季になるので、「花の火」は春として扱われている。
 まあ、基本的には俳諧の捌きは杓子定規にならず、臨機応変にということなのだろう。サッカーの審判も軽微な違反でむやみにゲームを止めずに、スムーズな試合進行を優先させるようなもので、俳諧師匠には句だけでなく捌きにおいても機知が求められたのだろう。

 「宗祇の時代迄、百韵花三本也、雨一ッ也。宗長の時にいたり、匂ひの花一本、雨一ッ、勅許を蒙り度旨奏聞せられて花四本雨二ッには究り侍る。連哥の式と師の詞也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.99)

 『応安新式』には花三本、似せ物一、雨は一座一句物。ここは間違いない。雨の一座一句とは別に、「急雨(にはかあめ)」は一座一句、五月雨一座二句だった。
 これに対し宗祇より前の宗砌の時代の享徳元年(一四五二年)に作られた『新式今案』で、花は「近年或為四本之物、然而余花は可在其中」ということで、四本目の花は似せ物でなくてもいいということになった。雨に関しては「春さめ」「秋さめ」「小さめ」を「急雨」の代わりに一句、「あまそそぎ」「雨夜」をその他に一句使えるようになった。
 これを見ても、芭蕉の時代には連歌の式目についての正確な情報がなく、戦国末から江戸時代の連歌のルールが元になってたというのが想像できる。そして、それを適度に緩めて臨機応変に捌くのが俳諧だったといっていいだろう。適度の難易度で俳諧が一番面白くなるようにするのが宗匠の役目だった。

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