2021年3月11日木曜日

  今日は東日本大震災から十年。去年はコロナで自粛して、福島の南相馬の辺りは去年は配送の仕事で三回ぐらい行ったが、プライベートでは行かなかった。
 ミャンマーの民主派は孤立して戦うのではなく、ロヒンギャやカチン、カレンなどと早く和解して軍事政権に包囲網を作らなくてはいけないんじゃないかな。ビルマ族支配の継続では国際的な支援にも限界があると思う。せめて多民族共存国家にするのか、それとも少数民族の独立を認めてビルマ族だけで慎ましく暮らすか、どちらを目指すのかを明確にした方がいい。
 それはそうと、「衣装して」の巻「かげろふの」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 
 さて、そろそろ『三冊子』に戻ろうと思う。「あかさうし」の始まり始まりーー。

 風雅の誠については「しろさうし」の方にも記されていたが、ここでいよいよ不易流行説の展開になる。
 不易流行説は芭蕉が『奥の細道』の旅の中で曾良こと岩波庄右衛門より朱子学の教えを受ける中から誕生したと思われる。日本の朱子学は朱熹の学問そのものではなく、朝鮮(ちょそん)の朱子学の大成者李退渓の学を学ぶ中から藤原惺窩や林羅山によって整えられたもので、林羅山の朱子学を取り入れた神道家の吉川惟足の高弟の一人が岩波庄右衛門(曾良)だった。
 朱子学は江戸幕府の公認の学問で、曾良のみならず、当時の識者ならある程度の認識を持っていたと思われる。ただ、曾良によって確かな知見を得られたことは大きな収穫だっただろう。
 松永貞徳も林羅山と交流を持っていたにもかかわらず、俳諧を朱子学によって理論化することはなかった。この融合を成しえたのは、結局芭蕉だけだった。
 松永貞徳に欠けていたものがあるとしたら、貞徳の時代がまだ江戸の大衆文化の発展途上の段階にあり、その庶民の旺盛な創作意欲によって作り出された流行をまだ知ることがなかったからだと思われる。
 貞徳の俳諧は基本的に雅語による連歌の風流を学ぶための入口としての俗語を交えた俳諧だった。それは俗語の世界を解放するものではなく、あくまで連歌の風流を俗語に移植しただけだった。
 宗因の談林俳諧が寛文の終わりから延宝の初めにかけて一世を風靡した時、芭蕉もその流れに乗ることになった。そしてその流行が延宝の終わりから天和になる頃に急速に廃れて行き、貞享の頃には芭蕉ならずとも古典回帰の傾向が生じてきた。その中で伊丹の鬼貫も同じ頃「誠」という理想に至った。ただ、不易流行説はなかった。
 今日でも多くの芸術家は流行を軽視し不変の美を求める傾向にあるが、芸術の本当に生き生きとする姿は、日々次々に新しい作品が生み出され、多くの人たちがわくわくしながら次はどんなものが来るか期待して待っている、そのなかにある。芸術は絶えず生み出されるものでありその新しさにこそ本当の感動があり、そして人々の明日への活力になる。このことに気付く人は少ない。
 芭蕉は談林の流行下にあってそのことに気付いた数少ない俳諧師だった。そして生涯俳諧に新味を求め、次の俳諧のことを考えていた。その一方で、一たび一つの体を学んでしまうとそこに留まり続けようとする門人たちと、悲しい別れを繰り返してきた。
 流行は決して否定すべきものではなく、むしろ流行の中にこそ芸術の本当の力がある。そして不易は流行とは別個に存在しているのではない。流行を生み出す原動力の中に不易がある。それを見抜いたのは芭蕉一人ではなかったかと思う。
 流行を生み出す原動力、それはあくなき創作への初期衝動といってもいい。不易は作品の中にあるのではなくその衝動そのものが不易であり、それに共感するところに作品に対する本当の感動がある。これを理論化するのに朱子学の理論はうってつけだった。理と気の二元論は不易の理と流行する気とを共存させることができた。ここには西洋の精神と肉体の二元論のような精神が肉体を支配するという、一方向的な支配従属の関係がなかった。

 「師の風雅に萬代不易有。一時の變化あり。この二ッに究り、其本一也。その一をいふは風雅の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 土芳の記したこの言葉はほぼ芭蕉の言葉をなぞったものだと思われる。『去来抄』にも、

 「去来曰、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。これを二ッに分つて教へ給へども、其基は一ッ也なり」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.61)

とあり、ほぼ一致するからだ。(ただ、「の句」が余計にくっついている。この微妙なずれが後に『俳諧問答』で許六との論争を生むことになる。)
 元禄二年の秋、『奥の細道』の旅が大垣で終わり、そこから伊勢へ向かった芭蕉は九月の終わりに故郷の伊勢へ向かう。この途中であの、

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり    芭蕉

の句を詠むことになる。
 そして伊賀に戻った時、土芳の蓑虫庵を尋ね、最初の不易流行説を説いたのではなかったかと思う。この後芭蕉は十一月末に奈良を経て京都に行き、しばらく京都に滞在する。ここで不易流行説は去来に伝わったと思われる。
 朱子学的には萬代不易(千歳不易)は理に属し、一時の變化(一時流行)は気に属す。そして理の方が根源的で気はそこから生み出される。ゆえに「其本一也。その一をいふは風雅の誠也。」となる。「誠」は人間の心のうちに現れる理に他ならない。
 これは本来千歳不易の句と一時流行の句があるということではなかったと思われる。句はすべて理の衝動から生まれ気として姿を現すというのが正確なところだろう。風雅の誠から生み出された句は、言葉になった瞬間から声という物理的な空気の振動となって伝わって行く。ただ、そこに意味されているものはその声の発した心の中にあり、それを聞いた人の心の中にある。芸術の本当の感動は作者なり読者なりの心の中にあり、作品はその媒介にすぎない。媒介はその都度生み出され、一時流行しては消えて行く。それでも心の中に感動が生じる限り、その感動は不易だ。

 「不易をしらざれば實に知れるにあらず。不易といふは新古によらず、變化流行にもかゝわらず、誠によく立たる姿也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

というのは、人はそれぞれ心に中に風雅の誠を持っているから、作品は感動を伝えることができるのであり、それを持ってないなら作品はただの物理的な音声や墨の染みにすぎない。そして、それを持っている限り、個々の作品は一時流行してはすぐに廃れていこうとも、心の中に残り続ける。心の中に残り続けているものに新古の区別はない。それが風雅の誠だからだ。

 「代々の哥人の哥を見るに、代々その變化あり。又新古にもわたらず、今見る所むかし見しにかはらず、あはれなる歌多し。是先不易と心得べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 代々の歌人の歌といっても、当時は『万葉集』はそれほど重視されてなかった。まずその表記がいわゆる万葉仮名のものは読めても、古体といわれる手爾於葉の字が表記されていないものは、解読が困難だったからだと思われる。柿本人麻呂の「東野炎立所見而反見為者月西渡」もこの時代は、

 あづまののけぶりの立てる所みて
     かへり見すれば月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(玉葉集)

と読まれていた。
 赤人家持あたりは手爾於葉の字が表記されているので、その後の歌集にも取り入れられやすかった。人麻呂に関しては「人麻呂歌集」とあっても真偽不明のものも多かった。
 ただ、『古今和歌集』の詠み人知らずの古歌の時代から、六歌仙の時代、紀貫之の時代から『千載和歌集』『新古今和歌集』の時代、そしてそれ以降の鎌倉室町の時代の勅撰集の和歌に至るまで、風体は変わってきた。それでも良い歌は多い。心に染みるものがあれば年代は関係ない。不易は風体の差に関係なく、あくまでその心にあったからだ。風体の差に良し悪しを言うようになり、万葉崇拝が生じたのは江戸時代後期になってからだ。
 不易が心にあるのに対し、流行は風体にある。

 「また千變万化するものは、自然の理なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 芸術は人間の旺盛な制作意欲が抑圧されない限り、どんな時代でも新しい作品が次から次へと生み出されてゆく。ただ、残念ながら人間の記憶には限界があり、そのすべてを記憶にとどめることはできない。そのためたくさんの作品が生み出されれば生み出されるほど、忘れてゆく作品の数も増えて行く。流行とは人間のあくなき創作意欲と記憶の限界から来る自然現象である。

 「變化にうつらざれば風あらたまらず。是に押移らずと云は、一端の流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 たとえ人の心はいつの世でも同じだとはいっても、表に現れる表現は変わらざるを得ない。なぜなら人は嘘をつくからだ。
 たとえば「愛している」という言葉を一番最初に言った人は本当だったかもしれない。でもその言葉が生じた瞬間から愛してなくても「愛している」と嘘をいうことが可能になる。だから嘘偽りの「愛している」ではないことを証明するには、また別の言葉が必要になる。
 同じ言葉は何度も発せられると、嘘が多く混じるようになる。その中で本当のことを伝えようとするなら、常に新しい言葉を探さなくてはならない。作品もそれと同じで、似たような作品がたくさんあっても、多くの人は「偽物」だと思うだろう。本物であるためには新しいものを作り続けなくてはならない。
 一つの作品が多くの人を感動させると、実際に心に誠がないのにそれとそっくりの物を作って感動を与えようとする。最初は騙される人も多いが、あまりに言い古されるとさすがに騙されなくなる。作者の心に誠があるならあ必ず違ったものを作る。そうしたものが言い古された言葉より多くの感動を与え、人々の記憶に残って行く。

 「せめず心をこらさゞるもの、誠の變化を知ると計云事なし。唯人にあやかりて行のみ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

とあるように、心に誠がなく人の真似ばかりしている者は新しいものを生み出すことができない。ただ他人の作ったものを後追いするだけになる。

 「せむるものはその地に足をすへがたく、一歩自然に進む理也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 心に誠を持ち、それを伝えようとすれば、自ずと出来合いの表現を避け、新しいものを生み出して行く。

 「行末いく千變万化するとも、誠の變化は皆師の俳諧也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 芭蕉の作風が貞門・談林・天和調・蕉風確立期・猿蓑調・軽みと変化していったとしても、芭蕉の心の中の誠は変わっていない。ただ表現方法が変わっていっただけでみんな芭蕉の俳諧だ。

 「かりにも古人の涎をなむる事なかれ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 これは『去来抄』にも、

 「先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.65)

とある。昔の人の物真似をしても、物真似はあくまで似せ物であって誠はない。

 「四時の押移如く物あらたまる。皆かくのごとしとも云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 芸術は移り行く世界の中で今の自分を偽りなく表現すれば、自ずと今の風体に適う。コピーは所詮コピーにすぎない。コピーを繰り返せば劣化する。

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