今朝の新聞を見たら「ビヨンセさん四賞獲得」という見出しが目に飛び込んできた。昨日は確か主要四賞を逃したと思ってたけど、よく読めば最優秀R&Bパフォーマンス賞とその他マイナーな賞を取ってたようだ。それにしてもビリー・アイリッシュとかでなく、何でこの見出し?マスコミはビヨンセとBTSしか知らないのか。
あとそれと、延宝六年の「さぞな都」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは『三冊子』の続き。
「師のいはく、体格は先優美にして一曲有は上品也。又たくみを取、珍しき物によるはその次也。中品にして多は地句也。師の句をあげて、そのより所をいさゝか顯す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104)
上品中品は『文選』の分類だが、その下のものは下品といわずに地句という言葉を用いている。まあ、地面は下にあるし、底辺の意味もある。中国の漢詩の文化は階級が限られていたが、俳諧は大衆文学で広大な裾野を持っている。そこには膨大な数の凡庸な句、詠まれたそばから人の心に留まることもなく忘れ去られて行く作品群がこの時代から存在していた。
ここで師である芭蕉の句を取り上げて例示することになる。
「何の木の花とはしらず匂ひかな
此句は本哥也。西行、何事のおはしますとはしらねどもかたじけなさの涙こぼるゝ、とあるを俤にして云出せる句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104)
伊勢山田
何の木の花とはしらず匂哉 芭蕉
の句は『笈の小文』の旅の伊勢での句で、
何ごとのおはしますをば知らねども
かたじけなさの涙こぼれて
西行法師
の歌を本歌にしている。ここでは本歌と俤を区別していない。この辺の境界はあいまいで、付け句の場合の「俤付け」は従来の本歌付けや本説付けと区別して匂い付けの一種として位置付けるなら、明確な出典のない、何となくそれっぽいという程度の付け方ということになる。『猿蓑』の「市中は」の巻三十句目の、
草庵に暫く居ては打やぶり
いのち嬉しき撰集のさた 去来
の句は、何となく西行のことだろうというのはわかるが、特に故事に基づいているわけではない。
「何の木の」の句は本歌がはっきりしている。もとにあるのは伊勢神宮に参拝した時の身の引き締まるような有難さであろう。
ここで重要なのは「何だかわからないけど」、つまり西行は僧でであるため神社の有難さに対して理解は示していないが、それでも何か、というところだ。芭蕉もまた旅をするときは僧形で『野ざらし紀行』の旅の時も、
「僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」
と記している。単に伊勢神宮の目出度さを詠むのではなく、僧の立場でというところで形を得ようとしたときに、最終的に西行の歌の「何ごとのおはしますをば」に「何の木の花」という姿を与えてこの句になったと思われる。
これは「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむ」句ではなく、「趣向を句のふりに振出す」例だとも言えよう。西行の歌により具体的な姿を与えたといってもいい。
句の最初の衝動は伊勢での感慨が西行の歌の本意とつながって不易を直感したことにあり、姿は俳諧にふさわしくより具象的な木の匂いとして表している。
「有明の三十日にちかしもちの音
此句は兼好、有とだに人にしられて身のほどやみそかにちかき明ぼのの月、とある本哥を餘情にしての作なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104~105)
この句は元禄六年の暮の句で、
有明もみそかにちかし餅の音 芭蕉
は元禄八年刊支考編の『笈日記』の巻軸に掲げ、
兼好法師が哥に
ありとだにひとにしられて身のほどや
みそかにちかき有明の月
と後に付け加えている。
ネット上の川平敏文さんの『兼好伝と芭蕉』によると、連歌師黒川由純の『徒然草拾遺抄』(貞享三年成・元禄七年増補)に、
「右病中の詠也
ありとたに人にしられぬ身の程や
みそかに近きあかつきの月
右生前の詠にして、去る月廿八日詠ずるの由申上也。」
とあるという。
この歌が兼好法師のものかどうか確証はないようだ。
芭蕉の句とこの歌は、元禄七年の路通の『芭蕉翁行状記』にも言及がある。芭蕉の死と兼好法師の死とが結び付けられる内容になっている。
芭蕉が果たして元禄六年の暮に死の近いことを意識していたかどうかはわからない。ただ年の暮れを寂しく過ごしていて、晦日に近い明け方によその家の餅の音を聞くだけになったと思い、兼好法師の歌を思い浮かべたのかもしれない。いずれにせよ兼好法師への共鳴の中に不易を感じるとともに、「餅の音」で兼好法師の歌にない流行の姿を与えている。
「高水に星も旅寢や岩のうへ
此句は小町が、石の上に旅寢をすればいとさむし苔の衣を我にかさなん、と云心の取ての句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105)
元禄六年七月七日、雨の七夕の夜に杉風が芭蕉庵を訪ねてきた時の句とされている。元禄九年刊の史邦編『芭蕉庵小文庫』に収録されている。
弔初秋七日雨星
元禄六文月七日の夜風雲天に
みち白波銀河の岸をひたして
烏鵲も橋杭を流し一葉梶を
ふきをるけしき二星も屋形を
うしふべし。今宵なほ只にす
ごさむも残り多しと一燈かかげ
添る折ふし遍照小町が哥を
吟ずる人あり。是によって此二
首を探りて雨星の心をなぐさ
めむとす
小町が哥
高水に星も旅寢や岩のうへ はせを
遍照が哥
たなばたに貸さねばうとし絹合羽 杉風
とある。
和歌の方は後撰集の贈答歌で、
岩の上に旅寝をすればいと寒し
苔の衣を我に貸さなん
小野小町(後撰集)
世をそむく苔の衣はただ一重
貸さねば疎しいざ二人寝ん
僧正遍照(後撰集)
になる。
句の方は「高水」は大雨のこと。大雨で星も岩の上で旅寝をしているのだろう、と小町の「岩の上に旅寝をすれば」に掛けて織姫の旅寝を想起させれば、杉風が遍照の「貸さねば疎し」の言葉を取りつつ、苔の衣を織姫彦星にふさわしく「絹合羽」とする。
合羽はウィキペディアに、
「合羽は当初は羅紗を材料とし、見た目が豪華なため、織田信長や豊臣秀吉などの武士階級に珍重された。江戸時代に入ると、富裕な商人や医者が贅を競ったため、幕府がこれを禁止し、桐油を塗布した和紙製の物へと替わっていった。」
とある。絹の合羽が本当にあったのかどうかはわからない。
「ほとゝぎすなくや五尺のあやめ草
此句は、ほととぎすなくや五月のあやめ草、といふ哥の詞を取ての句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105)
これは元禄五年の句。元禄五年刊の支考編『葛の松原』に収録されている。
ほとゝぎすなくや五尺の菖草 芭蕉
の句で、
郭公なくや五月のあやめぐさ
あやめも知らぬ戀もするかな
よみ人しらず(古今集)
の上句の五月を五尺と一字変えただけの句だ。わずかな違いだが尺の一字であやめに姿を与えている。
「花のうへこぐとよみ給ひける古きさくらもいまだ蚶滿寺の
しりへに殘りて、影浪を浸せる夕ばへいと凉しけれバ
夕ばれやさくらに凉む浪の華
此句は古哥を前書にして、其心を見せる作なるべし。(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105)
句の方は不玉編『継尾集』に収録されたもので、象潟へ行った時の句だが『奥の細道』には入っていない。『継尾集』では前書きは「影浪を浸せる夕ばへ」ではなく「陰浪を浸せる夕晴」になっている。
ゆふばれや桜に凉む浪の花 芭蕉
「花のへこぐ」の歌は、
きさかたの桜は波にうづもれて
はなの上こぐあまのつり舟
西行法師
で、散った花の水に浮かぶ中を行く舟を詠んだもので、その心を引き継ぎながらも、季節は夏で桜の季節ではなかったので、水の白く波立つさまを桜の花に喩えた「浪の花」という言葉を用い、夕涼みの句にしている。
水に浮かぶ花びらを今では「花筏」というが、芭蕉の時代でもこの言葉はまだ用いられていなかった。永正十五年(一五一八年)『閑吟集』や寛永十 (一六三三年) の『犬子集』にも見られる言葉ではあるが、あまり普及はせず、近代俳句でもこの言葉はわりと最近なのではないかと思う。
本歌のある句というのは、本歌から本意本情(不易)を取っていて、それが俳諧に於いてどのような姿(流行)を与えられるかがわかりやすい。
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