今日は如月の十四日。今月の満月は十七日(新暦三月二十九日)だという。今年はどうやら如月の望月と満開の桜が時期的に重なりそうだ。後は天気さえよければだな。
あと、いくつか会社名が上がっているが、新疆綿を使ったものは買わないように。新疆の綿かとみえて腸畠。
それでは『三冊子』の続き。
「名月や座にうつくしき貌もなし
此句、湖水の名月也。名月や兒達双ぶ堂の緣、としていまだならず。名月や海にむかへば七小町、にもあらで、座にうつくしき、といふに定る。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)
この三句はいずれも元禄三年八月十五日木曽塚の草庵で月見の会があった時の句だった。元禄九年刊風国編の『初蝉』には、
名月や兒たち並ぶ堂の縁 芭蕉
とありけれど此句意にみたずとて
名月や海にむかへば七小町 同
と吟じて是もなほ改めんとて
名月や座にうつくしき顔もなし 同
といふに其夜の句はさだまりぬ
とある。
稚児や小町を出しておいて、あえてこれでは月並みとばかりに「うつくしき顔もなし」でこれが俳諧だとやってみせたわけだ。
名月を愛でたいものと取り合わせるのはすでにさんざんいろいろな人がやってきたことで、あえてそれを繰り返すこともあるまい。ならばというわけだ。
逆説的な言い方だが、この句は名月には美しい顔が欲しいと言っているようなものだ。ただ、それを限定しないことで、各自好みの「美しい顔」を思い描けばいいということになる。
この句はこの後すぐに尚白との両吟の発句として用いられ、そのときは、
古寺翫月
月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉
の形になる。まあ、尚白と二人っきりでは無理もないが。
「蘭の香や蝶の翅に薫す
此句ハ、ある茶店の片はらに道やすらひしてたゝずみありしを、老翁を見知り侍るにや、内に請じ、家女料紙持出て句を願ふ。其女のいはく、我は此家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍る也。先のあるじも、鶴といふ遊女を妻とし、其比、難波の宗因、此處にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請たると也。例おかしき事までいひ出て、しきりにのぞみ侍れば、いなみがたくて、かの難波の老人の句に、葛の葉のおつるの恨夜の霜、とかいふ句を前書にしてこの句遣し侍るとの物がたり也。其名をてうといへば、かくいひ侍ると也。老人の例にまかせて書捨たり。さのことも侍らざればなしがたき事也と云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.118)
この句は元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
美人圖
蘭の香や蝶のつばさにたきものす はせを
とだけある。これでは何のことかわからないので、『三冊子』は長い注釈を施している。
これについては『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いたときに、
「いくら有名人とはいえ、会う人ごとに句をねだられたのではたまったものではない。しかし、先代の妻が談林の祖、西山宗因に発句をもらったという縁であれば、芭蕉の心も動いたのであろう。いわば、日頃尊敬してやまぬ宗因との句合わせだ。」
「芭蕉にとって、宗因はかけがえのない師だった。とはいえ、宗因は『西翁十百韻』恋俳諧「花で候」の巻のような、恋の句だけで百韻を作るほどの、恋句の達人であり(ただし江戸時代的な恋句で、中世的なラブソングではない)、この勝負は無謀ともいえる。
葛の葉のおつるの恨夜の霜 宗因
蘭の香やてふの翅にたき物す 芭蕉
宗因の句は、「結婚こそ女の幸せ」と信じるものにとっては理解し難かったのか、なぜここで「恨み」を言わなければならなかったかわからないとする解説書が多い。しかし、発想を逆にしてほしい。つまり、遊女という仕事に誇りを持つ女性の立場に立つといい。江戸時代の遊女は、戦前の赤線の遊女や今日のソープ嬢ではなく、しっかりとした芸を身に着けていたし、客を選ぶこともできた。せっかく才気あふれる女性でありながら、よる年なみに勝てず、結局一人の男のもとに「落ちて」、枯れ果ててしまった、そんな遊女の生涯への共感がこの句の本意だったのである。
これに対して、芭蕉の句は蘭の香によって「てふ」という女の翼が高貴な香になった、というものだ。蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、遊女をやめて、ひっそりと操を守って暮らすことによって、花から花への浮気な蝶の羽も香ばしい香を漂(ただよ)わすというものだ。芭蕉の句は残念ながら遊女の境遇への共感というよりも、貞操を賛美する儒教道徳そのものだ。やはり芭蕉はただの堅物としか言いようがない。私ならこの句合わせを、このように判定(はんてい)する。
─蘭の香は尊くたぐひまれなれども、霜枯れの葛はまた哀れひとしほにて、幽玄の心を表はす。よりて右勝ち。」
とした。基本的にこれは芭蕉の弱点であるとともに、後にその徳の高さが評価された理由でもあった。
宗因はよく人情に通じて、それゆえに談林の大ブームを演出することができた。芭蕉はそれに乗っかりながら、談林ブームの去ったあとに残せるものを作り上げた。ただ、かつての俳諧興行の熱気を再現することはなかった。俳諧の大衆を熱狂させた部分は、既に歌舞伎や文楽に移行していたし、後の川柳点や浮世絵などの多方面なメディアに広がって行った。
発句だけは多くの人の興味を引いたが、俳諧興行が大衆娯楽に返り咲くことなく、明治の近代俳句によって文学からも排除され、今日に至っている。
「秋もはやぱらつく雨に月の形リ
此句、はじめは、昨日からちよつちよつと秋も時雨哉、と句作り有。いかにおもひ給ひ侍るにや、いろいろ句作りして心見らるゝ反故の筆すさみ有。終に月の形、と自筆の物にも殘しをかれ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.118)
この句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
其柳亭
秋もはやはらつく雨に月の形 翁
此句の先〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かなと
いふ句なりけるにいかにおもはれけむ月の形にハ
なしかえ申されし。廿一日二日の夜は雨もそぼ
降りて静なれば、
秋の夜を打崩したる咄かな
とある。
元禄七年九月十九日、大阪の其柳(きりゅう)亭での八吟歌仙興行の発句で、事前に発句を用意するのではなく、その場の興で詠んだのであろう。
昨日からちょつちょつと秋も時雨哉
の句は本当にそのまま詠んだという感じで、九月も中旬だからまだ暦の上で冬ではないが、昨日くらいからちょちょっと時雨がぱらついていたのだろう。
ひょっとしたらこの句を詠んで、さあ始めようとしたところで、ちょうど月の光が射してきたのかもしれない。十九日だから月の出も遅い。
せっかく月が出たのだから、この月を詠まない手はないとばかりの改作ではなかったかと思う。
後からの改作なら表六句のどこかに月の句があって、それを訂正しなくてはならない。十二句目と二十二句目に見せ消ちに訂正した跡はあるが、表六句にはない。
「貌に似ぬ發句も出よはつ櫻
此句は、下のさくら、いろいろ置かへ侍りて、風與さくらに當り、是初の字の位よろしくと究る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.118~119)
これは元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』の句。元禄九年刊風国編の『初蝉』にもある。
桜の興で「貌に似ぬ發句も出よ」まではすっと出てきたのだろう。下五がなかなか決まらなかったようだ。
ただ桜としても字足らずで、「出よ」で切れているから「哉」などの切れ字は使えない。あと二字何にするかで、結局「初桜」になった。
「朝露によごれて凉し瓜の泥
此句は、瓜の土、とはじめあり。凉しき、といふに活たる所を見て、泥とはなしかへられ侍るか。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)
これも元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
去年の夏なるべし
去來別墅にありて
朝露によごれて凉し瓜の泥 翁
人々つどひゐて瓜の名所なむ
あまたいひ出たる中に
瓜の皮むいたところや蓮臺野 仝
とある。元禄七年夏の落柿舎滞在中の句だった。
「瓜の土」なら普通な感じがする。採りたての瓜に土がついているのはよくあることで、「朝露に」濡れているなら「泥」は必然であろう。ただ、瓜をご馳走になって、「泥」は失礼ではないかという気持ちが働いたので一度は「土」としたが、主人への挨拶の心が「凉し」で十分表現されているとして、「泥」に治定したと思われる。
今日ではわざと新鮮さを表すのに「泥付き」と銘打って売っている野菜も多いが、この頃は泥がついているのは当たり前で、むしろ否定的な感じがしたのだろう。そこが俳味になる。
瓜の名所の句をみんなが話している中で芭蕉が持ち出した「蓮臺野」は、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「京都市の船岡(ふなおか)山から紙屋(かみや)川に至る一帯の野。《平家物語》巻1に〈香隆寺のうしとらに蓮台野〉とある。洛北七野の一つで,古来,東の鳥辺野(とりべの)(鳥辺山とも),西の化野(あだしの)とともに葬地として知られた。《野守鏡》は,定覚が当地で恵心僧都の始めた〈二十五三昧会〉にならい三昧を行ったところ,蓮花化生したところから蓮台野と名付けたという伝承を記す。香隆(こうりゅう)寺の寺基を継ぐと伝える上品蓮台(じょうぽんれんだい)寺があり,国宝の紙本著色絵因果経(天平時代)を所蔵。」
とある。瓜はお盆の時のお供えによく用いられるところから、あえて死者を連想させる地を出したか。
この句もあえて否定的な言葉を出すことで俳味を狙った点で、「瓜の泥」と一緒なのかもしれない。
「人聲や此道かへる秋のくれ
此道や行人なしに秌の暮
此二句、いづれかと人にもいひ侍り。後、行人なしといふ方に、究り、所思といふ題をつけて出たり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)
この二句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
廿六日は淸水の茶店に遊吟して
泥足が集の俳諧あり
連衆十二人
人聲や此道かへる秋のくれ
此道や行人なしに龝の暮
此二句の間いづれをかと申されしに
この道や行ひとなしにと獨歩したる
所誰かその後にしたがひ候半とて是
に所思といふ題をつけて半歌仙
侍り爰にしるさず
とある。
この興行の発句は当座の興ではなく、元禄七年九月二十三日付意専土芳宛書簡に、
秋暮
この道を行人なしに秋の暮
と記されていた。
その二日後の元禄七年九月二十五日付曲翠宛書簡には、
「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に
秋の夜を打崩したる咄かな
此道を行人なしに秋の暮
人声や此道かへる共、句作申候。」
と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。
支考が芭蕉から二句示されて選ぶように言われたのが何日なのかはわからない。二十三日より前かもしれないし、あとから「人声や」の句を思いついて、支考に尋ねたのかもしれない。いずれにせよ興行前に用意されていた句だったのは間違いない。
芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。
半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際に句を詠んでいるのは十人で、それとは別に主筆とあと一人いたのかもしれない。
この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、
人声や此道かへる秋のくれ 芭蕉
の句で、取り残された自分を描いたのが、
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句になる。
人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。
人声や此道かへる秋のくれ 芭蕉
この句が決して出来の悪い句ではない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
それに対し、
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
支考がどう思って「この道や」の句の方を選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿