2021年3月24日水曜日

  今日も暖かく、暖かすぎるせいか早く咲いた桜が散り始めている。桜が一斉に咲かずに遅速が生じている。
 前に、子宮を持つものはペニスを持つものから守られなくてはならない、と書いた。ただ、その方策として同意のない性行為をすべて強姦と見なすやり方は、そんなに良い解決策ではない。性行為は大概密室で行われるもので、同意があったことを証明することが困難だからだ。
 ただでさえ痴漢冤罪で死者まで出ている。強姦冤罪はそれ以上にもっと多くの悲劇を生む。
 子宮を持つものが強姦のリスクを常に背負うように、ペニスを持つ者も強姦冤罪のリスクを背負うから平等だというのは一応の理屈かもしれない。だとすると強姦被害者が保護されるように、強姦冤罪被害者を保護する仕組みも作らなくてはならない。
 法律を作るということは、警察という暴力装置に判断をゆだねることになる。法律を多用すれば、社会全体に暴力が蔓延する。それは既に欧米社会、特にアメリカがそうなっていることから明らかだ。そうならないためにも、個々の取引で解決できる問題は極力そこで解決すべきで、取引が公正になるかどうかは経済の問題だ。子宮を持つものとペニスを持つものとの力関係の不均衡はフェアトレードの問題として解決する必要がある。
 権力に頼らない解決策があるかといえば、それは基本的に相互監視しかない。上からの監視と横並びの監視とどちらが良いかといえば、上からの監視は権力を巨大なものにして独裁政治のディストピアを生むか(中国のように)、絶えず権力闘争を繰り返す分断と暴力のはびこる社会になる(アメリカのように)。相互監視の今の日本社会は住んでみればわかるが、それほどひどいもんではない。現に権力が無策でもコロナを防いでいる。
 もちろん負の部分もあるが、メリットとデメリットを秤にかけて選択肢に乗せるべきだと思う。

 それでは『三冊子』の続き。

 「としどしや猿にきせたる猿の面
 此歳旦、師のいはく、人同じ處に止て、同じ處にとしどし落入る事を悔て、いひ捨たるとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)

 同じところに留まるなというのは、芭蕉もまた古典の素養に縛られて、常に新しい句を詠めるわけではなく、それを新年の自戒として、猿が猿の面を被ってもやはり猿だと詠んでいる。古典の猿真似ではない、本当に新しい句を芭蕉は最後まで求めていた。古典回帰から軽みへの転換もそこにあった。
 元禄六年元旦の句で、元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』、元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』の春の部の巻頭を飾っている。

 「牛部屋に蚊の聲くらき殘暑哉
 此句、蚊の聲よはし秋の風、と聞へし也。後直りて自筆に殘暑かな、とあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)

 この句は元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』、元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 牛部屋に蚊の聲よはしあきの風

とある。宝永六年刊輪雪編の『星會集』には、路通、史邦、丈草、去来、野童、正秀といった連衆による歌仙一巻が収められているが、その発句もこの形になっている。元禄四年七月、京都での興行。「残暑かな」の句形は土芳が直接聞いて、芭蕉の自筆も見たものと思われる。
 「蚊の聲よはし」の方の句は秋風で蚊の声も弱くなるという、古くからある秋深まって虫の音の弱くなるを前倒しにしたような趣向になる。これだと「牛部屋」が生きてないというか、牛部屋でなくても良かった感じがする。 興行の発句としてみれば、たまたまそこに牛部屋があったということかもしれない。京は古くからの平坦な直線路が多く、荷運びに牛が多く用いられていた。それに、興行の発句として亭主の家を褒めるのであれば、蚊の声も弱くなって涼しい秋の風が吹いてますの方が挨拶としてふさわしい。
 ただ、当座の興から離れて、本に載せて不特定多数の読者の読む句となると、何とか牛部屋の新味を生かしたいということになったのだろう。そこで牛部屋らしく「蚊の聲くらき」にし、暗い牛部屋に蚊が集まるのは暑いからということで、季語も残暑哉になったのではないかと思う。ただ、結果的に未発表になった。

 「梅が香にのつと日の出る山路哉
  なまぐさし小なぎが上の鮠の腸
 此二句、ある俳書に、梅は餘寒、鮠のわたは殘暑也。是を一体の趣意といはんと、門人のいへば、師、尤とこたへられ侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115~116)

 ある俳書は岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原注にもある通り、元禄八年刊支考編の『笈日記』を指す。そこには、

 梅が香にのつと日の出る山路かな
 なまぐさし小なぎが上の鮠の腸   翁
   梅か香の朝日は餘寒なるべし小なぎの
   鮠のわたは殘暑なるべし是を一躰の趣
   意と註し候半と申たれバ阿叟もいとよし
   とは申されし也。その後大津の木節亭
   にあそぶとて

とある。
 「梅が香に」の句は『炭俵』に収録されている芭蕉・野坡両吟歌仙の発句で、旅体だが江戸での吟になる。ひそかに暖めていた句だったのかもしれない。明け方のまだ凍えるような寒さの中で、梅の香と朝日にこの寒さもそう長くないと感じさせる句だ。
 余寒(よかん、よさむ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 立春後の寒さ。寒があけてもまだ続く寒さ。残寒。《季・春》
  ※懐風藻(751)初春在竹渓山寺於長王宅宴追致辞〈釈道慈〉「驚レ春柳雖レ変、余寒在二単躬一」
  ※高野本平家(13C前)灌頂「きさらぎやよひの程は風はげしく、余寒(ヨカン)もいまだつきせず」 〔陸游‐三月廿一日作詩〕
 〘名〙 寒さが残っていること。大寒が過ぎたり、立春が過ぎたりしたのに、まだ残っている寒さ。また、その時節。よかん。
  ※春雨文庫(1876‐82)〈松村春輔〉一「老婆に話すうち老婆は茶を入れ餠など焼て出すは二月末の余寒(ヨサム)のころなり」

とある。
 「なまぐさし」の句は元禄七年の夏から秋ということになる。今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川書店)によると、芭蕉はこの年五月十一日に江戸を発ち、伊賀へ帰省した後、閏五月十七日に大津乙州宅で支考と会っている。そして閏五月二十二日に落柿舎に移っている。この時に支考も同行し、「柳小折」の巻に同座している。
 そのあと五月下旬に「牛流す」の巻にも同座し、六月十五日に京都から膳所へ移る。この時も支考は同行している。ここでも「夏の夜や」の巻、「秋ちかき」の巻、「ひらひらと」の巻に同座している。
 七月上旬に大津の木節亭で「ひやひやと」の句を詠んだのが、先の『笈日記』の引用部分の「その後大津の木節亭にあそぶとて」になるので、「なまぐさし」の句はこの少し前の七月のはじめに詠んだものと思われる。
 この、

 なまぐさし小なぎが上の鮠の腸   芭蕉

の句だが、「小なぎ」は小水葱で「デジタル大辞泉の解説」に

 「ミズアオイ科の一年草。水田や池に生え、ミズアオイに似るが全体に小さい。夏から秋、青紫色の花を開く。花を染料に用いた。みずなぎ。ささなぎ。《季 春 花=秋》「なまぐさし―が上の鮠(はえ)の腸(わた)/芭蕉」

とあり、ウィキペディアに、

 「日本人との付き合いは古く、同属のミズアオイと共に万葉集に本種を読んだ歌が収録されている。また、江戸時代頃までは食用にされていた。ベトナムでは今でも食用にする。」

とある。
 「鮠(はや)」はウィキペディアに、

 「ハヤ(鮠, 鯈, 芳養)は、日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称である。ハエ、ハヨとも呼ばれる。」

とある。
 琵琶湖で獲れたハヤは夏だと腐りやすいので、内臓を素早くとり出す必要があったのだろう。それが小なぎの上に放置され、悪臭を放っている。
 この時代に「小なぎ」や「はや」が季語だったかどうかはわからない。だから「殘暑なるべし」と見抜いた支考に芭蕉も感心したのではなかったかと思う。

 「ひやひやと壁をふまへて晝寐哉
 是も殘暑と、かの門人いへば師宜と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 この句は先の『笈日記』の続きになる。

     その後大津の木節亭
   にあそぶとて
 ひやひやと壁をふまえて晝寐哉
   此句はいかにきゝ侍らんと申されしを是も
   たゞ殘暑とこそ承り候へかならず蚊屋
   の釣手など手にからまきながら思ふ
   べき事をおもひ居ける人ならんと申侍れバ
   此謎は支考にとかれ侍るとてわらひて
   のみはてぬるかし。

 その後の大津木節亭での句ならば、七月上旬ということになる。
 昼寝も当時は季語ではなかった。「ひやひやと」が秋になる。
 残暑の厳しいときは日の当たらない壁のひんやりとした感触で涼むという句で、どこか涼しいところに移動するでもなく、一人部屋に籠って蚊帳の吊り手に手を絡ませたりしながら物思いにふける様は、当時としては「あるある」だったのだろう。

 「秌風の吹とも青し栗のいが
 此句、いがの青をおかしとて、句にしたる也。吹とも青し、と云所にて、句とはなして置たりと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』には、

 はつ嵐ふけとも青し栗のいが    はせを

とある。
 栗のいがは最初は青く、だんだん茶色になって行く。秋風の頃はまだ栗のいがは青い。それを「ふけども青し」というところで句になる。秋風に栗のいがの取り合わせに対し、「吹けども」が取り囃しになる。

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