2021年3月27日土曜日

  今日もいい天気でお散歩花見ができた。

 それでは『三冊子』の続き。

 「淸瀧や浪にちり込青松葉
 此はじめは、大井川浪にちりなし夏の月、と有。その女が方にての、白菊のちり、にまぎらはしとて、なしかへられ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)

 この句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 九日
 服用の後支考にむきて此叓は去来にも
 かたりをきけるが此度嵯峨にてし侍る大井川
 のほつ句おほえ侍る歟と申されしをあと
 荅へて
  大井川浪に塵なし夏の月
 と吟じ申ければその句園女が白菊の塵
 にまぎらはし是もなき跡の妄執とおもへば
 なしかへ侍るとて
  淸瀧や波にちり込靑松葉      翁

とある。有名な「旅に病んで」の句を詠んだ翌日のことだった。
 元禄七年九月二十七日の園女亭での興行で詠んだ発句は、

 白菊の眼に立て見る塵もなし     芭蕉

の句だった。園女を白菊に喩えた句だが、ならば目を立てて見れば塵があるのかというところで、まあ軽くいじった感じがしないでもない。この時の歌仙が芭蕉の最後の俳諧興行になった。最後の付け句は三十一句目の、

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて  芭蕉

だった。
 前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成し、カラスの鳴き声にも袖を濡らすとした。この老人は芭蕉自身といってもいいかもしれない。
 病状がさらに悪化する中で、死を考えなかったはずがない。そんな中で、この年の夏に詠んだ句と今回の発句との類似が気になってしまったのだろう。「大井川」の句は支考の記憶違いか、元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、

 清滝や波に塵なき夏の月       芭蕉

の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。
 清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。ついつい一緒くたになってしまったか。
 「去来にもかたりをきける」とある通り、『去来抄』「先師評」にもこのことが記されている。

 「清瀧や浪にちりなき夏の月
 先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.13)

 この句は芭蕉の閏五月二十二日から六月十五日までの嵯峨滞在中に野明亭を訪れた時の句で、去来は同座していたのだろう。この時の句は「清滝や」だったと思われる。となると、元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡の後に「大井川」に作り直した可能性もある。

 清滝や波に塵なき夏の月       芭蕉
 白菊の眼に立て見る塵もなし     同

 この二句は「塵なき」と「塵もなし」の類似にすぎないが、等類と思われることよりも、園女さんを褒めるのに過去に詠んだ句の言葉を使いまわしたと思われる方が嫌だったのかもしれない。これは園女さんに対して失礼だったか、と多分そのことの方が気にかかってたから、あえて過去の作品を作り変えた可能性はある。

 淸瀧や波にちり込靑松葉       芭蕉

 波にゆらめく月の美しさは古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。ただ、去来に野明の所にある草稿を破ってくれとまで言うのだから、この句をなかったことにしたい、後世に残さないでほしいと思ってたのではなかったかと思う。去来も支考も暴露してしまったが。

 「桐の木に鶉なくなる堀の内
 この句、いかゞ聞侍るやとたづねられしに、何とやら一さまある事に思ふよし、答へ侍れば、いさゝか思ふ處ありて歩みはじめたると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)

 これは『猿蓑』の句。
 元禄三年九月六日付の曲水宛書簡に「うづら鳴なる坪の内、と云ふ五文字、木ざはしや、と可有を珍夕にとられ候。」とある。
 この「木ざはしや」の句は元禄三年刊之道編の『江鮭子(あめこ)』の、

   第三まで
 椑柿や鞠のかゝりの見ゆる家     珍碩
   秋めく風に疊干門        之道
 有明に湯入中間の荷を付て      翁

の句だという。
 椑柿は中国語だと渋柿のことだが、「きざはし」は木醂・木淡という字を当て、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 木についたままで熟し、渋味がとれて甘くなった柿。甘柿。木練(こね)り。こざわし。きざがき。きざらし。きざわしがき。《季・秋》 〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕
  ※小学読本(1874)〈榊原・那珂・稲垣〉三「柿は枝に置て、熟せしむるを木醂(キザハシ)といひ」

とある。
 「鞠のかかり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「蹴鞠をする場所である鞠の庭の四方に植えた樹木。下枝を、蹴上げる鞠の高さの標準とする。懸り木。四本懸りと称して四隅に桜・柳・松・楓などを植えた。かかり。まりかかり。
  ※宇津保(970‐999頃)国譲中「『をかしきまりのかかりかな』と、興あるまでまりあそばす」

とある。蹴鞠というと王朝貴族のイメージがあるが、ウィキペディアには、

 「江戸時代前半に、中世に盛んだった技芸のいくつかが町人の間で復活したが、蹴鞠もその中に含まれる。公家文化に触れることの多い上方で盛んであり、井原西鶴は『西鶴織留』で町民の蹴鞠熱を揶揄している。」

とある。
 ここでも蹴鞠に興ずる町人の家に木についたまま熟した柿がなっているという句なのだろう。柿を収穫せずに熟しきるまで放置されている辺りに、豊かさが感じ取れたのではないかと思う。現代では柿を食べる人も少なくなり、珍しいことではないが。
 之道の脇は発句をかなり立派な家と見て、門のところに畳が干してある情景を付けている。元禄の頃はまだ畳は贅沢だった。
 芭蕉の第三はそれを湯治場の情景に転じる。珍碩(後の洒堂)と之道は後に不仲になり、芭蕉が病を押して大阪まで来なくてはならない原因を作っている。その意味では因縁の取り合わせだ。
 之道が悪いのではなく、珍碩の方にいろいろ問題行動が多かったのだろう。許六も、

 「路通・洒堂ごときの者、一生の行跡嘸々乱随ならん。是少も予が障に成事ニ非ズ。
 此路通といふ者を見るに、俳諧も乱随也。一ツとしてとる所なし。
 しかれ共、先生ハ急度路通・洒堂のごときの者をにらミ、法を正敷し給ふ事、尤至極也。
 先生法をミだり給ふ時ハ、末々の門人猶ミだりに成て法を失ひ侍るべし。
 湖南の門人、洒堂を本のごとくに用ひ給ふ事、翁存命ニおいてハ、湖南の衆かくハちなみ給ふ事成まじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101)

と言っている。一見博識のようだが底が浅く、はったりで生きているようなところがあって、多分周りの空気が読めなかったり、そういうところがあったのだろう。
 ここで芭蕉が「珍夕にとられ候。」というのも、芭蕉が雑談の中でつい喋ってしまった句をパクった可能性もある。

 木さはしやうづら鳴なる坪の内

 この「坪」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①中庭。建物や垣などに囲まれた、比較的狭い一区画の土地。
  出典枕草子 職の御曹司におはします頃、西の廂にて
  「御前(おまへ)のつぼにも作らせ給(たま)へり」
  [訳] 清涼殿の西の中庭にも(雪山を)作らせなさった。◇「壺」とも書く。
  ②宮中の部屋。つぼね。◇「壺」とも書く。」

とある。よく熟した柿の木があり、中庭で鶉が鳴いている、という豊かな町人の家のイメージで「木さはし」を用いる所は完全に被っている。ただ、「うづら鳴」という古典を離れない芭蕉の句に対し、洒堂は裕福な町人が貴族を真似て蹴鞠をやっているという当世の風俗を巧みに取り入れ、やられた、という感じだったのだろう。
 仕方なく芭蕉は、

 桐の木に鶉なくなる堀の内      芭蕉

と作り直す。「一さまある」というのは、 他と異なるおもむきがあるという意味であろう。
 桐の木で箪笥を作るようになったのは、江戸時代後期かららしい。この頃の桐の木は大きな落葉に風流を感じさせる木だったのではないかと思う。貞享三年正月の「日の春を」の巻の脇に、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実        文鱗

とあり、芭蕉自身による『初懐紙評注』には、

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

とある。熟柿よりも高貴なイメージがあったのではないかと思う。

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