今日は一日雨で風も強く、春の嵐になった。まあ、これなら外もあまり密にはならなかったかな。
それでは『三冊子』の続き。
「ばせを野分盥に雨を聞夜かな
いざゝらば雪見にころぶところまで
木がらしの身ハ竹齋に似たるかな
山路來て何やら床しすミれ草
家ハミな杖に白髪のはか參り
灌佛や皺手合る珠數の音
此野分、はじめは、野分して、と二字餘り也。雪見、はじめは、いざゆかん、と五文字有。木枯、初ハ、狂句木がらしの、と餘して云へり。すみれ草は、初は何となく何やら床し、と有。家はミな、一家ミな、と有。灌佛も初は、ねはん會や、と聞へし、後なしかへられ侍るか。此類猶あるべし。皆師の心のうごき也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.111~112)
改作はともすると初期衝動を殺しかねない。添削なんかもそうで、テレビのバラエティー番組なんかに出ている撰者みたいな人も、たいてい添削前の句の方がましな方が多い。改作も自分の句を添削するようなものだ。
野分しての句は天和二年刊千春編の『武蔵曲』には、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉
とある。
ばせを野分盥に雨を聞夜かな 芭蕉
の句はこの『三冊子』と宝永六年成立土芳篇の『蕉翁句集』にある。
この改作は初期衝動の勢いを殺してしまった悪い例だと思う。「野分して」の字余りに切迫感を感じさせるところを、無理に破調を嫌い、五七五に近い六七五に収めたという感じがする。
雪見の句は元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に、
いざゆかむ雪見にころぶ所まで 芭蕉
とある。
いざさらば雪見にころぶ所迄 翁
の方は元禄三年刊其角編の『花摘』にある。
この場合は改作によって句の意味が変わっている。「いざゆかむ」だと、散歩にでも出て転んだらかえって来ようくらいの意味にも取れてしまうが、「いざさらば」だと帰ってくる予定はなく、転ぶまで旅を続けるという決意を込めた旅体の句になる。旧作を振り返り、別の意味を発見して作り直した可能性がある。
木枯の句は貞享元年刊荷兮編の『冬の日』に、
笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまり
のあらしにもめたり、侘つくしたるわび人
我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才
士、此国にたどりし事を不図おもひ出て申侍
る
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
とある。
名古屋に侘居して狂句
凩の身は竹齋に似たる哉 芭蕉
は木因の年次不明の『桜下文集』にあると、岩波文庫の『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇)にある。
これは前書きの末尾が「狂句」になっているし、句の冒頭の「狂句」を前書きと勘違いした可能性もある。これも狂歌を詠む竹齋に対し、狂句を詠む木枯だというところに意味があるので、「凩の」では五七五の定型に収まるという以外に取柄はない。
すみれ草の句は、安永四年(一七七五年)刊暁台編の『熱田三歌仙』に、
何とはなしに何やら床し菫艸 芭蕉
を発句とした歌仙が収められていて、巻末に「右蕉翁真蹟有暮雨巷」とある。「何となく何やら床し」のバージョンは『三冊子』のみで、土芳が芭蕉から直接聞いた形か。
元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、
大津に出る道山路をこえて
やま路来てなにやらゆかしすみれ草 芭蕉
とある。
「何とはなしに何やら」は当座の即興で出た言葉で、芭蕉としては何かもう少し姿が欲しかったのではないかと思う。それが「山路来て」で景として整うだけでなく旅体の情も加わる。
家はミなの句は、元禄八年刊路通編の『芭蕉翁行状記』に、
一家皆白髪に杖や墓参 芭蕉
とある。元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』には、
甲戌の夏大津に侍しをこの
かみのもとより消息せられけれ
ば旧里に帰りて盆會をいとなむとて
家はみな杖にしら髪の墓参 芭蕉
一家皆も家は皆も意味的にはそれほど変わらない。言葉の響きやリズムの問題だったっと思う。また、「や」という切れ字をはずしたのは、「皆」と「の」で十分切れていると判断してのものであろう。
灌佛の句は、元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』には、
ねはん會や皺手合る珠數の音 芭蕉
とある。
灌佛や皺手合る珠數の音 芭蕉
の形は『三冊子』以前に発表されて物はなく、土芳が直接聞いた句形と思われる。
涅槃会は釈迦入滅の日で旧暦二月十五日日の春になる。灌仏会は釈迦誕生の日で旧暦四月八日の夏になる。ただ、『続猿蓑』では季節ではなく「釈教」に部立てされて収録されている。先の「墓参」の句も同様釈教になっている。
涅槃会と灌仏会では正反対なので、この改作の意図はよくわからない。実際は涅槃会で詠んだ句だったが、数珠のジャラジャラとした音の響きは灌仏会の方がふさわしいとしたか。
「猪の床にも入るやきりぎりす
この句自筆に有。初は、床に來て鼾に入るやきりぎりす、といふ句あり。なしかへられ侍るか。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.112)
これは当時は未発表句だったようだ。この機会を借りて発表したのかもしれない。元の句は芭蕉の元禄七年九月二十五日付正秀宛書簡に、
又酒堂が予が枕もとにていびきをかき候を
床に來て鼾に入るやきりぎりす
とある。芭蕉は人の鼾が気になる人だったのか、貞享五年には「万菊丸いびきの図」を書いたりしている。芭蕉はあまり酒を飲まない人だったから、酔っ払いの大鼾が苦手だったのだろう。
句の方は「きりぎりすの床に来て鼾に入るや」の倒置で、耳元でコオロギが鳴いているみたいだとちょっと強がっている。耳元で鼾かきやがって、いやコオロギが鳴いてると思えば風流だ、というところか。
これに対して「猪の」の句は全く別の句だといってもいい。前の鼾の句に似ていたから発表を控えたか。
「草臥て宿かる比や藤のはな
此句、始は、ほとゝぎすやどかる比や、と有。後直る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.112)
草臥ての句は『猿蓑』に、
大和行脚のとき
草臥て宿かる比や藤の花 芭蕉
とある。
時鳥宿かる頃の藤の花 芭蕉
の方は貞亨五年四月二十五日付猿雖宛書簡にある。初案と思われる。
藤(ふし)は臥(ふす)に通じる。「くたびれて」も草の臥すと書く。藤は今の生物学では木本だが、つる性の植物は連歌俳諧では草類として扱われてきた。
藤は春の季語だが、初案は時鳥という夏の季語と組み合わせて用いられて夏の句になっている。これはこの句が四月十日に丹波市(たんばいち)で詠んだ句だったからだ。今は天理市になっている旧丹波市町の辺りと思われる。『笈の小文』の旅で吉野から高野山、和歌の浦へ行った後、奈良に戻った時の句だった。
『猿蓑』に載せる時に、本来季語調整のための強引に放り込んだ時鳥をはずして、春の句として自然な形に作ったのであろう。後の『笈の小文』では、この句は杜国と合流して吉野へ向かう所に挿入されている。
「風色やしどろに植し庭の秋
此句、ある方の庭を見ての句也。風吹、とも一たび有。風色や、とも云り。度々吟じていはく、色といふ字も過たるやうなれども、色といふ方に先すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)
これは未発表句だったか。
宝暦六年(一七五六年)刊麦郷観寛治編の『芭蕉句選拾遺』に「此句、藤堂氏玄虎子に逢れし時、庭半バに作りたるを云り。表六句有」とある。(『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫参照)この表六句は不明。
「風色(かざいろ)」は「風の色」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「草木などを吹き動かす風のさま。風の動き。また、その趣。かぜいろ。
※光経集(1230頃か)「夏の池のみぎはもすごき松かげのあさるも青き風の色かな」
とある。
風吹くだと普通なので、あえて「風の色」という言葉を使いたかったのだろう。
「こんにやくにけふはうりかつ若な哉
この句、はじめは蛤になどゝ五文字有。再吟して後、こんにやくになる侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)
蛤に今日は売り勝つ若菜かな 芭蕉
の句は真蹟があるという。元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、
若菜
蒟蒻にけふハ賣かつ若菜かな 芭蕉
とある。さすがに蛤に勝つのは無理と思ったか。
蒟蒻の方は『炭俵』の「むめがかに」の巻十四句目に、
終宵尼の持病を押へける
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
の句もあるように、おいしいけど他のご馳走にはいつも負けてたようだ。蛤に勝てるとまでは言わず、蒟蒻くらいには勝てるとしたのだろう。若菜と蒟蒻はどちらも精進ということもある。蛤はその意味では次元が違う。
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