2021年3月13日土曜日

 今日は旧暦二月の朔日。朝から雨が降って、午後には激しい雷雨になった。
 コロナの方は東京の新規感染者数でいうと二週続けての微増になっている。年度末でどうしたって人出は増えるから四月の中頃まではしょうがないんだろうな。ところで野党は罰則規定に反対してどうやってゼロコロナをやれというのだろうか。
 冷泉彰彦さんの『アメリカの警察』(二〇二一、ワニブックスPLUS新書)を読み終わって考えたが、やはり黒人警官だけを集めて連邦黒人警察を作って、黒人がらみの事件を専門に担当するようにした方がいいのではないか。その分地方警察も白人事件専門になれば恨みを買うこともないし、予算も削減できると思う。

 それでは『三冊子』の続き。

 「常風雅にいるものは、思ふ心の色、物となりて、句姿足るものなれば、取物自然にして子細なし。心のいろうるはしからざれば外に詞をたくむ。是則常に誠を勤ざるの心の俗也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 誠は人の情においては孟子の四端に代表されるもので、四端は孟子の言葉であって誠の一部を言葉にしたものにすぎない。人間の自然の情は筆舌に尽くしがたいものだし理屈で割り切れるものでもない。それでも誰もが少なからず持っていて共感できる。
 心の中の光は他人から教えられるものではなく、自分自身の心の中にある物で、それがあるから他人の説く心の光に共感することができる。持ってないなら最初から理解不能だ。もし人の言葉にこの上なく感銘を受けたとしても、それはその人から与えられたのではない。自分自身の心の底にそれがあるから感銘できたのであり、感銘はあなた自身のものだ。
 いかがわしい宗教家はしばしばそれを逆手に取って、どうとでも取れるような曖昧な言葉を乱発する。信者が勝手に自分に思い当たることがあって涙を流してくれるのを期待しているだけだ。
 たいていの人は人の言葉に喚起されて、自らの心の中の風雅を呼び覚ますにすぎない。それがもともと自分自身の心の中にあったということに気付かずに、与えられたものだと思ってしまう。「常風雅にいるもの」というのはそうではなく自らの心の中から常に風雅を生み出せる人ということになる。
 誰だって最初からそれをできるわけではない。ただ人の作品に感動した時に、それが自分のものだということにどれほど気付けるかどうかの問題ではないかと思う。それが自分のものだと分かれば、今度はそれを自分の言葉で表現できる。人の言葉だと思っている間は人の言葉を鸚鵡返しにするしかない。自分自身にあると思えば、今までにない新しい言葉でそれを語ることができる。
 それゆえに、「思ふ心の色、物となりて、句姿足るものなれば、取物自然にして子細なし」ということになる。それは程度の差こそあれ、誰にでもなしうることだ。
 俳諧に限らず、心に風雅あるなら、どんなジャンルの芸術でも「思ふ心の色、物となりて、句姿足る」。ただ、そのジャンルごとに必要なスキルはあるから、それは学ばねばならない。発句は短い言葉だからそれほどの技術を必要とするものではなく、付け句はそれ以上に技術を必要するが、他の芸術のようにデッサンを学んだり楽器を練習したり必要はない。
 ただ、他の作品から受けた感動を自分自身のものにできなければ、形だけ器用に真似るだけで「外に詞をたくむ」ことになる。

 「誠を勤るといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知べし。其心をしらざれば、たどるに誠の道なし。その心を知るは、師の詠草の跡を追ひ、よく見知て即我心の筋押直し、爰に趣て自得するやうにせめる事を、誠に勤るとは云べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 風雅の心は誰にでもあるといっても、どれが風雅でどれが俗情なのかの区別は難しい。花や月を見て奇麗だと思っても、みんなが奇麗だと言っているから奇麗といわなければ心がないと思われるので仕方なく言うのであれば、それは俗情というしかない。
 古典を学ぶにしても、これが古来傑作とされているからといって、心を動かすものがないのにこれは良いと持ち上げても、それは名利を求める心にすぎない。
 風雅の心は自分自身の心のうちより出るもので、人がこれが風雅だと言っているからでは、ただ人に合わせることで自分を良く見せようとしているだけだ。「風雅に古人の心を探り」は自分自身心を動かされるものがあって、それを探るのでなければ意味はない。ただ、案外それは難しい。やはり人は他人からよく思われたくて、ついつい自分に嘘をついてしまうものだ。
 「近くは師の心よく知べし」というのも、基本的に同時代の人に向けられた言葉で、いわば芭蕉の俳諧に感動した芭蕉のファンに向けて言っている言葉で、感動がないなら得るものもない。
 一つ言っておきたいのは、もし風雅の心を知ろうと思うなら、今あなたが最も心ときめかしているものから学んだ方がいい。音楽でも小説でも漫画でもアニメでも映画でもゲームでも漫才でもなんでもいい。今あなたの心を動かしているものから学べと言いたい。筆者もそうしている。
 『去来抄』に、

 「俳諧の修行者は、己が好たる風の、先達の句を一筋に尊み学て、一句一句に不審を起し難をかまふべからず。若解しがたき句あらば、いかさま故あらんと工夫して見、或は巧者に尋明すべし。我俳諧の上達するに従ひて、人の句も聞ゆる物也なり。始より一句一句を咎メがちなる作者は、吟味の内に月日重りて、終に功の成りたるを見ず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.66)

とある。
 たとえば、今日でもギターを学ぶ者は、自分の好きなギタリストのコピーから入るし、漫画家になろうとする者は好きな漫画家のアシスタントになってその絵を描くことから始まることも多い。芸人も好きな芸人に弟子入りしてその技を盗むものであって、わざわざ嫌いなものから学ぶ必要はない。許六は芭蕉への弟子入りが遅れたが、弟子入り前から『阿羅野』『猿蓑』を隅々まで読んで芭蕉の技を盗もうとした。
 好きになれる、夢中になれる、それは自分の心の奥底に触れる何かがあるからだ。ただその何かは別の様々な感情の中に紛れている。自分自身の思いの強さだけがそれを突き止めることができる。心の中の真実は足し算ではない。紛らわしい似せ物をすべて引き算した所に現れる。
 孟子の四端の説の一つに惻隠之心というのがある。井戸に落ちかかっている子供がいれば助ける。ここに打算はないというものだ。それなら遠い地球の裏側に飢えた子供がいる。ならどうするべきか。助けたいという心がいくら真実でも、直接手を伸ばすことはできない。間接的に援助する方法はいろいろあるが、それを考えるのは理屈であって惻隠之心ではない。ましてそこにいろいろな思想が絡んできて、いろいろな政治的な立場の対立が絡んでくると、最初の助けたいという気持ちと全く違ったところに連れて行かれてしまう。思想の違いで互いに争い、世界を分断させ、世界中が憎しみに満たされてゆく。それでどうやって飢えた子供を助けろというのだ。
 大事なのは最初の初期衝動にどこまで留まり続けることができるかで、その初期衝動をできる限りそのまま動かさずにいれるかが大事だ。風雅の誠というのはそういうことだ。
 初期衝動から来る叫びには力がある。だが途中で思想に染まってしまった叫びはまがい物だ。対立と分断の中で憎しみに染まって行く。
 それと同じで、風雅の誠を知るにはただ好きなものをとことん極めるしかない。理屈に惑わされてはならない。
 『去来抄』に「始より一句一句を咎メがちなる作者は、吟味の内に月日重りて、終に功の成りたるを見ず。」とあるのは、理屈で考えるなということだ。
 ただ、これはあくまで作者になるための修行法であって、芭蕉論をしたいなら理屈で考えるしかない。芭蕉論は芭蕉の作品に感動する必要はない。自分の一番好きなもので風雅の誠を学び、その誠でもって推し進めて芭蕉を理解できればそれでいいし、評論はそれ以上のことはできない。

 「師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行と心得がほにして私の道を行事あり。門人よく己を押直すべき所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 これはあくまで芭蕉の作品に感動し、そこから風雅を学ぶ場合だが、「我心をひとつになさずして」は芭蕉の句の中に見出した感動の根底にある自分自身の真情を見出さずにということで、それは風雅の誠が自分のものになっていないということを意味する。それがなければ、いくら芭蕉のように句を詠もうと思っても、自ずと俗情が混じってくる。

 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のおりしも私意をはなれよといふ事也。この習へといふ所おのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云は、物に入てその徴の顯て情感るや、句となる所也。たとへ物あらはに云出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二ッになりて其情誠にいたらず。私意のなす作意也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101~102)

 「松の事は松に習へ」は単に実際の松の木を観察するということだけではなく、松の木に多くの人が何を感じてきたかということも含まれる。「松」という言葉の意味は単に物理的な対象を指すのではなく、「松」という言葉に人がいろいろな意味を込めて語ってきたその膨大な用例の総体でもある。
 両方だというのは、たとえば松あるあるの句を案じるなら、実際に松を見て、自分が発見したというだけでなく、みんなも同じように見ていると感じられることが重要になる。「確かにそうだけど、よくそんなところ見つけたな」ではあるあるにならない。自分が発見したのではなく、みんなが発見できるものが共通の言葉になる。
 松の事は単なる自分の個人的な発見ではなく、常にみんなも思っているのではないかと考えることで私意を離れることができる。
 「習へといふ所おのがまゝにとりて」というのは、自分は発見したけど他人からすれば「だから何なんだ」みたいな発見では意味をなさないということでもある。共感を生まなければそれは私意になる。
 「習へと云は、物に入てその徴の顯て情感るや、句となる所也。」というのは、たとえば松を見たら、その松の外見的な特徴だけでなく、それを見て古人から今の世に至るまでそれがどういう情を込めて語り交わされてきたかも含めてその特徴の意味を思い起こし、そこから湧き出てくる感情が句となる。
 近代の写生説はこの情の部分を欠いているため、いくら対象を描写しても情を共有できない句が多い。ただ、近代文学の考え方からすると、文学は私意私情を述べるが故に個と全体とを対峙させるものだから、あれはあれでいいのだろう。
 物をあらわに言い出る、つまり描写しても、そこに多くの人の共感できる情がないなら物(客体)と我(主体)が別々に分かれてしまい、我は別の我と主義主張で対立し、世間に分断と憎しみと争いを生む元になる。その対立を乗り越えるのが風雅の誠なのである。

 「唯師の心をわりなくさぐれば、そのいろ香我心の匂ひとなり移る也。詮義せざれば探るに又私意あり。せんぎ穿鑿せむるものは、しばらくも私意になるゝ道あり。たゞおこたらずせんぎ穿さくすべし。是を専用の事として名を地ごしらへと云。風友の中の名目とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.102)

 「わりなし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①むやみやたらだ。道理に合わない。分別がない。無理やりだ。
  出典源氏物語 桐壺
  「わりなくまつはさせ給(たま)ふあまりに」
  [訳] (帝(みかど)が桐壺更衣(きりつぼのこうい)を)むやみやたらに(おそばに)お付き添わせになるあまりに。
  ②何とも耐え難い。たまらなくつらい。言いようがない。苦しい。
  出典枕草子 節分違へなどして
  「節分違(せちぶんたが)へなどして夜深く帰る、寒きこと、いとわりなく」
  [訳] 節分の日の方違えなどして夜更けに帰るとき、寒いことは、まったく何とも耐え難く。
  ③仕方がない。どうしようもない。
  出典奥の細道 草加
  「あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次(ろし)の煩ひとなれるこそわりなけれ」
  [訳] あるいは辞退しにくい餞別(せんべつ)などをくれたのは、そうは言っても捨ててしまうことはできなくて、道中の苦労の種となったが仕方がない。
  ④ひどい。甚だしい。この上ない。
  出典枕草子 清涼殿の丑寅のすみの
  「ひがおぼえをもし、忘れたるところもあらば、いみじかるべきことと、わりなうおぼし乱れぬべし」
  [訳] (『古今和歌集』の和歌について)記憶違いをしていたり、忘れてしまった部分があるならば、大変なことだと、きっとひどく心配なさったにちがいない。◇「わりなう」はウ音便。
  ⑤この上なくすぐれている。何ともすばらしい。
  出典平家物語 一〇・千手前
  「優にわりなき人にておはしけり」
  [訳] 優雅でこの上なくすぐれている人でいらっしゃった。◇④の甚だしさがよい意味に使われるようになって生じた。
  参考「わりなし」に近い意味の言葉に「あやなし」がある。「わりなし」が自分の心の中で筋が通らないさまを表すのに対して、「あやなし」は対象の状態について筋が通らないさまを表す。」

と色々な意味があり、おおむね否定的な言葉だが、こうした言葉は逆に良い意味に転じられることもある。古代の「いみじ」や現代の「やばい」がそうであるように、より意味と悪い意味とが極端に両義的に用いられる言葉はいくつかある。
 「わりなし」の両義性は「無心」という言葉の両義性に近いかもしれない。「無心」は本来「有心」に対して否定的に用いられる言葉だったが、邪心が無いという意味で今では肯定的に用いられている。本来の意味を知らなければ西行法師の「心なき身」が理解できなくなる。
 この場合の「わりなし」も、理屈をこねくり回さず直感的にということではないかと思う。英語のno reasonは「何となく」という意味だが、日本語で「理屈抜きに」というと「この上なくすぐれている。何ともすばらしい。」の意味になる。
 芭蕉の句をいちいち細かく分析したりせずに直感的にすごいと思って、自分もこんな句を詠もうと思い「そのいろ香我心の匂ひとなり移る」ことになる。
 詮義は「詮議」で解き明かして論ずることをいう。この場合は一人で考えずに人と議論することをいう。詮議せずに一人で考えれば私意に陥る。詮議しても最初は私意に傾くが(「しばらく」は古語では「一時」の意味)、それでも色々な人の意見を聞いていけば私意を離れることができる。大事なのは一人で思い詰めるなということで、いろいろな人の声を聞くなら「たゞおこたらずせんぎ穿さくすべし。」となる。
 今日のオタクもネット上で盛んに議論している。問題を起こすのはその輪から外れて孤立してしまうような人間だ。
 この詮議穿鑿を繰り返し、みんなで議論してゆくことろ「地ごしらへ」という。「風友」は単に風雅を友とするというよりは、風雅を媒介とした友でもある。

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