2018年12月31日月曜日

 今年一年もこれで終り。
 いろいろ紆余曲折はあっても、人類はこの地球に繁栄を続け、文明も後戻りすることはなかった。
 今まで来なかった新しい年はなかったし、来年になったらまた毎日毎日世界で何かが起こり、本の新しいページをめくるようにわくわくしながら、次に何が起こるのか見てみたい。
 俳諧的に言うなら、次にどんな句が付いて、今日までの世界が思いもかけない意味に取り成されるのか、楽しみだなーーー。
 では良いお年を。

2018年12月30日日曜日

 いわゆる西高東低の冬型の気圧配置というのか、晴れているが北風が冷たい。日本海側では大雪で帰省する人も大変だ。

  箱根こす人も有るらし今朝の雪   芭蕉

の句も思い浮かぶ。
 鯨の句は付け句の方も調べているが、なかなか見つからない。
 取りあえず二句見つけた。

 納戸の神を斎し祭ル
 煤掃之礼用於鯨之脯     其角

の句は延宝九年の『次韻』の句。
 なんどのしんをものいみしまつる
 すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ
と読むらしい。(『校本芭蕉全集 第三巻』による)
 「脯(ほしし)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、「干した鳥獣などの肉。」とだけある。
 「納戸の神」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「寝室や物置に使う納戸にまつる神。西日本に多いが、関東や東北にも点在する。女の神で作神様と考えられているものが多い。納戸神。」

とある。「納戸神」だと、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「納戸にまつられる神。恵比須(えびす)や大黒(だいこく)などが多くまつられたが、隠れキリシタンは聖画像をまつった。」

とあり、「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「納戸にまつられる神。納戸はヘヤ,オク,ネマなどと呼ばれ,夫婦の寝室,産室,衣類や米びつなどの収納所として使われ,家屋の中で最も閉鎖的で暗く,他人の侵犯できない私的な空間である。また納戸は女の空間でもあり,食生活をつかさどるシャモジとともに,衣料の管理保管の場所である納戸の鍵も主婦権のシンボルとされていた。納戸神をまつる風習は,兵庫県宍粟郡,鳥取県東伯郡,岡山県真庭・久米・苫田・勝田郡,島根県の隠岐島一帯,長崎県五島などに濃く分布し,家の神の古い形を示すものとされている。」

とある。
 煤掃きは年末の大掃除で「煤払い」と同じだが、その時に鯨の干物を供える風習が本当にあったかどうかは定かでない。何分次韻調だけに、奇抜な空想を楽しんだだけかもしれないからだ。炭俵調だったなら、当時はこういうのがあったんだなという所だろうが。
 ただ、明和天命期の大晦日の鯨汁に何か通じるものはあるのかもしれない。
 もう一句は芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途中、『冬の日』の名古屋での風吟の直後で、

   尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の
   海みんとて船さしけるに
 海くれて鴨の声ほのかにしろし   芭蕉

の発句に付けた脇で、

   海くれて鴨の声ほのかにしろし
 串に鯨をあぶる盃         桐葉

 海辺での野営を思わせる句に、豪快に鯨のバーベキューで一杯というわけだ。
 熱田の海岸では鯨も食べていたのかもしれない。ただ、この句から日常の食事の感じはしない。
 鯨は日本の文化だとはいうが、日本の文化に占める鯨の割合は微々たる物だ。それは鯨を詠んだ句を探すのに苦労するところからもわかる。
 ただ、日本には一部の高等動物だけを「知性がある」という理由で特別視する思想はない。生類は大体一律に大切にすべきものだとされている。「鯨が可哀相だというなら牛は可哀相ではないのか」という日本人は多いのもそのためだ。これは人工的に再生産可能なものとそうでないものを混同しているので、牛をロブスターとかに置き換えた方が良いのかもしれない。まあ、最近西洋ではロブスターどころか過激なビーガンがすべての生類を食べるのをやめさせようとしているが。
 まあ、近代捕鯨はとっくに時代遅れだし禁止しても良いと思う。ただ、世界各地の伝統的な沿岸捕鯨に関しては残しても良いのではないかと思う。

2018年12月28日金曜日

 鯨は本来太平洋岸の漁師などがたまたま取れたものを食べる程度のものだった。
 鯨に限らず海産物の文化というのは鮮度との戦いがあり、鮮度の問題を克服した時、初めて広い地域に広がることができたといって良い。
 『万葉集』に出てくる「いさなとり」という言葉が本当に鯨取りのことだったのか、枕詞としてしか用いられてないのでよくわからない。文字は確かに「鯨魚」となっているが。
 芭蕉の元禄五年の句、

 水無月や鯛はあれども塩鯨   芭蕉(葛の松原)

は鯨が食べられていたことを記す数少ない証言かもしれない。元禄ともなると塩漬けにして保存性を増した鯨の脂身があらわれる。
 水無月の鯛にも勝ると詠んでいるが、旧暦六月ともなると鯛もやや旬を過ぎているし、夏場は食あたりが怖いということも含めていっているのだろう。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によると、この句は支考が江戸の芭蕉庵を訪ね、『葛の松原』の編纂のことを相談し、そのタイトルまで考えてもらったときのもので、

 ほととぎす鳴くや五尺の菖草  芭蕉
 鎌倉を生きて出でけん初鰹   同

などとともに詠んだという。
 あとは芭蕉の死後になるが、

 一ノ籍弥猛ごころや鯨舟    李毛(伊達衣)
 今の世の手柄ものなり鯨つき  吉女(一幅半)
 冬がれの山を見かけて初くじら 芙雀(花の雲)

といった句が見られる。
 元禄十二年ころだろうか、鯨突き(捕鯨)を「今の世の手柄」を呼ぶように、捕鯨のことが都市でも話題となり、その雄大な姿に思いを馳せるようになったのは。
 一世紀後の蕪村の時代になると、大晦日に鯨汁を食べるのがはやったようだ。これは「575筆まか勢」というサイトから拾ったもの。

 いかめしや鯨五寸に年忘れ   樗良
 おのおのの喰過がほや鯨汁   几董
 十六夜や鯨来初めし熊野浦   蕪村
 鯨売り市に刀を皷(なら)しけり 蕪村
 一番は迯げて跡なし鯨突    太祗
 夕日さす波の鯨や片しぐれ   巴人
 暁や鯨の吼ゆる霜の海     暁台
 汐曇り鯨の妻のなく夜かな   蓼太

 まあ、とにかく鯨の句は数としては決して多くはない。
 鯨が日本人の食卓に本格的に普及するのは、むしろ戦後の高度成長期のことで、そんなに古いことではない。
 この頃は戦後の欧米並みの高蛋白な食事を目指した政府の主導で、安価な鯨肉が奨励され、学校給食にも取り入れられた結果だったと思う。
 筆者が子供の頃読んだ学習雑誌には、日本が銛の改良によって世界一の捕鯨大国になったことが誇らしげに書いてあった。当時の世界の捕鯨は鯨油を取るためのもので、肉は余っていて安く手に入ったのであろう。給食で食べた鯨の竜田揚げはパサパサしていて、美味しかったという記憶はない。
 その後大人になって、一度だけ鯨料理屋へ行って、尾の身の刺身も食べてみた。確かに旨いけど、値段を考えると一度食えば良いと思った。
 日本が捕鯨を再開していても、今更鯨油の需要があるわけでもなく、食用としても、一部で好んで食べる人がいるだけで、そんなには盛り上がらないのではないかと思う。多分心配するほど大量に獲ることはないだろう。

2018年12月27日木曜日

 さて「霜月や」の巻もあと四句。一気に行ってみよう、
 と、その前に三十二句目だが、「鐘はなをうつ」をついつい「鐘は猶うつ」と読んでしまったが、これは掛詞になっていて「鐘、花を打つ」という両方の意味がある。
 「猶」は「なほ」だが、「なを」と「なほ」の句別はこの頃は曖昧になっていて、両方の意味に取った方がいい。「鐘花を打つ」だけの意味だったら「鐘に花散る」でも十分だったはずだ。鐘の音が方々からいくつも聞こえてきて、そのつど花がはらはらと散ってゆくと取った方がいい。
 あえて「はなをうつ」と仮名で表記しているのもそのためだろう。
 「狂句こがらし」の巻の脇、

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

の「とばしる」が「とは知る」に掛かるのと同じに考えていい。
 三十三句目。

   伏見木幡の鐘はなをうつ
 いろふかき男猫ひとつを捨かねて 杜国

 伏見は遊郭のあったところで、遊女達が猫を飼っていたのか。盛りがついてうるさいから捨ててこいなんて言われても、捨てられるものではない。
 あるいは駄目な男と分かっていてもついつい腐れ縁になるという、比喩も含んでいるのか。
 三十四句目。

   いろふかき男猫ひとつを捨かねて
 春のしらすの雪はきをよぶ    重五

 自分では捨てられないので白州の庭の雪掻きをする人を呼んできて猫を追い払ってもらう。「白州」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「庭先・玄関前などの、白い砂の敷いてある所。」とある。
 前句が「猫の恋」で春なので、「春の」という季語を放り込む。
 三十五句目。

   春のしらすの雪はきをよぶ
 水干を秀句の聖わかやかに    野水

 「水干」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「1 のりを使わないで、水張りにして干した布。
 2 1で作った狩衣(かりぎぬ)の一種。盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐(くみひも)で結び留めるのを特色とし、袖付けなどの縫い合わせ目がほころびないように組紐で結んで菊綴(きくとじ)とし、裾を袴(はかま)の内に着込める。古くは下級官人の公服であったが、のちには絹織物で製して公家(くげ)や上級武家の私服となり、また少年の式服として用いられた。」

とある。
 ウィキペディアには、

 「室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。」

とあり、水干は正式な服装ではなく部屋着のようなくだけた場での服装だったのだろう。
 「秀句」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 ①  すぐれた句。秀逸な詩歌。
 ②  和歌・文章・物言いなどにおける巧みな言いかけ。掛け詞・縁語な

ど。すく。 「 -も、自然に何となく読みいだせるはさてもありぬべし/毎月抄」
 ③  軽口(かるくち)・地口(じぐち)・洒落(しやれ)など。すく。 「 -よくいへる女あり/浮世草子・一代男 1」

とある。
 ①は元の意味であるとともに今の意味といってもいい。要するに「秀逸な詩歌」というのがどういうものであるかはその時代の価値観に左右さるもので、連歌や俳諧(特に貞門)で秀逸というのは基本的に②だった。それが江戸時代に大衆化したときに③の意味になったと思われる。
 近代では「傑作」という言葉が、一方では優れた芸術作品を表すのに用いられるが、一方ではギャグ漫画や笑い話の面白いネタに対しても「そいつは傑作だ」というふうに用いられる。それに似ている。
 「聖(ひじり)」今日で「神」と称されるのと同様、その道の名人のことをいう。芭蕉は「俳聖」と呼ばれ、同時代の本因坊道策は「棋聖」と呼ばれた。この種の称号はピンからキリまであり、いつも面白い話をしてくれる人程度でも「秀句の聖」と呼ばれることもあったと思われる。
 「わかやか」は若々しいということ。水干姿の若々しい秀句の聖というのは、実は雪掃きの少年のもう一つの姿なのではないかと思う。
 挙句。

   水干を秀句の聖わかやかに
 山茶花匂ふ笠のこがらし     羽笠

 「狂句こがらし」の巻の脇、

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

を思い起こし、『冬の日』五歌仙の最後を締めくくる。

2018年12月26日水曜日

 今年も残す所あとわずか。
 去年・一昨年はいろいろ世の中が思わぬ方に動いたが、今年はその反動の年だったか。特に韓国はどこに行くのだろうか。
 まあ、徴用工やレーダーの照射のことは何も言いたくないね。言えば金正恩が喜ぶだけだから。
 資本主義は必然的に侵略戦争を生むというレーニン帝国主義論によるなら、日本の過去の侵略戦争への反省は、資本主義を放棄するまで終ることはない。北も日本の左翼も基本的にそれを狙っている。でもその巻添えで韓国まで資本主義を放棄しなくてはならなくなったりして。まあ、せっかく漢江の奇跡で手に入れた豊かさを簡単に手放すことはないとは思うが。

 では、そんなところで「霜月や」の巻の続き。
 二十九句目。

   露をくきつね風やかなしき
 釣柿に屋根ふかれたる片庇    羽笠

 前句の風に「屋根ふかれたる」と付く。貞門風の古風な付け方だ。
 「片庇」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  片流れの屋根。
  ②  粗末なさしかけの屋根。」

とある。
 三十句目。

   釣柿に屋根ふかれたる片庇
 豆腐つくりて母の喪に入     野水

 喪中なので肉や魚を絶ち、豆腐を作って食べる。
 二裏に入る。三十一句目。

   豆腐つくりて母の喪に入
 元政の草の袂も破ぬべし     芭蕉

 元政は日政の通称で、ウィキペディアには、

 「日政(にっせい、通称:元政上人(げんせいしょうにん)元和9年2月23日(1623年3月23日)- 寛文8年2月18日(1668年3月30日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。俗名は石井元政(もとまさ)。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など。」

とある。
 さらにウィキペディアには、

 「1667年(寛文7年)に母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり一月あまり留まるがその翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰る。日燈に後事を託して寂す。享年46。遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。」

とある。句はこの本説と言えよう。
 三十二句目。

   元政の草の袂も破ぬべし
 伏見木幡の鐘はなをうつ     荷兮

 元政の開いた深草瑞光寺は伏見にある。木幡は隣の宇治市になる。今でもその鐘は鳴り響いている。

2018年12月24日月曜日

 今日は世間ではクリスマス。まあクリスチャンじゃないから、はぴほりー、でいいのかな。
 今日は足柄へ行って、洒水の滝を見た。洒は洒堂のシャ。酒ではない。
 そして昨日作っておいたご馳走、タン&頬肉シチューも食べた。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二十五句目。

   萱屋まばらに炭団つく臼
 芥子あまの小坊交りに打むれて 荷兮

 「芥子あま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 頭髪を芥子坊主にした女児。
※俳諧・冬の日(1685)『萱屋まばらに炭団つく臼〈羽笠〉 芥子あまの小坊交りに打むれて〈荷兮〉』」

 「芥子坊主」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「頭髪をまん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。けしぼん。芥子坊。おけし。けし。」

とある。芥子の実に似ているところからそう呼ばれる。
 芥子坊主は当時の子供の一般的な髪型で、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

は元禄六年の句。今でも子供のことを「坊主」と呼ぶのもその名残なのかもしれない。
 「芥子尼」が髪型を指すだけの言葉なら、舞台をお寺に限定する必要はない。「萱屋まばら」の農村に子供達が遊んでいる情景となる。男勝りの女の子が男子に混じって元気に遊ぶ姿はほほえましい。
 二十六句目。

   芥子あまの小坊交りに打むれて
 おるるはすのみたてる蓮の実  芭蕉

 蓮の実は食べられるので、子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。
 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所がミソ。単なる景色に出来るから次の句の展開が楽になる。
 二十七句目。

   おるるはすのみたてる蓮の実
 しづかさに飯台のぞく月の前  重五

 「蓮の実」で秋に転じたところで、すかさず定座を繰り上げて月を出す。基本といっていい。
 「飯台」は食事のためのテーブルで、古くはお寺など大勢で食事をする場所で用いられ、一般には一人用の膳で食事をしていた。
 江戸後期になると外食が発達して、店などに飯台が置かれるようになり、近代に入ると西洋式のテーブルに習って家庭に飯台が普及した。特に丸い「ちゃぶ台」は昭和の家庭で広く用いられ、ノスタルジーを誘うものとなっている。
 この場合は蓮の縁もあってお寺の情景か。あまりに静かなので飯台を覗いてみるが、おそらく空っぽだったのだろう。月に浮かれてみんな遊びに行ってしまったか。
 元禄七年の「空豆の花」の巻に、

   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉

の句がある。
 二十八句目。

   しづかさに飯台のぞく月の前
 露をくきつね風やかなしき    杜国

 飯台を覗き込んでいるのは狐だった。

2018年12月23日日曜日

 政治の話をタブーとする人もいるようだが、別に俳諧研究者が政治を語っても良いと思う。アイドルだって芸人だって作家だって漫画家だって一緒だ。気軽に政治を話せる社会が良いと思う。
 ただ、それをあまり作品に持ち込まれてしまうと、結局笑う人と怒る人との分断を産み、作品そのものが広く大衆にいきわたらなくなる。それは作家の自己責任だと思う。
 沖縄の基地問題というのは、基本的には戦後の東西冷戦構造下で、あそこが中国・北朝鮮・ソ連・北ベトナムを見据えた前線基地になってしまったからだ。
 だから、沖縄の基地をなくすには簡単に言えば、冷戦を終らせれば良いということになる。
 ソ連が崩壊し、ロシアになってからはアメリカとロシアの対立はかなり和らいだ。ベトナムも緩やかな体制になり今は危険はない。後は中国の海洋進出と北朝鮮問題が片付けば、あそこに米軍がいる必要もなくなるし、基地問題は自ずと解決することになる。アメリカだってコストが馬鹿にならないから、早く引き上げたい所だろう。
 基本的には中国と北朝鮮に民主化と経済開放を求めてゆくことが大事で、それ以外の基地問題の解決策は、結局はその場しのぎのものにすぎない。基地をどこかに移転したとしても、結局移転先で同じ問題が繰り返されるだけだ。
 世界が平和になれば基地問題は解決する。子供でも分かることだ。そのために何をしなくてはならないか、敵を見誤らないことだ。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二の懐紙に入る。十九句目。

   篭輿ゆるす木瓜の山あい
 骨を見て坐に泪ぐみうちかへり 芭蕉

 「坐」は「そぞろ」で「漫」という字を書くことも多い。
 いわゆる「野ざらし」だろうか。行き倒れになった旅人の骨が落ちていて、思わず駕籠から降りて涙ぐむ。
 二十句目。

   骨を見て坐に泪ぐみうちかへり
 乞食の蓑をもらふしののめ   荷兮

 昔は人が死ぬと河原にうち捨てて葬った。そこで永の別れとばかり大声で泣く。韓国の「アイゴー」のように、かつての日本人は大声で泣いた。
 河原にはそうした遺体を処理する被差別民が住んでいて、「河原乞食」とも呼ばれていた。処理してもらう代金にと新しい蓑を与えたのであろう。
 しののめというと、

 あづまののけぶりの立てる所みて
     かへり見すれば月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(玉葉集)

の歌も思い浮かぶ。「けぶり」おそらく火葬のものであろう。西に渡る月に無常が感じられる。この歌を「ひむかしの野にかげろひのたつ見へて」と訓じるのは、賀茂真淵以降のこと。
 二十一句目。

   乞食の蓑をもらふしののめ
 泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て 杜国

 哀傷の句が二句続いた所で、ここでガラッと気分を変えたいところだ。
 洪水の後だろうか。泥の上で思いがけず大きな鯉を拾ったが、どうやって持って帰ろうかと思っていると、親切な河原乞食の人が「これで包んでいけや」と蓑を貸してくれた。
 二十二句目。

   泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て
 御幸に進む水のみくすり    重五

 鯉は龍の子ともいわれる吉祥で、御幸の献上品にふさわしいものの、何分生ものだから天子様に何かあっては一大事と、水飲み薬も添えて差し出す。
 二十三句目。

   御幸に進む水のみくすり
 ことにてる年の小角豆の花もろし 野水

 「小角豆」はササゲと読む。ウィキペディアには「日本では、平安時代に『大角豆』として記録が残されている」ともいう。赤飯にも用いられる。薄紫の豆の花を咲かせる。
 ただ、今年は特に旱魃がひどく、丈夫なササゲも元気なく花ももろく散ってしまう。
 そんな状況を視察に来たのだろうか。天子様に奉げるようなものもなく、水飲み薬を献上する。ササゲは「奉げる」に掛かる。
 二十四句目。

   ことにてる年の小角豆の花もろし
 萱屋まばらに炭団つく臼    羽笠

 「炭団(たどん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「木炭の粉末を主原料とする固形燃料の一つ。木炭粉にのこ屑炭,コークス,無煙炭などの粉末を混合し,布海苔,角叉,デンプンなどを粘結剤として球形に固めて乾燥させてつくる。一定温度を一定時間保つことができるのが特徴で,火鉢,こたつの燃料として愛用され,またとろ火で長時間煮炊きするのに重用された。」

とある。昔は墨の粉を集めて自分の家でそれを臼で搗いて作って、火燵や火鉢に使っていたようだ。

2018年12月22日土曜日

 今日は一日小雨が降った。夕方には止み、雲間にほぼ満月に近い月が見えた。
 話は変わるが、昔から職人の世界で、「仕事は習うのではなく見て盗め」というのは、決して意地悪で言っているのではない。
 仕事を教えるというと、職場の師弟の上下関係では先輩の言うことは絶対で、あれもこれも教わってしまうと、先輩の良いところだけでなく、悪い所も真似てしまう。これでは進歩がない。
 「盗め」というのは自分の技術向上に必要な良い物だけを選んで真似しろということで、これだと先輩の良い所だけ受け継ぎ、悪い物を捨てることが出来る。
 職人の世界では、自分の息子をあえて他の職人の所で修行させたりする。こうしてそれぞれの良い所だけを受け継ぎ、悪い所を捨ててゆくことで、職人の技術は進歩してゆくことになる。
 ただ学問の世界の師弟関係は微妙で、それはやはり教条(ドグマ)を受け継ぐという側面が強くなる。職人は結果がすべてだが、学問は「保存」優先になりやすい。
 蕉門の師弟関係も、おおむね庶民の出の人は職人のような師弟関係をイメージし、武家出身の人は学者の師弟関係に近い捉え方をしていたのではないかと思う。それが、其角、路通、惟然のラインと去来、許六のラインを隔てていたのかもしれない。

 長くなったが、それでは「霜月や」の巻の続きを少々。
 十五句目。

   麻かりといふ哥の集あむ
 江を近く独楽庵と世を捨て   重五

 歌集の主を出家して「独楽庵」を名乗る人物とする。「江を近く」は隅田川のほとりの深川に住む芭蕉庵にも通う。
 「独楽」は独り楽しむの意味だが、日本では玩具のコマにこの字を当てる。
 十六句目。

   江を近く独楽庵と世を捨て
 我月出よ身はおぼろなる    杜国

 我が月というと、

 月みればちぢにものこそ悲しけれ
    わが身一つの秋にはあらねど
              大江千里(古今集)

の心か。月はみんなが見ているし、月に悲しくなるのも自分ひとりではないが、それでも自分だけがことさら悲しいように思える。まあ、自分の月は自分自身で直接感じられるのに対し、他人の月は推測にすぎないから当然といえば当然だが。
 春の朧月の霞むさまは、さながら世間から忘れ去れて影の薄くなる自分のようでもある。
 十七句目。

   我月出よ身はおぼろなる
 たび衣笛に落花を打払     羽笠

 花の定座で、花の散る中を笛を吹く旅人を登場させる。身が朧なのは、もしかして敦盛の亡霊?
 十八句目。

   たび衣笛に落花を打払
 篭輿ゆるす木瓜の山あい    野水

 「篭輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。
※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」

とある。「ろうよ」と読むと、

 〘名〙 竹でこしらえた粗末なこし。かごこし。
※北条五代記(1641)二「両人の若君をいけとり奉りろうよにのせ申」

という意味になる。
 山間の道で木瓜の枝が道を塞ぎ、その花を笛で振り払いながら歩く旅衣の人物は囚人で、険しい道だから駕籠から降りて歩くことを許される。

2018年12月20日木曜日

 「霜月や」の巻の続き。
 十一句目。

   茶に糸遊をそむる風の香
 雉追に烏帽子の女五三十    野水

 前句をお茶会の場面として女の集まりへと展開したのだろう。お茶会といっても茶道のようなあらたまった席ではなく、要するに茶飲み話をする会だろう。男ならすぐに酒盛りということになるが、お茶だから女という連想になる。
 「雉追(きじおい)」はよくわからないが「鳥追い」の一種だろうか。「鳥追い」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「①  田畑に害を与える鳥獣を追い払うこと。また、そのしかけ。かかしなど。
 ②  田畑の害鳥を追おうとする小正月の行事。子供たちが鳥追い歌をうたって家々を回ったり、田畑の中に仮小屋を作り、鳥追い歌をうたいながら正月のお飾りを焼いたりする。鳥追い祭。」

とある。②に近いもので特に正月に関係のない行事を想定したものではないかと思う。
 女の烏帽子は白拍子と思われる。
 「五三十」は『連歌俳諧集』の注に「初め五人位とみたら三十人もいたとの意か」「あるいは五、六十の誤記かとも考えられる」とあるが、いくらなんでもそれじゃ多すぎるだろう。
 こどもが十を数える時に関東では「だるまさんがころんだ」(関西では「ぼうさんがへをこいた」)というが、それをずるして早く数える時に「みなと」と使った。三七十のこと。五三十もそのようなもので、ここに五人、あそこに三人、それにまだいるから全部で十人、というくらいの意味ではないかと思う。
 十二句目。

   雉追に烏帽子の女五三十
 庭に木曾作るこひの薄絹    羽笠

 「木曾作る」は謎だが、前句の女が白拍子だとしたら、檜舞台のことか。薄絹を着て恋の舞を舞う。
 十三句目。

   庭に木曾作るこひの薄絹
 なつふかき山橘にさくら見ん  荷兮

 夏に咲かない桜は似せ物の桜、桜のように華やかなものを見に行こう、ということか。夏に咲くのは女性の薄絹の花。
 十四句目。

   なつふかき山橘にさくら見ん
 麻かりといふ哥の集あむ    芭蕉

 歌集のタイトルとしては「〇〇集」のようなものが多く、大体は漢語で「あさかり」のような大和言葉のタイトルはあまりないように思える。
 ただ芭蕉の晩年の話になるが『去来抄』には「去来曰、浪化集(らふくゎしふ)の時上下を有磯海(ありそうみ)・砥波山(となみやま)と号す。先師曰、みな和歌の名所なれば紛し、浪化集と呼べし。」とある。雅語のタイトルは和歌のイメージがあったのかもしれない。
 夏の山にわざわざ桜を求めて分け入る風狂者からの、歌集とかも編纂していそうだということで、後で言う位付けに近いかもしれない。「麻かり」は「浅かり」と掛けて、謙遜の意味を込めているのだろうか。
 なお、寛政五年(一七九三)、芭蕉の百回忌に暁台の門人の士朗が『麻刈集』を編纂している。

2018年12月19日水曜日

 「霜月や」の巻。とにかくゆっくり進めて行こうと思う。
 初裏。
 七句目。

   酌とる童蘭切にいで
 秋のころ旅の御連歌いとかりに 芭蕉

 「御連歌」は宮中で行われる連歌や将軍の主催するものなど、かなり格式の高いものを連想させるが、「旅の」となるとそれがミスマッチな感じがする。
 「いとかりに」というのも「かりそめに」というところをわざと拙い言い回しをしたみたいで、これは本物の貴人(あてびと)ではなく、単に貴人を気取っている人の連歌会なのかもしれない。
 八句目。

   秋のころ旅の御連歌いとかりに
 漸々はれて富士みゆる寺    荷兮

 字体が紛らわしく、「漸々(ようよう)」と読む説と「漸(ようや)く」と読む説とある。意味はそれほど変わらない。
 前句の貴人の連歌会の会場を富士の見える寺とした。連歌会はお寺で行われることが多かった。
 九句目。

   漸々はれて富士みゆる寺
 寂として椿の花の落る音    杜国

 山茶花は一枚一枚ひらひらと散るが椿はぼとっと落ちる。その音が聞こえるくらい静かな寺という意味。

 散る花の音聞く程の深山かな  心敬

の連歌発句に似ているが、椿の方が本当に音が聞こえそうだ。
 十句目。

   寂として椿の花の落る音
 茶に糸遊をそむる風の香    重五

 「糸遊(いとゆう)」は結構厄介な題材で、陽炎(かげろう)のことだというが、今日知られている陽炎はかなり高温のときに発生するもので、春に見たことがない。野焼きなどの時なら分かる。

 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』の「糸遊」の所には、

 「野馬塵埃也。生物以息吹者也。稀逸註云、野馬糸遊也。水気也。○杜詩、落花糸遊白日静。○かげろふ・糸遊一物にて、糸遊は異名也。」

とある。
 また、「陽炎」のところには、

 「陽炎・糸遊、同物二名也。春気、地より昇るを陽炎或はかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、又降るをいとゆふといふなり。」

とある。 いくつかの現象が「糸遊・陽炎」という言葉で一緒くたにされ

ている可能性もあり、
 古典に登場する時は、いくつかの現象が「糸遊・陽炎」という言葉で一緒くたにされている可能性もある。
 「落花糸遊白日静」の句は『杜律集解』巻六にあるらしいが、前句の「寂として」「花の落る」に「糸遊」を付けているところから、この句が意識されていた可能性はある。
 茶の湯気が糸遊を染めているかのような風の香がするというのが句の意味。

2018年12月18日火曜日

 「霜月や」の巻の続き。
 第三。

   冬の朝日のあはれなりけり
 樫檜山家の体を木の葉降    重五

 「山家(さんか)」は「やまが」ともいう。山の中にある家や山里のことをいう。
 山地を廻る漂白民のことを「サンカ」ということもあるが、ウィキペディアによると「江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが最初である」というから、この時代にサンカがいたかどうかは不明。「明治期には全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されているが、実際にはサンカの人口が正確に調べられたことはなく、以上の数値は推計に過ぎない。」とウィキペディアにある。
 樫と檜は常緑樹で樫や檜に囲まれた山中の家は隠士の住まいなのかもしれない。

 樫の木の花にかまはぬ姿かな  芭蕉

はこのあと芭蕉が三井秋風の別亭に行ったときに詠むことになる。
 季節に関係なく過ごしているようでも、どこからともなく風に乗って落ち葉が舞い、朝の景色に彩を添え、山家らしい風情になる。
 「降」は「ふり」と読む説と「ふる」と読む説がある。『連歌俳諧集』は「ふり」とし、『校本芭蕉全集 第三巻』は「ふる」とする。「ふる」の方が良いと思う。「木の葉降り冬の朝日のあはれなりけり」と続けると
「あはれ」の原因を説明しているようで理が強くなる。「木の葉降る冬の朝日」と受けた方が良いように思える。
 四句目。

   樫檜山家の体を木の葉降
 ひきずるうしの塩こぼれつつ  杜国

 「ひきずる」については、『校本芭蕉全集 第三巻』は「牛の口をとる。牛が重荷を負って坂を登る体」とし、『連歌俳諧集』では「人が牛の口をとって引きずるようにしているさまと解するが、元来、牛は追うものであるゆえ、従いがたい」とする。
 牛は背中に荷物を乗せる場合が多く、荷物を引きずって運ぶというのは考えられない。車を引くなら分かるが、塩の入った袋や俵を引きずったら破れてこぼれるに決まっているから、そんなことはありそうにない。それに牛を思った方向に歩かせようとすれば、口を取って引っ張るのが普通だと思う。
 前句の「山家」を山村のこととし、山間の道の風景を付ける。長い山道では俵の隙間から少しずつ塩がこぼれてゆく。
 五句目。

   ひきずるうしの塩こぼれつつ
 音もなき具足に月のうすうすと 羽笠

 「具足」はウィキペディアによれば、

 「日本の甲冑や鎧・兜の別称。頭胴手足各部を守る装備が「具足(十分に備わっている)」との言葉から。」

だという。
 夜中に具足を着た連中がこっそりと塩を運ぶというのは、「敵に塩を送る」ということか。
 六句目。

   音もなき具足に月のうすうすと
 酌とる童蘭切にいで      埜水

 「埜水」は野水に同じ。
 「蘭」は古代中国で言う「蘭草」つまりフジバカマのことか。乾燥させると良い香りがするという。
 前句の「音もなき」を酔いつぶれて寝静まった兵のこととし、その間に酌をしていた童は香にする蘭を切りに行く。
 いくさの場を離れるために、あえて蘭を出して、次の展開を図ったといえよう。

2018年12月17日月曜日

 今日は午前中は雨で午後からは晴れた。
 「ボヘミアン・ラプソディ」の影響もあってか、この頃70年代の懐かしいロックを聴いている。アップル・ミュージックやユーチューブでも探せば懐かしい初期の日本のロックが聞ける。ただ昔の記憶と違って、「あれっ、こんな曲だったかな」というものもあり、やはり記憶は時間が経つと変容するものだ。

 さて、今年も残す所わずかだが、もう一巻くらいは読めそうだ。
 今回選んだのは荷兮編の『冬の日』から、「霜月や」の巻。『冬の日』といえば芭蕉七部集の最初の集で、蕉風確立期の初期を代表するものとなっている。
 その最初の歌仙は「狂句こがらし」の巻で、「鈴呂屋書庫」の「蕉門俳諧集」にもある解説はかなり前に書いたもので、多分十年くらい前だろう。
 「霜月や」の巻はこの『冬の日』の五番目の歌仙で、

   田家眺望
 霜月や鸛(かう)の彳々(つくつく)ならびゐて 荷兮

を発句とする。貞享元年霜月の興行。
 この巻はもちろん『校本芭蕉全集 第三巻』の註もあるし、『連歌俳諧

集』(日本古典文学全集32、1974、小学館)にも収録されている。
 さて、前書きに「田家眺望」とあり、おそらく興行された場所から田んぼが見えたのであろう。広い濃尾平野の広大な水田には、ところどころにコウノトリの姿が見えたのだろう。
 コウノトリは冬鳥で、かつては日本の水田や河川の至る所に群れを成して飛来したというが、明治の頃に乱獲され、絶滅寸前になったという。芭蕉の頃だと田んぼにコウノトリがあちらこちらにたたずんでいる情景は、田舎のありふれた景色だったのだろう。
 もちろんこの句は興行開始の挨拶という意味で、列席した連衆をコウノトリに喩える意味もある。『連歌俳諧集』の註によると、『越人注』に「冬ノ日出来候時十月より十一月迄の間、連中寄合たる下心」とあるという。
 近代の評だと実景か比喩かの二者択一みたいになりかねないが、実景を詠みながら、そこに寓意を込めるのは昔の発句では普通のことで、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」で読んだ方が良い。先日「大切の柳」の所でも述べた。
 発句の「て」留めに関しては、芭蕉の、

 辛崎の松は花より朧にて   芭蕉

の句に先行するもので、式目に発句を「て」で止めてはいけないという規則はないので、長い字余りと同様、式目をかいくぐる面白さというのが当時の流行だったのだろう。まだ去来の言う「基(もとゐ)」が重視されてなかった頃の風だ。
 脇は芭蕉が付ける。

   霜月や鸛の彳々ならびゐて
 冬の朝日のあはれなりけり   芭蕉

 軽く朝日を添えて流すが、そこにももちろんこの興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。上句下句合わせて、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて冬の朝日のあはれなりけり

と和歌のように綺麗につながっている。

2018年12月16日日曜日

 男と女で能力的な差があるかどうかというと、一般論というか平均という意味ではあると思う。ただ、その差は個人差に較べれば微々たるものなので、入学や就職のような個々の能力を判定しなくてはならないときには、あくまで個人差で判定すべきであろう。
 これは男と女の身長の差に喩えればわかりやすい。平均すれば確かに男の方が背が高いが、実際には2メートルを越える女性もいれば140センチに満たない男性もいる。
 身体能力にしても、確かにほとんどの競技では女性より男性のほうが成績が良いが、ただ、女子の世界記録を超えられる男性は、各種目でたとえ数百人くらいいたとしても、全男性から較べればほとんど問題にならない程度の数だ。
 知的能力についても、男子は理数系に強く女子は文系に優れているだとかいうが、私なんぞも学校の数学では落ちこぼれだったし、個人差が大きすぎて何ともいえない。「話を聞かない男、地図が読めない女」なんて本が以前ベストセラーになったが、話を聞かない女も地図が読めない男もたくさんいる。
 まあとにかく性差はあっても、実際にはそれよりも個人差の方がはるかに大きいということはしっかりと認識しておいた方が良いだろう。
 これは人種や民族の差についてもいえることで、大事なのはその人個人の能力をいかに正当に評価するかだと思う。
 ただ、性的非対称性に関してはまた別の問題がある。女性が就職や進学で差別されるのは、たいてい出産と子育てによる休業の問題で、これはそれを補完する社会的なシステムが必要だろう。
 日本の場合女性の社会進出を拒んでるのは長時間労働の問題が大きく、男性でも過酷な職場に女性を参加させたくないという男心があるのではないかと思う。障害者の雇用を拒んでるのも結局その問題なのではないかと思う。働き方改革(働かせ方改革)なしに女性や障害者の雇用問題は解決しない。
 江戸時代の俳諧でも確かに性による障壁はたくさんあったと思う。女性の俳諧興行への参加は実際極めて稀だった。
 発句では有名になる女流俳人はいても、興行の座に上がるにはかなりハードルが高かったのではないかと思う。
 「校本芭蕉全集」の三巻から五巻を見ても、芭蕉と同座した女性は智月、羽紅、その女の三人がいるが、智月と羽紅は「梅若菜」の巻でともに一句のみ、その女は「白菊の」の巻で脇を含めて五句詠んでいる。
 この二つの巻はどちらも「鈴呂屋書庫」の「蕉門俳諧集」の方にアップしてある。ここには芭蕉同座ではないが、惟然撰『二葉集』で智月発句の「そんならば」の巻も紹介している。
 ちなみに「梅若菜」の巻の智月の句は、十四句目の、

   萩の札すすきの札によみなして
 雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲   智月

 羽紅の句は挙句の、

   花に又ことしのつれも定らず
 雛の袂を染るはるかぜ        羽紅

 名前を伏せられたなら、男が詠んだか女が詠んだかわかる人はいないと思う。
 元来風流というのは暴力を否定し言葉で心を和らげるためのもので、どちらかというと女性的な感性が求められる。

 鶯に手もと休めむながしもと     智月
 うぐひすやはたきの音もつひやめる  豊玉

の句はよく似ているが、豊玉はあの新撰組の鬼の副長、土方歳三のことだというから笑える。
 俳諧はジェンダー的に女性に不利なジャンルではなかったと思う。それだけに、興行の席でその姿を見られなかったのは残念でならない。

2018年12月14日金曜日

 阿弥陀如来の光背(後光)に放射光と呼ばれる旭日旗のような放射状の光がデザインされていることで気になったのだが、これは日本独自のものなのだろうか。
 試しに「불상」でぐぐってみると、いろいろな韓国の仏像の画像を見ることができる。それを見る限りではやはり日本独自なのかなと思った。「아미타 여래」で検索しても同じような結果だった。
 強いて似ているものといえば、頭光ではなく身光の方に、放射状のデザインがなくもないが、直線ではなく波打った線で描かれ、三色で色分けされてたりする。旭日旗とは似ても似つかない。放射光の光背は日本独自のものなのだろう。
 江戸時代の浮世絵とかみても、普通の絵に放射状のデザインが登場することはなく、宗教をテーマにしたもののみこの図案が見られる。
 たまたま手元にあった1999年の渋谷区松涛美術館の「特別展 浮世絵師たちの神仏」の図録だと、放射状のデザインをたくさんみる事ができる。ただし紅白ではなく、白か黄色の光として描かれている。
 仏教系以外では「天の岩戸図絵馬」が目に付く。天岩戸が開き、天照大神が姿を現したときの表現に、仏教の光背を転用し、それがやがて朝日の図案になったのかもしれない。
 幕末に流行した鹿島神宮関係の「要石鹿島大尽」の左端に放射状の光を放つ太陽が描かれ、これなどは旭日旗にかなり近い。
 阿弥陀如来→天岩戸→朝日→旭日旗、という順序であの図案が確立されたのかもしれない。
 阿弥陀仏といえば惟然の風羅念仏。

 古池や蛙飛び込む水の音
     南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
 まづたのむ椎の木の有夏木立
     降るは霰か檜笠
     南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2018年12月12日水曜日

 昨日の続き。
 蕉門の笑いがいわゆる今日でいう「あるあるネタ」を中心としたものとして一つの完成を見ても、そこに初期衝動の問題が残った。
 実際、あるあるねたはおおくのひとが「あるある」と思えば、それで終わるというわけでもない。日常のありがちな出来事は、ともすると「だから何なんだ」で終わってしまいがちになる。
 2006年ドイツ・ワールドカップの直後にレギュラーという芸人コンビの「あるある探検隊」のネタに「シュートチャンスにパスをする」というのがあったが、これを聞いた多くの人はすぐにワールドカップのあの一場面を思い浮かべたのではなかったかと思う。柳沢が空っぽのゴールのまん前でボールを横に蹴って、キーパーの股を抜いたボールはそのままポストの外側へ転がっていった。ミスキックなのか、それともあの場面でまさかの壁パスだったのか、議論を呼んだ。
 こういう場面は確かに日本代表の試合にありがちで、シュートが失敗した時の責任を取りたくないから、ついつい決定機でもパスを選択する。
 あるあるネタが笑いにつながるのは、それが単にありがちだというだけでなく、そのいつものパターンに不満や何らかの感情を持っているからでもある。
 そうなると、「あるあるネタ」にも風刺の要素はある。ただ、あからさまに「あんたが悪い」といった非難をせず、「多いんだよなー、こういうことって」で済ますにすぎない。嘲笑だとか勝ち誇った笑いとかではなく、ただ共通認識を確認しあう、「何だ同じこと考えているのか」という笑いに留める。
 俳諧の笑いも基本的に庶民が生活してゆく上で経験する様々な不条理の中で、鬱屈した不満のはけ口の役目を果たさなくてはならない。その初期衝動があって俳諧の笑いは成立する。
 芭蕉の軽みがある程度浸透した段階で、芭蕉もただ「あるある」を言うだけで様式化してはいけないということに気付いていたのだろう。
 流行の現象を不易の心で表現するだけでは足りない。伝統的な趣向にうわべだけ目新しい題材を取り入れるというのではなく、そこに生活から来る様々なわだかまりを反映できなくてはならない。

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句も、量を減らすことで実質的に値上げするというのは、今でもよくある事だ。そこで読者はただ「あるある」というだけでなく、値上げへの不満を投影させては共感する。しかし許六はそのことに気付いていたのだろうか。許六は結局この句を超えられなかった。

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

の句の成功にも、武家という暴力装置に対する複雑な感情が庶民にくすぶっていたからだと思う。元武士である去来も多少は狙っている所はあっただろう。

 古池や蛙飛びこむ水の音    芭蕉

の句にしても、古池が当時の「あるある」だったということ自体が、相次ぐ改易や新興商人の台頭で没落する旧家など、少なからず社会問題に絡んでいたと思われる。
 芭蕉が最終的に至った「不易」というのは去来の理解していたような「基」や「本意本情」ではなく、朱子学の倫理の根幹となる「誠」に留まるものではなく、人間としての自然な感情、生活の中で様々な形で生じる初期衝動だったのかもしれない。それが「あるある」という流行の形を得て、不易にして流行の句が成立すると考えていたのかもしれない。
 花を見て単純に綺麗だと思うのも初期衝動だし、暴力で虐げられて惨めに思うのも初期衝動に含まれる。そういう自然な感情の発露があって表現は成立する。ただ、それを生のまま露骨に表現するのではなく、『詩経』大序にあるように「礼に止む」が必要だった。社会に無用な対立や暴力を引き起こさないような、むしろ人々がそれに共感し、共通の言葉とし、共通認識を生じるような表現を求めていた。
 だから、「あるあるネタ」とはいっても社会風刺とは全く無関係というわけではない。むしろそれを日常的な「あるある」の中に上手く潜ませ、分断を招かないようにしながら共通認識を形成してゆく。それは今日のお笑い芸にも引き継がれる日本人の知恵となっていったのではないかと思う。
 『去来抄』「同門評」の「大切の柳」も、その観点から読み解けるのではないかと思う。

 腫物(はれもの)に柳のさハるしなへ哉   芭蕉
 浪化集にさハる柳と出。是ハ予が誤り伝ふる也。重て史邦が小文庫に柳のさハると改め出す。支考曰、さハる柳也。いかで改め侍るや。去来曰、さハる柳とハいかに。考曰、柳のしなへハ腫物にさハる如しと比喩也。来曰、しからず、柳の直にさハりたる也。さハる柳といへバ両様に聞きこえ侍る故、重て予が誤りをただす。考曰、吾子の説ハ行過たり。たださハる柳と聞べし。丈草曰、詞のつづきハしらず、趣向ハ考がいへる如くならん。来曰、流石の両士爰を聞給ハざる口をし。比喩にしてハ誰々も謂ハん。直にさハるとハいかでか及バん。格位も又各別也なりト論ず。許六曰、先師の短尺にさハる柳と有。其上柳のさハるとハ首切(くびきれ)也。来曰、首切の事ハ予が聞処に異也。今論に不及。先師之文のふみに、柳のさハると慥(たしか)也。六曰、先師あとより直し給ふ句おほし。真跡證となしがたしと也。三子皆さハる柳の説也。後賢相判じ給へ。来曰、いかなるゆへや有けん。此句ハ汝にわたし置。必ず人にさたすべからずと江府より書贈り給ふ。其後大切の柳一本去来に渡し置きけりとハ、支考にも語り給ふ。其比浪化集・続猿集の両集にものぞかれけるに、浪化集撰の半(なかば)、先師遷化有しかバ、此句のむなしく残らん事を恨て、その集にハまいらせける。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,29~30)

 これは簡単に言えば

 腫物に柳のさハるしなへ哉  芭蕉
 腫物にさハる柳のしなへ哉  芭蕉

のどっちが本当の芭蕉の句かという議論だ。
 「腫物にさハる柳の」なら慣用句で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」では、

 「機嫌を損じないように気遣い、恐る恐る接するさま。『まるで腫れ物に触るような扱い』」

となる。
 ただ、ここでは「触るような」ではなく「触る」と触ってしまっているわけで、意味はむしろ逆にわざわざ機嫌を損ねるようなことをしながら、上手く誤魔化されているようなニュアンスになる。
 本来は愛でるべき柳の枝のしなやかさも、実際に腫れ物に触ったらやはり痛いし、うざい。
 ただ、これが本物の柳と本物の腫れ物だったら、春のうららの一場面として流すことができる。しかし比喩の意味が露骨に出てしまうとそうもいかない。
 しなやかな柳の枝でも腫れ物に触れば痛い。それをあからさまに言わず春のありがちな実景の裏に隠すというのが、芭蕉が本当に去来に伝えたかった、本物の不易流行ではなかったかと思う。

2018年12月11日火曜日

 今年もまたたくさん俳諧を読んだ。少しはレベルが上がったかな。去年の最後のも入れれば以下のとおり。

 十二月十七日から十二月三十一日まで「詩あきんど」の巻
 一月十五日から二月十二日まで「日の春を」の巻
 三月二日から三月九日まで「水仙は」の巻
 三月十九日から四月二日まで「うたてやな」の巻
 四月八日から五月三日まで「宗祇独吟何人百韻」
 五月四日から五月二十四日まで「花で候」の巻
 七月九日から七月二十日まで「破風口に」の巻
 八月一日から八月九日まで「秋ちかき」の巻
 八月十九日から八月二十二日まで「文月や」の巻
 九月二十三日から九月三十日まで「一泊り」の巻
 十月二日から十月十日まで「牛部屋に」の巻
 十一月十四日から十二月八日まで「野は雪に」の巻

 日本の風流の良い所は、一方的な自己表現ではなく、常に他人と共有できる言葉を作ってゆくという所にある。
 日本のお笑いに風刺が足りないと言う人もいるが、風刺はともすると他人を嘲笑する、いわば勝ち誇った笑いになりやすくなる。これは勝者と敗者の分断を産み、笑える人と笑えない人に分かれてしまう。政治ネタも結局は賛同できる人は笑うが、できない人は怒るという分断を生み出す。
 あるあるネタはその点共感を基本とした笑いで、最もレベルの高い笑いなのではないかと思う。芭蕉はそこに行きつき、その先はなかったのだろう。それが結局俳諧の完成と保存の時代への移行となったか。

2018年12月9日日曜日

 日本の朝鮮半島の併合は、ロシアの南下政策によって早かれ遅かれ朝鮮(チョソン)がロシアの植民地になる、そうなると日本にとって大きな脅威となるというのが直接の動機だったとされている。
 吉田松陰やその意思を引き継いだ長州藩士中心の明治維新を経る事で、西洋列強の脅威は過剰なまでに煽られていて、その不安な心理がそうさせたのだと思う。今から見れば必要のないことだった。
 結局1945年、ロシア(当時のソ連)が南下してきた時に、日本はそれを防ぐことができず、朝鮮半島は南北分断される結果となった。
 そして、南北分断のもう一つの原因も日本にあった。それは日本共産党の影響力だった。
 日本共産党は唯一軍国主義と戦った政党ということで戦後急速に力をつけたし、彼等は同じ抑圧されたものとして在日を取り込もうとしていた。その思想への共鳴が北朝鮮への過剰な期待を産み、多くの在日が北へ渡った。
 これに輪を掛けて、戦後の日本のいわゆる進歩的文化人が敗戦を日本の文化伝統全般の敗戦と受け止め、日本を否定し、西洋を中心とした「一つの世界」の形成に参加することを使命とした。この時の極端な日本の文化歴史に対する自虐的な思考が、北朝鮮を楽園とする思想と結びつき、これが南北問題の解決の足を引っ張り続けた。今でも日本のマスコミは基本的に北朝鮮びいきで、韓国主導の南北統一に反対している。
 更には本来は北の独裁から守るために共に戦わなくてはいけない日本が、あたかも今にも朝鮮半島に攻めてくるかのようなデマを広め、混乱に拍車を掛けている。北も積極的にこのデマを利用している。
 日本は今も朝鮮半島に迷惑をかけ続けている。それは認めざるを得ないだろう。
 フランスもいろいろあるようだが、日本では情報が少なすぎる。最初のデモの時には日本のマスコミは何も報道せず、二回目の時、一部が報じたものをようやく2チャンネルで知った。三回目の時、ようやくマスコミも重い腰を上げ、テレビでもほんの少し流すようになり、今回のデモの前夜になってようやく大きく報道されるようになった。

 さて「野は雪に」の巻は終ったので、同時代の『続山の井』(北村湖春編、寛文七年刊。)の宗房の三句を紹介しておこう。
 芭蕉の付け句がこうして残っているということは、まだ伊賀にいた頃の芭蕉(宗房)の参加した俳諧興行が「野は雪に」の巻だけでなかった証しにもなる。撰ばれたものだけで全部が残ってないのは残念だ。

   かたに着物かかる物かはうき難所
 今をたうげとあつき日の岡  宗房

 前句は街道の難所を越える時に着物が枝に引っかかったりしたか、あるいは泥濘で泥が跳ねるか何かで着物を肩に掛けて通ったという句だったのであろう。
 これを芭蕉は暑さのせいで一枚着物を脱いで肩に掛けたとする。この着想は後の貞享五年、『笈の小文』の、

   衣更
 一つぬひで後に負ひぬ衣がへ 芭蕉

に生かされている。

   後生ねがひとみ侍がた
 しゃかの鑓あみだやすりのつば刀 宗房

 「あみだやすり」はweblio辞書の「刀剣用語解説集」に、

 「鐔の表面に施された装飾的鑢模様の一種。鐔の中心から放射状に細い線を刻み込んだ様子が、阿弥陀如来の背にみられる後光を思わせるところからの呼称。古い時代では信家に例を見るが、線の長さや幅がそろわず荒さが感じられ、古雅な雰囲気を感じさせるものが多い。後光の線刻をきれいにそろえて放射線を描いたものを日足鑢として区別することもあるが、基本的には同形態の模様である。」

とある。
 「釈迦の鑓」は特にお釈迦様がそういう槍を持っていたと言うのではないようだ。『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、謡曲『柏崎』に「釈迦は遣り弥陀は導く一筋に」という一節があり、その縁で阿弥陀を導く枕詞のように「しゃかのやり」を頭に敷いたと思われる。
 前句の「後生ねがひ」を「後生だから(一生のお願い)」という意味に取り成し、阿弥陀やすりの鍔の刀が欲しいとする。
 余談だが旭日旗の放射状のデザインは、阿弥陀如来の後光にルーツがあるのかもしれない。だったら韓国人は阿弥陀如来を告発せねばならないかも。

   賤が寝ざまの寒さつらしな
 おだ巻のへそくりがねで酒をかはん 宗房

 「しづのおだまき」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「倭文を織るのに用いる苧環。「繰り返し」「いやし」などの序詞に用いる。
 『いにしへの―繰り返し昔を今になすよしもがな』〈伊勢・三二〉」

とある。
 前句の「賤(しづ)」からの縁で「おだ巻」を出す。
 「苧環(おだまき)」はウィキペディアによれば、

 「苧環(おだまき)は、糸を巻いて玉状または環状にしたもの。布を織るのに使う中間材料である。「おだまき」は「おみ」「へそ」ともいう(「麻績」「麻続」「綜麻」)。次の糸を使う工程で、糸が解きやすいようになかが中空になっている。」

だという。
 同じくウィキペディアに、

 「「へそくり」は、苧環(綜麻)を作って貯めておいた駕籠のなかに秘かに蓄財するから、という説があるが、「へそ」をよりたくさん作って貯めた余剰の蓄財から、または、蓄財を内緒で腹の「臍(へそ)」の上にしまっておくから、など諸説ある。」

ともある。
 「おだ巻の」を臍に掛かる枕詞のように用いて、賤がへそくりで酒を買わんと付ける。
 いずれも貞門的な技法を駆使しながらも、王朝趣味の絵空事にならず、リアルな「あるある」を描いている所が芭蕉らしい。

2018年12月8日土曜日

 「野は雪に」の巻もこれが最後。挙句の果てまで一気に。
 名残の裏に入る。
 九十三句目。

   律のしらべもやむる庵室
 秋はなを清き水石もて遊び 一笑

 名残の裏なので、ここはおとなしく季節の句で繋いでゆく。
 庵室といっても粗末な草庵ではなく立派な寺院で、庭には水を流し、形の良い庭石を並べ、そこで管弦の宴を行う。「もて遊び」は「以て遊び」か。
 九十四句目。

   秋はなを清き水石もて遊び
 残る暑はたまられもせず 蝉吟

 庭にいくら綺麗な水は、残暑の厳しい折にはありがたいものだ。
 前に発句ではだいたい夏は涼しさを詠むのもので、暑さを盛んに詠むようになったのは猿蓑以降というようなことを書いたが、付け句は挨拶ではないので、貞門の時代にもこういう句があったのか。もちろん蝉吟もこの時代ではかなり革新的な人で、芭蕉に大いに影響を与えたと思われる。
 九十五句目。

   残る暑はたまられもせず
 是非ともにあの松影へ御出あれ 一以

 暑いなら松の影で涼めとのこと。「是非ともに」「御出あれ」と口語っぽく結んではいるものの、一種の咎めてにはといえよう。
 九十六句目。

   是非ともにあの松影へ御出あれ
 堪忍ならぬ詞からかひ  正好

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「前句を喧嘩を挑んだ言葉として、『詞からかひ』を出した。」

とある。まあ町外れの一本松の下での決闘なんて、昭和の番長ものの漫画でも定番だが。
 「からかひ」は今日ではweblio辞書の「三省堂大辞林」にある、

 「①  冗談を言ったりいたずらをしたりして、相手を困らせたり、怒らせたりして楽しむ。揶揄(やゆ)する。 「大人を-・うものではない」
 ②  抵抗する。争う。 「心に心を-・ひて/平家 10」

の特に①の意味で用いられることが多い。「いじる」というのと似たよ

うな意味だ。
 ただ、昔はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「負けまいと張り合う。争う。言い争う。」

とあるような意味だったようだ。
 九十七句目。

   堪忍ならぬ詞からかひ
 おされては又押かえす人込に 宗房

 前句の「からかひ」の声を荒げて言い争う様を街の喧騒に取り成す。リアルな方の芭蕉がよく出ている。
 九十八句目。

   おされては又押かえす人込に
 けふ斗こそ廻る道場   一以

 道場は今日では武道を行う場所のことを言うが、本来の意味はウィキペディアの「道場 (曖昧さ回避)」にあるように、

 「サンスクリットのBodhimandalaを漢訳した 仏教用語で菩提樹下の釈迦が悟りを開いた場所、成道した場所のことである。また、仏を供養する場所をも道場と呼ぶ。中国では、隋の煬帝が寺院の名を道場と改めさせている。また、慈悲道場や水陸道場のような法会の意味でも用いられている。日本では、在家で本尊を安置しているものを道場と称する場合もある。また、禅修行の場や、浄土真宗、時宗の寺院の名称としても用いられている。」

だった。
 縁日か秘仏の公開か、とにかく今日ばかりはということでお寺は人がごった返している。
 九十九句目。

   けふ斗こそ廻る道場
 花咲の翁さびしをとむらひて 正好

 「翁さぶ」はweblio辞書の「三省堂大辞林」に、

 「老人らしくなる。老人らしく振る舞う。 『 - ・び人な咎(とが)めそ/伊勢 114』」

とある。この伊勢物語の歌は、

 翁さび人なとがめそ狩衣
     けふばかりとぞ田鶴も鳴くなる

で、下句の頭「けふばかり」となっている。
 前句の頭が「けふばかり」なので、その上句に「翁さび」を持ってくることで『伊勢物語』の歌と同じような上句下句の繋がり方になる。一種の歌てにはといえよう。歌てにはの場合は形だけで、本歌付けのような歌の内容を借りてくるわけではない。
 「花咲」は花が咲くということだが、松永貞徳の隠居した花咲亭に掛けている。花の咲く花咲亭の翁さびた貞徳さんの弔いのために「けふ斗こそ廻る道場」という意味になる。
 挙句。

   花咲の翁さびしをとむらひて
 経よむ鳥の声も妙也  一笑

 「経よむ鳥」は「経読み鳥」に同じ。「経読み鳥」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《鳴き声が「法華経(ほけきょう)」と聞こえるところから》ウグイスの別名。経読む鳥。《季 春》」

とある。貞徳翁の弔いのために鶯が「法華経」と経を読む。これにて追善の百韻は終る。
 この巻でやはり目立つのは芭蕉の主人でもあり俳諧の師匠でもあった蝉吟の多彩な技と運座を仕切る展開の小気味よさ。それに後の談林風にも通じる進取の気性だ。
 芭蕉はそこから多くのものを吸収し、やがて自らの風を確立していくことになった。

2018年12月7日金曜日

 今日から霜月。
 あっという間に時が過ぎて行く。
 新暦では今年もあとわずか。

 では「野は雪に」の巻の続き。
 八十七句目。

   机ばなれのしたる文章
 媒をやどの明暮頼みおき  一以

 書が上手いと恋文の代筆とかをさせられる。媒は「なかだち」。
 八十八句目。

   媒をやどの明暮頼みおき
 ちやごとにあらで深きすきもの 正好

 「ちやごと」は茶事で茶道のこと。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「茶道の数奇者ではなく別のすきもの(好色漢)であるとの意。」

とある。
 八十九句目。

   ちやごとにあらで深きすきもの
 うさ積る雪の肌を忘れ兼  蝉吟

 「茶事」にはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「寄り集まって茶を飲むこと。茶菓を供して話し興じること。」という意味もある。要するに茶飲み話だ。まあ、そういう茶飯事ではないということか。
 「積もる雪の深き」と掛けてにはになる。
 九十句目。

   うさ積る雪の肌を忘れ兼
 氷る涙のつめたさよ扨   宗房

 前句の浮かれた恋心を悲恋に変える。「扨」は「さて」。
 九十一句目。

   氷る涙のつめたさよ扨
 訪はぬおも思月夜のいたう更 正好

 せっかくの月夜なのに愛しいあの男は尋ねて来てくれない。王朝風の恋で連歌っぽいが「訪わぬをも」に「おもひ」と続けるところに俳諧がある。
 九十二句目。

   訪はぬおも思月夜のいたう更
 律のしらべもやむる庵室  一以

 王朝風なので雅楽の律の調べとする。庵室だから

2018年12月5日水曜日

 昔はマイノリティというのは資本主義から疎外(仲間はずれに)された人たちということで、資本主義をぶっ潰すための革命の主体として、資本主義から隔離して保護すべきものとするような風潮があった。
 今は違う。仲間はずれにされてたのなら、仲間に入れてやれば良い。マイノリティーの経済的自立を助け、企業や投資への参加を推進し、マイノリティー市場を作り出すことで経済の発展や生産性の向上に役立てることができる。それは結局社会全体の豊かさにつながる。
 野党の「性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律案」はどちらに向うものなのか、しっかり見てゆく必要がある。ざっと見た感じではこの法案は「LGBT=労働者」という視点に偏りすぎているように思える。
 また、LGBTについての社会の認知を深めるには学者が一方的に教条を押し付けるような研修制度ではなく、むしろエンターテイメントとしてのLGBTあるあるを広める方がいいのではないかと思う。同様に障害者あるあるや在日あるあるなど、楽しめる内容でお互いの立場が分かるようなことができれば良いと思う。

 では「野は雪に」の巻の続き。
 八十三句目。

   討死せよと給う腹巻
 防矢を軍みだれの折からに 正好

 「坊矢(ふせきや)」はweblio古語辞典によると、

 「敵の襲来を防ぎとめるために矢を射ること。また、その矢。◆後に「ふせぎや」とも。」

とある。
 これは退却する時の殿(しんがり)のことであろう。殿(しんがり)はウィキペディアに、

 「本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。」

とあるように、この大役を命ずる時に「討死せよと給う腹巻」ということになる。
 八十四句目。

   防矢を軍みだれの折からに
 いとも静な舞の手くだり  蝉吟

 本来風流とは言えないいくさネタが二句続いたので、ここでガラッと場面を変える必要がある。このあたりの運座の呼吸は見事だ。芭蕉も蝉吟の運座から多くのことを学んだだろうし、良い師匠にめぐり合えたということがこの百韻からも伝わってくる。
 これは謡曲「吉野静」の本説で、「宝生流謡曲名寄せのページ」というサイトの「吉野静」の「あらすじ」にこうある。

 「梶原景時の讒言によって兄頼朝の勘気を蒙ってしまった源義経は、大和国吉野山に暫く身を隠していましたが、吉野山の衆徒の心変わりから山を落ち延びることになりました。一人防ぎ矢を仰せつかった佐藤忠信は、山中で偶然に静御前とめぐり会い、二人で吉野山の衆徒を欺いて義経を落ち延びさせようと相談をします。 忠信は都道者(みやこどうしゃ)の姿に化して大講堂での衆徒の詮議の様子を窺い、衆徒の中へ分け入って頼朝・義経の和解の噂や義経の武勇などを語って義経追撃の鉾先を鈍らせます。 そこに静が忠信との打合せ通り舞装束で現れ、法楽の舞を舞い、なお義経の忠心や武勇を語ります。衆徒は、義経の武勇を恐れるとともに静の舞のあまりの面白さに時を移し、ついに一人として義経を追う者はなく、義経は無事に落ち延びることができたのでした。」

 この頃の本説付けはほとんど原作そのまんまで、少し変えるということをしていない。
 「いとも静な」はもちろん静御前と掛けている。
 八十五句目。

   いとも静な舞の手くだり
 見かけより気はおとなしき小児にて 宗房

 さて、ここでは静御前のことは忘れて、小児(こちご)を登場させる。稚児ネタはやはりこの頃から芭蕉の得意パターンだったか。
 goo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には小稚児は、

 小さい子供。
 「年十五、六ばかりなる―の、髪唐輪 (からわ) に上げたるが」〈太平記・二〉

とある。満年齢だと十四、十五の少年ということか。
 普段はいかにもやんちゃな男の子でも、舞となると人が変わったように凛々しく舞う。そのギャップ萌えというべきか。
 「おとなし」は「大人し」で大人びてるという意味。
 八十六句目。

   見かけより気はおとなしき小児にて
 机ばなれのしたる文章   一笑

 「机ばなれ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「机とは学習机をさし、書や文章などの完成して一人前になること。」

とある。
 前句の「大人(おとな)し」を舞ではなく書の才能とした。

2018年12月4日火曜日

 今日は十二月とは思えない暖かさだった。風は強いが木枯しではなく春風のようだった。
 温まって蒸発した海水が夜になって冷やされるせいか、夜から朝に掛けて雨が降ることが多い。今も雨が降りだした。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 七十七句目。

   こよと云やりきる浣絹
 一門に逢や病後の花心   一以

 病み上がりで一門の前に顔を見せるということで、洗ったばかりの着物を着る。
 「花心」は正花だが、いわゆる「にせものの花」、比喩としての花になる。
 連歌の式目「応安新式」では花は一座三句者で、その他ににせものの花を一句詠めることになっている。各懐紙に花の定座の習慣が定着しても、おおむねにせものの花一句のルールに従う場合が多い。花の句が同じような句にばかりならないよう変化をつける意味もある。
 七十八句目。

   一門に逢や病後の花心
 かなたこなたの節の振舞  一笑

 この場合の「節(せち)」は正月のこと。前句の花が桜でないので正月でもいい。
 「かなたこなた」ということで、一門はたくさんあり、あちらこちらで一門が集まっている。
 名残の懐紙に入る。
 七十九句目。

   かなたこなたの節の振舞
 とし玉をいたう又々申うけ 蝉吟

 お年玉は今では子供が貰うものになっているが、昔は大人同士の贈答の習慣で、主人や師匠の元に年始参りに土産を持ってゆき、お年玉を貰って帰るものだったようだ。ウィキペディアには、

 「年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。」

とある。
 この句の場合「申し請け」だからお年玉用の大量の扇の発注でも請けたのであろう。それゆえ「かなたこなた」につながる。
 八十句目。

   とし玉をいたう又々申うけ
 師弟のむつみ長く久しき  宗房

 「申しうけ」は単に受け取るという意味もある。weblio辞書の「三省堂大辞林」には、

 ①願い出て引き受ける。受け取る。 「送料は実費を-・けます」 「 - ・けたまへるかひありてあそばしたりな/大鏡 師尹」
 ②お願いする。願い出る。 「義経が-・くる旨にまかせて,頼朝をそむくべきよし庁の御下文をなされ/平家 12」
 ③招待する。 「近日一族衆を-・けて,振舞はうと存ずる/狂言・拾ひ大黒 三百番集本」

とある。
 これは遣り句といって良いだろう。話題を変えたいところだ。
 八十一句目。

   師弟のむつみ長く久しき
 盃はかたじけなしといただきて 一笑

 これは打越の「申し受け」に「いただきて」で、お年玉を酒に変えただけで輪廻気味の句だ。せっかくの芭蕉の遣り句が生きていない。
 八十二句目。

   盃はかたじけなしといただきて
 討死せよと給う腹巻    一以

 これも「いただきて」にまた「給う」で贈答の場面を引きずっている。しかも「討死」は穏やかでない。
 「腹巻」はここでは今日のような防寒用のものではなく武具の腹巻を言う。ウィキペディアには、

 「腹巻は鎌倉時代後期頃に、簡易な鎧である腹当から進化して生じたと考えられている。徒歩戦に適した軽便な構造のため、元々は主として下級の徒歩武士により用いられ、兜や袖などは付属せず、腹巻本体のみで使用される軽武装であった。しかし、南北朝時代頃から徒歩戦が増加するなど戦法が変化すると、その動きやすさから次第に騎乗の上級武士も着用するようになった。その際に、兜や袖・杏葉などを具備して重装化し、同時に威毛の色を増やすなどして上級武士が使うに相応しい華美なものとなった。 南北朝・室町期には胴丸と共に鎧の主流となるが、安土桃山期には当世具足の登場により衰退する。江戸時代になると、装飾用として復古調の腹巻も作られた。」

とある。
 この場合の酒をふるまわれて良い気持ちになっているとそこが罠で、一緒に戦ってくれと腹巻を下賜される。
 芭蕉の死後に許六が去来に、

 「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。‥‥(略)‥‥願はくは高弟、予とともにこころざしを合せて、蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。」

と言っていたのを思い出す。さすがに去来はこの腹巻を断ったが。

2018年12月3日月曜日

 「野は雪に」の巻の続き。
 六十九句目。

   何の風情もなめし斗ぞ
 お宿より所替るが御慰   蝉吟

 「お宿(やど)」は、『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「平生のお住まい」とある。
 「御慰(おなぐさみ)」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」によると、

 「その場に興を添えること。人を楽しませること。座興。 「うまくできましたら-」 「是はやり損ふ事もまゝあるが、首尾よく行くと-になる/吾輩は猫である 漱石」 〔失敗するかもしれないことをにおわせて、皮肉やからかいの気持ちで使うことも多い〕」

とのこと。
 この場合も皮肉の意味で用いている。外泊して何か珍しいものでも出るかと思ったら、どこにでもある菜飯で御慰み。
 七十句目。

   お宿より所替るが御慰
 野山の月にいざとさそえる 一以

 これは皮肉ではなく一興という意味。
 七十一句目。

   野山の月にいざとさそえる
 秋草も薪も暮れてかり仕舞 正好

 秋草はここではススキだろう。茅を刈ったり薪を取ったり野山の仕事も忙しいが、日が暮れれば終了。「かり仕舞」は「仮仕舞」と「刈り仕舞」の両方に掛かる。
 さあ仕事も終わったし、野山は今度は月の出番だよ、というところか。
 七十二句目。

   秋草も薪も暮れてかり仕舞
 肌寒さうに年をおひぬる  一以

 前句を貧しい老人の句とした。「老いる」と掛けているが、「薪」に「おふ(負ふ)」は受けてには。
 七十三句目。

   肌寒さうに年をおひぬる
 川風に遅しと淀の船をめき 一笑

 「をめき」は喚(わめ)きと同じ。船を大声で呼ぶことをいう。風で押し戻されてしまうのか、船がなかなか来なくて、ついつい大声になる。そうでなくとも年を取ると耳が遠いもんだから声が大きくなるものだ。
 七十四句目。

   川風に遅しと淀の船をめき
 久しぶりにて訪妹が許   蝉吟

 大声で船を呼ぶのを女の許(もと)を訪ねるためとする。ついつい気が急いて船が遅く感じられる。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に引用されている、

  思ひかね妹がりゆけば冬の夜の
     河風さむみ千鳥なくなり
               紀貫之(「拾遺集」)

の歌は證歌といっていいだろう。
 七十五句目。

   久しぶりにて訪妹が許
 奉公の隙も余所目の隙とみつ 宗房

 当時は芭蕉も蝉吟のところの奉公人だったが、今みたいな休暇はほとんどなくても仕事の合い間合い間に暇ができたりすることはあっただろう。そういう時には俳諧を楽しんだりもしたか。
 もっともたいていの奉公人は、そんな渋い趣味を楽しむよりは、女の許にせっせと通っていたのではないかと思う。「余所目」は「よそ見」の意味もある。妹というのは浮気の相手か。
 突飛な空想も芭蕉ならではのものだが、こういう妙にリアルなあるあるネタを持ち出すのも芭蕉の持ち味で、豊かな想像力とリアルな感覚の同居が芭蕉の作品に幅を持たせているといっても良いだろう。
 七十六句目。

   奉公の隙も余所目の隙とみつ
 こよと云やりきる浣絹   正好

 「浣絹」は「あらひきぬ」。絹は洗うと縮むので板の上に伸ばした乾かしたり、伸子張りという竹の棒を何本も弓のようにして伸ばしたり、大変だったようだ。

2018年12月2日日曜日

 今日は一日雲って冬らしい寒い一日になった。
 平地も紅葉が見頃になっている。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 六十一句目。

   誰に尋むことのはの道
 まだしらぬ名所おば見に行しやな 一笑

 「行きしやな」は「行っちゃったな」という感じか。師匠は旅に出ちゃったんで誰に和歌のことを尋ねれば良いのか。
 六十二句目。

   まだしらぬ名所おば見に行しやな
 都にますや海辺の月    一以

 海辺(かいへん)の月は松島の月まず心にかかりてというところか。と、それは随分後の芭蕉さんだ。月そのものはどこで見てもそんなに変わるものではないが、周りの景色なら確かに違う。
 六十三句目。

   都にますや海辺の月
 罪無くば露もいとはじ僧住居 正好

 前句の主を都を追われ海辺に隠居する大宮人とする。この場合海辺は須磨・明石の浜辺か。
 自分に罪はないのだから、辺鄙な海辺での僧住居(すまい)も一時のもので、いつか帰れるかもしれない。耐えてみせようというところか。
 「すまい」は月の澄むに掛かるが、須磨にも掛かっているのかもしれない。
 露は粗末な家の草の茂れるに露にまみれるという意味と、「露ほども」という意味との両方を含んでいる。
 六十四句目。

   罪無くば露もいとはじ僧住居
 する殺生もやむはうら盆  蝉吟

 前句の罪の無いお坊さんに対し、罪深き漁師もお盆は殺生をやめるという相対付け(迎え付け)になる。このあたりの蝉吟の技術も確かだ。夭折したのが惜しまれる。
 三の懐紙の裏に入る。
 六十五句目。

   する殺生もやむはうら盆
 竹弓も今は卒塔婆に引替て 宗房

 竹弓を使う猟師の墓参りとする。「弓」に「引」の縁語に一工夫ある。
 六十六句目。

   竹弓も今は卒塔婆に引替て
 甲の名ある鉢やひくらし  正好

 前句の「竹弓」に「ひく」で受けてにはになる。竹弓は卒塔婆に、兜は鉢に、かつて武士だった者の托鉢姿とする。
 六十七句目。

   甲の名ある鉢やひくらし
 焼物にいれて出せる香のもの 一以

 「香のもの」は今日でも「お新香(しんこ)」というように、漬物のこと。托鉢僧にお新香を恵む。
 鉢は確かに焼物だが、料理の焼物にも掛けている。香の物だけでなく焼物も一緒に鉢に入れたか。
 六十八句目。

   焼物にいれて出せる香のもの
 何の風情もなめし斗ぞ   宗房

 「なめし」は「ない」と「菜飯」に掛かる。菜飯は菜っ葉を炊き込んだご飯のこと。
 菜飯というと、芭蕉の終焉の頃の、

 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節

の句も思い出される。ご馳走ではなく看病の時にも作るような普通の食事だったか。
 菜飯にお新香だけでは、確かに何の風情も無いか。

2018年12月1日土曜日

 二度と戦争をしないためにはどうすれば良いか。
 戦争体験を記憶することは必ずしも戦争の抑止力にはならない。むしろ過去の恨みの感情を煽り、人々を復讐心に駆り立てることになれば、却って逆効果になる。
 戦争をなくすにはすべての国が互いに依存し合い、多数派を形成し、少数派に回る国をなくすことだ。孤立した独裁国家をまず何とかしてグローバル資本主義の中に組み込む必要がある。以上、世間話は終り。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 五十五句目。

   涙でくらす旅の留守中
 独り居を思へと文に長くどき 正好

 「口説く」というと、今ではセックスの誘いだが、Weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、

 「①繰り返して言う。くどくどと言う。恨みがましく言う。
  ②(神仏に)繰り返して祈願する。
  ③(異性を自分の意に従わせようとして)しつこく言い寄る。◇近世以降の用法。」

だという。近世の俳諧では一応恋の言葉になる。ただ、この句の場合ニュアンス的には恨み言を長々と語るという古い意味で用いられている。
 独りで旅の留守を預る辛さを切々と訴え、あまり恋の感じはしない。
 「口説く」と「くどくど」は何か関係あるのかと思ったが、「くどくどし」は「くだくだし」から来た言葉で、砕いて細かくするところから、細かいことを言うことを「くだくだし」と言ったようだ。それが後付で「口説く」の意味につられて「くどくどし」になったのかもしれない。
 五十六句目。

   独り居を思へと文に長くどき
 そちとそちとは縁はむすばじ 一笑

 これは②の意味に取り成したか。神様だって余りくどくどと訴えられてもううざいので、臍を曲げてしまった。
 五十七句目。

   そちとそちとは縁はむすばじ
 だてなりしふり分髪は延ぬるや 蝉吟

 「振り分け髪」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、

 「童男童女の髪型の一つ。頭頂から髪を左右に振り分けて垂らし、肩の辺りで切りそろえる。八歳ごろまでの髪型。「振り分け」とも。」

だという。
 振り分け髪は髪の毛を左右に分けるため両側に垂れた髪の毛は離れ離れになり、結ばれることがない。これはそういう洒落で、『伊勢物語』とは直接関係ない。ただ、

 くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ
     君ならずしてたれかあぐべき

の歌は、「振り分け髪」という雅語の證歌にはなる。
 五十八句目。

   だてなりしふり分髪は延ぬるや
 俤にたつかのうしろつき  宗房

 これは幽霊だろうか。こういう突飛な空想が芭蕉らしい。
 五十九句目。

   俤にたつかのうしろつき
 したへども老かがみしは身まかりて 一以

 「振り分け髪」は童女だったが、ここでは老婆の幽霊とする。
 六十句目。

   したへども老かがみしは身まかりて
 誰に尋むことのはの道   正好

 老いた師匠も今は身罷って、誰に和歌の指導をしてもらえば良いものか。
 ほんの一瞬、これが貞徳追善の興行だということを思い出させてくれる。

2018年11月30日金曜日

 この前は「恥」について考えたから、今日は「罪」について考えてみようか。
 人間が高度な知能を持つに至り、寝込みを襲ったり飛び道具を使ったり集団で襲い掛かったりして非力なものでも勝てるチャンスが出てくると、単純に腕力でもって順位を付けることが困難になり、最終的には多数派工作の勝負となっていった。
 ここで人間は多数派工作のために仲間を気遣い、積極的に利他行動を取るようになった。もちろん「情けは人のためならず」という諺のとおり、それは結局自分のためでもあった。
 ただ、良かれと思ったことでも結果的には人を傷つけてしまうこともある。そういうときに「あいつには悪いことをしてしまった」と反省する。おそらくそこから罪の意識というのは生じたのだろう。
 恥と違うのは、漠然とした集団からの排除に対する不安ではなく、明確に誰かに対して悪いことをし、「そりゃああいつだって怒るよな」と、仲間にするはずが敵になってしまうのではないかという不安から来るのが罪の意識だった。
 そしてそれを防ぐために自分に対して不利益になるようなことをわざと行い、バランスを取るのが罰の起源ではないかと思う。
 それがやがて社会の中で暗黙の掟となり、罪の意識や自分を罰する行為に留まらず、社会の方から罪を糾弾し、罰則を与え、償いを要求するようになる。それが明文化された法律となったとき、犯罪と刑罰と損害補償に発展する。
 そしてさらにその法律に神聖かつ絶対的な権威を持たせるために、一神教の罪の概念が形成されていったのではないかと思う。
 恥や原始的な罪の意識と違い、いわゆる罪というのは社会の掟と密接に結びつき、それに対する罰や償いを伴う。
 日本にも掟や法律がなかったわけではないが、法律を宗教的な神聖なものとするのではなく、むしろ法律で何もかも杓子定規に規定することを嫌い、恥をもって情状酌量の余地を残す方向に進化したことが「恥の文化」と言われる所以なのではないかと思う。
 このことが西洋の「人権」の文化と日本の「人情」の文化との分岐点になっていると思う。

 さて、余談はこれくらいにして「野は雪に」の巻に続きと行こう。
 三の懐紙の表に入る。
 五十一句目。

   覆詠も古き神前
 春の夜の御灯ちらちらちらめきて 一笑

 神社の場面なので神前に灯る火を付ける。「ちらちらちら」というオノマトペの使用は蕉門の軽みの風にしばしば現れ、やがては惟然の超軽みでも用いられてゆくが、散発的には貞門の時代にもあった。
 五十二句目。

   春の夜の御灯ちらちらちらめきて
 北斗を祭る儀式殊勝や   一以

 「御灯(ごとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 神仏・貴人などの前にともす灯火。みあかし。
  2 陰暦3月3日と9月3日に天皇が北辰(北極星)に灯火をささげる儀
式。また、その灯火。みとう。
 「三月には三日の御節句、―、曲水の宴」〈太平記・二四〉」

とある。そのまんまの意味。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「御灯には陰暦三月三日に天子が北斗星に御灯を捧げるの意があるが、それに拠る付けではなく、ここでは普通の御灯として北斗をつけた。」

とあるが、なぜそれに拠る付けではないのか説明されてない。不可解な注だ。
 五十三句目。

   北斗を祭る儀式殊勝や
 出し初る船の行衛を気遣れ 宗房

 北斗七星のうちの五つの星は、日本では船星と呼ばれていた。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「夏空の北斗七星のうち,α星とβ星を除いた5つの星を船に見立てた和名。北斗七星全体をさす地方もある。」

とある。
 だが、実際に進水式の時に北斗を祭る習慣があったのかどうかは定かでない。
 余談だが、我国の天皇は道教の天皇大帝から来たという説があり、天皇大帝は北辰の神であり、すべての星がこの周りを回る天の中心の神だった。
 ただ、古代の北辰は今日の北極星のことではない。天の北極は長い年月を経て位置が変わっていて、紀元前にはこぐま座のβ星に近かったという。さらに五千年前ともなるとりゅう座のα星のあたりが天の北極だったという。
 北斗はこの天の北極を回る沈まない星、つまり周極星として信仰されるようになった。コトバンクの「北斗信仰」の項の「世界大百科事典内の北斗信仰の言及」には、

 「《史記》天官書などの記述によると,北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は天上世界の宮廷に当てられて紫宮,紫微宮とよばれ,漢代には都の南東郊の太一祠においてしばしば太一神の祭祀が行われた。その後,讖緯(しんい)思想(讖緯説)の盛行につれて,後漢ころには北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は耀魄宝(ようはくほう)と呼ばれ群霊を統御する最高神とされた。これをうけた道教では,北辰の神号を北極大帝,北極紫微大帝もしくは北極玄天上帝などと称し,最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどる神として尊崇した。」

とある。
 なおウィキペディアによると、天皇という称号は中国にもあったという。

 「中国の唐の高宗は「天皇」と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。」

 韓国では天皇のことを日王と呼ぶが、これだとかつて征夷大将軍に対して中国から送られた「日本国王」の称号と紛らわしい。
 五十四句目。

   出し初る船の行衛を気遣れ
 涙でくらす旅の留守中   蝉吟

 船の行衛を気遣うとなれば、旅人の留守を預る家族の情となる。

2018年11月28日水曜日

 日本は恥の文化だというが、そういえば以前こんな文章を書いたことがあった。

 「恥というのは本来は危険に対して回避を促す反応である。動悸や赤面や体の震えなどの身体的な変化も、本来は危機を回避するためのものだった。
 ただ、順位制社会においては、危険は毒蛇や猛獣などの外敵であったり、内部的には自分より強い個体であったり、対象がはっきり特定しやすい。これに対し、出る杭は打たれる状態に陥った人類の祖先にとって、人間関係の中で、不特定多数の他者が結束して襲ってくるかもしれないというものが重要となる。しかし、これは具体的に誰と誰がというふうに特定しにくく、あくまで想像上の漠然とした危険となる。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応として、人間独自の恥の意識が生じる。
 恥というのは基本的には所属する人間関係からの排除の恐怖であり、必ずしも倫理的に善であるとは限らない。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ったり、奉仕活動で道端のゴミを拾うような、明らかな善行であっても、実際にはそこに気恥ずかしさをともなう場合が多い。これに対し、実際には悪いことであっても、みんながやっていることについては、それほど恥の意識はない。
 恥ずかしさは、善か悪かにかかわらず、みんなとちがうことをやっているのではないかという不安から生じる。」

 これに対し「罪」は掟に反することによって具体的に制裁を受けることをいう。
 日本ではよく、海外に行ったら簡単に謝ってはいけないという。また外交関係でも謝罪はかなり慎重になる。それは恥のような漠然とした排除への不安ではなく、賠償や制裁のような具体的な反応を引き起こすと考えているからだ。
 日本は多神教文化のせいか、一人一人の考え方や立場、価値観の違いを当然のものと考え、神道も「罪」に関する厳格な教義を持たない。神に対する罪というのは存在せず、ただ様々な価値観を持つ人間に対してそれぞれの罪があるにすぎない。

 余談が長くなったが、そろそろ「野は雪に」の巻の続きといこうか。
 四十七句目。

   おく山とある歌の身にしむ
 いろはおばらむうゐのより習初 一以

 前句の「おく山とある歌」をいろは歌の「我が世誰ぞ常ならむ有為(うゐ)の奥山今日越えて」とし、子供が「らむうゐの」と順番に練習して行き、「おくやま」と続く。
 四十八句目。

   いろはおばらむうゐのより習初
 わるさもやみし閨の稚ひ   宗房

 「閨」は寝る屋で寝室のこと。「稚ひ」は「おさあい」と読む。
 「いろは」を習い始めた子供はいたずら盛りで、それがようやく止むとぐっすり眠っている。ほほえましい情景だ。芭蕉にもそんな時代があったか。
 四十九句目。

   わるさもやみし閨の稚ひ
 花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり 蝉吟

 二裏の花の定座は蝉吟が務める。眠る子に「目もゆるうなり」と、これも一種の「掛けてには」といえようか。
 「花垣」は花の咲く垣根のことで、正花ではあっても桜ではない。
 蝉吟は十八句目の「おれにすすきのいとしいぞのふ」といい、二十三句目の「よろつかぬほどにささおものましませ」といい、こういう口語的な表現を好んだようだ。
 談林の流行も突然始まったものではなく、貞門の内部でもこういう小唄や謡曲の調子を取り入れるのは、既に流行していたのかもしれない。蝉吟もこの頃まだ二十四で若く、流行には敏感だったのだろう。
 五十句目。

   花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり
 覆詠も古き神前       正好

 覆詠(かへりまうし)はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には、

 「1 使者が帰ってきて返事や報告をすること。また、その内容。復命。
 「長奉送使 (ちゃうぶそうし) にてまかり下りて、―の暁」〈続古今・離別・詞書〉
 2 神仏へ祈願のお礼参りをすること。報賽 (ほうさい) 。願ほどき。返り詣 (もう) で。
 「心一つに、多くの願を立て侍りし。その―、たひらかに」〈源・若菜上〉

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「県召の除目の御礼参り」とあり、春の季語としている。
 ウィキペディアには、

「春の除目
 諸国の国司など地方官である外官を任命した。毎年、正月11日からの三夜、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行った。任命は位の低い官から始まり日を追って高官に進むのが順序であった。天皇の御料地である県の官人を任す意味から、県召の除目(あがためしのじもく)ともいい、中央官以外の官を任じるから、外官の除目ともいう。」

とある。

2018年11月27日火曜日

 「野は雪に」の巻、続き。
 四十一句目。

   大ぶくの爐にくぶる薫
 佐保姫と言ん姫御の身だしなみ 蝉吟

 前句の「くぶる薫(たきもの)」を「大ぶくの爐」に染み付いた香りではなく、姫君の衣の薫物とする。春三句目だから春の季語になる佐保姫を出す。
 四十二句目。

   佐保姫と言ん姫御の身だしなみ
 青柳腰ゆふ柳髪       一以

 その姫君の姿を付ける。柳腰と青柳を掛け、それに柳髪を加える柳尽くしの女性だ。
 四十三句目。

   青柳腰ゆふ柳髪
 待あぐみ松吹風もなつかしや 宗房

 柳といえば風。松は当然ながら待つに掛かる。「なつかし」は心引かれるという昔の意味で「なつく」から来ている。
 四十四句目。

   待あぐみ松吹風もなつかしや
 因幡の月に来むと約束    一笑

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる
     まつとし聞かば今帰り来む
               中納言行平

を本歌とする。「約束」という言葉が俳言になる。謡曲『松風』では松風・村雨の二人の姉妹を残し結局帰ってこなかった。
 四十五句目。

   因幡の月に来むと約束
 鹿の音をあはれなものと聞及び 正好

 因幡は稲葉に通じる。

 山里の稲葉の風に寝覚めして
     夜深く鹿の声を聞くかな
               中宮大夫師忠(新古今集)
 旅寝して暁がたの鹿の音に
     稲葉おしなみ秋風ぞ吹く
               大納言経信(新古今集)

などの歌がある。
 四十六句目。

   鹿の音をあはれなものと聞及び
 おく山とある歌の身にしむ   蝉吟

 「おく山とある歌」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
     声聞く時ぞ秋は悲しき
               猿丸大夫

の歌を指す。
 前句の「聞及び」を実際に聞いたのではなく人の話に聞いたものとし、実際に奥山にいるわけではないけど、あの歌が身に染みるとしたか。

2018年11月26日月曜日

 何かこの頃仕事が変り、疲れたところで書いていたから、いつの間にか二と三を書き間違えていた。とりあえず訂正した。
 それでは四十三ではなく三十三句目から、「野は雪に」の巻の続き。
 三十三句目。

   未だ夜深きにひとり旅人
 よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟

 十八句目の小唄調に続いて、ここでも芝居か何かの台詞のような口語っぽい文体で作っている。全部平仮名だとわかりにくいが「よろつかぬ程に酒(ささ)をも飲ましませ」。
 前句の「ひとり旅人」を旅立つ夫として、妻が草鞋酒を汲んで見送るというところか。
 「草鞋酒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「旅立ちの際に、わらじをはいたまま飲む酒。別れに際しての酒盛り。」とある。
 三十四句目。

   よろつかぬほどにささおものましませ
 市につづくは細ひかけはし   一笑

 打越の旅体を離れ、ただ市場から来た人に酒をふるまったとする。
 三十五句目。

   市につづくは細ひかけはし
 堀際へ後陣の勢はおしよせて  一以

 これは大名行列の先陣・後陣だろうか。大きな町にはいくつもの堀がめぐらされてたりするが、そこから市場へとかかる橋が細いので、後陣の列はなかなか入れなくて立ち往生する。
 三十六句目。

   堀際へ後陣の勢はおしよせて
 息きれたるを乗替の馬     蝉吟

 江戸時代の馬は宿場から隣の宿場までを往復するもので、宿場に着くたびに馬を乗り換えなくてはならなかった。後陣の勢も息を切らしてたどり着いたところで次の馬に乗換えとなる。
 二裏に入る。
 三十七句目。

   息きれたるを乗替の馬
 早使ありと呼はる宿々に   正好

 馬を乗り換える旅人を早使いとした。いまひとつ展開に乏しく、宿場の風景から脱却できない。
 三十八句目。

   早使ありと呼はる宿々に
 とけぬやうにと氷ささぐる  宗房

 ウィキペディアによれば、「江戸時代には、毎年6月1日(旧暦)に合わせて加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあった。」という。
 前句の「早使」を氷を献上する使者とする。
 三十九句目。

   とけぬやうにと氷ささぐる
 あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて 一笑

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「前句の『氷ささぐる』を氷様(ヒノタメシ)に見なす。」とある。
 コトバンクの「氷様奏(ひのためしのそう)」の所の「世界大百科事典内の氷様奏の言及」によれば、

 「…律令制下では政府管掌の氷室が置かれ,その氷は宮廷内での飲用と冷蔵用にあてられた。また,毎年正月元日には〈氷様奏(ひのためしのそう)〉といって,その冬収納した氷の厚薄を奏聞する儀式が行われていた。清少納言が《枕草子》の中で,〈削り氷にあまづら(甘葛)入れて,あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる〉と,いまでいえば砂糖のシロップをかけただけの“みぞれ”などと呼ぶかき氷に近いものを,高貴で優美なものとして〈あてなるもの〉の一つに数えているのも,氷がきわめて貴重なものだったことを物語る。…」

だという。
 四十句目。

   あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて
 大ぶくの爐にくぶる薫    正好

 「大ぶく」はおおぶくちゃ(大服茶・大福茶)のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「元日に若水でたてた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒さんしようなどを入れて飲む。一年中の悪気を払うという。福茶。 [季] 新年。」

とある。

2018年11月24日土曜日

 1970年の大阪万博の時にはまだ小学生だったか。左翼の家庭はこうした華やかな行事には大概否定的で、この年京都観光はしたが大阪までは行かなかった。
 あの頃は万博そのものが日本人にとって初めての経験で、大行列をしてはいろいろと大騒ぎしたが、あのあと何とか博というのがいくつもあって物珍しさもなくなり、今度の大阪万博もあの時のようには盛り上がらないかもしれない。
 前の万博は大企業中心だったが、もっと中小企業の隠れた技術や様々なオタク文化を紹介してゆくと面白いのではないかと思う。それが日本の底力でもある。

 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 二十七句目。

   湯婆の湯もや更てぬるぬる
 例ならでおよるのものを引重ね 正好

 「例ならず」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  いつもと違う。珍しい。 「この女、-・ぬけしきを見て/宇津保 嵯峨院」
 ②  体がふつうの状態ではない。病気や妊娠をいう。 「 - ・ぬ心地出できたり/平家 6」

とある。
 「およる」は、weblio辞書の「三省堂大辞林」には、「その人を敬って寝ることをいう語。おやすみ。」とある。
 病気といってもそんなに深刻なものではなく、いつもとやや違う、何かおかしいくらいの状態を「例ならで」というのであろう。
 『源氏物語』桐壺巻の「いとあつしくなりゆきもの心ぼそげにさとがちなるを」の所の古註に「異例」とあるのも、重病というほどではなく、傍から見て様子が違うというような意味なのだろう。「もの心ぼそげ」も気に病んだ状態、今でいえばノイローゼのような精神的なもので、里へ引き籠りがちになったというニュアンスと思われる。
 深刻なものではないから、夜着を着重ねても、湯たんぽの湯は夜更けにはぬるぬるになってもただ寒いというだけでそれほど問題ない。
 二十八句目。

   例ならでおよるのものを引重ね
 あふも心のさはぐ恋風     蝉吟

 何となくいつもと様子が違うのは、病は病でも恋の病だとする。
 二十九句目。

   あふも心のさはぐ恋風
 恨あれば真葛がはらり露泪   一笑

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注で、

   百首歌を奉ったとき詠んだ歌
 わが恋は松を時雨の染めかねて
     真葛が原に風さわぐなり
              前大僧正慈円

の歌を引いている。
 その「真葛が原」に「はらり」と落ちる泪を掛詞にするのだが、「はら」と「はらり」は意味の融合が不十分で半ば駄洒落になり、それが俳諧らしい笑いとなる。
 「恨み」も葛の葉の「裏見」に掛かっているが、こちらは、

   題しらず
 嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は
     恨みてのみや妻を恋ふらむ
              俊恵法師

の頃からの伝統的な掛詞で、笑いには結びつかない。
 三十句目。

   恨あれば真葛がはらり露泪
 秋によしのの山のとんせい   一以

 吉野葛の縁で吉野に展開するが、花のない秋の句なので、山の遁世となる。西行の俤もあるが、物でも付いているので俤付けではない。
 三十一句目。

   秋によしのの山のとんせい
 在明の影法師のみ友として   宗房

 「影法師」はフォントが見つからないでこの字にしたが、魍魎の鬼のないような字になっている。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 朝ぼらけ有明の月とみるまでに
     吉野の里にふれる白雪
              坂上是則(古今集)

の歌が「吉野」と「有明」が付け合いになる證歌となっている。
 李白の「月下独酌」に、

 挙杯邀明月 対影成三人
 盃を挙げて月を客として迎え、影と対座して三人となる。の句があり、「影法師」はそのイメージと思われる。
 芭蕉の後に『冬の日』の「狂句こがらし」の巻でも、

   きえぬそとばにすごすごとなく
 影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉

の句を詠んでいる。吉野の遁世に有明の影法師が出典にべったりと付いているのに対し、「消えぬ卒塔婆」の「暁」に火を焚いた「影法」は蕉風確立期の古典回帰とはいえ、出典とは違う独立した趣向を生み出している。
 三十二句目。

   在明の影法師のみ友として
 未だ夜深きにひとり旅人    正好

 朝未明の旅立ちは杜牧の『早行』を思わせる。
 ただ、『早行』とは違って一人旅立つ旅人には、有明の月の落とす影が唯一の友となる。

2018年11月23日金曜日

 今日は谷中のあたりを散歩した。谷中ビールを飲んで、夕焼けだんだんや諏訪神社など、子供の頃の思い出のある場所をめぐった。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。

 二十一句目。

   鞠場にうすき月のかたはれ
 東山の色よき花にやれ車    一笑

 鞠場ということで王朝時代のイメージを引き継いだまま花の定座になる。
 京都東山の桜に牛車ということになるが、破(や)れ車ということで変化をつけている。後の芭蕉なら「さび色があらわれている」と言う所だろう。
 ネットで「やれ車」を調べたら、今でも中古車業界では車の劣化を表わすのに「ヤレ」という言葉を使っているようだ。
 二十二句目。

   東山の色よき花にやれ車
 春もしたえる茸狩の跡     一以

 「茸狩」は秋のものだが、跡なので秋に茸狩りをした思い出を慕ってということだろう。没落貴族だろうか。
 二十三句目。

   春もしたえる茸狩の跡
 とゝの子を残る雪間に尋ぬらし 蝉吟

 「とゝの子」は意味不明。父親の「とと」にしても魚の「とと」にしても意味がわからない。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「『とらの子』の誤写か。前句の茸狩を竹林の狩として、とらの子をつけた。」

としているが、これも何かしっくりこない。竹林に茸というのはあまり聞かないし、何でわざわざ虎の子を尋ねてゆくかもわからない。比喩としての「虎の子」ならまだわかるが。
 『校本芭蕉全集 第三巻』には原本の書体がまぎらわしいため、全文の摸刻が掲載されている。それを見ると、たしかに「と」のような文字のしたにチョンとしてあるように見える。「之」にも似ている。
 あるいは前句の「たけ」を「竹」と取り成し、之の子を雪間に尋ねるとしたのかもしれない。ならば孟宗の「雪中の筍」の故事になる。植物は三句続けることができないので「竹」は出せない。
 二十四句目。

   とゝの子を残る雪間に尋ぬらし
 なつかで猫の外面にぞ啼    宗房

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「前句の『とらの子』を虎猫とした。」とある。
 「之の子」だとすれば、猫が自分の子供の所へ行き、外で啼いているとなる。
 二十五句目。

   なつかで猫の外面にぞ啼
 埋火もきへて寒けき隠居処に  一以

 猫といえば火燵。だが、ここでは「埋火(うづみび)」。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説には、

 「炉や火鉢などの灰にうずめた炭火。いけ火。《季 冬》「―もきゆやなみだの烹(にゆ)る音/芭蕉」」

とある。その上にやぐらを組んで布団を載せたものが火燵(こたつ)になる。
 火が消えて寒いから猫が寄ってこないというのは、やや理に走った感がある。
 二十六句目。

   埋火もきへて寒けき隠居処に
 湯婆の湯もや更てぬるぬる   一笑

 湯婆(たんぼ)は湯たんぽのこと。ゆばーばではない。
 生活感があり、「軽み」のようでもあるが、何のひねりもないところがやはりこの時代の風か。

2018年11月21日水曜日

 日本では何か問題を起すとすぐに記者会見があり、必ずそこで謝罪する。時には一列に並んで集団で土下座をすることもあり、外国人にはさぞかし奇妙な光景だろう。
 日本人がすぐに謝るのは怒りを静めるためで、必ずしも罪を認めたからではない。
 昔ルース・ベネディクトという人が西洋が罪の文化なのに対して日本は恥の文化だと言ったが、謝罪に関しては当たっているかもしれない。日本人の謝罪は罪を認めるのではなく、頭を下げるという恥を示すことで、相手に酌量を求める行為なのである。
 フランス人のゴーンさんの謝罪会見は今のところなく、むしろ告発した西川社長の方が謝罪している。hinomaruの唄で物議を醸した野田洋次郎さんも謝罪したし、シリアから帰ってきた安田純平さんも自己責任を認めて謝罪した。BTSも謝罪したが、これも日本の習慣に倣ったか。
 まあ、小生だってポリコレ棒で叩かれたならすぐに謝っちゃうからね。それが日本の文化だ。

 まあ、それはともかく、「野は雪に」の巻の続き。
 十五句目。

   きけば四十にはやならせらる
 まどはれな実の道や恋の道   正好

 これは「咎めてには」で連歌の頃からの付け方。
 『論語』の「四十にして惑わず」だが、色恋に迷うなという説教ではなく、逆に恋の道こそ「実(まこと)の道」だと説く。やまと歌は色好みの道、惑うべからず。
 十六句目。

   まどはれな実の道や恋の道
 ならで通へば無性闇世     宗房

 「無性(むしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 
 「[名]仏語。
 1 《「無自性」の略》実体のないこと。
 2 《「無仏性」の略》仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの。⇔有性(うしょう)。
 [名・形動ナリ]分別のないこと。理性のないこと。また、そのさま。「朝精進をして、昼からは―になって」〈浮・三所世帯〉」

とある。今日では「無性に」という形以外はほとんど用いられない。激しい衝動に突き動かされるという意味で、「無性にラーメンが食べたくなる」とかいうふうに使う。
 相手がその気がないのに一方的に衝動に突き動かされて通い続ければ、それこそ今でいうストーカーだ。まさに「闇の世」。まどうなかれ。
 十七句目。

   ならで通へば無性闇世
 切指の一寸さきも惜しからず  一以

 「一寸先は闇」という諺があるように、闇に一寸が付く。
 日本では指を切るのは忠誠の証で、江戸時代には女性が忠誠を示すために指を切って贈ったり、男の方が不倫を疑って指を切らせることがあったようだ。
 あるいは達磨に弟子入りしようとした慧可(えか)が、「自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている(雪中断臂)。」(ウィキペディアより引用:ちゃんと書いておかないと百田尚樹になっちゃうからね)から来ているのかもしれない。雪舟の絵にも「慧可断臂図」がある。
 まあ、恋の指詰めはやくざの指詰めと一緒で、堅気の人間のする事ではない。遊郭の恋は闇の世だ。
 十八句目。

   切指の一寸さきも惜しからず
 おれにすすきのいとしいぞのふ 蝉吟

 これもウィキペディアの引用になるが、「おれ」という一人称は、

 「「おれ」は「おら」の転訛で、鎌倉時代以前は二人称として使われたが次第に一人称に移行し、江戸時代には貴賎男女を問わず幅広く使われた。」

とあるように昔は男とは限らなかった。
 この場合も女性であろう。やはり女郎だろうか。自らを風にそよぐか細いススキの糸に喩え、「いとしい」と掛詞にするが、全体が小唄調にできている。このあたりに蝉吟の技が感じられる。
 十九句目。

   おれにすすきのいとしいぞのふ
 七夕は夕邊の雨にあはぬかも  宗房

 ススキが出て秋に転じたことで、七夕の恋の句にする。
 恋の句はこれで五句続いたが、連歌の「応安新式」では恋は五句まで続けて良いことになっている。まさに大和歌は色好みの道、恋は連歌の花ということで、ここでもその伝統は守られていた。
 今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。
 語尾の「かも」は「けやも」の転じたもので、『万葉集』ではよく使われる。「かな」に近い。名古屋弁では「きゃーも」という形で残っている。
 二十句目。

   七夕は夕邊の雨にあはぬかも
 鞠場にうすき月のかたはれ   正好

 「かも」という古風な語尾に引かれたのか、蹴鞠場である「鞠場」を出す。またしてもウィキペディアの引用になるが、「貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。」とある。
 七夕の文月七日の月は半月なので、「月のかたはれ」となる。

2018年11月20日火曜日

 「野は雪に」の巻の続き。初裏に入る。
 九句目。

   景よき方にのぶる絵むしろ
 道すじを登りて峰にさか向     一笑

 「さか向(むかへ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」によれば、

 「平安時代,現地に赴任した国司を現地官が国堺まで出迎えて行った対面儀礼。《将門(しょうもん)記》に常陸(ひたち)国の藤氏が平将門(まさかど)を坂迎えして大饗したとみえる。新しい支配者を出迎えてもてなした行為に由来し,堺迎・坂向とも書く。また中世伊勢参詣などからの帰郷者を村堺まで出迎えて共同飲食した行為を,坂迎えといい,酒迎とも記した。」

だという。
 「景よき方」に「峰」、「絵むしろ」の「坂迎え」と四つ手に付く。
 十句目。

   道すじを登りて峰にさか向
 案内しりつつ責る山城      正好

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「『さか向』を『逆向へ』(下から上に向って攻める意)に取りなし、山城(山上の城)を攻める意とした。」

とある。特に異論はない。
 十一句目。

   案内しりつつ責る山城
 あれこそは鬼の崖と目を付て   宗房

 「崖」は「いわや」と読む。前句の「山城」を鬼の岩屋に見立てるわけだが、これは物付けではなく意(こころ)付けになる。江戸後期の解説書なら「二句一章」というところだろう。
 それにしても「鬼の岩屋」とは御伽草子のような空想趣味で、後の次韻調に繋がるものかもしれない。奇抜な空想とリアルな現実が同居するのが芭蕉だ。
 十二句目。

   あれこそは鬼の崖と目を付て
 我大君の国とよむ哥       一以

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「謡曲・大江山『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の住家なるべし』。

とある。
 『太平記』巻第十六に、

 「又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、『さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。』とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。」

とあるのが出典か。
 本説付けだが、後の蕉門の本説付けのようにほんの少し変えるというのをやってなくて、そのまま付けている。このころはそれで良かったのだろう。
 十三句目。

   我大君の国とよむ哥
 祝ひとおぼす御賀の催しに   蝉吟

 「祝ひ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、「『む』の誤写。「いははむ」と読む」とある。
 「賀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 「①祝い。
  ②長寿の祝い。賀の祝い。
 参考②は、四十歳から十年ごとに「四十の賀」「五十の賀」などと祝った習慣で、平安貴族の間で盛んに行われた。室町時代以後は、「還暦」「古稀(こき)」「喜寿」「米寿」「白寿」などを祝った。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「天皇の四十歳以後十年毎に年寿を祝うこと。」

とある。前句の「我大君」と合わせて、御賀は天皇の賀ということになる。
 お祝いの時に謡う和歌といえばやはり、『古今集』巻七の、

 わが君は千代に八千代にさざれ石の
     いはほとなりて苔のむすまで
              よみ人しらず

だろうか。
 十四句目。

   祝ひとおぼす御賀の催しに
 きけば四十にはやならせらる  一笑

 「御賀」に「四十(よそじ)」と付く。御賀の説明をしただけであまり発展性はないが、貞門時代はこれで良しとしたようだ。

2018年11月18日日曜日

 今日は映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見た。映画が終ってスタッフロールになったとき、何だかわからないが涙がぼろぼろこぼれてきた。何か映画で泣くのは久しぶりだった。
 クイーンがブレイクした頃の74年、75年ごろは日本ではオレンジ・ペコ、ドゥティードール、ハリマオといったアイドルっぽいバンドが出てきた頃で、何となくクイーンはそれに重なってしまう。
 75年にクイーンが来日した時の熱狂はそういう下地があってのことだったのだろう。ブライアン・メイは後になって「僕たちは突然ビートルズになった」と言ったとか。
 曲のほうのボヘミアン・ラプソディはシリアスに始まるが、途中からのあの合唱部分に入って「ガリレオ」だとか意味のない言葉を入れるあたりが俳諧を感じさせる。どうしようもない暗い歌でありながらそれを笑いに転じて救いを持たせているように思える。
 ハリマオの「ジョニーは戦場へいった」もあの頃の日本では画期的だったが、やはりクイーンは格が違っていた。

 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 四句目。

   飼狗のごとく手馴し年を経て
 兀たはりこも捨ぬわらはべ    一笑

 兀は「はげ」。犬張子はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「犬の形姿を模した紙製の置物。古くは御伽犬(おとぎいぬ),宿直犬(とのいいぬ),犬筥(いぬばこ)ともいった。室町時代以降,公家や武家の間では,出産にあたって産室に御伽犬または犬筥といって筥形の張子の犬を置いて,出産の守りとする風があった。はじめは筥形で中に守札などを入れ,顔も小児に似せたものであった。庶民の間には江戸時代後期に普及したらしく,嫁入道具の一つに加えられ,雛壇にも飾られた。犬張子を産の守りとする風は,犬が多産でお産が軽い動物と信じられ,かつ邪霊や魔をはらう呪力があると信じられたからであろう。」

という。この頃の犬張子は今のものとはやや違うようだ。
 「犬筥」で検索すると今のものや江戸時代後期のものは出てくるが、あまり古いものは残ってないようだ。本来は役目を終えたら神社に奉納するものだったのか。
 ただ子供の遊び道具になってしまったものもあって、古くなるとあちこと禿げてきて、それでも子供心になかなか手放せない。
 犬張子はまだ庶民のものではなく上流の習慣だったことで、「俗」ではなく「雅」とされていて、貞門の俳諧にふさわしい題材だったと思われる。
 五句目。

   兀たはりこも捨ぬわらはべ
 けうあるともてはやしけり雛迄  一以

 前句の張子は犬張子から切り離して只の張子とし、「わらはべ」から「雛(ひひな)」へと展開する。三月三日のひな祭り、春の句となる。
 当時は上流階級では寛永雛という小さな小袖姿の雛人形があったが、庶民の間に紙製の立ち人形が広まるのはもう少し後で、元禄二年に、

 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉

の句があるように、この頃でもそれこそ「時代が変わったな」と感じるほど画期的だったのではないかと思われる。
 古くなった張子は、あるいは流し雛のときに一緒に流したのかもしれない。
 六句目。

   けうあるともてはやしけり雛迄
 月のくれまで汲むももの酒    宗房

 ここでようやく芭蕉の登場となる。次が執筆だから末席といっていいだろう。
 「桃の酒」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[蘇頌図経]太清本草本方に云、酒に桃花を漬してこれを飲は、百病を除き、顔色を益す。[千金方]三月三日、桃花一斗一升をとり、井花水三升、麹六升、これを以て好く炊て酒に漬し、これを飲めば太(はなはだ)よろし。○御酒古草、御酒に入るる桃也。」

とある。
 晴の舞台に引き出された当時数え二十二歳の芭蕉さん。かなり緊張もあったのだろう。春の句になったところでためらわずに定座を引き上げて月を出すところは堂々としている。ただ、「まで」を重ねてしまったところは若さか。
 七句目。

   月のくれまで汲むももの酒
 長閑なる仙の遊にしくはあらじ  執筆

 桃の酒は不老不死の仙薬ということで仙人を登場させる。「しく」は及ぶということ。仙人の遊びに及ぶものはない。
 八句目。

   長閑なる仙の遊にしくはあらじ
 景よき方にのぶる絵むしろ     蝉吟

 さて一巡して蝉吟に戻ってくる。
 「しく」に「絵むしろ」は連歌でいう「かけてには」になる。こういう古風な付け方も貞門ならではだろう。

2018年11月16日金曜日

 ダライ・ラマさん、いつの間にか日本に来てたようだ。ウイグルのこともあるしチベットは大丈夫なのか。
 まあ、それはともかく、今日はよく晴れていたが、夕方には雲が多くなり、半月は朧だった。
 では「野は雪に」の巻の続き。
 さて、次は季吟の脇を見てみよう。

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

 鷹は冬の季語で、飼われている鷹は人に餌をねだる時に甲高い大きな声で餌鳴きする。「鳴く」と師匠の「亡き跡」を掛けている。
 芭蕉も後に『奥の細道』の旅で、加賀の一笑の死を知らされ、

 塚も動け我が泣く声は秋の風   芭蕉

と詠んでいる。昔の日本人は韓国人のように大声で泣いたようだ。そう思うと、鷹の餌鳴きも「アイゴー」と言っているように聞こえる。
 雪の野に鷹というと、

 ふる雪に行方も見えずはし鷹の
     尾ぶさの鈴のおとばかりして
             隆源法師(千載和歌集)
 空に立つ鳥だにみえぬ雪もよに
     すずろに鷹をすゑてけるかな
             和泉式部(和泉式部集)

など、古歌に雪の鷹狩りを詠む歌は幾つもある。それゆえ雪と鷹は付き物で、あえて證歌を引くまでもない。
 それでは第三。ここからが実質的な興行の始まりで、即興のやり取りになる。

   鷹の餌ごひに音おばなき跡
 飼狗のごとく手馴し年を経て   正好

 第三は発句の師恩の情を離れて展開する。とはいえ脇の鷹の餌乞いの声と「なき跡」の掛詞だと、追悼の意は去りがたい。そのため「飼狗のごとく手馴し」と育てられた鷹の気持ちになって、鷹の主人を失った悲しみに泣くとする。苦しい展開と言えなくもない。
 鷹狩りに猟犬は付き物だが、證歌はというとよくわからない。
 『万葉集』巻七、一二八九には、

 垣越ゆる犬呼び越して鳥猟する君
 青山のしげき山べに馬息め君

の旋頭歌もある。
 コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「初見は『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇の43年(359)9月、百済(くだら)から伝えられたといわれている。しかし、鷹は元来、わが国に生息したものであり、その飼養の最初は応神(おうじん)天皇のときという説もある。令(りょう)制では兵部省のもとに主鷹司(しゅようし)が置かれ、「鷹犬調習せむ事」とあり、のち民部省に移し放鷹司と改称された。仏教思想の影響もあって、禁止令も多く出たが、奈良・平安時代にたいへん盛んになり、嵯峨(さが)天皇は儀式典礼に関心が深かったためもあって、『新修鷹経(ようきょう)』を撰(せん)し、君主の娯楽であることを明確にした。仁明(にんみょう)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)、宇多(うだ)、醍醐(だいご)天皇等々、平安時代の天皇はこれを好み、北野、交野(かたの)、宇多野を天皇の狩場と定めた。『源氏物語』藤裏葉(ふじのうらば)巻にも「蔵人所(くろうどどころ)の鷹かひの北野に狩つかうまつれる」とあるように、のちには蔵人所のもとに鷹飼(たかがい)の職制を定められている。また光孝天皇のときには近衛府(このえふ)の官人または蔵人に鷹・犬をつけて諸国に下し、野鳥をとらせている。これを狩の使(つかい)という。
 正月の大臣家大饗(たいきょう)の儀には、犬飼とともに庭中に参り、酒宴にあずかる。」

など、王朝時代の鷹狩りは鷹と犬がセットになっていたことが窺われる。

2018年11月15日木曜日

 さて、貞門というと掛詞だ。
 正岡子規は明治二十七年の『芭蕉雑談』で「貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)」という言い方をしているが、駄洒落と掛詞の境界は確かに難しいかもしれない。
 強いて言うなら、掛詞は二つの似た音の単語を組み合わせることで意味の融合を生じるが、駄洒落の多くは意味が融合されるどころか逆に反発しあってナンセンスを生じる。
 「紫苑」と「師恩」を合わせれば鬼の醜草の異名のある忘れられない紫苑の花に師の恩が合わさり、容易に融合するが、これが「紫苑」と「四音」なら「三音なのにシオンとはこれいかに」と駄洒落になる。ちなみに紫苑とシオニズムのシオンなら、はるかな失われた故郷の忘れられないということで掛詞は可能だ。
 掛詞はもちろん貞門の専売特許ではない。談林の祖にも、

   よひの年雨降けるに
 浪速津にさくやの雨やはなの春   宗因
 今こんといひしば雁の料理かな   同
 秀たる詞の花はこれや蘭      同

の句がある。宗因も本来は連歌師だから、掛詞は得意だったはずだ。
 芭蕉の場合、貞門時代はもちろん様々な掛詞を駆使した貞門らしい句を詠んでいたが、談林時代から天和にかけてはほとんどみられない。
 ただ蕉風確立期になると掛詞が復活する。
 貞享二年の句に、

 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉   芭蕉
 盃にみつの名をのむこよひ哉    同
 
 貞享三年の句に、

 幾霜に心ばせをの松かざり     芭蕉

の句があり、貞享四年には、

 歩行ならば杖つき坂を落馬哉    芭蕉

 貞享五年(元禄元年)には、

 はだかにはまだ衣更着のあらし哉  芭蕉
 あさよさを誰まつしまぞ片ごころ  同

 そして元禄二年、『奥の細道』の旅でも、

 あらたうと青葉若葉の日の光    芭蕉
 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ   同
 象潟や雨に西施がねぶの花     同
 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ    同

 またやや微妙だが、

 雲の峰いくつ崩れて月の山     同

も「尽きぬ」と「月の」を掛けていると思われる。
 この中にはいわゆる旅の句で、地名を一般的な意味とを掛けているものも多い。これは「歌枕」の発想といえよう。
 面白いのは、近代の写生説では古池の句で写生を確立した芭蕉が、それまでの貞門や談林の技巧をやめたかのように言われてきたが、実際にはその古池の句の前後の蕉風確立期に掛詞が見られるということだ。
 むしろ蕉風確立期だからこそ古典回帰が生じ、掛詞の復活になったのではないかと思う。猿蓑以降はまた鳴りを潜めることになる。
 近代俳句でも稀に掛詞の句はある。

 言の葉や思惟の木の実が山に満つ   窓秋

 思惟を椎に掛けている。

2018年11月14日水曜日

 神無月の月も半月に近づいている。
 さて、この辺でまた『俳諧問答』のほうは休憩して、俳諧を読んでみようと思う。
 季節的にまだ少し早いが、芭蕉がまだ伊賀の宗房だった頃の唯一現存している俳諧百韻、「野は雪に」の巻を読んでみよう。
 寛文五年(一六六五)霜月十三日の興行で、発句は芭蕉(当時は宗房)の主人だった藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇は京の季吟だが脇だけの参加なので、書簡による参加であろう。それに正好、一笑、一以、それに執筆が一句参加している。
 田中善信の『芭蕉二つの顔』(一九九八、講談社)によると、一以は明暦二年(一六五六)の『崑山土塵集』や『玉海集』に入集歴があり「宗匠格」ではないかとしている。正好、一笑は商人ではないかとしている。一笑は芭蕉が「塚も動け」の句を詠んだ加賀の一笑とは別人。
 この興行は貞門の祖松永貞徳の十三回忌追善俳諧で、発句は、

 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉  蝉吟

 これに、季吟が、

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

と付けた所で始まる。
 紫苑は秋の季語だが、ここでは「雪」と組み合わせることで冬の句となる。
 紫苑は別名「鬼の醜草(おにのしこぐさ)」ともいう。

 忘れ草我が下紐に付けたれど
     鬼の醜草(しこくさ)言にしありけり
              大伴家持

の歌もある。原文には「鬼乃志許草」とあるが、なぜかネットで見ると「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」になっている。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、『袖中抄』を引用し、

 「鬼醜女草、これ紫苑也。鬼のしこ草とは別の草の名にあらず。忘草は愁を忘るる草なれば、恋しき人を忘れん料に、下紐につけたれど、更にわするることなし。忘草といふ名は只事にありけん、猶恋しければ鬼のしこ草也けりといふ也。」

と書いている。
 忘れるなら忘れ草(萱草)、忘れないなら紫苑だった。
 「枯れぬ紫苑」は決して忘れることがない、という意味で、「紫苑」は「師恩」に掛かる。貞徳さんのご恩はたとえ野が雪に埋もれても決して枯れることがない、忘れることのできない師恩ですというのがこの発句の意味になる。

2018年11月11日日曜日

 今日は箱根山に登った。
 といっても新宿区にある戸山公園の箱根山、標高44メートルだが。
 西早稲田から神楽坂を散歩した。以前古代東海道、東への旅で通ったことのあるあたりだ。神楽坂は賑やかで、いろいろなイベントをやっていた。TVドラマのロケ地としても盛り上がっているようだ。
 では本題に。

 不易流行の遠い起源は、おそらく『易経』の雷風恒だろう。

 「恒、亨。无咎。利貞。利有攸往。」

とあり、「亨(とおる)。咎(とが)なし。貞(ただ)しきの利(よろ)し。往くところあるに利(よろ)し。」というふうに吉祥とされる。
 ただ、上が雷で下が風というと、積乱雲が発生して雷がぴかぴかごろごろ落ちてきて、強い上昇気流が竜巻となって登ってゆく、かなり荒れ狂う状況が想定される。それでいて吉祥なのは、上にある物が降りてきて下にある物が登ってゆくことで、それぞれ交わり地天泰と同様、陰陽和合の吉祥となる。

 「彖曰、恒久也。剛上而柔下。雷風相與、巽而動、剛柔皆応恒。」

 上の雷は「震」で長男を表す。下の風は「巽」で長女を表す。男は陽気で本来上昇するはずのものが雷となって下り、女は陰気で本来下降するはずのものが竜巻となって登ってゆく。ゆえに男女交わり陰陽和合となる。
 この交わりの元となるのは今でいう上昇気流であり、その意味では女性主導の陰陽和合、「巽而動、剛柔皆応恒。」となる。
 政治的に言えば下にある物、つまり大衆主導で君子を動かしての天下泰平となる。それゆえ、

 「恒亨、无咎、利貞、久於其道。」

となる。

 「天地之道、恒久而不已也。利有攸往、終則有始也。日月得天而能久照、四時変化而能久成、聖人久於其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。」

 天地の道は恒久にして止むことなく、終わりは始まりとなる。日月は沈んでもまた昇り、いつまでも照らし続け、四季の変化も延々と繰り返される。
 聖人は日月の運行や四季の変化をもとに長く天下を治める道を造り、その恒なる所を見て万物の情を見る。

 「象曰、雷風恒。君子以て立不易方。」

 雷や竜巻が荒れ狂い、この世界は変化して止まないけど、それは日月の運行や四季の循環のように繰り返されるもので、終わりは次の始まりとなり、変わることはない。君子はこの恒の道に立って、方を変えることはない。すなわち「不易」。
 流行して止まぬ世界において不易の道に立つ。それが君子だということになる。
 雷や竜巻が荒れ狂うのは、決して悪い徴ではない。
 現代的に言えば、この世は有限な大地に無限の生命が繁栄できないように、必ず生存競争が生じ、争いに満ち溢れている。しかし、その生存競争が生命の多様性と複雑な生態系を形作り、自然界を安定させる。
 人間の世界も争いが絶えず、罵りあい、街の喧騒を形作りながらも、それでも、互いに譲り、上手く折り合いをつけながら、道は多くの人が行きかい、それが街の活気となる。
 人は別に争うために生まれてきたのではない。ただ、たまたま生存競争に勝ち、多くの子孫を残すことに役に立った能力を、生まれながらに具えているにすぎない。それはあくまで能力であって目的ではない。だからその能力は平和を維持するのにも用いられる。
 日々の喧騒は鬱陶しく、憂うべきことかもしれない。ただ、その中で人は共存の道を探り、この世界を少しでも棲みやすいものに変えようとする。
 変化して止まぬ世界もそこに自ずと秩序が生まれ、混沌は万物の母となる。それが道だ。
 君子はその変化して止まぬ世界の中に、日月の運行や四季の変化のように、変化して止まない中に常に繰り返され変わることのないものを見出す。
 それは風雅の誠にしても同様であろう。風雅の誠はまさに変化して止まぬ世界の中に不易を見出す営みに他ならない。
 天がそれを押し付けるのではなく、地の側から風を吹かせ、地の上昇と天の下降が交わる時、「恒亨、无咎、利貞、久於其道。」となる。
 いわば君主が一方的に高い理想を説くのではなく、大衆の喧騒猥雑の中から巻き起こる風の動きを受けて、そこに真の理想を読み取ることが重要になる。
 夫婦もまた夫が一方的に妻を支配するのではなく、妻の情を十分汲み上げた上で家を運営する必要がある。

 「初六。浚恒。貞凶。无攸利。」

 初六は雷風恒の一番下が陰(六)であるということをいう。
 一番下が陰ということは、恒久の道といえども最下層の隅々まで残さず支配しようとするのは「凶」となり、政治はうまく行かないということを言う。

 「象曰、浚恆之凶、始求深也。」

 隅々まで残さず道を広めようとするのが良くないのは、始に深く求めすぎるからである。
 これは風雅の誠でいえば、初期衝動を抑圧してはいけないと解するべきであろう。それが道のすべての元になっている根本的な混沌で、すべてはそこから生まれる。
 逆に一番上の陰(六)については、

 「上六、振恒凶。
 象曰、振恒在上大无功也。」

とある。一番上の恒はぶれてはいけない。ぶれたらすべてが台無しになる。
 惟然の超軽みの風は初期衝動の開放という点では成功したが、それをきちんと不易の誠に繋ぎとめることができなかったため、単なる流行に終ったといってもいいだろう。芭蕉が生きていたなら、それができたかもしれない。惜しむところだ。

2018年11月9日金曜日

 今日はまた一転して一日雨。
 「ボヘミアンラブソディ」という映画の封切り日だったせいか、ラジオからは一日中クイーンの曲が流れる。ただ、クイーンを聴くと何となく日本にハリマオというバンドがあったのを思い出す。
 防弾少年団(バンタンソニョンダン、略してBTS)のことがニュースになっていたが、別にTシャツくらいいいじゃないか、右翼のデモが恐くての判断か。まあ、生放送だからゲリラ的に政治的アピールをされるのを警戒したのかもしれない。だけどやるとしてもせいぜいTシャツを二枚重ねて着て、最後に上のをはぐるくらいのことだろう。それくらいなら可愛いものだ。
 あの時は軍部は一億玉砕なんて言ってた頃で、戦争が終った時はこれで死なずにすんだとほっと胸をなでおろした人もたくさんいた。そして戦犯たちは国民の囂々たる非難にさらされたが、日本人はアメリカを恨んだりはしなかった。それが答だ。
 ただもちろん、何十万もの人が死んで、生き残った人の多くが後遺症に苦しんだことを考えれば、原爆が落ちて良かったなんて口が裂けても言えない。原爆なしで軍部を降伏させる方法はなかったかと思う。
 まあ、話が長くなったが、『俳諧問答』の続き。

 「くハしき事ハ奥ニ記ス」というのはこの手紙の後に『俳諧問答』に収録されている「俳諧自讃之論」のことだろうか。
 次の十七章についてもこうある。

 「一、第十七章ニ云、師在世の時、予不易・流行といはず、又前にすへずして句を作りたる事、再編の問ハ、奥の自讃といふ条目ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

 第十八章の所は前半省略するが、

 「不易・流行は口より出て後ニあらはるる物なれバ、あながちニ不易・流行を貴しとする物にハあらず。此論奥ニ委シ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

とあるように、不易流行について更に詳しく見るには「俳諧自讃之論」を読んだ方がいいのだろう。
 また少し飛んで、第二十四章のところに

 世の中を這入り兼てや蛇の穴   惟然

の句が引用され、「少あはれなる所もあり」とコメントしている。
 この頃の以前の発句は、見たものをそのまま詠んだだけなのか、それとも思いつく言葉を並べてみただけなのかといったような、句意も俳意も定かでない句が多い中で、この句は確かにわかりやすいし寓意がある。
 今で言えば引き籠りだが、昔だったら立派な隠者だ。それを自嘲気味に「蛇の穴」と呼んだのだろう。惟然にしては珍しい。
 ありのままを詠むという発想は、

 庭前に白く咲きたる椿かな    鬼貫

の句にもあるし、もう少し後に伊勢派の乙由が、

 百姓の鍬かたげ行さむさ哉    乙由

の句を詠んでいる。
 余談だが、くしゃみをした後に「畜生」と言う人はよく聞くが、地方によっては「鍬かつぐ」と言うところがあると以前どこかで聞いたことがある。あるいはこの句が元になっているのかもしれない。
 畜生は「はくしょん」「ちくしょう」で韻を踏んでいるところから来たと思われる。「鍬かつぐ」は「はくしょん」と「ひゃくしょう」が似ているところから「鍬かつぐ」になったと思われる。
 こうした平俗軽妙の句は誰でも気軽に作れるというところから、幕末明治の大量の凡句の山を生むことになったし、近代の夥しい数の写生句もその延長にある。今泉恂之介は『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)の中で、逆にこうした句を皆悉く名句だとしている。多分名句の概念が違うのだろう。
 芭蕉も『奥の細道』の旅の中で、殺生石の所で、

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし   芭蕉

の句を詠んでいるが、これもそのまんまを詠んでいる。この句は曾良の『俳諧書留』ではなく『旅日記』の方にあり、後に『陸奥鵆』にも収録されている。
 芭蕉が晩年、理論や技法に囚われずに初期衝動をもっと開放した方が良いと思い立った時、惟然や風国にかつて自分が没にしたようなこういう句の読み方を逆に勧めることになったのか。
 ある意味で、今の俳句を先取りしたとも言える。ただ、去来や許六からは理解されず、「蛇の穴」の句の方を良しとしたようだ。

2018年11月8日木曜日

 今日は晴れた。富士山が綺麗に見えたが、暖かいせいか大分雪が減っててっぺんだけになっていた。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行定まらざる世界ニ、名句なきにもあらず、予不易・流行のなき世界ニ生れたらんにハあらね共、今の人不易・流行に縛クせられたる事を嘲る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 不易流行に限らずどんな美学や芸術学の理論でも、それ自身が秀作を産むわけではない。ただ説明するためのものだ。これはもう何度も述べてきた。説明である以上、過去に遡って説明することはできる。ただ、その理論がなければ秀作が生まれないなんてことはない。
 ただ、なまじ理論を勉強したばかりに、理論に縛られるというのはいつの時代にもあることで、いつの時代でもそういうのは嘲笑の的だ。それ以上の意味はない。
 子規も虚子も写生説は説いたが写生に縛られてはいない。縛られて、本来の初期衝動を見失ってしまうのは、結局凡庸な作者だ。元から表現すべきものがないのだろう。
 表現したいという衝動もなく、ただ人からの借り物の理論でそれっぽいものをこしらえても所詮は似せ物で、そこには何の感動も生まれない。AIに芸術を作らせる場合でも、初期衝動をどうプログラミングするかがポイントだろう。
 去来もいくつもの秀逸を残しているし、別に不易流行に縛られてたわけではあるまい。ただ、余りそればかり強調すると、弟子にいい影響は与えない。芭蕉にはたくさんの優秀な弟子がいたが、去来の弟子って‥‥。

 「新古今の時、作者おぼえず
 もろこしの芳野の山にこもるとも
  おくれむとおもふ我ならなくに
といへる歌よむ人あり。撰者達の論云ク、此歌名歌なりといへ共、是俳諧体なりとて、終ニ新古今集の俳諧体ニ入たりといへり。芳野をあまり遠くよみなさむとて、唐土のよし野といへる事、実ハなき事也。是俳諧体也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 新古今というのは版本を作る際の誤植か。古今集が正しい。
 この説によるなら、この「もろこし」は比喩で遠い所の喩えということになる。たとえ唐土のように遠い芳野の山にこもるとも、という意味。
 昔は「夢のハワイ」というような言い方をよくしたが、もちろんハワイは現実に存在する島で夢ではない。ただ夢のように遠いハワイという意味でこう言う。
 この歌の作者が突飛な比喩で笑いを取ろうという意図があったのかどうかは定かでない。ある程度意識されていたなら、たとえ「俳諧体」という詞がまだなかったにせよ、何かこういう笑える和歌もあってもいいんでないかいと、一つの体を意識していた可能性はある。
 真面目に歌を詠んだのだけど、比喩がちょっと突飛すぎて結局笑われてしまった、というなら創作が先で体は後ということになる。
 ただ、歌を詠む場面もいろいろあるし、その場その場で何となく詠み方をかえるというのは誰しもやっていることだろう。くだけた席で詠むのとあらたまった席で詠むのとはまた違うだろうし、独り言のように詠む場合と相手をヨイショするために詠む場合とでも作り方は違ってくる。聞く人を泣かせてやろうとして詠む場合もあれば、笑わせてやろうと思って詠む場合だってあるだろう。
 詠み分けというのはごく自然に誰もがやっていることで、ただそれを分類して何々体と名付けるのは後からだ。
 曲を作るのでも、盛り上げてやろうと思って作る曲や、ちょっと息抜きするための曲、ここはじっくり聞かせようと思って作る曲など、作り分けるのは普通のことだ。ただ、分類は音楽評論家の仕事だ。

 「作者ハ何体をよみ侍るともなく、名歌よみ出さむと斗案じたらん。っ撰者有て体を分ツなれバ、体ハ跡にして趣向先なるべし。くハしき事ハ奥ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78~79)

 「名歌よみ出さむと斗案じたらん」というのもまた「過ぎたり」であろう。昔の歌人が別にひたすら名声のために歌を詠んでいたわけではないだろうし、むしろ歌の贈答などのコミュニケーションのツールとして用いてたり、まずはその場を和ませたりとか、そういうことも重要だっただろう。名歌を詠むというよりは、まずその場で受けるかどうかの方が大事だったかもしれない。そのためには場をわきまえた上で詠み分けるというのも、普通に行われていたのではないかと思う。
 「名歌よみ出さむ」というのは少なからず競争を意識してのことではないかと思う。歌合せで勝つためだとか高得点を取るためとか、あるいは勅撰集への入集を狙うだとか、そういうところで初めて意識されるのではないかと思う。
 俳諧でも発句は基本的に興行の開始の挨拶であり、本来はそんな名句を残そうとして詠むものでもなかった。談林の頃までは、俳諧の中で発句はそれほど重視はされてなかった。発句で名句が意識されたのは、かえって古池の句の大ヒットによるものだったのかもしれない。それ以降、発句で名句をよみ出さむみたいな空気が出来上がっていったのかもしれない。
 俳諧も基本は興行をどう盛り上げるかだった。そのために気の利いた挨拶と場を和ます面白いネタが必要だった。ただ、名句を意識しだすと、もはや興行から離れ、撰集の中で目を引くとことばかりを考えるようになる。そうしたことも俳諧を窒息させる原因だったのかもしれない。
 体というのは明確に意識されなくても少なからず作者の創作の際にはあるものだと思う。名句を詠むことだけを意識するというのは、和歌でも俳諧でも本来の姿ではなかったのではないかと思う。名歌名句はむしろ後の人々の決めることで、作者はただ、今表現したいものを表現するだけなのだと思う。
 よく、ホームランは狙って打てるものではないというし、下手にホームランを狙おうとすると大体は大振りになって結局空振りする。名歌も名句も他のジャンルの芸術の名作でも、それは言えるのではないかと思う。許六さんも「十団子」以来なかなかヒットに恵まれなかったのは、その辺に原因があったのかもしれない。

2018年11月7日水曜日

 今朝は雨が上がっていた。今日で秋も終り。明日からは神無月で冬になる。
 アメリカの中間選挙は結局大方の予想通りで特に波乱はなかったようだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「先生の論ハ、俳諧初りの証拠など書給ひ侍れ共、此論ハ歌の初の事を述ぶ。俳諧と分ていふにハあらず。不易・流行なき以前といふ論を察し給ふべし。
 赤人のふじの歌ハ、何体・たれ風をしたふといふ事もなし。只志をよめり。今の風しり・体しりの一字半言も及がたし。
 人丸のほのぼの、猿丸のおく山等又是ニ同じ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77~78)

 先生は去来のこと。俳諧の始まりについて、和泉式部、平忠盛、源頼朝を引き合いに出したことを言う。
 俳諧は俗語の連歌であり、連歌は和歌の上句と下句を分ける所から生じたものだ。
 土芳の『三冊子』「しろさうし」の冒頭には、「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,83)とある。俳諧と連歌と和歌は起源を共にし、ひろく「哥(歌)」と呼ばれていた。「歌の文字も定まらざる時」というのは、『三冊子』「しろさうし」でいう「陰神陽神磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、「喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれど、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,83)のことを言う。イザナギイザナミ神話の「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」を指す。
 こうした記紀神話のまだ和歌の体を成してない歌から俳諧まで、歌は連続していると考えられていた。
 許六が不易流行なき以前というのは、俳諧のみに限らずこうした「歌」の伝統全体を指す。
 それゆえ、ここでは万葉集の歌を引用する。赤人の歌は今日では、

 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ
     不尽の高嶺に雪は降りける
                山部赤人

だが、当時はむしろ『新古今集』や『小倉百人一首』の、

 田子の浦にうち出でてみれば白妙の
     富士の高嶺に雪は降りつつ
                山部赤人

の形で知られていた。
 もちろんまだ和歌十体のなかった時代だ。ただ、十対の中のどれかに強引に当てはめようとすればできなくはないだろう。
 赤人だって、先人の影響は受けていたかもしれない、たとえば人麿とか。それにこうした歌は今では「万葉調」と呼ばれ、この時代の一つの風として扱われている。ただ、それらはすべて後付けにすぎない。今日では写生説の見本のようにも言われているが、それは近代の写生説を当てはめているだけで、当時そのような説があったのではない。
 「只志をよめり」というのは『詩経』大序の「詩者、志之所之也。在心為志、發言為詩。」から来ている。心にあることを志といい、それを言葉に表すことで詩になる。
 古代東海道では田子の浦は船で越えたから、そのときに全貌を現した富士山への感動をそのまま詠んだのであろう。
 「人丸のほのぼの、猿丸のおく山」は、

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
     島隠れゆく舟をしぞ思ふ
              よみ人しらず

と、

 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の
     声聞く時ぞ秋はかなしき
              猿丸丈夫

の歌だが、古今集の「ほのぼのと」の歌は当時は柿本人麿(人丸)の歌とされていた。
 これらの歌は、詠まれた当時はもちろん不易流行説もないし、もちろん写生説もなかったが、後からそれを当てはめて説明することはできる。

2018年11月6日火曜日

 今日は午前中は小雨で、午後から本降りになった。
 久しぶりにまとまった雨になった。

 『俳諧問答』続きに行く前に、ほんのちょっとこやん曰、
 人間の行動というのは、長い進化の過程で獲得した様々な欲望、感情、衝動によるもので、これらは皆その場その場で偶発的に起きた突然変異の集積で、別に統一されたものではない。ただ、どれも結局子孫を残すということに偶然役立ったために生き残っているにすぎない。
 誰だってそのときの気分で同じ物事でも感じ方が違ったり、昨日は大いに楽しんだことでも今日には飽きていたり、考え方もその時々でバラバラで平気で矛盾したようなことをするし、まあ結局それが人間というものだ。いくら理性で律するといっても、完全な人間なんてどこにもいない。
 だから理想の美だの理想の芸術だの言っても、どこにも答があるわけではない。ただ初期衝動に突き動かされ、言葉を発し、それをメロディーをつけて歌ってみたり、振り付けをして踊ってみたりして、多くの人が面白いと思えばそれは秀逸だ。絵や造形でも同じだ。
 過去のいろんな秀逸な作品を整理し、そこに理論を立てることはできる。理論が先にできて、そこから秀逸な作品が生まれることはまずない。
 それは結局政治においても同じなのだと思う。
 一人一人がその場その場で、どうすれば他人と無駄に争うことなく幸福な生活が確保できるかいろいろ工夫する。こうしたことの積み重ねが社会秩序を形作っている。
 自分の欲望と他人の欲望が真っ向からぶつかり合い喧嘩になれば、いつでも勝てるという保証はない。特に人間は頭がいいから、いくら腕っ節が強い者でも、飛び道具を用いたり騙まし討ちにしたり、大勢でかかったりすれば簡単に倒せることを知っている。体力のある物が勝つとは限らないし、頭のいいものが勝つとは限らない。誰でも勝つチャンスはある。その意味では人間は平等だ。
 だから人間はいつでも負ける可能性を頭に入れておかなくてはならない。ならば喧嘩は極力避けたほうが良いということになる。
 政治というのは結局はいろいろ妥協しながらも、みんなが安心して自分の欲望を満たせるよう工夫する、一人一人のその積み重ねからできている。これは政治の初期衝動とでも言えよう。
 こうした積み重ねによってできた様々な習慣、法、制度をあとから理論としてまとめることはできる。それが思想だ。理論が先にあって、そこから習慣や法や制度が作られるのではない。人々の実生活から来る政治の初期衝動を無視して理論だけが一人歩きすれば、かならずディストピアに陥る。
 理想の芸術を作るにも、理想の社会を作るにも、人間は答を知らない。だからあれこれ試行錯誤して良い物を残し悪い物を捨てて、自然選択と同じようなことを人為的に繰り返してゆくしかない。その繰り返しと蓄積が人類の唯一の進歩を生み出す。
 科学も無数の仮説を立てて検証されたものだけを残してゆくことで、限りなく真理の近似値を得る事ができる。芸術でも政治でも同じことをするしかない。
 今アメリカでは中間選挙が行われているが、選挙がなぜ必要かというと、政治的対立は「論駁」で解決することはできないからだ。どんな主張にも必ず反対の主張を立てることができるということは、古代ギリシャの人たちが既に知っていたことだった。だから人を裁くのには裁判を行い、物事を決めるのには採決を取ることにした。
 政治を決定するのは一部の思想家ではない。国民一人一人の政治への初期衝動が何よりも重要だ。

2018年11月5日月曜日

 体というのは、基本的には後から振り返って分類しているだけで、実際の創作の際は一々意識しているわけではない。
 写生説にしても、客観写生を説いた高浜虚子の句がすべて客観写生なわけではない。

 過ぎて行く日を惜みつつ春を待つ  虚子
 山辺赤人が好き人丸忌       同
 藤袴吾亦紅など名にめでて     同
 小春ともいひ又春の如しとも    同
 顧みる七十年の夏木立       同
 過ちは過ちとして爽やかに     同
 ここに来てまみえし思ひ翁の忌   同
 初時雨しかと心にとめにけり    同

など、様々な体の句を詠んでいる。

 去年今年貫く棒の如きもの     虚子

などは虚子の代表作ともいえる。
 句を詠むときに大事なのは、何かを表現したいという初期衝動で、理論や技法はそれを助けるものにすぎない。理論や技法だけが一人歩きしてしまうと、力のない、何を言っているのかわからない句になる。
 芭蕉も、貞門談林の技法に習熟し、蕉風の独自の技法を開発して、不易流行や虚実の論も自ら生み出してきた。それでも晩年になって初期衝動の大切さは見失ってなかった。惟然や風国に教えたのもそういうことだろう。
 田氏捨女の自撰句集には、貞門の技法に習熟した円熟した作品に彩られているが、結局世間に知られているのは、捨女自身の作かどうかも定かでない、

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡  捨女

だった。
 この句には貞門の高度な技法はどこにもないが、初期衝動なら確かにある。「俳諧は三尺の童にさせよ」というのもそういう意味だったのであろう。
 不易と流行は「体」であるというのは、同時にそれは体にすぎないという意味でもある。
 創作の時にはそれに囚われるべきではないし、むしろそうした既存の枠組みをブレイクスルーしたところに本当の新味が生まれる。
 許六が去来に不易と流行に迷っていると言ったのは、体というのはあくまでも便宜的な分類すぎず、後から説明するための理論だということを言いたかったのだろう。
 芭蕉が不易流行を説く前にもいくらでも秀逸があった。芭蕉にも古池の句があるし、さらには連歌や和歌にもたくさんの秀逸が残されている。

 「一、第十六章問答ノ返書ニ云ク、予が不易・流行なき以前の論を嘲て、俳諧和歌の一体たる事を示せり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77)

 去来は俳諧が和歌の一体にすぎなかったことを示し、こうしたものが神代にあったとしても、句があれば風があり、句がないなら風もない。
 不易も流行も風である。
 故に句があれば不易も流行もあり、句がないなら不易も流行もない。不易流行以前の句なるものは存在しない、という奇妙な論理を展開した。

 「幷ニそと織姫の風をしたひて、小町ハ歌をよめり。西行ハ古ニよめりと、後鳥羽院ののたま侍りし事も、是明也。
 其そとおり姫ハ誰が風をよめるぞ。又師ハたれが風と押シて尋る時ハ、神代の風に成ぬ。
 歌の文字も定まらざる時、歌十体、又ハ不易・流行、又ほそミ・しほりなどいへる事なけれ共、忝も皆名歌となれり。
 歌幷俳諧少もかはる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77)

 たとえば子規が写生説を唱える以前に写生はなかったかというとそうではない。ただ写生があったということと写生説があったということはまったく別だ。
 実際近代の俳人や歌人も同じ過ちを犯して、芭蕉の句に写生的なものがあるから、芭蕉が写生説を説いたと考えている。万葉集に関しても同じで、万葉の時代に写生説があったかのように論じている。
 同じようなことは様々な場面で起こっている。マルクスが共産主義を説く前にも、共産主義的なものはあった。だが、共産主義的なものがあるのと共産主義があるのとは同じでない。しかし、この混同から文明以前に「原始共産制」が仮定されている。
 不易流行の考え方も朱子学の影響によるものだが、それ以前に遡れば『易経』の雷風恒にまで遡れる。しかしそれは芭蕉の不易流行説ではない。だがもちろん不易流行的な発想は古代からあった。
 去来が句があるなら不易も流行もあると考えるのは、こうした発想によるものだ。芭蕉は不易流行を説いたが、後から見るなら昔にも不易の歌はあるし流行の歌もあったとおもわれる。
 許六が言うのは、あくまで芭蕉が不易流行を説く前、不易流行が明確に意識される前にも秀逸があったということで、古代の文字も定まらぬ頃の歌に不易や流行が見出されるかではない。
 理論というのは後から振り返って説明するもので、それは確かに過去に遡って説明することも可能だ。だが創作は過去に遡ることはできない。創作は理論よりも先にあった。
 この誤りはひとえにあたかも今日の我々の理論は完璧であり、古今東西のすべてのものを説明できると信じる思い上りから来る。
 不易流行は一つの説にすぎず、これがあれば悉く名句が生まれるというようなものではない。理論は所詮理論にすぎず、自ずと限界があり、時には初期衝動によって簡単に打ち破られる。
 同様、写生説も一つの説にすぎない。共産主義も一つの説にすぎない。人権思想だってそうだ。科学だっていまだ統一理論が存在しない以上、この世のすべてのものを説明することはできない。
 人間の理論は限界があり、人間の創作は必ずそれを越える。故にそれを「神」と呼ぶ。

2018年11月4日日曜日

 昨日は妙義山へ行った。
 浦上玉堂の絵にあるような屹立する岩峰をリアルに見ることができた。
 あたりに店も少なく、来るのは登山客で、観光地としてはやや寂しい感じがするが、それだけにここは穴場かもしれない。
 景色はすばらしいし、蒟蒻や下仁田ネギは地味に旨い。
 大分歩いたので今日は家でお休み。外は小雨が降っている。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 このあと許六は「再呈落柿舎先生」を書く。前回の手紙への反省や何かは省略して、不易流行に係わる所を見てみよう。

 「一、十四章の問答に、不易・流行を前にすへて、後ニ句を案ずる事、全クなき事といふにハあらず。一座の興、又ハ導の為ニハ、前にすへて、不易をせむ、流行して見せむなど、我黨もなき事ニあらず。此論奥の自讃といふ条目の下ニ、委敷記ス。
 題の発句・讃物の類の引導、先生の言ト是レ信あり。予も亡師在世の時これを習ひ置事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)

 遊びだったり指導するためだったりで、不易の句はこう作る、流行の句はこう作るというのは、去来門だけでなく、我黨(わがなかま)にもあると許六が認めている。
 問題はその次だ。

 「一、十五章の問答ニ、風ト体の二ツ、問ひ答へいささか相違有事。
 予きく、師の雑談おりふしニ、不易流行の事出たり。千歳不易の体、一時流行の体とハのび給へり。不易の風・流行の風とハ、終ニきかず。但予が耳の癖歟。先生の慈恩ニよく明して、一生の迷ひを照し給へ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)

 芭蕉は許六にも積極的にではないが雑談の合い間に、不易流行のことを話はしていたようだ。
 ただ、その時は「不易の体、流行の体」と言っていて、「不易の風、流行の風」とは言わなかったようだ。
 これは芭蕉が途中で考えを変えたのか、それとも去来が勘違いして覚えていたか、どちらかであろう。どちらかは定かでない。
 ただ、後に去来は『去来抄』で「不易の体」「流行の体」という言い方をしているので、去来の勘違いだった可能性が高い。おそらくこの問答の後、他の門人にも確かめて、過ちを認めたのだろう。

 「先生の書ニ云、風は万葉・古今の風、又ハ国風・一人の風といへり。体ハ古今を押渡りて用捨なしとあり。是レ先師の言ト貫之の論も相違なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75~76)

 風や体が意味することに関しては、去来さんの書も先師や紀貫之の論とも相違ない。風は変わるが、体はその時代によって用いられたり捨て去られたりするものではない。

 「予察するに、万葉の風を古今にうつし、古今の風を新古今ニ変ず。
 定家の風をやめて西行の風にうつさば、捨る所の風ハいたづらに成ル味あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 万葉、古今、新古今と風を変えるのは発展段階と考えることができるが、定家の風から西行の風と言った場合は、発展ではなく、そもそも作風の違う二人なのだから、西行の風を取れば定家の風は捨てることになる。

 「返書のごとく、宗因の風用ひられて貞徳の風ハいひ出す人もなく、信徳むづかしといひて亡師の風にうつる。
 亡師の風も又同じ。炭俵出て跡々の風を廃ス。
 先生、不易・流行を風といはば、取捨の風儀に落む歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 宗因の風を取れば貞徳の風は捨てられ、信徳が先師の次韻の新風に移るときには宗因の風は捨て去られる。
 そう言われてみれば、不易流行が一時の風ではないのは明白だ。
 先師の風を変える場合でも、蕉風確立期には天和調を捨て、猿蓑調になればそれまでの風を捨て、炭俵の風になれば猿蓑調も捨てる。
 ならば、不易・流行が風ならば、それらは次の風に変わったときに捨て去られるようなものなのか。

 「予が云ク、風ハうごきニして、枝葉也。体ハ根にして古今を貫く。
 宗因の風ハすたれ共、俳諧の体ハ世に昌むニ残り、信徳ハとらぬ共、其体ハ相続して、あらぬ島々まで俳諧せぬものなき世也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 宗因の風は廃れても、宗因の開いた俳諧の体は残り、いまや日本中俳諧を知らないものはないような世の中となった。

 「今の不易・流行ハ俳諧の体也。きのふの流行ハすたれ共、又今日の流行あり。今日の流行捨たれ共、明日の流行に富めり。是レ枝葉ハ動くといへ共、全ク根の動ざる事しれり。しからバ不易・流行ハ体といはん歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)

 風は変わっても、その時その時の流行はある。流行は普遍的な現象であり、一つの風は流行しても流行そのものはいつの世にもどこの国にもある。流行は一時の現象ではなく、それ自体は「体」だということになる。

 「又先生の風といへるも一理なきにハあるまじ。不易・流行ハ亡師の風といはば、風ともいふべきか。なれ共、芭蕉風の中ニ、不易・流行ハ体也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)

 確かに、芭蕉の俳諧を蕉風と言うことができる以上、芭蕉の俳諧も貞徳風、宗因風があるのと同様、一つの風と呼ぶことができる。だから不易流行も先師の風だと言えなくもない。
 ただ、蕉風の中には不易の体と流行の体がある。宗因亡き後も宗因が開いた俳諧の体があるように、芭蕉亡き後も不易の体と流行の体はある。
 これを近代で言えば、たとえば正岡子規の写生説は正岡子規が提唱し、はやらせた一つの風と言えなくもない。
 ただ、写生は様々な時代、様々な文化、様々な芸術の中に一つの要素として常に存在している。その意味では写生は「体」といえよう。
 万葉集にも蕉風にも蕪村風にも写生的な要素はある。近代でも写生の句を作ろう、理想の句を作ろうとあらかじめ決めて句を作ることもできる。
 写実主義や理想主義はその時代の風ではあるが、写生も理想も時代を超えて存在するので「体」と言っていいだろう。

2018年11月2日金曜日

 明け方の月がどこへ行ったのかと探してしまうくらい東によっていた。今日は旧暦九月二十五日。秋ももう残り少ない。
 それでは『俳諧問答』の続き。去来の手紙の最後まで。

 「来書曰、故に同門のそねみ・あざけりをかへり見ず、筆をつつまずして此を起す。此雑談隠密の事にさたにおよ不及、諸門弟の眼にさらし、向後を慎む便とならば、大幸ならん。
 廿九、去来曰、阿兄道に志ざすの深き、此言にいたる。尤感涙す。
 是を他日湖南の丈草兄・正秀兄におくりて、猶二子の俳胸を聞ん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70)

 このあたりは社交儀礼で締めに入っているだけで、それほど問題はないだろう。

 「来書曰、願くハ高弟、予と共に志を合して蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。
 卅、去来曰、阿兄の言勇つべし。然ども予が性もと柔弱にして、敵に当るの器にあらず。曾ツ十月のはじめより、心虚ト労役を兼病す。
 今日薬におこたらず。向来猶弓を引、矛を振ふの力なけん。
 幸強将下に弱兵なし。益兵をやしなひ、陣を練て、大敵をやぶり給へ。
 阿兄のごときハ実に蕉門の忠臣、一方の大将軍也。
   元禄丁丑十二月日      落柿舎嵯峨去来
  五老井許先生
       几右」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70~71)

 惟然については大賊ではなく単に迷っているだけだと弁護し、そのほかの敵についても軽く受け流した去来は、もちろん許六と一緒に戦うなんて気はさらさらなかったのだろう。
 ただあからさまな言い方をせず、病弱にかこつけてここでは辞退することになる。
 この書簡には追伸がついている。

 「病後精力いまだ全からず。是故に此一書、風国をなのみ清書仕候畢。誤字・脱字・衍文等、御考御披見可被下候。猶語意きこへがたき物ハ、重而御不審を蒙たきもの也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.71)

 これで去来の手紙は終る。

2018年11月1日木曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、故に近年以ての外の集をちりばめ、世上に辱をさらすも、専ラ此惟然坊が罪也。
 廿五、去来曰、此罪又惟然にあらず。坊四方を行脚すといへども、其徒集を撰べるものすくなし。
 南都に一集あり、撰者をわする。
 はじめ坊助成す。然ども坊が心にかなハず。半にしてのがれぬとききぬ。
 又豊後の一集あり。此ハ惟然が手筋たり。然ども此集、坊が教示より先草稿し、後坊に聞て加入すと聞けり。
 そのほか坊が徒の集なし。
 或曰、豊後に集已板に出。世にあらハす事ハ惟然教示ノ後ノ集也。その前より有集ハ、終に板に不出。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68~69)

 南都の集は玄梅撰の『鳥の道』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。
 豊後の集は朱拙撰の『梅桜』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。
 『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)の天狗集が話題になってない所を見ると、やはりこれは後世の伝説であろう。元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』も話題にはなっていない。
 
 「来書曰、口すぎ世わたりの便とせば、それは是非なし。
 廿六、去来曰、彼坊における、定て此事なけん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 まあ、別に金のために集を作っているわけではなかろう。当時の俳書ってそんなに金になったのかな。むしろ俳書を出すことで一門の力量を世間にアピールし、弟子を集めてという所なのだろうけど、旅ばかりして一所に落ち着かない惟然は、そんな弟子をたくさん集めて金を巻き上げることには興味なかっただろう。

 「来書曰、惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句を案ずるやからも、稀々にありといへ共、是は大かた同門他門ともに本性を見届、例の昼狐とはやし侍れば、罪も少からん。
 廿七、去来曰、阿兄の言感笑す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 これは惟然というよりは其角嵐雪といった古い門人や大阪談林を指すのか。
 芭蕉の元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に「其角・嵐雪が儀は、年々古狸よろしく鼓打ちはやし候はん」とあるが、それを「昼狐」に変えて、オリジナルのようにしたか。
 なお、この手紙には「彦根五つ物、勢ひにのつとり、世上の人を踏みつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手わざなるべし。」という一文もある。これを冗談に取らずに真に受けたのが、許六の「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」につながったか。

 「来書曰、予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐてハ、大敵を請て一方の城をかため、大軍を真先懸て一番に討死せんとする志、鉄石のごとし。
 廿八、去来曰、勇者ハ必しも義有にあらず。此角が謂か。
 義者は必勇あり。是阿兄の謂也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69~70)

 「義を見てせざるは勇無きなり」は『論語』「為政」の有名な言葉だが、義は利に対する言葉でもある。
 利を見てリスクを背負うのはベンチャーだが、義はリスクに関わらずすべきことだ。
 其角が果して利益のために江戸座を開いて点取り俳諧をしてたのかは定かでない。ただ、従来の興行俳諧にこだわらずに新しい俳諧のスタイルを切り開いたという意味では、これもベンチャーだったといえよう。
 許六は随分物騒なことを言っているが、義からならいいが、というところだろう。

2018年10月30日火曜日

 渋谷のハローウィンのお祭り騒ぎも、別に喧嘩で人が死んだわけでもなく、店が襲撃されたわけでもない。ただ泥酔した一部の人間が分けも分からずとんでもない事をしでかしたというところが日本なのだろう。泥酔しても身ぐるみ剝がれる危険はない。日本に酔っ払いが多いのはそういうことだ。
 昔は伝統の祭りの場でこういうことが起きていたが、伝統の祭りのほうはいつしか子供と老人だけになってしまった。寂しい限りだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「又先師の一体につきて感賞し給ふ事をしらず。蕉門の俳諧かくのごとしと、自悟自迷ひて、終に全体を見ず。
 却て同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす。
 此、角を取て牛なりと云ン。牛なる事ハ牛なれども、牛の全体を見ず。他日牛尾・牛足を見て、此牛にあらずと争ハんも又むべならずや。
 如此の辟見を以て人に示さんに、豈害なからんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 牛の角の喩えは「群盲象を評す」に似ている。違うのは一部しか見てないのは惟然だけで、他の人はあたかも全体を知っているかのように評していることだ。
 だが結局、去来も『奥の細道』の旅を終えた頃の不易流行で蕉門を論じているし、許六はそれより後の『炭俵』の頃の軽みでもって蕉門を論じている。多かれ少なかれ芭蕉の門人達は「群盲象を評す」だったのではなかったか。
 「同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす」というあたりは、惟然は芭蕉から特に「軽み」について集中的に教えられていたのではないかと思う。それが後の超軽みに行き着く元となっていたのだろう。
 談林の時代は語句においても趣向においても證歌を引いてこなくてはいけなかった。
 ただ、一句一句一々證歌を引いて検証していたのでは、興行も時間がかかってしょうがない。だから、よく用いられる語句の組み合わせはその作業を省略するようになり、そこから付け合い(付き物)による物付けが多くなったのであろう。
 芭蕉はこうした證歌による検証よりも、実質的な古典の情を重視することで蕉風を確立した。
 ただ、古典に出典を持つ付け筋は、古典の情に縛られ、展開が重くなりがちだった。談林の頃は百韻興行が普通だったが、蕉風確立期には歌仙を巻くにも一日でなかなか終らなくなった。
 そこで、『奥の細道』の旅を終えた頃から、直接古典の情によらなくても、何となく雰囲気でそれっぽいもので良しとすることで風体を軽くした。不易流行説もその文脈で、不易の情を流行の言葉で表現するのが俳諧だという所で説かれることとなった。その不易の情は必ずしも古典によらなくても、朱子学で言うところの「誠」であれば良くなった。
 この不易の誠をはずさなければ、もはや出典関係なく、日常のあるあるネタで十分という所で「軽み」の風が展開されることになった。
 ところが惟然はこのあるあるネタを得意としているわけではなかった。いわゆる話を面白句作るというのが不得手だったのだろう。惟然の句はともすると笑いから離れてしまっている。特に発句はそうだった。
 あるあるとは別の形で笑いを発見するのは、結局元禄十五年の超軽みの風を待たなくてはならなかった。
 芭蕉もおそらく惟然の地味だが何か人と違う「軽み」の理解に、未知の可能性を感じていたのだろう。だから逆に、去来のような不易を基と本意本情に狭めて解釈する古いスタイル(いわゆる猿蓑調)を教えなかったのだろう。これは多分許六や支考にも教えてなかったのではないかと思う。それがこの『俳諧問答』でも対立点になっていたのではないかと思う。
 それがおそらく去来には我慢ならなかったのではないかと思う。

 「予推察を以て坊ヲ俳評す、極めて過当也。然ども坊が一言を以て證とす。
 坊語予曰、頃日師に泥近して、略俳旨を得たり。秀作あたハずといへども、句の善悪ミづから定て人評をまたず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67~68)

 芭蕉としては先輩達の古い風を真似しないようにということだったか。先輩の評は無視していいと言っていたのだろう。

 「又会(たまたま)風国曰、句ハ出るままなるをよしとす。此を斧正するハ、却てひくみに落ト。
 皆先師の当詞と俳談に迷へり。坊ハ迷へりといひつべし。
 又自あざむき、人をたぶらかすものにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68)

 風国も京都の医者で芭蕉の晩年の弟子の一人。
 『去来抄』同門評には、

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾(かつ)てさびしからず。仍(よつ)て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若(もし)情有らバ如何(かくのごとく)にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝(まさら)ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

とある。
 風国が出るままに詠んだ句を去来が斧正しているが、勿論去来自身が認めているように「句勝(まさら)ず」。
 まあ、実際には秋の夕暮れのお寺の鐘もその時の気分によって聞こえ方が違うもので、寂しく聞こえるときもあればそうでないときもあるだろう。
 ただ、「晩鐘のさびしからぬも寺の秋」とした時、聞いた人は「何で?」と思うのは確かだろう。普通は寂しいものを寂しくないと言うなら、何か理由があるはずだと思うのは自然だ。その理由が記されていないし行間からも汲み取れないとなると、よくわからない句になり、首をひねってしまう。
 その理由が何らかの形で伝わり、共感を呼び、他人とその情を共有できるなら、たとえ「晩鐘のさびしからぬ」と詠もうとも、その句は成功といえよう。
 芭蕉はひょっとしたら古典の本意本情に囚われずに、今まで誰も詠まなかった新しいものでありながら風雅の誠を踏み外さないものを求めていたのかもしれない。
 ただ、それはあまりに高度なものであったため、惟然も風国もなかなか佳句を残すには至らなかった。
 だがそれを古典の本意本情に戻し、秋の夕暮れの寂しさも鐘の音に元気付けられたと展開したのでは、新味は生まれない。使い古されたパターンに戻ってゆくだけになる。
 去来ならそうする。芭蕉はそれとは違った道を新しい弟子達に進んでほしかったのだろう。
 この句のもう一つの解決法として、「寂し」を「憂し」に対比させ、

 晩鐘も憂きにとまらず寺の秋

という手もあったかもしれない。

2018年10月29日月曜日

 ここで貞享五年六月十九日興行の惟然の句を見てみよう。

   肝のつぶるる月の大きさ
 苅萱に道つけ人の通るほど    惟然

 月が大きく見えるのは登ったばかりの月で、地平近くある月から一面の薄が原に登る月を思い浮かべたのであろう。武蔵野の月として画題にもなっている。
 茅の原に茅を刈って道を作る人を思い描く。月に茅は月に薄と同様で物付けといえよう。

   秋の風橋杭つくる手斧屑
 はかまをかけて薄からする    惟然

 茅を刈る、薄を刈る、と趣向がかぶって、遠輪廻と言えなくもない。

   琴ならひ居る梅の静さ
 朝霞生捕れたるものおもひ    惟然

 梅に朝霞はわかるが、「生捕れたるものおもひ」が何のことなのかわかりにくい。さらわれてきた姫君か、売られてきた遊女か。

   牛のくびする松うごきけり
 覆なき仏に鳥のとまりたる    惟然

 牛を繋いだ松は動き、野の仏像には鳥がとまるとこれは向え付け。
 物付けに向え付けと、蕉風確立期の風の付け句を行っている。惟然も最初から惟然風だったわけではないようだ。

2018年10月28日日曜日

 今日は箱根に行った。明星ヶ岳に登り、強羅でクラフトビールを飲んだ。楽しい一日だった。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「又曰、凡惟然坊が俳諧たる、かれ迷ふ処おほし。
 もと惟然坊蕉門に入事久し。然ども先師に泥近する事まれ也。是ゆへに去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。
 然ども先師遷化の前、京師・湖南・伊賀難波等に随身して遊吟す。先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66)

 芭蕉と惟然の出会いは、『風羅念仏にさすらう』(沢木美子、一九九九、翰林書房)によれば、貞享五年(一六八八)六月だという。
 『笈の小文』の旅を終えて京に滞在し、去来の落柿舎を尋ねたりした後、芭蕉は岐阜に行き、「十八楼ノ記」などを記す。
 ふたたび大津に行き六月八日に岐阜に戻る。そして六月十九日の岐阜でも十五吟五十韻興行に、当時素牛を名乗っていた惟然が名を連ねることになる。
 『笈日記』にはこの頃詠まれたと思われる、

   茄子絵
 見せばやな茄子をちぎる軒の畑    惟然
   その葉をかさねおらむ夕顔    芭蕉
 是は惟然みのに有し時の事なるべし

の付け合いが記されている。
 これは『笈の小文』の、

 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠    芭蕉
 よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠  万菊丸

に較べると、なんとも地味なやりとりだ。
 その後、芭蕉と惟然との関係がどうなっていたかはよくわからない。
 「去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。」と去来が言うように、元禄七年甲戌の年までの惟然の俳諧はほとんど知られてないし、未だによくわからない。
 ただ、元禄二年、『奥の細道』の旅で芭蕉が大垣に来た時、芭蕉は、

   関の住、素牛何がし、大垣の旅店
   を訪はれ侍りしに、かの「藤代御
   坂」と言ひけん花は宗祇の昔に匂
   ひて
 藤の実は俳諧にせん花の跡      芭蕉

の句を詠んでいる。
 そして元禄四年、京に登った惟然は再び芭蕉に接近することになる。
 七月中旬ごろに興行された、

 蠅ならぶはや初秋の日数かな     去来

を発句とする興行に、路通、丈草とともに参加している。「牛部屋に」の巻とほぼ同じ頃だ。この五吟も、去来ー芭蕉ー路通ー丈草ー惟然の順番で固定されている。
 ただ、ここでも惟然は継続的に芭蕉について回ることはしなかったようだ。
 次に芭蕉の俳諧興行に惟然が登場するのは、元禄七年、芭蕉が再び京にやってきた時の「柳小折」の巻だった。このあと、惟然は『藤の実』を編纂し、芭蕉の没する時まで長く行動を共にすることになる。
 この頃は去来と一緒にいることも多く、「先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」と芭蕉の強いプッシュがあったことを記している。
 芭蕉は惟然の一見平凡でそっけない句に、何か新しいものを見出していたのかもしれない。支考とともにその将来に大きな期待を寄せていたと思われる。

 「故にかれが口質の得たる処につゐて、先此をすすむ。
 一ツの好句有時ハ、坊ハ作者也、二三子の評あたらず、何ぞ人々の尻まひして有らんやと、感賞尤甚し。
 坊も又、自心気すすんで俳諧日比に十倍す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66~67)

 世に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来がさんざん三十棒で叩かれたのに対し、惟然は褒めて伸ばす作戦に出たようだ。これでは去来としては面白くなかろう。

 「又先師の俳談に、或ハ俳諧ハ吟呻の間のたのしみ也、此を紙に写時ハ反古に同じ。
 或ハ当時の俳諧ハ工夫を日比に積んで、句にのぞミてただ気先を以て出すべし。
 或ハ俳諧ハ無分別なるに高みあり。
 如此の語、皆故ありての雑談なり。坊迷ひを此にとるか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 『去来抄』「修行教」に、「今の俳諧は、日比ひごろに工夫を附つきて、席に臨のぞみては気先きさきを以もつて吐はくべし。」とあり、これは俳席での心得で、即興が大事な興行の席では、日頃練習のときに悩むだけ悩んで工夫し、本番ではそれを忘れて無心になれ、ということで、今日のスポーツにも通じるものだと思う。
 「無分別なるに高みあり」というのは、高度な技術は『荘子』の「包丁解牛」のように、それを意識せずとも使いこなせるようにならなくてはいけないという意味だろう。
 「吟呻の間のたのしみ」も興行を盛り上げることが大事で、書物にするために俳諧をするのではないという基本だ。
 去来は興行の時に悩みすぎる傾向にあったのだろう。だからリラックスして本番に臨むことを説いたのだが、多分惟然は本番では最初からそんなに考えない、自然体で臨むタイプだったのだろう。
 自分とは違う惟然の才能を、去来は師の言葉を間違って受け止めた「迷い」と思っていたようだ。
 芭蕉が惟然の句に何を見出したのかはよくわからない。ただ、芭蕉は出典をはずしたりして古典の影響から抜け出そうとしていたから、惟然の自然体の句に何かそれを切り開く可能性を感じていたのかもしれない。
 ひょっとしたら芭蕉がもう少し長生きしていたら、芭蕉は子規の時代の写生を先取りしたかもしれない。ただそれだと、ただ実際にそうだったからというだけの理由ですべての趣向が等価になってしまう危険もあり、近代の写生句が陥ったような、人々の記憶に留まることもなく膨大な量の句が作られては消えて行く状態が生じてしまう。(近代にまでならなくても、幕末や明治初期には既にそのような凡句が量産されていた。)芭蕉ならその問題をどう解決するのか、残念ながらそれを見ることはできなかった。

2018年10月27日土曜日

 たとえば登山だって遭難すればたくさんの人に迷惑をかけるし、登山計画に無理があったのではないかとか、装備が不十分だったのではないかと、素人の口からでも非難の言葉が出てくるものだ。
 ジャーナリストだってスクープを取って帰ってきたなら英雄だが、拉致されて人に迷惑をかけただけなら何を言われてもしょうがないと思う。
 まあ、命があってよかったなと、それでいいんではないかと思う。
 それに本当にジャーナリスト魂があるなら、そんな非難にもめげずにいつかリベンジを果たしてくれると思うよ。
 満塁のチャンスで打てなかったバッターや、決定的なチャンスでシュートをしなかったストライカーと同じだと思う。非難するファンに罪は無い。
 では『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、北狄・西戎のゑびす、時を得て吹を窺ミ、次第ニミだりが集をつくらんこと、尤悲しぶに堪たり。高弟此誹りを防ぎ給へる手だてありや。
 廿三、去来曰、先にいふがごとく、予なんぞ世人のあざけりをうけん。
 又あざけりをうけずといふとも、道のため師のため、此をなげかざるにハあらず。然ども、此をとどめんに術なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64)

 これも前の文と同様、他流のすることは自分の責任ではないし、止めることはできない。だから嘲りを受けるいわれはない。

 「来書曰、惟然坊といふ者、一派の俳諧を広むるにハ益ありといへども、返て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ吐出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。
 廿四、去来曰、雅兄惟然坊が評、符節を合セたるがごとし。その内、一生真の俳諧一句なしといはんハ、過たりとせんか。又大賊といひがたからんか。賊の字たる、阿兄の憤りの甚しきならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64~65)

 この頃の惟然は確かにまだそれほど目だった存在ではなかったし、今日知られているのは皆元禄十五年以降の超軽みの句がほとんどだ。
 まだ迷いが多く、自分の作風を確立できていない並の作者だったとは思うが、なぜそれほどまで嫌われるかと思うと、多分路通と同様、乞食坊主だったからだろう。
 去来が言うように、確かに許六のそれは言いすぎだ。
 元禄七年の『藤の実』の惟然の発句は、確かに目立たないがそんなに悪い句とは思えない。

 水仙や朝寝をしたる乞食小屋    惟然
 蓴菜や一鎌入るる浪の隙      同
 張残す窓に鳴入るいとど哉     同
 枯葦や朝日に氷る鮠の顔      同

 今で言う写生に近い見たものをそのまま詠んだ感じだが、確かに何を言いたいのか何を伝えたいのかよくわからないところがある。
 芭蕉の、

 海士の屋は小海老にまじるいとど哉 芭蕉

句は、そのまま詠んだようでもあるあるネタになっている。だが、張り残す窓のいとどはそれほど「ある」と言えるネタだったか。
 俳諧らしい笑いの要素を欠いているという点では、「真の俳諧一句なし」だったのかもしれない。

2018年10月25日木曜日

 今日も赤い大きな月が昇るのを見た。十七夜の月。
 安田純平の断片的なコメントが報道されているが、印象としては三年四ヶ月の間独房に隔絶されて、外の情報はおろか人に接することもほとんどなかったのではないかと思えてきた。なら完全に空白の三年四ヶ月で、コメントできるようなこともほとんどないだろう。
 マスコミもしつこくコメントを求めるようなことはやめて、そっとしといてあげたほうがいい。こういうときこそ報道しない自由を行使した方がいい。
 開放のいきさつについても、下手にばらすと次の救出活動に支障をきたす恐れがあるから、あまり詮索しない方がいいのかもしれない。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、集作りて善悪の沙汰に及ぶハ、当時撰集の手柄也。頃日の集ハ、あて字・てにをハの相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し侍らんもむべならんか。
 廿二、去来曰、此何といふことぞ。今諸方の撰集、その拙きもの、予が罪を得ん事、近年俳書のおこるや、我此をしらず。ただ浪化集のみ、故有て此を助成す。
 もし浪化集に誤処おほくバ、此予が罪のがれがたし。其他ハあづからず。又蕉門の高客、国々処々にまづしからず。世人なんぞ罪を予一人にせめんや。
 我京師に在といへども、惣て諸生の事にあづからず。ただ嵯峨の為有・野明、長崎の魯町・卯七・牡年のみ、故ありて予此を教訓ス。その余ハ予があづからざる所也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.63~64)

 江戸時代の初期に急速に出版産業が盛んになったことは世界でも稀有なことだろう。
 しかもそれが金属活字ではなく木版印刷で、出版の内容もまた多岐に及び、俳書もまた出版ラッシュだった。
 木版印刷は多種多様な書籍を少量印刷するのに適していて、そのことが出版文化を広めるのに役だったのではないかと思う。
 限られたアイテムを大量生産しても、それを必要とする人には安価な本が手に入るかもしれないが、必要としない多くの大衆は置いてきぼりになり、無消費者になってしまう。
 手工業の段階で最初から多様で細分化された市場が形成され、無消費者層が少なかったことが、日本の強みだったのではないかと思う。
 消費文化が未発達な所で工場だけ建てて大量生産しても、買う人がいないところでは経済は発展しない。日本は工業化以前に消費文化が出来上がっていた。だから明治以降の工業化もスムーズに進んだ。そして工業化されながらもそれまでの職人文化が共存したことが、工業製品の品質を高めるのにも役だったのではないかと思う。
 木版印刷の場合、まず能筆の人の書いた原稿を裏返して版木を彫っていくわけだから、誤字脱字は版木職人ではなく最初の原稿の方にあったと思われる。
 実際には芭蕉自筆の原稿でも誤字脱字は存在していて、まあ人間である以上、完全な清書原稿を書くことは能筆家であっても難しかったのではないかと思う。
 俳諧の裾野が広がれば広がるほど、誤字だけでなく文字表記の習慣の地域差のようなものもあったのではないかと思う。
 蕉門の俳書に誤字があったからといって、そんな誰も去来さん一人が悪いなんて思わなかっただろうし、許六の難も筆がすべっただけではないかと思う。

2018年10月24日水曜日

 今日も十六夜の月が丸い。
 安田純平さんがようやく開放されたと言うことで、それもまた明るいニュースだ。
 まあ冒険家ではないから帰ってきただけで英雄というわけには行かないだろうけど、多分書きたいことは山ほどあると思うし、ジャーナリストとしての真価が問われるのはこれからなんだろうな。
 推測だが「私の名前はウマルです。韓国人です。」というのは、日本政府でなくても人質解放交渉に応じる、という合図だったのではないか。多分何らかの理由があってカタールが名乗り出たのだろう。これで日本はカタールに足を向けて寝れなくなったな。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「尤憎べきの甚敷もの也。かれが心操をかへり見るに、翁います時ハ、先師をうりて己が浮世の便とし、先師没し給ひてハ、又先師をうりて、初心の輩を、今ハ先師にまされとあざむき道びかんが為なるべし。
 其難ずる処、誠に笑べきのミ。我是がために、その辟耳を切て、邪口をさかんと欲す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 まあ、風評で勝手な邪推をしては随分物騒なことも言っているが、後のフォローも忘れずということで、こう続く。

 「然れども翁います時、或翁の句をそしるもの有。我此に争ハんとす。
 先師曰、必あらそふ事なかれ。我自我が句を以て、いまだつくさずとおもふものおほし。却て五・三句を揚てそしらんハ、我名人に似たりと、大笑し給ふ。
 此事をおもへバ、又憤りののしらんに不及。かれも此も共に先師をうるもの也。阿兄此をいとひ給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62~63)

 まあ、同門で批評を戦わしながら切磋琢磨しというのは必要なことなので、先師の句とて例外とすべきではない。
 芸術にたった一つの答なんてものはない。多様であってこそ芸術だ。皆己の信じる道を行くのみというところか。
 芸術が一体何の役に立つのかというと、結局は石頭にならないために必要なのだと思う。
 日々変化する様々な状況に柔軟に対処する能力を養うには、それだけ普段から頭の中にいろいろなイマジネーションをストックしておく必要がある。
 おそらくこうしたイマジネーションのストックを作ることに快楽報酬が得られるよう、人類は進化してきたのだろう。
 「俳諧は新味をもって命とす」というのは、人々は常に新しいイマジネーションに貪欲だからだ。既にストックしているイマジネーションは二つも三つも要らない。今まで誰も思いつかなかったものだからこそ価値がある。
 結局芸術は理屈ではなく、既存の理屈を打ち破るブレイクスルーでなければならないのである。「理屈は理屈にして文学に非ず」と正岡子規も言っている。

2018年10月23日火曜日

 台湾の列車事故は福知山線脱線事故を思い出した人も多いだろう。恐ろしいことだ。
 それでは『俳諧問答』の続きを。

 「又頃日、尾陽の荷兮一書を作る。書中処々先師の句をあざけると聞けり。我いまだ此書を見ず。
 かの荷兮や、先師世にます内、ひたすら信迎す。一とせゆへありて、野水・凡兆と共に先師に遠ざかる。
 先師その恨をすてて、遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。彼亦此をあがめ貴む事、旧日のごとし。
 翁遷化の時、東武の其角・嵐雪・桃隣等、於東山て追悼の会をなす。かれ蕉翁の門人の数に加りて着坐す。今書を作りて翁をあざける。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 荷兮のこの書というのは元禄十年刊の『橋守』らしいが、先ず去来自身がこの本を読んでなくて、風聞で判断している所が問題だろう。
 実際この『橋守』で本当に芭蕉の句を嘲る表現があったかどうかは、筆者自身も読んでないので何とも言えない。ネット上では『橋守』のテキストは見つけられなかった。
 何でもこの『橋守』は長いこと完本が見つからず、戦後になってようやく発見されたという。(木村三四吾『俳書の変遷: 西鶴と芭蕉』グーグルブックによる。)
 岩波書店の日本古典文学大系66『連歌論集俳論集』の附録の月報46にある「去来の立場」(宮本三郎)に断片的に引用されているものによれば、『橋守』巻三に、「発句の哉とまりにあらざる体」として、

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉
 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

が並べられていて、他にも「俳諧にあらざる体」として、

 雲雀より上に休らふ峠かな     芭蕉
 郭公またぬ心の折もあり      荷兮

を挙げているという。
 他にも、

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉
 凩に二日の月の吹き散るか     荷兮

に対し、「右の二句、或人の曰三所の難あるよりなり」とあり、「艶なるはたはれやすし」として、

 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

の句を挙げているという。
 また、「留りよろしからざる体」として、

 霜月や鶴のつくつく並びゐて    荷兮

の句を挙げているという。
 これを見る限りだと、芭蕉の句と自分の句を両方並べて、等しく難があることを指摘しているだけで、芭蕉の句をことさら貶めているようには見えない。

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉
 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

 この二句の「かな」の用い方は、確かに「似たるなり」「そよぎけり」

でも良いように思える。
 切れ字の「かな」は今日の関西弁の「がな」に近いもので、YAHOO!JAPAN知恵袋のベストアンサーによれば、関西弁の「がな」は

 「~ではないか」という意味ですが、発言の中に「~やろ、絶対にそうや、そうに決まってる。」という気持ちが入っているのです。

と説明されている。
 切れ字の「かな」も完全な断定ではなく、どこか違うかもしれないがやはりそうだというニュアンスが込められている。

 木のもとに汁も膾も桜かな   芭蕉

の句にしても、「汁や膾は桜だ」という断定ではなく、汁や膾も桜みたいだ、桜のようだ、という不完全な断定で留めている。

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉

の句の場合、「似たる」という言葉が入り、既に「竹斎なり」という断定ではないことが示されているので、ここは「似たるなり」としてもよかった所だ。まあ、細かい所ではあるが、そこが気になるのが荷兮さんなのだろう。

 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

の句にしても、「残らず」という強い表現に対して「かな」と柔らかく受けているのが気にならなくもない。「風にそよぎけり」でも良かったかなというところだったのだろう。

 雲雀より上に休らふ峠かな     芭蕉

の句は「空に休らふ」の形で知られている。いずれにしても、

 郭公またぬ心の折もあり      荷兮

の句も同様だが、いわゆる「俳言」がないという点で、連歌発句だと言ってもいいのかもしれない。

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉
 凩に二日の月の吹き散るか     荷兮

 この二句については他人の難があるというだけで、特にどこが悪いということは記されていない。
 おそらくは「にて」留めが本来の発句の体ではないということと、「吹き散るか」は「吹き散るかな」の略だが、おそらく同じように発句としてはいかがなものかという声があったのだろう。

 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

の「艶なるはたはれやすし」は「ゆかし(惹きつけられる、魅力がある)」という言い回しのことを言っているのだろう。魅力のあるものにはついつい戯れてみたくなる、という一つの解釈を示したもので、難じたものではないと思う。

 霜月や鶴のつくつく並びゐて    荷兮

の句は「辛崎の」の句と同様、「て」留めが発句の体でないということだろう。句としては荷兮の句のほうが先に作られている。
 このように、荷兮の論は真面目な議論で、ことさら芭蕉をなじるようなものではなかったように思える。宮本三郎も、

 「荷兮が一派の指導のために種々の作風や表現を示したもので、この書が芭蕉に対して積極的に悪意を抱いて成されたものかどうかは必ずしも一概に言えない。」

と記している。
 多分、去来が荷兮に物を言いたかったのはこの書のことではなく、それ以前から荷兮が『冬の日』から『阿羅野』までのいわゆる蕉風確立期の風に固執して、『猿蓑』調以降の風に馴染まず、元禄六年に『曠野後集』を出版し、貞門・談林の時代を懐かしんだりしたその頃からの確執があったのであろう。
 今の様々な芸術のジャンルで活躍する人でも、生涯作風を変え続ける人は稀で、たいていはひとたび成功を収めると生涯その作風を引きずっている。
 昔からのファンは昔ながらの作品を求めているし、無理に新しいことに挑戦したりすれば、昔のファンは離れてゆくかもしれないし、だからといって新しいファンがつくという保証はない。だから、変わらずに同じスタイルを貫いて、ファンとともに年取ってゆく人のほうが多い。
 芭蕉の時代でも本当に芭蕉だけが例外で、多くの門人はひとたび成功を収めると、大体はその頃の風を生涯維持する傾向にある。
 去来や許六だって、芭蕉があと十年長生きして、惟然や播磨の連衆と新風を巻き起こしていたら、多分離反していただろう。

 「遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。」

というのは元禄七年五月二十二日から二十五日までの名古屋滞在のことで、二十四日には、

 世は旅に代かく小田の行戻り  芭蕉

を発句とした十吟歌仙興行が行われている。

   世は旅に代かく小田の行戻り
 水鶏の道にわたすこば板    荷兮

と脇を勤めている。
 こうして東海道を行き来していると、同じ所を行ったり来たりしている代かきみたいだ(自分の俳諧もそんなものかもしれない)と、やや自嘲気味の発句に対し、私なんぞは水鶏(芭蕉さん)の道のこば板のような者ですと付ける。

2018年10月22日月曜日

 今日も十四夜の月が綺麗だ。
 それではようやく『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、翁滅後、門弟の中に挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加ハリ、流浪漂白のとき、一夜の頭陀を休め給ふはたごやなど(に)いでて、門弟の数につらならんとするあぶれ者共、ミだりに集作る。
 一流の繁昌にハよろしといへども、却て一派の恥辱・他門のあざけり、旁(かたがた)かた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。
 廿一、去来曰、阿兄の言誠になげくべき物也。然ども蕉門の高客、今世にある者すくなからず。彼何ぞ我正道をさまたぐるに至ン。
 蕉門の流をくむといふとも、世に白眼の者あらば、正に其たがひ有事をしらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61)

 芭蕉亡き後、本当に世間の俳諧への興味が薄れているなら、門弟の数につらならんとするあぶれ者共もそんなたいした数ではなかろう。たくさんいるなら、俳諧がまだまだ繁昌しているしるしで、それは喜ぶべきことだ。
 ただ、裾野がいくら広くても頂点がないなら、先はおぼつかない。だから本当に嘆かなくてはいけないのは、蕉門の高弟の方であろう。
 去来も最初は一応、芭蕉の高弟の多くはまだ健在だし、間違ったことをやる奴は世間もわかっていて、白眼視するだろうとたしなめてはみるものの、離反する高弟も多く、話はそこで終らない。

 「近年書林に歳旦を持来りて、我ハ蕉翁の門人也、三物帖に蕉翁の門下と一ツに並書すべしといふ輩多し。
 湖南正秀一日告予曰、今歳旦之三ツもの、先師の門人の分、此を別禄す。
 其内、先師在世の間、いまだ名を聞ざる者おほし。以て憎べき事也。此後書林に正し、先師直示の門人のしらざる者ハ、此をはぶかん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61~62)

 正月に発句・脇・第三からなる三つ物を作り、それを歳旦帳として出版するのは習いだった。
 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「俳諧の宗匠家では,正月の慣習として側近の連衆(れんじゆ)と歳旦の〈三つ物〉をよみ,これに知友・門下の歳旦,歳暮(年始,年末の意)の発句(ほつく)を〈引付(ひきつけ)〉として添え,刷物にして配った。その刷物の数丁に及ぶものをいう。また,各宗匠の刷物を版元で合綴した〈三つ物揃〉をもいう。人々はこれを〈三つ物所〉の店頭,または街頭の〈三つ物売〉から買い求め,各宗匠の勢力の消長と作句の傾向や技量を評判しあった。」

とある。
 歳旦帖はその門の顔であり、そこに名を連ねれば多くの人がその人を門人として認めるわけだから、何とかそこにもぐりこませようとあの手この手の人もいそうだ。
 そうやって結構去来の知らない名前が並んでたりしたのだろう。ただ、芭蕉も旅のあちこちでいろいろな人と関わっているから、一概に似せ物とも言えまい。

 「去来曰、吾子の言勿論なり。然ども其内、或ハ先師の門人に再伝のものあらん。
 又先師ハ慈悲あまねき心操にて、或ハ重て我翁の門人と名乗らんといふもの、其貴賎・親疎トをわかたず、此をゆるし給ふものおほし。却而世に名をしられたる他門の連衆などの此を乞にハ、ゆるし給ハざるもあり。
 如此の輩、我蕉翁の流なりといへるも、又さもあるべし。
 今此をあらためのぞかんハ、却て隠便の事にあらず。ただ其儘ならんにハしがじと、云々。
 今乱に集作りて、我翁をけがすに似たりといへども、尤此をいとふにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 芭蕉は貴賎・親疎を問わず弟子にしてきたし、そういう連中を排除すべきではないし、たとえみだりに集を作って芭蕉翁を汚すように見えても、厭うべきではない、とこれは当然と言えよう。蕉門の裾野の広さは蕉門の実力の証だからだ。

2018年10月21日日曜日

 今日は朝から雲一つない天気で、どこへも出かけないのも勿体ないので、飯能の天覧山と多峯主山(とうのすやま)に登ってきた。アニメ「ヤマノススメ」の聖地でもある。
 多峯主山は標高271メートルだが360度の眺望があり、秩父の山々、大岳山、富士山、丹沢山、大山、反対側には筑波山も見えた。スカイツリーや東京の高層ビル群も言うまでもない。
 帰り道の甲州街道は十三夜の月に向って走った。
 十三夜のお月見の習慣は宇多天皇の頃からあるらしい。芭蕉は貞享五年、姥捨山の旅から帰って、芭蕉庵で十三夜を迎えた時に、「今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。」と記している。

 木曽の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉

 このあたりの話もぐぐれば出てくるので、そちらに譲ることにしよう。
 まあ、大宮人も月見の宴が一回だけというのは寂しかったのだろう。前にも書いたが、昔の名月というのは「明月」とも言うように、月の明るさが大事で、せっかくの月明かりだから無駄にせずに夜通し遊ぼう、というものだった。
 日本にはバレンタインデーの一ヵ月後の三月十四日にホワイトデーという日がある。これはバレンタインのプレゼントの返礼のためのものだが、ひょっとしたら十三夜にもそういう意味があったのかもしれない。
 十三夜という半端な日になったのは、季節がら十五夜よりもやや冷えまさる季節だけに、宴席も夜が更けて寒くなる前に終わりにしたかったため、月の出を待たずに早く始めたかったのかもしれない。
 まあ、これはあくまで今思いついた推測ということで、まだ「諸説あり」の一つにもなっていない。
 雲一つない空の十三夜の月に、いつかこの世界を曇らす不穏な動きもどこか吹き飛んで欲しい所だ。西側の政治家が建前綺麗事を言っているうちに、東の独裁国家がやりたい放題やっている。何でこんな世界になってしまったのか。

2018年10月20日土曜日

 今日も夕方から雨になった。いまひとつすっきりしない日が続く。
 明日は十三夜だが、晴れるかな。
 それでは『俳諧問答』の続きをちょこっと。

 「来書曰、アア諸門弟の中に秀逸の句なき事を悲しぶのミ。
 廿、去来曰、共に悲しむのミ。又秀逸有といふとも、きく人なからん事を悲しむのみ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 秀逸がないのを悲しむのはわかる。そのあとのは一体何が言いたいのだろうか。
 芭蕉亡き後、蕉門の俳諧に対する世間の関心が急速に薄れているということか。しかし、それは秀逸がなければ当然だろう。
 秀逸があるのに世間が見向きもしないとすれば、蕉門内部での評価と世間の評価の間にギャップがあるということで、これだと蕉門の俳諧が世間と隔絶された閉鎖的なカルト的なものになっているということだろう。
 しかし、芭蕉なき後の秀逸な句があるとすれば、一体どれのことをいうのだろうか。まさか「応々と」や「紅粉の小袖」ではないだろうね。
 近代の場合だと文学に限らず芸術一般において、西洋的な価値観で制作する人と日本の伝統的な社会に属する一般大衆の価値観との間に相変わらず大きな乖離がある。
 カンヌのパルムドールを取った是枝監督の『万引き家族』にしても、西洋で評価されるものが必ずしも日本では当たらないというのは、今に始まったことではない。スタジオジブリの『レッドタートル ある島の物語』もそうだった。

2018年10月18日木曜日

 ようやく夜晴れて、半月が見えた。明日はまた雨か。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 おそらく想像するに、元禄二年の冬、『奥の細道』の旅を終えた芭蕉が京都を訪れたとき、不易流行の話が出た時、去来は不易風と流行風の二つの風を新風としてこれから始めると理解したのではなかったかと思う。それは次韻風、虚栗風、蕉風確立期の風があったようなもので、その延長と考えていたのではないかと思う。
 それはさらに あるいは翌元禄三年、『猿蓑』の撰のときに、

 病鴈のよさむに落て旅ね哉かな    芭蕉
 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

の二句を示され、どちらか一句を選べと言われた時に、こういうふうに不易風と流行風を分けて詠むんだと確信したのではなかったかと思う。
 そこで「病鴈の」はいわゆる正風であり、「あまのやハ」は一時流行の風というふうに認識した。
 だから、許六に不易風と流行風を分けて詠むことを和歌十体に喩えて難じられたとき、不易と流行は体ではなく風だと反論することになった。
 もちろん不易と流行を分けて詠むこと自体は完全には否定し切れなかった。
 芭蕉が不易流行を説く前にも秀逸はあったという許六のアイロニーに対しても、去来は貞門には貞門の秀逸が、談林には談林の秀逸があった、というふうに理解していた。
 そして許六が不易流行を意識せずに句を作り、それが秀逸なら、それは許六さんの新風ではないか、と切り返すことになる。
 ただ、貞門風も談林風も風も、まだただ不易と流行の名前がなかっただけで後から見ればそれに類するものがあった。
 これを以ってして芭蕉が不易流行を説く以前にも不易と流行はあり、この二つの風は俳諧が始まった時からあったとするが、これだと不易と流行は芭蕉の新風とは言えなくなり、矛盾が生じてしまう。
 結局、後の『去来抄』の頃には不易と流行は「体」だということに修正することになる。芭蕉は普遍的に存在していた不易と流行の体に名前を与えた、ということになる。
 さて、そう考えると、次の文章はわかりやすくなる。

 「来書曰、曾(かつ)て流行・不易を貴しとせず。
 十八、去来曰、此論阿兄の見のごとくんバ勿論也。
 然ども阿兄静に此を考へたまへ。
 阿兄の今日先師に学び給ふ処者、古今の風を分ず此を学びたまふや。又先師の今日の風を学び給ふや。
 もし今日の風を学給ハバ、此流行を貴び給ふにあらずして何んぞや。
 昔日ハ先師の昔日の流行を学び貴ミ、今日ハ今日の流行を学び貴む。其流行に随ざるは先師の風におくる。おくるる者ハ其むねをゑず。故に流行を貴む。
 阿兄今此を貴まずといへども、心裏おぼえずして此を貴む人なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.59~60)

 不易風と流行風という二つの風が今日の風であるなら、今日の風を貴んで句を詠む以上、二つの風を貴んでいることになる。理の当然というわけだ。

 「来書曰、よき句をするを以て、上手とも名人とも申まじきや。
 十九、去来曰、阿兄の言しかり。宗鑑・守武このかた宗因にいたるまで、皆一時のよき句有ゆへ、時の人呼て名人とす。その名人の称、今にうせず。
 先師も此人々を貴み給ふ。此レよき句する人を名人といふ処也。
 しかれども此人々の風、先師今日とり給ハず。その句ハ一時によしといへども、風変じて古風すたる時ハ、共にすたる。このゆへに一時の流行にをしうつらん事をねがふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 不易風と流行風がともに一時流行の風ならば、不易風といえどもやがては廃れてゆくことになる。それでは不易じゃないじゃないか、ということになる。また不易風を起す前の秀逸は不易ではなかったということになる。
 「不易」を風と呼ぶ限り、この矛盾は付いて回る。「不易」は時代を超えた普遍的な価値であり、一時的な「風」を越えた根源的なものでなくてはならない。去来はその認識に至らなかった。基と本意本情の形式的な不易を越えられなかった。