2018年12月12日水曜日

 昨日の続き。
 蕉門の笑いがいわゆる今日でいう「あるあるネタ」を中心としたものとして一つの完成を見ても、そこに初期衝動の問題が残った。
 実際、あるあるねたはおおくのひとが「あるある」と思えば、それで終わるというわけでもない。日常のありがちな出来事は、ともすると「だから何なんだ」で終わってしまいがちになる。
 2006年ドイツ・ワールドカップの直後にレギュラーという芸人コンビの「あるある探検隊」のネタに「シュートチャンスにパスをする」というのがあったが、これを聞いた多くの人はすぐにワールドカップのあの一場面を思い浮かべたのではなかったかと思う。柳沢が空っぽのゴールのまん前でボールを横に蹴って、キーパーの股を抜いたボールはそのままポストの外側へ転がっていった。ミスキックなのか、それともあの場面でまさかの壁パスだったのか、議論を呼んだ。
 こういう場面は確かに日本代表の試合にありがちで、シュートが失敗した時の責任を取りたくないから、ついつい決定機でもパスを選択する。
 あるあるネタが笑いにつながるのは、それが単にありがちだというだけでなく、そのいつものパターンに不満や何らかの感情を持っているからでもある。
 そうなると、「あるあるネタ」にも風刺の要素はある。ただ、あからさまに「あんたが悪い」といった非難をせず、「多いんだよなー、こういうことって」で済ますにすぎない。嘲笑だとか勝ち誇った笑いとかではなく、ただ共通認識を確認しあう、「何だ同じこと考えているのか」という笑いに留める。
 俳諧の笑いも基本的に庶民が生活してゆく上で経験する様々な不条理の中で、鬱屈した不満のはけ口の役目を果たさなくてはならない。その初期衝動があって俳諧の笑いは成立する。
 芭蕉の軽みがある程度浸透した段階で、芭蕉もただ「あるある」を言うだけで様式化してはいけないということに気付いていたのだろう。
 流行の現象を不易の心で表現するだけでは足りない。伝統的な趣向にうわべだけ目新しい題材を取り入れるというのではなく、そこに生活から来る様々なわだかまりを反映できなくてはならない。

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句も、量を減らすことで実質的に値上げするというのは、今でもよくある事だ。そこで読者はただ「あるある」というだけでなく、値上げへの不満を投影させては共感する。しかし許六はそのことに気付いていたのだろうか。許六は結局この句を超えられなかった。

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

の句の成功にも、武家という暴力装置に対する複雑な感情が庶民にくすぶっていたからだと思う。元武士である去来も多少は狙っている所はあっただろう。

 古池や蛙飛びこむ水の音    芭蕉

の句にしても、古池が当時の「あるある」だったということ自体が、相次ぐ改易や新興商人の台頭で没落する旧家など、少なからず社会問題に絡んでいたと思われる。
 芭蕉が最終的に至った「不易」というのは去来の理解していたような「基」や「本意本情」ではなく、朱子学の倫理の根幹となる「誠」に留まるものではなく、人間としての自然な感情、生活の中で様々な形で生じる初期衝動だったのかもしれない。それが「あるある」という流行の形を得て、不易にして流行の句が成立すると考えていたのかもしれない。
 花を見て単純に綺麗だと思うのも初期衝動だし、暴力で虐げられて惨めに思うのも初期衝動に含まれる。そういう自然な感情の発露があって表現は成立する。ただ、それを生のまま露骨に表現するのではなく、『詩経』大序にあるように「礼に止む」が必要だった。社会に無用な対立や暴力を引き起こさないような、むしろ人々がそれに共感し、共通の言葉とし、共通認識を生じるような表現を求めていた。
 だから、「あるあるネタ」とはいっても社会風刺とは全く無関係というわけではない。むしろそれを日常的な「あるある」の中に上手く潜ませ、分断を招かないようにしながら共通認識を形成してゆく。それは今日のお笑い芸にも引き継がれる日本人の知恵となっていったのではないかと思う。
 『去来抄』「同門評」の「大切の柳」も、その観点から読み解けるのではないかと思う。

 腫物(はれもの)に柳のさハるしなへ哉   芭蕉
 浪化集にさハる柳と出。是ハ予が誤り伝ふる也。重て史邦が小文庫に柳のさハると改め出す。支考曰、さハる柳也。いかで改め侍るや。去来曰、さハる柳とハいかに。考曰、柳のしなへハ腫物にさハる如しと比喩也。来曰、しからず、柳の直にさハりたる也。さハる柳といへバ両様に聞きこえ侍る故、重て予が誤りをただす。考曰、吾子の説ハ行過たり。たださハる柳と聞べし。丈草曰、詞のつづきハしらず、趣向ハ考がいへる如くならん。来曰、流石の両士爰を聞給ハざる口をし。比喩にしてハ誰々も謂ハん。直にさハるとハいかでか及バん。格位も又各別也なりト論ず。許六曰、先師の短尺にさハる柳と有。其上柳のさハるとハ首切(くびきれ)也。来曰、首切の事ハ予が聞処に異也。今論に不及。先師之文のふみに、柳のさハると慥(たしか)也。六曰、先師あとより直し給ふ句おほし。真跡證となしがたしと也。三子皆さハる柳の説也。後賢相判じ給へ。来曰、いかなるゆへや有けん。此句ハ汝にわたし置。必ず人にさたすべからずと江府より書贈り給ふ。其後大切の柳一本去来に渡し置きけりとハ、支考にも語り給ふ。其比浪化集・続猿集の両集にものぞかれけるに、浪化集撰の半(なかば)、先師遷化有しかバ、此句のむなしく残らん事を恨て、その集にハまいらせける。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,29~30)

 これは簡単に言えば

 腫物に柳のさハるしなへ哉  芭蕉
 腫物にさハる柳のしなへ哉  芭蕉

のどっちが本当の芭蕉の句かという議論だ。
 「腫物にさハる柳の」なら慣用句で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」では、

 「機嫌を損じないように気遣い、恐る恐る接するさま。『まるで腫れ物に触るような扱い』」

となる。
 ただ、ここでは「触るような」ではなく「触る」と触ってしまっているわけで、意味はむしろ逆にわざわざ機嫌を損ねるようなことをしながら、上手く誤魔化されているようなニュアンスになる。
 本来は愛でるべき柳の枝のしなやかさも、実際に腫れ物に触ったらやはり痛いし、うざい。
 ただ、これが本物の柳と本物の腫れ物だったら、春のうららの一場面として流すことができる。しかし比喩の意味が露骨に出てしまうとそうもいかない。
 しなやかな柳の枝でも腫れ物に触れば痛い。それをあからさまに言わず春のありがちな実景の裏に隠すというのが、芭蕉が本当に去来に伝えたかった、本物の不易流行ではなかったかと思う。

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