「野は雪に」の巻もこれが最後。挙句の果てまで一気に。
名残の裏に入る。
九十三句目。
律のしらべもやむる庵室
秋はなを清き水石もて遊び 一笑
名残の裏なので、ここはおとなしく季節の句で繋いでゆく。
庵室といっても粗末な草庵ではなく立派な寺院で、庭には水を流し、形の良い庭石を並べ、そこで管弦の宴を行う。「もて遊び」は「以て遊び」か。
九十四句目。
秋はなを清き水石もて遊び
残る暑はたまられもせず 蝉吟
庭にいくら綺麗な水は、残暑の厳しい折にはありがたいものだ。
前に発句ではだいたい夏は涼しさを詠むのもので、暑さを盛んに詠むようになったのは猿蓑以降というようなことを書いたが、付け句は挨拶ではないので、貞門の時代にもこういう句があったのか。もちろん蝉吟もこの時代ではかなり革新的な人で、芭蕉に大いに影響を与えたと思われる。
九十五句目。
残る暑はたまられもせず
是非ともにあの松影へ御出あれ 一以
暑いなら松の影で涼めとのこと。「是非ともに」「御出あれ」と口語っぽく結んではいるものの、一種の咎めてにはといえよう。
九十六句目。
是非ともにあの松影へ御出あれ
堪忍ならぬ詞からかひ 正好
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、
「前句を喧嘩を挑んだ言葉として、『詞からかひ』を出した。」
とある。まあ町外れの一本松の下での決闘なんて、昭和の番長ものの漫画でも定番だが。
「からかひ」は今日ではweblio辞書の「三省堂大辞林」にある、
「① 冗談を言ったりいたずらをしたりして、相手を困らせたり、怒らせたりして楽しむ。揶揄(やゆ)する。 「大人を-・うものではない」
② 抵抗する。争う。 「心に心を-・ひて/平家 10」
の特に①の意味で用いられることが多い。「いじる」というのと似たよ
うな意味だ。
ただ、昔はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「負けまいと張り合う。争う。言い争う。」
とあるような意味だったようだ。
九十七句目。
堪忍ならぬ詞からかひ
おされては又押かえす人込に 宗房
前句の「からかひ」の声を荒げて言い争う様を街の喧騒に取り成す。リアルな方の芭蕉がよく出ている。
九十八句目。
おされては又押かえす人込に
けふ斗こそ廻る道場 一以
道場は今日では武道を行う場所のことを言うが、本来の意味はウィキペディアの「道場 (曖昧さ回避)」にあるように、
「サンスクリットのBodhimandalaを漢訳した 仏教用語で菩提樹下の釈迦が悟りを開いた場所、成道した場所のことである。また、仏を供養する場所をも道場と呼ぶ。中国では、隋の煬帝が寺院の名を道場と改めさせている。また、慈悲道場や水陸道場のような法会の意味でも用いられている。日本では、在家で本尊を安置しているものを道場と称する場合もある。また、禅修行の場や、浄土真宗、時宗の寺院の名称としても用いられている。」
だった。
縁日か秘仏の公開か、とにかく今日ばかりはということでお寺は人がごった返している。
九十九句目。
けふ斗こそ廻る道場
花咲の翁さびしをとむらひて 正好
「翁さぶ」はweblio辞書の「三省堂大辞林」に、
「老人らしくなる。老人らしく振る舞う。 『 - ・び人な咎(とが)めそ/伊勢 114』」
とある。この伊勢物語の歌は、
翁さび人なとがめそ狩衣
けふばかりとぞ田鶴も鳴くなる
で、下句の頭「けふばかり」となっている。
前句の頭が「けふばかり」なので、その上句に「翁さび」を持ってくることで『伊勢物語』の歌と同じような上句下句の繋がり方になる。一種の歌てにはといえよう。歌てにはの場合は形だけで、本歌付けのような歌の内容を借りてくるわけではない。
「花咲」は花が咲くということだが、松永貞徳の隠居した花咲亭に掛けている。花の咲く花咲亭の翁さびた貞徳さんの弔いのために「けふ斗こそ廻る道場」という意味になる。
挙句。
花咲の翁さびしをとむらひて
経よむ鳥の声も妙也 一笑
「経よむ鳥」は「経読み鳥」に同じ。「経読み鳥」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《鳴き声が「法華経(ほけきょう)」と聞こえるところから》ウグイスの別名。経読む鳥。《季 春》」
とある。貞徳翁の弔いのために鶯が「法華経」と経を読む。これにて追善の百韻は終る。
この巻でやはり目立つのは芭蕉の主人でもあり俳諧の師匠でもあった蝉吟の多彩な技と運座を仕切る展開の小気味よさ。それに後の談林風にも通じる進取の気性だ。
芭蕉はそこから多くのものを吸収し、やがて自らの風を確立していくことになった。
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