今年も残す所あとわずか。
去年・一昨年はいろいろ世の中が思わぬ方に動いたが、今年はその反動の年だったか。特に韓国はどこに行くのだろうか。
まあ、徴用工やレーダーの照射のことは何も言いたくないね。言えば金正恩が喜ぶだけだから。
資本主義は必然的に侵略戦争を生むというレーニン帝国主義論によるなら、日本の過去の侵略戦争への反省は、資本主義を放棄するまで終ることはない。北も日本の左翼も基本的にそれを狙っている。でもその巻添えで韓国まで資本主義を放棄しなくてはならなくなったりして。まあ、せっかく漢江の奇跡で手に入れた豊かさを簡単に手放すことはないとは思うが。
では、そんなところで「霜月や」の巻の続き。
二十九句目。
露をくきつね風やかなしき
釣柿に屋根ふかれたる片庇 羽笠
前句の風に「屋根ふかれたる」と付く。貞門風の古風な付け方だ。
「片庇」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「① 片流れの屋根。
② 粗末なさしかけの屋根。」
とある。
三十句目。
釣柿に屋根ふかれたる片庇
豆腐つくりて母の喪に入 野水
喪中なので肉や魚を絶ち、豆腐を作って食べる。
二裏に入る。三十一句目。
豆腐つくりて母の喪に入
元政の草の袂も破ぬべし 芭蕉
元政は日政の通称で、ウィキペディアには、
「日政(にっせい、通称:元政上人(げんせいしょうにん)元和9年2月23日(1623年3月23日)- 寛文8年2月18日(1668年3月30日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。俗名は石井元政(もとまさ)。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など。」
とある。
さらにウィキペディアには、
「1667年(寛文7年)に母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり一月あまり留まるがその翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰る。日燈に後事を託して寂す。享年46。遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。」
とある。句はこの本説と言えよう。
三十二句目。
元政の草の袂も破ぬべし
伏見木幡の鐘はなをうつ 荷兮
元政の開いた深草瑞光寺は伏見にある。木幡は隣の宇治市になる。今でもその鐘は鳴り響いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿