2018年12月16日日曜日

 男と女で能力的な差があるかどうかというと、一般論というか平均という意味ではあると思う。ただ、その差は個人差に較べれば微々たるものなので、入学や就職のような個々の能力を判定しなくてはならないときには、あくまで個人差で判定すべきであろう。
 これは男と女の身長の差に喩えればわかりやすい。平均すれば確かに男の方が背が高いが、実際には2メートルを越える女性もいれば140センチに満たない男性もいる。
 身体能力にしても、確かにほとんどの競技では女性より男性のほうが成績が良いが、ただ、女子の世界記録を超えられる男性は、各種目でたとえ数百人くらいいたとしても、全男性から較べればほとんど問題にならない程度の数だ。
 知的能力についても、男子は理数系に強く女子は文系に優れているだとかいうが、私なんぞも学校の数学では落ちこぼれだったし、個人差が大きすぎて何ともいえない。「話を聞かない男、地図が読めない女」なんて本が以前ベストセラーになったが、話を聞かない女も地図が読めない男もたくさんいる。
 まあとにかく性差はあっても、実際にはそれよりも個人差の方がはるかに大きいということはしっかりと認識しておいた方が良いだろう。
 これは人種や民族の差についてもいえることで、大事なのはその人個人の能力をいかに正当に評価するかだと思う。
 ただ、性的非対称性に関してはまた別の問題がある。女性が就職や進学で差別されるのは、たいてい出産と子育てによる休業の問題で、これはそれを補完する社会的なシステムが必要だろう。
 日本の場合女性の社会進出を拒んでるのは長時間労働の問題が大きく、男性でも過酷な職場に女性を参加させたくないという男心があるのではないかと思う。障害者の雇用を拒んでるのも結局その問題なのではないかと思う。働き方改革(働かせ方改革)なしに女性や障害者の雇用問題は解決しない。
 江戸時代の俳諧でも確かに性による障壁はたくさんあったと思う。女性の俳諧興行への参加は実際極めて稀だった。
 発句では有名になる女流俳人はいても、興行の座に上がるにはかなりハードルが高かったのではないかと思う。
 「校本芭蕉全集」の三巻から五巻を見ても、芭蕉と同座した女性は智月、羽紅、その女の三人がいるが、智月と羽紅は「梅若菜」の巻でともに一句のみ、その女は「白菊の」の巻で脇を含めて五句詠んでいる。
 この二つの巻はどちらも「鈴呂屋書庫」の「蕉門俳諧集」の方にアップしてある。ここには芭蕉同座ではないが、惟然撰『二葉集』で智月発句の「そんならば」の巻も紹介している。
 ちなみに「梅若菜」の巻の智月の句は、十四句目の、

   萩の札すすきの札によみなして
 雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲   智月

 羽紅の句は挙句の、

   花に又ことしのつれも定らず
 雛の袂を染るはるかぜ        羽紅

 名前を伏せられたなら、男が詠んだか女が詠んだかわかる人はいないと思う。
 元来風流というのは暴力を否定し言葉で心を和らげるためのもので、どちらかというと女性的な感性が求められる。

 鶯に手もと休めむながしもと     智月
 うぐひすやはたきの音もつひやめる  豊玉

の句はよく似ているが、豊玉はあの新撰組の鬼の副長、土方歳三のことだというから笑える。
 俳諧はジェンダー的に女性に不利なジャンルではなかったと思う。それだけに、興行の席でその姿を見られなかったのは残念でならない。

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