今日は一日雲って冬らしい寒い一日になった。
平地も紅葉が見頃になっている。
それでは「野は雪に」の巻の続き。
六十一句目。
誰に尋むことのはの道
まだしらぬ名所おば見に行しやな 一笑
「行きしやな」は「行っちゃったな」という感じか。師匠は旅に出ちゃったんで誰に和歌のことを尋ねれば良いのか。
六十二句目。
まだしらぬ名所おば見に行しやな
都にますや海辺の月 一以
海辺(かいへん)の月は松島の月まず心にかかりてというところか。と、それは随分後の芭蕉さんだ。月そのものはどこで見てもそんなに変わるものではないが、周りの景色なら確かに違う。
六十三句目。
都にますや海辺の月
罪無くば露もいとはじ僧住居 正好
前句の主を都を追われ海辺に隠居する大宮人とする。この場合海辺は須磨・明石の浜辺か。
自分に罪はないのだから、辺鄙な海辺での僧住居(すまい)も一時のもので、いつか帰れるかもしれない。耐えてみせようというところか。
「すまい」は月の澄むに掛かるが、須磨にも掛かっているのかもしれない。
露は粗末な家の草の茂れるに露にまみれるという意味と、「露ほども」という意味との両方を含んでいる。
六十四句目。
罪無くば露もいとはじ僧住居
する殺生もやむはうら盆 蝉吟
前句の罪の無いお坊さんに対し、罪深き漁師もお盆は殺生をやめるという相対付け(迎え付け)になる。このあたりの蝉吟の技術も確かだ。夭折したのが惜しまれる。
三の懐紙の裏に入る。
六十五句目。
する殺生もやむはうら盆
竹弓も今は卒塔婆に引替て 宗房
竹弓を使う猟師の墓参りとする。「弓」に「引」の縁語に一工夫ある。
六十六句目。
竹弓も今は卒塔婆に引替て
甲の名ある鉢やひくらし 正好
前句の「竹弓」に「ひく」で受けてにはになる。竹弓は卒塔婆に、兜は鉢に、かつて武士だった者の托鉢姿とする。
六十七句目。
甲の名ある鉢やひくらし
焼物にいれて出せる香のもの 一以
「香のもの」は今日でも「お新香(しんこ)」というように、漬物のこと。托鉢僧にお新香を恵む。
鉢は確かに焼物だが、料理の焼物にも掛けている。香の物だけでなく焼物も一緒に鉢に入れたか。
六十八句目。
焼物にいれて出せる香のもの
何の風情もなめし斗ぞ 宗房
「なめし」は「ない」と「菜飯」に掛かる。菜飯は菜っ葉を炊き込んだご飯のこと。
菜飯というと、芭蕉の終焉の頃の、
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
の句も思い出される。ご馳走ではなく看病の時にも作るような普通の食事だったか。
菜飯にお新香だけでは、確かに何の風情も無いか。
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