今日は一日小雨が降った。夕方には止み、雲間にほぼ満月に近い月が見えた。
話は変わるが、昔から職人の世界で、「仕事は習うのではなく見て盗め」というのは、決して意地悪で言っているのではない。
仕事を教えるというと、職場の師弟の上下関係では先輩の言うことは絶対で、あれもこれも教わってしまうと、先輩の良いところだけでなく、悪い所も真似てしまう。これでは進歩がない。
「盗め」というのは自分の技術向上に必要な良い物だけを選んで真似しろということで、これだと先輩の良い所だけ受け継ぎ、悪い物を捨てることが出来る。
職人の世界では、自分の息子をあえて他の職人の所で修行させたりする。こうしてそれぞれの良い所だけを受け継ぎ、悪い所を捨ててゆくことで、職人の技術は進歩してゆくことになる。
ただ学問の世界の師弟関係は微妙で、それはやはり教条(ドグマ)を受け継ぐという側面が強くなる。職人は結果がすべてだが、学問は「保存」優先になりやすい。
蕉門の師弟関係も、おおむね庶民の出の人は職人のような師弟関係をイメージし、武家出身の人は学者の師弟関係に近い捉え方をしていたのではないかと思う。それが、其角、路通、惟然のラインと去来、許六のラインを隔てていたのかもしれない。
長くなったが、それでは「霜月や」の巻の続きを少々。
十五句目。
麻かりといふ哥の集あむ
江を近く独楽庵と世を捨て 重五
歌集の主を出家して「独楽庵」を名乗る人物とする。「江を近く」は隅田川のほとりの深川に住む芭蕉庵にも通う。
「独楽」は独り楽しむの意味だが、日本では玩具のコマにこの字を当てる。
十六句目。
江を近く独楽庵と世を捨て
我月出よ身はおぼろなる 杜国
我が月というと、
月みればちぢにものこそ悲しけれ
わが身一つの秋にはあらねど
大江千里(古今集)
の心か。月はみんなが見ているし、月に悲しくなるのも自分ひとりではないが、それでも自分だけがことさら悲しいように思える。まあ、自分の月は自分自身で直接感じられるのに対し、他人の月は推測にすぎないから当然といえば当然だが。
春の朧月の霞むさまは、さながら世間から忘れ去れて影の薄くなる自分のようでもある。
十七句目。
我月出よ身はおぼろなる
たび衣笛に落花を打払 羽笠
花の定座で、花の散る中を笛を吹く旅人を登場させる。身が朧なのは、もしかして敦盛の亡霊?
十八句目。
たび衣笛に落花を打払
篭輿ゆるす木瓜の山あい 野水
「篭輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。
※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」
とある。「ろうよ」と読むと、
〘名〙 竹でこしらえた粗末なこし。かごこし。
※北条五代記(1641)二「両人の若君をいけとり奉りろうよにのせ申」
という意味になる。
山間の道で木瓜の枝が道を塞ぎ、その花を笛で振り払いながら歩く旅衣の人物は囚人で、険しい道だから駕籠から降りて歩くことを許される。
0 件のコメント:
コメントを投稿