2017年7月30日日曜日

 今日は午後から雨も止み、近所の盆踊りも今やっている。
 大谷篤蔵さんの『芭蕉連句私注「柳小折」の巻」』をネットで見つけた。付言のところに、

 二十四句目

   薄雪の一遍庭に降渡り
 御前はしんと次の田楽      芭蕉

の『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)が引用されていた。貴重な史料だ。それによると、

 「うす雪の降りわたりたる夕方、御前には釜などかかりてしんとしたるに、御次には田楽やきて酒のむらむか。」

と田楽は料理のことになっている。
 踊りとしての田楽は古代から中世のもので江戸後期には廃れていたから、「田楽」と聞いて真っ先に思い浮かぶのが味噌田楽だったことは想像できる。
 ただ、芭蕉の時代には大谷篤蔵さんが引用している『日次紀事』(黒川道祐著、延宝四年刊)に記載があるのであれば、芭蕉の時代には田楽はまだ神事で行われていたことになる。
 ただ、大谷篤蔵さんの「社前の群衆しわぶき一つせず、次の田楽を待つ」というのは、今のクラッシックコンサートではないのだからありそうにない。大体群衆が押し寄せたら薄雪の積もる隙もない。ここはまだ開場前の風景とすべきであろう。
 次の句の、

   御前はしんと次の田楽
 追込の綱を鼡のならす音     酒堂

を見ても、これが開場前のことだということがわかる。人がたくさんいたら鼠は出てこない。
 田楽は廃れたが、一遍上人の広めた念仏踊りに引き継がれ、今日でも盆踊りとして生き残っている。
 大谷篤蔵の「注解者に、当時の人のあらゆる事物に関する生活感情を過不足なく感じ取るだけの素地がなければならない。別に連句に限ったことではないともいえるが、特に連句の注解においてこの事実を感じさせられる。」の言葉は私の目指す所でもある。
 歴史学は長いこと政治体制や法制度の研究が中心で庶民の生活にはさしたる関心を持ってこなかったばかりでなく、進歩史観や貧農史観のバイアスによって多くの偏見を生んできた。
 そんな旧来の歴史学に突破口を開いたのは中世研究での網野善彦さんや80年代くらいから盛んになってきた江戸学の台頭で、今でこそネットを通じて様々な江戸時代の情報を入手できるようになったが、それ以前だと連句研究がほとんど手付かずの状態だったのは、ある意味やむをえなかったのかもしれない。いい時代になったと思う。

2017年7月29日土曜日

 今日は午後から雨が時折強く降った。こんな雨の中でも隅田川では花火をやったらしい。近所の盆踊りは中止になっていた。
 では、「柳小折」の巻の続き。

 二十五句目

   御前はしんと次の田楽
 追込の綱を鼡のならす音     酒堂
 (追込の綱を鼡のならす音御前はしんと次の田楽)

 中村注には「追込」は「見物席の末の方」だという。辞書には「劇場で、人数を限らず客を押し詰める安い料金の見物席。追込桟敷。」とある。
 田楽のために用意された会場の席には今は誰もいず、ただ張り巡らされた綱を鼠が鳴らす。

 二十六句目

   追込の綱を鼡のならす音
 隣の明屋あらし吹也       素牛
 (追込の綱を鼡のならす音隣の明屋あらし吹也)

 「追込」は追込桟敷のこととは限らず、単に多くの人や物を一箇所に詰め込むことをも言う。ここではどのような綱かはわからないが、追い込まれた鼠が暴れて音を立てている。さながら嵐のようだ、ということか。

 二十七句目

   隣の明屋あらし吹也
 葬礼のあとで経よむ道心坊    去来
 (葬礼のあとで経よむ道心坊隣の明屋あらし吹也)

 「道心坊」はコトバンクによれば、「1 成人してから仏門にはいった人。2 乞食(こじき)僧。乞食坊主。」と二つの意味があり、ここでは乞食坊主のことか。葬式は正式なお寺のお坊さんが経を読んだが、そのあとで死者に縁のあった乞食僧なのだろうか、開き屋になった古人の家で、嵐の中で経を読んでいる。

 二十八句目

   葬礼のあとで経よむ道心坊
 手拭脱でおろす牛の荷      支考
 (葬礼のあとで経よむ道心坊手拭脱でおろす牛の荷)

 一心に経を読む乞食僧がいると、土地の百姓さんがほっかむりの手拭を取って牛の背から荷物を降ろす。乞食僧への謝礼だろうか。

 二十九句目

   手拭脱でおろす牛の荷
 川ひとつ渡て寒き有明に     芭蕉
 (川ひとつ渡て寒き有明に手拭脱でおろす牛の荷)

 月の定座だが、芭蕉さんに遠慮して誰も付けたがらなかったか。
 哀傷の有心の句が続いた後だから、ここはさらっと景色を付けて流す。
 冬の明け方、有明の月の残る頃、荷を乗せた牛を引きながら冷たい川を渡り、渡り終えるとほっかむりを解いて牛の荷を降ろす。

 三十句目

   川ひとつ渡て寒き有明に
 岩にのせたる田上の庵     丈草
 (川ひとつ渡て寒き有明に岩にのせたる田上の庵)

 「田上(たなかみ)」は近江の大津にある田上山のことで、貞観元年(八五九)に智証大師円珍が開いた太神山不動寺がある。本堂は巨岩の上に建っている。
 ここではお寺ではなく「庵」なので、太神山不動寺創建の故事を連想させながらも、草庵に住む風狂の徒に変えている。

2017年7月27日木曜日

 なんかもう秋が来たみたいなどんより曇った天気で、台風のせいなのか。
 さて、『日本の味 醤油の歴史』(林玲子・天野雅敏編、2005、吉川弘文館)が届いたので、「柳小折」の巻の二十一句目に行ってみよう。

 二十一句目

   新茶のかざのほつとして来る
 片口の溜をそっと指し出して   酒堂
 (片口の溜をそっと指し出して新茶のかざのほつとして来る)

 片口は注ぎ口のついた器で、溜(たまり)はたまり醤油のことと思われる。『日本の味 醤油の歴史』によれば、「おもに愛知・岐阜・三重の東海三県で造られ、使用されている醤油」で、「濃口醤油の製法から小麦を除いたものと考えればよい」とのこと。そして、「大豆という単一の穀物から造られるという意味で、原初的な「穀醤」から派生したことが想定され、醤油の原点ともいわれる。ただ、商品化されたのは一六九九(元禄十二)年であるとする説もある。」(p.174)とある。
 一六九九年というのはあくまで一つの説だから、この巻の巻かれた元禄七年に溜まり醤油がすでに市販されていた可能性もあるが、商品化されてなくても地元で細々と消費されていたと考えれば問題はない。
 元禄期はようやくちょうどヤマサの初代浜口儀兵衛が銚子で醤油作りを始めた頃で、醤油の販売網はまだ全国には広がってなかったと思われる。
 新茶の匂いに醤油を付けるのは、匂いつながりで付ける響き付けではないかと思われる。当時都市部で広がりつつあった濃口醤油ではなくたまり醤油にしたのは、京ではなく美濃や伊勢など方面の田舎臭さをだすためかもしれない。

 二十二句目

   片口の溜をそっと指し出して
 迎をたのむ明日の別端      去来
 (片口の溜をそっと指し出して迎をたのむ明日の別端)

 中村注によれば、別端(わかれば)は「夫婦離別の際」だという。だとすると、恋になる。
 離別と言っても離婚ではなく(江戸時代中期までは離婚率は意外に高かったともいう)、これは「迎えをたのむ」ような別れだから、参勤交代などでの旅立ちでの離別なのだろう。ただ、「片口の溜」のどういう意味があったのかはよくわからない。

 二十三句目

   迎をたのむ明日の別端
 薄雪の一遍庭に降渡り      支考
 (薄雪の一遍庭に降渡り迎をたのむ明日の別端)

 薄雪が降ったからわざわざ駕籠などの迎えを頼むということか。

 二十四句目

   薄雪の一遍庭に降渡り
 御前はしんと次の田楽      芭蕉
 (薄雪の一遍庭に降渡り御前はしんと次の田楽)

 前句の「一遍」を一遍上人のことと取り成して、境内での田楽を付ける。一遍上人は田楽を布教に取り入れ、念仏踊りを流行させた。これが盆踊りの起源とも言われている。

2017年7月26日水曜日

 新茶の発句は『ばせをだらひ』(朱拙・有隣編、享保九年刊)に二句ある。

 宿々は皆新茶なり麦の秋        許六
 蝸牛(ででむし)も共に熬らるる新茶哉 有隣

 どちらも新茶単独で夏の句になっているのではなく、「麦の秋」「蝸牛」という別の夏の季題が入っている。
 許六の句はわかりやすい。麦秋の季節に旅をすると、どの宿でも新茶が出てくる。
 有隣の句の「熬らるる」というのは、おそらく抹茶の元になる碾茶を作るときに、蒸してから乾燥させる、その乾燥の過程ではないかと思われる。お茶の葉と一緒に、葉にくっついていた蝸牛も蒸され炒られているというのは、当時の碾茶の製造過程でのあるあるだったのだろう。

2017年7月25日火曜日

 ネットで注文していた『日本茶の歴史』(橋本素子、2016、淡交社)が届いた。まだぱらぱらとめくっただけだが、お茶には二つの流れがあって、唐風喫茶文化(煎茶法)が先に入ってきて、次に宋風喫茶文化(点茶法)が入ってきたようだ。
 唐風の煎茶法はいわゆる今日の煎茶ではないが、『日本後紀』に「大僧都永忠手づから茶を煎じ奉御す」とあるように、煮出して飲むお茶だった。ネットで見た原始的な番茶と呼ばれるものも、ここに端を発したものなのだろう。煎茶といえば煎茶だが、今日の煎茶ではないし、番茶といえば番茶だが、今日でいう番茶でもない。仮に「煎茶法の茶」と呼ぶことになる。
 この煎茶法の茶は点茶が入ってきても廃れることなく、かといって貧しい庶民のお茶だったわけでもなく、朝鮮(チョソン)王朝の官人である宗稀璟(ソンヒケン)が日本回礼使として来日した時に、京都臨川寺の住持から煎茶法の茶をふるまわれたとあるから、庶民のものから格式のあるものまでピンきりだったようだ。
 抹茶にしても中世には「大茶」と呼ばれる庶民のお茶があったという。抹茶もピンきりだったようだ。抹茶=高級、煎じ茶=庶民というのは、貧農史観の名残だという。
 また、今日のお茶のサイトにある、抹茶はひと夏冷暗所で保存して秋以降に出すから新茶は秋のものだという説は戦国末から江戸時代にかけての宇治茶の発展によるもので、中世では抹茶も夏の初めの新茶を良しとしたという。宇治茶が高級品で、江戸の庶民は中世の頃と変わらずに煎茶法の茶と熟成しない抹茶を飲んでいたとすれば、「新茶」が元禄の頃でも夏の季語だったのはうなずける。煎茶法の茶なのか抹茶なのかはまだ特定できないが。あくまで好みの違いで両方だったのかもしれない。
 隠元禅師の来日の際にもたらされた、明の茶葉を揉む工程を取り入れた煎茶法の茶は「唐茶」と呼ばれ、『虚栗』や『其袋』に用例があるという。調べてみたい。これが後の永谷宗円による、いわゆる今日の煎茶への発展に繋がる。
 そういうわけで、

   陽炎に眠気付たる医者の供
 新茶のかざのほつとして来る   芭蕉

の新茶が抹茶なのか煎じ茶なのかは特定はできない。
 さて次の句は、

 二十一句目

   新茶のかざのほつとして来る
 片口の溜をそっと指し出して   酒堂
 (片口の溜をそっと指し出して新茶のかざのほつとして来る)

だが、お茶の次は醤油の問題になる。なかなか難しい。

2017年7月21日金曜日

 二の懐紙に入る。

 十九句目

   巣おろす児の登る腰板
 陽炎に眠気付たる医者の供    丈草
 (陽炎に眠気付たる医者の供巣おろす児の登る腰板)

 前句の子供の遊ぶ情景にうたた寝する医者の供と、春の長閑な頃の響きで付けた句。
 医者の供というと天和の頃に流行した仮名草子『竹斎』のにらみの助が思い浮かんだかもしれない。芭蕉も、貞享元年、『野ざらし紀行』の旅の途中で、

 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉  芭蕉

と詠んでいる。

 二十句目

   陽炎に眠気付たる医者の供
 新茶のかざのほつとして来る   芭蕉
 (陽炎に眠気付たる医者の供新茶のかざのほつとして来る)

 「かざ」は香りのこと。「ほつと」というのは今日のような「一息つく」の意味もあるが、困りきったという意味で使われることもある。
 中村注に「ふわりとあたたかく匂ってくる」とあるのは今日的な語感で、当時もそういう風に用いられていたのかどうかは良くわからない。引用している『附合評注』(『芭蕉翁付合集評註』佐野石兮著、文化十二年のことか)には、

 「医者は内へはいりて長ばなしをしてゐる、表に僕のひとりねぶりゐる三月末の頃、昼の八ツ過なるべし。うちのあるじも中よき医者にて、ともにうちかたらひ、新茶など出してもてなすに、その匂ひのほつと来たる也」

とある。
 『附合評注』の時代は煎茶だったが、芭蕉の時代の新茶は番茶で、採れたお茶の葉をかなり原始的な方法で淹れたもので、そんな高級なものではないから、医者だけがお茶を飲んでお付の者はその香りだけということではなかっただろう。うとうとしていると誰かがお茶を持ってきてくれて、その香りのむわっとした感じが俳諧だったのではないかと思う。
 元禄時代のお茶事情はまだまだ調べなければならないことが多く、今後の課題にしたい。
 「陽炎」にしても「新茶」にしても、なかなか難しく奥の深い季語だと思う。

2017年7月20日木曜日

 今日も暑かった、ってこの時期はだんだん他の言葉が浮かばなくなってくる。
 とりあえず、「柳小折」の巻の続き。

 十五句目

   怱々やめにしたる洗足
 打鮠を焼と鱠と両方に       酒堂
 (打鮠を焼と鱠と両方に怱々やめにしたる洗足)

 鮠(はえ)はハヤともハヨとも言い、ウィキペディアによれば「日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称」だという。今日の特定の種に相当するものではなく、ウグイ、オイカワ、カワムツなどを指すようだ。「打鮠(うちはえ)」は中村俊定校注には「打網で捕った鮠の意か。」とある。
 川で捕まえた魚を焼き魚と鱠にして食べるとなると、殺生になる。足を洗うのはやめておこう、ということになる。ネットの語源由来辞典で「足を洗う」を見ると、「裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行いをやめる意味で用いられるようになった。 その意味が転じ、現代では悪業・正業に関係なく、職業をやめる意でも使われるようになった、」とある。
 美味しい焼き魚と鱠が食べたいから仏業に戻るのは後にしよう、ということか。

 十六句目

   打鮠を焼と鱠と両方に
 黒みてたかき樫の木の森      素牛
 (打鮠を焼と鱠と両方に黒みてたかき樫の木の森)

 樫はブナ科の常緑樹で照葉樹林を構成する木で、神社などで自然のままに残されている鎮守の森にも多い。打越の「洗足」の仏教に対し、神道の森へと違えて付けている。もっとも「洗足」だけでは釈教にならないように、「森」だけでは神祇にはならない。樫の森の中の川なら、魚もたくさん取れそうだ。

 十七句目

   黒みてたかき樫の木の森
 月花に小き門ンを出ッ入ッ     芭蕉
 (月花に小き門ンを出ッ入ッ黒みてたかき樫の木の森)

 さて、花の定座で、初裏にはまだ月が出てなかった。だからここで両方一気に出すことになる。
 「月花に黒みてたかき樫の木の森の小き門ンを出ッ入ッ」の倒置となる。
 前句を樫の木の森に住む隠者の句にして、月花を愛でると展開する。軽みのリアルなあるあるネタの連続からすると、やや古めかしいベタな感じもするが、難しいところからの月花への展開の技術は評価できる。
 『去来抄』には、

 「此前句出ける時、かかる前句全体樫の森の事をいへり。その気色(けしき)を失なハず、花を付らん事むつかしかるべしと、先師の付句を乞けれバ、かく付て見せたまひけり。」

とある。 弟子たちに頼まれての、こういう時にはこうやって付けるんだよという模範演技だったようだ。

 十八句目

   月花に小き門ンを出ッ入ッ
 巣おろす児の登る腰板      酒堂
 (月花に小き門ンを出ッ入ッ巣おろす児の登る腰板)

 今回は酒堂さんの大活躍のようだ。初の懐紙の終わりの時点で五句目になる。
 ここで言う児(ちご)は子供のことでお稚児さんではないのだろう。背の低い子供が小さな門の軒にある鳥の巣を取り除くのに腰板に登っているわけだが、「月花に児の小き門ンを出ッ入ッ腰板を登り巣おろす」の倒置になるので芭蕉の前句に比べてはるかに複雑で込み入っていてわかりにくい句になっている。この辺が力量の差だろう。

2017年7月19日水曜日

 ようやく梅雨明けとなった。
 おとといは古代東海道の旅で柏から布佐まで歩いた。布佐は震災の年に芭蕉の足跡を尋ねて鹿島詣でに行った時にも、木下街道からなま街道を歩いた時に通っている。あの時はまだひびの入った石塀がそのままだったり、屋根にブルーシートがかけてあったりした。今は震災を思わせるものもなく静かだった。
 それでは「柳小折」の巻の続き。

 十句目

   瘧にも食はいつものごとくにて
 大工の邪魔に鋸をかる       支考
 (瘧にも食はいつものごとくにて大工の邪魔に鋸をかる)

 これは難しいというか、よくわからない。
 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の中村注には、

 「大工の仕事中、時々鋸を貸してくれといわれて迷惑しているさま。前句の人を常は丈夫な人と見て時々細工事などするを思いよせた付。」

とあるが、それの何が面白いのかがよくわからない。大工さんから鋸を借りるというのはよくあることだったのか。
 室町時代には大型の製材用の鋸が普及したが、細工用の小さな鋸は江戸時代に入ってから発達したようだが、芭蕉の時代の鋸は果たしてどのようなものだったのか。その辺から考えてゆく必要があるのかもしれない。
 多分、鋸は貴重なもので、大工以外の一般人が持つものではなかったのだろう。斧や鉈はあっても、鋸は一般人にはかなり珍しいものだったのではないかと思う。だから、鋸を借りて何かをするというよりは、見せてくれだとか、試しに何かを切らせてくれというようなものだったのかもしれない。

 十一句目

   大工の邪魔に鋸をかる
 竹樋の水汲かくる庫裏の先     素牛
 (竹樋の水汲かくる庫裏の先大工の邪魔に鋸をかる)

 「庫裏(くり)」はお寺の僧の居住スペースで、大寺院となると部屋がいくつもある立派な建物が多いが、小さな寺だと普通の家に近い作りだという。
 食事もここで行うので厨房もあり、竹樋で山の湧き水を引いて来ることもあるのだろう。
 ここでも宮大工の使う大事な鋸を、薪を切るのに使わせてくれとか、結構無茶な話があったのかもしれない。

 十二句目

   竹樋の水汲かくる庫裏の先
 便をまちて酢徳利をやる      酒堂
 (竹樋の水汲かくる庫裏の先便をまちて酢徳利をやる)

 「便(たより)」は頼るもの、という意味から「ついで」「よい機会」という意味もある。山の水を樋で引っ張っているようなお寺だから、山奥の寺ということにしたのだろう。誰か町の方から尋ねてくる人がいたら、ついでに酢徳利を預けて酢を買ってきてもらおうということか。もっとも、表向き酢徳利だけど、こっそり酒でも、ということかもしれない。

 十三句目

   便をまちて酢徳利をやる
 降出しも忘るる雨のじたじたと   丈草
 (降出しも忘るる雨のじたじたと便をまちて酢徳利をやる)

 いつ降りだしたかも忘れてしまうほどのじとじとした長雨に、徳利を持って買い物に行くのも面倒くさい。誰か来ないか。

 十四句目

   降出しも忘るる雨のじたじたと
 怱々やめにしたる洗足       去来
 (降出しも忘るる雨のじたじたと怱々やめにしたる洗足)

 「怱々」にはあわただしいという意味と、今日でも使われる省略してといういみがある。降り続く雨でどうせまた汚れるのだからと、足を洗うのも簡単に済ませるということか。

2017年7月16日日曜日

 今日も暑い一日だった。
 それでは「柳小折」の巻の続き。

 脇。

   柳小折片荷は涼し初真瓜
 間引捨たる道中の稗       酒堂
 (柳小折片荷は涼し初真瓜間引捨たる道中の稗)

 ここには精鋭が集まったとでも言いたいのか。芭蕉さんも軽みへの転向で、ついていけない門人の離反が続いていた。あるいは大阪の之道のことも暗に含めているのか。おそらく、こういう言わなくてもいいことを言ってしまう所が之道との対立の要因でもあったのだろう。
 そんな裏の意味をちくりと込めた感じだが、表向きは芭蕉さんへの長い道中への労いの句となっている。
 稗は寒冷地や山岳地に強く、米が不作の時への備えとなる。新暦でいうと五月に種を蒔き、九月に収穫する。その間の間引きは欠かせない。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には夏之部五月の所に「穇蒔(ひえまく)」の項がある。

 第三。

   間引捨たる道中の稗
 村雀里より岡に出ありきて    去来
 (村雀里より岡に出ありきて間引捨たる道中の稗)

 稗は山間部で作るため、間引きされた稗を求めて雀も山間の方へ遠征してゆく。「間引捨たる道中の稗に村雀の里より岡に出ありきて」の倒置となる。て止めのときは後ろ付けになることが多い。

 四句目。

   村雀里より岡に出ありきて
 塀かけ渡す手前石がき      支考
 (村雀里より岡に出ありきて塀かけ渡す手前石がき)

 前句の村雀を背景として捨てて、村人が里より岡に出歩くと取り成す。石垣から落ちないように塀をめぐらす。

 五句目。

   塀かけ渡す手前石がき
 月残る河水ふくむ舩の端     丈草
 (月残る河水ふくむ舩の端塀かけ渡す手前石がき)

 塀のある石垣を川べりの風景として、浸水した船が放置されているありがちなものを付ける。月の定座なので有明の頃とする。

 六句目

   月残る河水ふくむ舩の端
 小鰯かれて砂に照り付      素牛
 (月残る河水ふくむ舩の端小鰯かれて砂に照り付)

 前句に小鰯が干からびて砂の上に点々としている情景を付ける。この頃はまだ「枯れ節」はない。

 初裏、七句目。

   小鰯かれて砂に照り付
 上を着てそこらを誘ふ墓参    酒堂
 (上を着てそこらを誘ふ墓参小鰯かれて砂に照り付)

 墓参りというと今ではお彼岸だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』によると、「七月朔日より十五日に至りて、各祖考の墳墓に詣る也。」とある。また、源順家集の

   七月十五日ぼんもたせて山寺にまうづる所
 けふのためをれる蓬の葉をひろみ
    露おく山に我はきにけり

を引用して、「是盆の墓参り也」と書いている。昔は墓参りというとお盆のものだったようだ。
 田舎の漁村のことだから一族みんな近所に住んでいる。お盆は暑い時期だが、本家の人が一応礼装のつもりで羽織だけ着て、一族に誘いかけて墓参りに行ったのだろう。

 八句目。

   上を着てそこらを誘ふ墓参
 手桶を入るるお通のあと      芭蕉
 (上を着てそこらを誘ふ墓参手桶を入るるお通のあと)

 お盆の頃は参勤交代の季節でもあったので、行列が通るというので一応羽織だけ着て、通り過ぎたら手桶を持って墓参りに向う。
 同じあるあるネタでも、大名行列の格式ばったスタイルをちくっと風刺するあたりがさすが芭蕉さんだ。上だけの庶民と違い、きちっと正装して通過する武士の汗だくの姿が浮かんでくる。

 九句目。

   手桶を入るるお通のあと
 瘧にも食はいつものごとくにて   去来
 (瘧にも食はいつものごとくにて手桶を入るるお通のあと)

 「瘧(おこり)」はマラリアのことで、平安時代の人も江戸時代の人もこの病気には苦しめられた。日本でこの病気が克服されたのは戦後の高度成長の始まる頃だったという。
 マラリアの周期的な熱で苦しんでいても、光源氏だって北山に療養に行ってそこで若紫の所に通ったり、周期的な発熱だから熱の引いているときは結構余裕だったのか。
 そういうわけでマラリアだからといって食欲が衰えることもなく、食事を手桶に入れて運んでもらっている。

2017年7月15日土曜日

 まるで梅雨が明けたような日が続くけど、新聞には空梅雨と書いてあった。まだ明けてないらしい。
 今日は旧暦閏五月二十二日ということで、元禄七年のこの日には、落柿舎で、

 柳小折片荷は涼し初真瓜     芭蕉

を発句とする興行が行われている。連衆は珍碩あらため酒堂、去来、支考、丈草、そして後に惟然を名乗る素牛とそうそうたるメンバーだ。「落柿舎乱吟」という前書きがあるように、人数はそう多くないが順番でつけるのではなく、出勝ちでおこなわれたようだ。
 発句は「柳小折の片荷は初真瓜にて涼し」の倒置。
 「柳小折(やなぎこり)」は柳行李のことで、柳の樹皮を編んで作ったつづら籠のこと。本来は収納用で、それを天秤棒で担ぐというのは、誰かが差し入れでわざわざ持ってきてくれたものか。片方の荷はおそらく日用品で、もう一方に採れたての真瓜(まくわ)が入っていたのだろう。
 真瓜は今日では「まくわうり」と呼ばれ、「真桑瓜」という字を当てているが、本来は「瓜」という字を「くゎ」と発音していたため、胡瓜に対して本来の瓜ということで真瓜(まくわ)と呼んでいたのだろう。だとすると、「まくわうり」は同語反復になる。
 江戸後期の曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「甜瓜」と書いて「まくはうり」と読ませている。また、「美濃国本草郡真桑村、これ甜瓜の権輿(はじめ)也。故に真桑瓜と名(なづ)く。」とある。ウィキペディアもこの説を採っているし、ネット上では概ねこの説が採られている。ただ、出典はよくわからない。
 西洋からメロンが入ってくるまでは真瓜は夏の甘味の代表で、この粋な贈り物を興にして興行が始まる。

2017年7月14日金曜日

 結局まとめていうと、芭蕉が行き着いた境地というのは、多くの人の共通体験だったりよく噂に聞くことだったりする、いわゆる「あるある」ネタでもって、多くの人の共感を得ると同時に、そこから古典にもしばしば表現されてきた人類不易の情を喚起させることだった。
 この不易の情の喚起に関しては、芭蕉の弟子たちはなかなか十分に再現できなかった。ただの「あるある」、日常の風景の一場面を切り取るまではできても、そこから先にはなかなか進めなかった。
 惟然の超軽みの風も、その点では越えられない壁だったといえよう。
 芭蕉の場合、単なるあるあるを越えて、しばしば人類の普遍的な理想にまで到達する。身分のわけ隔てなく多様な人々が一同に花の下で語り合う世界、それは美というよりは社会の理想ですらあった。
 そして猿に小蓑を着せ、どんなに落ちぶれても雨露をしのぐ人としての最低限の権利を叫んだ。それは様々な西洋哲学を学んだ近代の俳人にもまねはできなかった。理念はあっても、それを伝える「あるある」を思いつかなかったからだ。
 近代文学は多くの人の共通体験を探るのではなく、あくまで個人の体験を中心としたため、結局は作者の独りよがりの句が多く、作者のことを十分理解しないと、句の意味すらわからないような状態になった。内輪の句会ではそれでよくても、作品として多くの人に親しまれる句は皆無だった。
 高い理想を身近な「あるある」で表現する、それは未だに芭蕉だけがなし得た業だったのかもしれない。もし将来それができる作者が現れたなら、芭蕉のようになれるかもしれないから、若い人にはぜひ挑戦してほしい。もちろん外国の人も試して欲しい。ひょっとしたら日本を上回る俳句文化を生み出せるかもしれない。
 

2017年7月13日木曜日

 梅雨は明けてないが連日晴れて暑い日が続く。
 惟然『二葉集』の句はこういうときにはとにかくストレートだ。

 あついのはこれこれみんなこれみんな 之白

 「これこれこれ」と来て俳号にまで「之」がついている。

 兎に角に寝ずばなるまい暑哉     其風

 まあ、眠れないなら起きていればいい、と行きたいところだが、明日の仕事を思うとそうも行かない。

 此暑さ瀬戸物棚に立寄らん      一指

 陶器は確かに触るとひんやりしている。

 涼風の陰嚢(ふぐり)ふり出す昼寝じゃよ 正興

 惟然と両吟半歌仙を巻いた正興さんも、こんなシモネタを披露する。
 まあ、七月から下半期。横浜エフエムだと香港映画の巨匠に因んでシモハンキンポーとかいって、この季節はシモの話をしようというネタがあったが。
 まあ、いずれにせよ他愛もない句だ。時にはこういう他愛のないネタでもいいかな。

2017年7月11日火曜日

 まず訂正から。前回の十二句目の「さあ秋風が秋かぜがさあ」は惟然ではなく正興でした。
 十三句目

   さあ秋風が秋かぜがさあ
 五器ふけばはやすずむしの思はるる   正興

 「秋風」に「吹く」は縁語だけど、「五器ふく」だと「拭く」の方か。五器

を拭いていると鈴虫のことが浮かんでくるのはなぜかというと、「ふく」といえば秋風だからだ、と落ちになる。
 あるいは五器に五器被(ごきかぶり)の連想も働いていたか。ゴキブリと鈴虫、似てないけど。

 十四句目

   五器ふけばはやすずむしの思はるる
 我が居る所は福島の先         惟然

 福島という地名が唐突だが、「拭く」からの縁か。今だったら仙台市の虫は鈴虫(昭和47年制定)だが、宮城野の鈴虫が当時有名だったかどうかはわからない。

 十五句目

   我が居る所は福島の先
 終夜(よもすがら)いふた事みなうそでない 惟然

 大阪の淀川河口に西成郡福島村があったが、備中での夜を徹しての俳諧で「我が居る所は福島の先」というのは、大阪の先という点では嘘ではない。

 十六句目

   終夜いふた事みなうそでない
 どうでも是は薪がふすぶる       正興

 「どうでも」は「それにつけても」と同様、話題を転換する時の言葉で、これを使えばどんな句でもつく万能の付け句が作れる。夜もすがら語り明かしたことが本当か嘘かはともかく、薪はくすぶっている。
 「終夜いふ」を「語る」と同様に取れば、恋の句ともいえないこともない。

 十七句目

   どうでも是は薪がふすぶる
 花花花散と盛はいつの比        正興

 「いつの比(ころ)」に「どうでも」と付く。花の定座。

 十八句目

   花花花散と盛はいつの比
 遊びはじめの若菜なるべし       惟然

 「いつの比」を「いつのことやら」というまだまだ先という意味にして、正月の若菜摘みにもってゆく。

2017年7月9日日曜日

 今日はとにかく暑い一日だった。九州のほうではまだ雨が降っているのに。
 それでは「此さきは」の巻の続き。
 五句目。

   ぼんどをろより細工ほつほつ
 温泉は山の中から涌て来る       正興

 地獄の釜の蓋が開くイメージを山の中の温泉のイメージにしたか。特に付け筋というようなものもない。近代連句の連想ゲーム(シュール付け)に近い。

 六句目

   温泉は山の中から涌て来る
 雨はらはらかさらさらとまた      惟然

 これも温泉の湿気と雨の湿気という程度の繋がりか。

 初裏に入る。七句目。

   雨はらはらかさらさらとまた
 延すまひとにかくかるふ杖で出ふ    惟然

 雨が降ったからといって旅の日程を延ばすことはない。ただ軽い気持ちで杖を突いて出てゆく。

 八句目

   延すまひとにかくかるふ杖で出ふ
 火をかきたてむ油へつたの       正興

 油が減ったが油うりもこないので、杖をついてどこかに借りに行こうということか。

 九句目

   火をかきたてむ油へつたの
 とろとろは臼のおとやら何ンじややら  正興

 火から「とろとろ」と展開するが、火の様子ではなく臼を挽く音か何か、何だかわからないものにする。何だかわからないものを出せばどうにでも取れるから、確かに展開はしやすい。

 十句目

   とろとろは臼のおとやら何ンじややら
 そもさとりとはかうさだめたり     惟然

 これは禅問答というのか。稲妻の光や火打石の火花に悟りを開くなら、何だかわからない臼を挽くような音に悟りを開いてもいいじゃないかというところか。

 十一句目

   そもさとりとはかうさだめたり
 見て通る松よ流よ月よ雲        惟然

 急にまともな句になる。「見て通る松に雲の流れる月よ」の「よ」を係助詞的な倒置で前に持ってくるのだが、三箇所にそれを持ってくる。喩えていえば、「古池に蛙飛び込む水の音や」を「古池や蛙や飛び込むや水の音」とするようなもの。
 頓悟はどんなものからも突然訪れるもので、臼の音でもいいし松に月の雲でもいい。

 十二句目

   見て通る松よ流よ月よ雲
 さあ秋風が秋かぜがさあ        惟然

 この種の同語反復は惟然流の常套手段で、内容的には月が雲に隠れるのを秋風のせいにするわけだが、秋風秋風と繰り返すことで他のものを省略できる。内容が少なければそれだけ次の句の展開はしやすい。それが惟然流の超軽みの良い所でもある。ようするに悩まない俳諧というところか。
 悩みすぎて速度が遅くなった蕉風確立期の芭蕉の俳諧への反省から生まれた軽みだから、悩まずに付けられるという方向に極端に進めば、一句の内容をできる限り少なくして曖昧にするというのが答だったのだろう。
 最小で、場面の限定されない内容であれば、その展開はそこからの連想ということになる。

2017年7月8日土曜日

 テレビで藤井四段のことをやっていたが、思うに人間というのは常識だとか過去の経験だとかに囚われて、無数の最善手を捨ててきたのではないかと思う。ちゃんと自分の頭で考えて、その捨ててきた手の一つでも掬えれば天才になれるのではないかと思う。
 AIが強いのは、全部自分で考えているからだと思う。AIは人間の作った過去の概念を知らず、膨大なデータの中から独力で未知の概念を発見する。それは全ての天才の中の天才がすることだ。
 AIが俳諧を読んだなら、現存する全ての俳諧を入力してやれば、これまで文学者のまったく思いもよらなかった独自の概念をそこから発見するだろう。残念ながら私にはそれはできない。ただ、暇に任せて一つ一つ地道に俳諧を読み解き、経験値を重ねてゆくだけだ。芋洗う俳諧AIならば読み解かん。

 そういうわけで、とにかく今は経験値稼ぎということで、惟然撰『二葉集』の一折(半歌仙)に挑戦しようと思う。『炭俵』や『奥座敷』を越える超軽みの風は、ある意味で俳諧の最終形態だったのかもしれない。とにかく、これを最後に俳諧の新たな実験は終わり、後は過去の焼き直しになっていったからだ。
 まずは発句。

 此さきは何ンであらふぞ夏木立   正興

 正興(まさおき)は備中井原村の人で、名字は柳本。井原というと昔は笠岡との間に軽便鉄道が走っていた、というのは筆者が中学高校の頃「テツ」だった時の知識。今ではそれとまったく関係ない井原鉄道というのがあるらしい。
 惟然が元禄十五年に播州へ行き、千山や良々との交流も深めてゆく。この時備中や美作へも足を伸ばし、正興との交流も深めてゆく。
 発句の意味は、旅の途中の惟然のことを思い、この夏木立の向こうには何が待っているのか、と問いかけたもの。それに対し惟然の脇はこう答える。

   此さきは何ンであらふぞ夏木立
 あのように只月すずしかれ     惟然

 要するに、夏の夜の月の涼しさに誘われただけで何があるわけでもない。正興の歓迎の気持ちに対し、目的はもっと先にあるとは言えない。この先特に何があるわけでもない、今が一番大事だ、というわけだ。
 両吟の常として惟然が第三を詠む。

   あのように只月すずしかれ
 そこもとの替た事とせり付て    惟然

 まさにその場所の変わった事と食いついてみれば、何のことはない、只月が涼しかっただけだと、どこの何が変わっていたのかわからない何となくあいまいな内容だが、会話の中ではいかにもありそうというのが惟然風の持ち味なのだろう。
 四句目。

   そこもとの替た事とせり付て
 ぼんどをろ(盆燈籠)より細工ほつほつ 正興

 「ほつほつ」は「ぼちぼち」か。
 変わった事といえば、盆燈籠に少しづつ細工を凝らしてゆくことか。

2017年7月7日金曜日

 今日は新暦七夕で、珍しく晴れて月が出ている。もっとも、都会ではどのみち天の川は見えないが。
 ちなみに今年の旧暦七夕は八月二十八日でかなり遅い。閏五月があるせいだ。名月は十月四日だという。

   野童亭
 七夕や秋を定むるはじめの夜   芭蕉

も今でいえば八月の終わり頃の句だったか。(「こよみのページ」によれば八月二十七日。)閏五月のあった元禄七年の句。
 空も風もすっかり秋めいているのになかなか暦の上で秋にならなかったというのが根底にあったのだろう。七夕が来てようやく本当の秋の夜となった。
 この句は『三冊子』「あかさうし」に、

「此句、夜のはじめ、はじめの秋、此二に心をとどめて折々吟じしらべて、数日の後に、夜のはじめと究り侍る也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,114~115)

とあるため、ネットで検索するとみんな「夜のはじめ」の形で出てくる。
 ただ、この岩波文庫の潁原退蔵の注にもあるとおり、諸本が一致してなくて、帝国図書館蔵本には「夜のはじめ、はじめの夜此二心をとどめて‥‥はじめの夜と究り」になっているし、杉浦氏蔵書入本には「夜のはじめ、はじめの秋、此二に心をとどめて‥‥夜のはじめと究り」となっているが、そこに、

 「句毎に宜方を書たる中に此一句計直らざるさきをかけるいぶかしもし夜のはじめに定たるとかける方をあやまれるか後の君子猶味へ給へ」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,115)

と頭書があるため、安易にネットで流布している形をコピペしない方がいいだろう。
 「はじめの夜」の方は風国編『泊船集』(元禄十一年刊)にある形で、これに対し「夜のはじめ」の方は芭蕉の遺稿で各務支考が元禄八年に出版した『笈日記』にある形なので、「夜のはじめ」は草稿の段階で、「はじめの夜」の方が完成形ではないかというわけだ。
 実際句を見てみると、

 七夕や秋を定むる夜のはじめ

だと「七夕は秋を定むる夜のはじめや」で「秋を定むる」が「夜」に掛かるため、「はじめ」が強調されて、「はっきりと秋になった夜が始まるのだろうか」という意味になる。
 これに対し、

 七夕や秋を定むるはじめの夜

だと、「七夕は秋を定むるはじめの夜や」で、「夜」が強調されて、「はっきりと秋になった最初の夜だろうか」という意味になる。
 七夕が暦の上で秋になってからの最初の夜の祭りだという、その夜が大事だというのであれば「はじめの夜」の方が勝っていると思う。
 山梨の伊藤洋さんの芭蕉dbでは、「初案の『はじめの夜』が句意には一致している。」としている。「夜のはじめ」に窮まったとしながらも、「はじめの夜」を支持している。
 そういうわけで今年は四ヶ月もある長い夏。まだまだじっくりと夏の俳諧が読める。

2017年7月5日水曜日

 昨日は新潟で、今日は山陰で、今は福岡・大分で、大変な雨になっている。こちらはたいしたことなかったが。昔は「梅雨の集中豪雨」という言い方をしたが。

 さて、「取あげて」の巻と同じ頃と思われるもう一つの歌仙の表六句が、この「『別座敷』『炭俵』連句抄」で紹介されている。メンバーも「取あげて」の巻と同じ。
 まず発句は、

 若竹の肌見せにけり五月雨       八桑

で、筍は皮をかぶっているがそれが延びて若竹になると竹の肌が見えてくるという句。芭蕉さんのおかげで皆さんの俳諧も成長し、一皮剝けたということか。
 脇は、

   若竹の肌見せにけり五月雨
 くさみ付たる片搗の麦       楚舟

 吉田義雄氏は「片搗の麦とは、水にひたして一度ついた麦。それを乾かして、また水を掛けてつくのを本搗という。本つきでない麦なのでくさみがついたというのである。五月雨時の湿気のいたずらである。」とある。
 片搗きの麦は糠が残っているため臭みがある。ネットによると、糠を取り除いて再び搗いたものを「真搗麦」「もろつき麦」というらしい。
 五月雨の季節は麦の収穫の後で、真搗きにするには一度乾燥させなくてはならないので、乾くまでは片搗きの麦を食べていたのだろう。
 発句の「一皮剝けた」に対して、謙虚に「まだまだ臭みの残る片搗きの麦です」と受ける。
 第三は、

   くさみ付たる片搗の麦
 燕の三番子迄産連て          桃隣

 燕は一回産卵し、その子が巣立った後もう一度産卵して二番子をもうけることが多いという。ただ、三番子となると時期的にも遅くなり、夏も終わりに近くなる。ツバメは巣を作るとき泥を落とすところから、

 杯に泥な落しそ群燕     芭蕉

の句がある。「くさみ付たる」はここでは糠の臭みではなく、燕の泥が落ちたからか。
 四句目。
   
   燕の三番子迄産連て
 戸板に膳をふせる夕影       子珊

 燕は三番子を引き連れて南へ帰って行くと、さながら宴の後。戸板の上にひっくり返して重ねられたお膳に夕日が当たるように寂しい。響き付けの句。
 五句目。

   戸板に膳をふせる夕影
 有明の船に召されて御寝ンなれ     杉風

 夕影に有明と相対して付ける向い付けの句。明日は有明の月の頃に船に乗るから、今日はもうここでお開きにして寝ましょうということか。
 六句目。

   有明の船に召されて御寝ンなれ
 どこらの畑か鹿を追ふ声      亀水

 有明の船でうとうとしてたら、どこからか鹿を追っ払う農夫の声がする。

2017年7月4日火曜日

 今夜は体風が通り過ぎるという。さっきは雨が激しかったが、今は静かだ。これが嵐の前の静けさというやつか。

九句目
   一里こちから泊り見にやる
 腹癖にきりきり痛ム節ッ替       楚舟
 (腹癖にきりきり痛ム節ッ替一里こちから泊り見にやる)

 これは難しい。「腹癖」も「節ッ替」も辞書に載っていない。
 「癖」は本来腹の病気の意味で、「腹癖」は同語反復でもある。腹の中の胃腸が一方に傾いて片寄るところから転じて「くせ」の意味になる。「腹癖」の読み方はよくわからないが、病気の名前なら「ふくへき」だろう。
 「節ッ替」は単純に読めば季節の変わり目で、吉田義男さんはそのように解釈しておられるし、ほかに思いつかないので一応それに従っておく。「ツ」という送り仮名があるので読み方は「せつかはり」だろうか。
 季節の変わり目で腹がきりきり痛むので、急遽宿を探すことになり、一里手前から宿場の様子を見に行き、病人が泊まるのに良さそうな宿を探す。何か、芭蕉の最後の旅の情景のような気もする。

十句目
   腹癖にきりきり痛ム節ッ替
 窪ヒ所へ木の葉吹込む       子珊
 (腹癖にきりきり痛ム節ッ替窪ヒ所へ木の葉吹込む)

 「窪ひ」は窪の形容詞化した「くぼし」が「くぼい」になり表記する際に「窪ヒ」になったものと思われる。
 腹の中に何かが詰まっている様子を、季節変わりの景物のイメージで表したらこんな所か。

十一句目
   窪ヒ所へ木の葉吹込む
 昔より稲荷の前の挽細工        杉風
 (昔より稲荷の前の挽細工窪ヒ所へ木の葉吹込む)

 「挽細工(ひきざいく)」は轆轤(ろくろ)を使って木を回転させ、丸く削ってゆく細工物のこと。お稲荷さんの神殿にはこういう引き細工の物が用いられていたのだろう。
 ただ古い神社なので荒れ果てていて、境内はもとより神殿の床などにも至る所にに窪みができてたりして、そこにご神木の公孫樹の葉や何かが溜まってたりした。
 荒れ果てた神社は、むしろ当時としては修復を求める意味合いの方が強く、そこに風情を感じるようになったのはもう少し時代が下ってからではないかと思う。
 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに、熱田神宮の荒れ果てているのを見て、

 「社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生たるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉   芭蕉」

と詠んでいる。その後『笈の小文』の旅で熱田を訪れた時は修復工事が終わりすっかり見違えるような姿になり、

   熱田御修覆
 磨なをす鏡も清し雪の花      芭蕉

と詠んでいる。
 杉風もこの句も、古い稲荷神社が荒れ果てているのを悲しむもので、「滅びの美」なんてつもりはなかったと思う。

十二句目
   昔より稲荷の前の挽細工
 唯着のままて娘ほしかる      桃隣
 (昔より稲荷の前の挽細工唯着のままて娘ほしかる)

 さて、荒れ果てた神社でしんみりした気分になったあとはガラッと気分を変えるために、こういうときは卑俗に落とすことが多い。
 前句の「挽細工」を細工物のことではなく細工師に取り成しての展開だ。神社の門前には神具を作るための挽き物師が住んでてもおかしくはない。それがあとを継ぐ息子のための婚活をする。ややこしいしがらみを避けるためか、親があまり口出さないような「着のまま」できてくれる嫁がいい、と。(当時は娘の親がいろいろ口出して離婚になることが多かった。)
 ここで思い浮かぶのが、元禄七年九月二十七日、園女亭興行の芭蕉最後の俳諧興行、「白菊の」の巻の

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

の次のこの句だ。

   野がらすのそれにも袖のぬらされて
 老の力に娘ほしがる      一有

 偶然にもここにも「娘ほしがる」という言葉が見られるが、この「取あげて」の巻が元禄七年の夏だとしたら、こちらの方が先ということになる。
 あるいは、芭蕉がこの「取あげて」の巻のことを知っていて、「白菊の」の興行で芭蕉のしんみりとした句のあと一同付けかねて、ヒントとしてこの句を引き合いに出したのかもしれない。
 だとしたら、この「娘ほしがる」のフレーズは芭蕉をも感心させた一句だった可能性もある。
 俳諧興行は、どこまでも当座の機知が求められる。場の空気を読んで、重い付け合いが続いた後はさらっと流すような遣り句をし、しんみりした後は卑俗に笑いを取って当座を和ますことも重要なことだった。
 とにかく吉田義雄氏が、
 「ここで、この歌仙の全体を見ることを止めよう。およそこの様で芸術的に心を洗われる作品ではない。解に及ばぬわかり切った句がたくさんあること、全体に平板なこと、句意も難解なものがあること、付げ運びの渋ること。芭蕉の眼を経るどころか、芭蕉の説く所を体しての作とも見えない。『かるみ』をどう理解したかを、とうてい論ずる段階ではない。」
と言うような作品ではなかったことは、この鈴呂屋こやんが保証する。

2017年7月3日月曜日

 さて、吉田義雄さんの「『別座敷』『炭俵』連句抄」に載っていた「取あげて」の巻の続きを行ってみよう。

五句目
   沖細魚の塩のぎかぬ南気
 木綿物預ケテ帰ル昏の月        八桑
 (木綿物預ケテ帰ル昏の月沖細魚の塩のぎかぬ南気)

 吉田義雄さんが「前句の何か不充実な暮しの感じを受けているか。『木綿物預け』るのは何のため? またどこへ預けるのだろうか。質屋でもあろうか。」というので、それを考えてみよう。それが俳諧研究者の仕事だ。
 まず木綿物だが、これは木綿でできた衣類のことで間違いないだろう。そうなると、次に元禄時代の人にとって木綿がどういうものかを考える必要があるのでグーグルで検索をかけてみる。
 まず「和泉木綿」のサイトによると、永正七年(一五一〇)に三河の木綿が奈良の市場に現れ、その後畿内に木綿の栽培が広がり、庶民の衣料素材として麻に取って代わられたという。寛永五年(一六ニ七)に幕府が「農民の着物は布木綿たるべし」と下達すると、畠だけでなく田にも綿を栽培する者が急増したという。
 綿は蕉門の俳諧でもしばしば登場し、

 名月の花かと見えて綿畑   芭蕉

の句はよく知られている。
 一方裕福な商人などの間では絹が好まれ、贅沢禁止令の対象になったりもした。
 そうやって考えていくと、木綿物というのはそれほど裕福ではない庶民の日常の着物だったと思われる。
 前句との関係で言うと、秋刀魚を塩漬けに使用にもなかなか馴染んでくれないような湿った南風だから、木綿の着物も湿気で嫌な匂いになってそうだ。
 そこであとは想像だが、汗や塩水でぐしょぐしょになった木綿の着物を、仕事が終わる黄昏の頃には脱いで、そのまま預けて帰った、というそういうことではなかったか。洗っといてくれということか。
 月といっても単なる名月の風流ではなく、海辺で生活する人の生活感が伝わってくる。古典の風雅に頼らない蕉門の軽みの風流は、こういうものではなかったかと思う。

六句目
   木綿物預ケテ帰ル昏の月
 脇より爰はあかひ蔦の葉      子祐
 (木綿物預ケテ帰ル昏の月脇より爰はあかひ蔦の葉)

 「月の夕暮を帰る、道すがらの景。ただそれだけ。
 表六句は波瀾を嫌ったのかも知れないが、 平板そのもので、『紫陽草や』の巻の『かんかんと有明寒き霜柱』のような、一句でもその働きの利いているのと、全然比較にならない弱さである。」と吉田義雄さんは言う。
 月の黄昏に赤い蔦の葉は悪くはないと思うが、何が不満なのだろうか。赤い残光に照らされると蔦が赤いのか照らす光が赤いのかわからなくなる。

    出駕籠の相手誘ふ起々
 かんかんと有明寒き霜柱    八桑

 この句は「かんかん」という俳言の面白さはあるが、それを除けば平凡な明け方の情景なので、「紫陽花や」の巻解説には、「明け方の宿場の旅立ちの風景に、月の定座にふさわしく有明の月を出す。ただの有明だと月並だからか、冬のがちがちの霜柱を添える。」と以前に書いた。
 おそらく吉田さんが言いたいのは、これを

 かんかんと有明寒し霜柱

とでもすれば独立した発句になるのに対し、「脇より爰はあかひ蔦の葉」は独立性がないということを言っているのだろう。
 付け句を一句だけ独立させて鑑賞するのは、確かに江戸後期の注釈書にはそうした記述も見られるが、芭蕉の時代にそのような発想はなかった。江戸後期の人のいう「二句一章」が芭蕉の時代では当たり前だった。それだけまだ連歌に近かったというだけのことで、句の疵ではない。
 さて、初裏にに入る。

七句目
   脇より爰はあかひ蔦の葉
 仕舞には藻井(つし)へ上ケたる芋の茎     太水
 (仕舞には藻井へ上ケたる芋の茎脇より爰はあかひ蔦の葉)

 「藻井」はググるとまずコトバンクの「藻井(そうせい)」が出てくる。そこには、

 「中国古建築に用いられる装飾的な天井で、日本の格天井(ごうてんじよう)や折上小組(おりあげこぐみ)格天井の類よりいっそう複雑で装飾的なもの。」

とある。ただ、これはあくまで当て字だろう。「つし」は古語辞典だと、「屋根裏に簀子でしつらえた物置」とある。「厨子」という字を当てる場合もあり、コトバンクによると「厨子」は

 「(1) 収納具の一種。元来は厨房で食物を置く棚をさしたが、平安時代、寝殿造の室内に置く、器物、書画などを載せる2段の棚に扉をつけたものを二階厨子というようになった。」

とあり、これが農家の屋根裏の物置に拡大されて用いられたのであろう。
 「芋の茎」は「ずいき」のことで、ウィキペディアによると「サトイモやハスイモなどの葉柄。食用にされる。」とある。干して保存ができるので、大量に取れたら屋根裏に仕舞っておいたのであろう。
 ずいきの中には八つ頭や海老芋などの赤い茎の赤ずいきもあり、それだと屋内では赤ずいき、脇(屋外)には赤い蔦の葉と赤いものが並ぶことになる。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には秋之部八月の所に、

 「胡芋(ずいき) 芋の茎をいふ。[大和本草]唐の芋の茎は煮て食し、生酢をくはえて食す」

とある。この場合の「唐の芋」は海老芋のこと。
 
八句目
   仕舞には藻井へ上ケたる芋の茎
 一里こちから泊り見にやる     亀水
 (仕舞には藻井へ上ケたる芋の茎一里こちから泊り見にやる)

 吉田義男さんは「旅をするので、世話をする人がわざわざ一里こちらからを出してその宿の具合を調べさせるのである。その泊りが前句の様な鄙びた農家だったのである。」としているが、それだと何で屋根裏に芋茎(ずいき)を上げたのかよくわからない。
 おそらく、干している芋茎が所狭しと置かれている所へ急にお客さんが来るというので、あわてて屋根裏に押し込んだのだろう。

2017年7月2日日曜日

 今日は川崎市のあじさい寺、妙楽寺へ行った。紫陽花が密集して茂ると藪のようだし、蚊もいる。それでもやっぱり別座敷だ。
 そのあと久地駅前のBRIMMER BEER STATION KUJIでビールを飲んだ。

 ネットで吉田義雄さんの「『別座敷』『炭俵』連句抄」という論文のPDFファイルを見つけた。
 内容はいかにも真面目な文学者らしい、つまり俳諧の笑いを理解しない人らしい、西洋文学的なバイアスのかかった論考だが、『別座敷』の他の四歌仙に関する情報が含まれているのはありがたい。芭蕉が参加してない俳諧は、なかなか出版される機会にも乏しく貴重だ。
 まあ、そのままコピペするわけにも行かないので、あくまで学術のための引用になるように解説を付けながら句を拾ってみよう。
 まず桃隣の発句。

 取あげてそつと戻すや鶉の巣      桃隣

 鶉はウィキペディアによれば「5-10月に植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に、7-12個の卵を産む」という。鶉の卵は今では食用として一般的に用いられているが、かつては強精剤とされていたという。それを取らずに、いや最初は取ろうとしたが鶉の母の気持ちを思いそっと戻してやるというやさしさに溢れる句だ。発句として当座の挨拶として裏の含みがあったのかどうかはわからない。
 これを「何の感動もない平凡な『ただごと』の句」と言い切る吉田義雄さんはまたすごいが、たしかに蕉門の句にしては「いかにもやさしいんだぞ」というあざとさが感じられなくもない。
 ただ、『去来抄』「修行教」で「是皆細工せらるる也」と評された中の一句、

 御蓬莱(みほうらい)夜は薄絹も着せつべし 言水

の場合、蓬莱山を模した正月の飾りである「御蓬莱」に薄絹を掛けるなんてことは普通はやらないだろうというわざとらしさがあったのだと思う。これに対し、桃隣の句はまだ「あるある」の範囲ではなかったかと思う。
 有名な、

 朝顔につるべ取られてもらひ水   千代女

の句は明治の頃正岡子規に酷評されたが、わざとらしさを感じさせるか、それとも「あるある」なのかは微妙な所だ。これにくらべても、桃隣の句は自然な情の範囲ではないかと思う。


   取あげてそつと戻すや鶉の巣
 休む田植の尻に舗蓑        杉風
 (取あげてそつと戻すや鶉の巣休む田植の尻に舗蓑)

 発句のやさしい心を農夫の休息の時の出来事とする。挨拶という意味では、今回の興行でどうかおくつろぎ下さいということか。

第三
   休む田植の尻に舗蓑
 高低に崎なる家のしぐろふて      子珊
 (高低に崎なる家のしぐろふて休む田植の尻に舗蓑)

 「しぐろふ」は「しぐらふ」でWeblio辞書には、

 ①空がしぐれるようにぼんやりとかすんで見える。
 ②人や物がびっしりと密集していて、遠くからはぼんやりとして見える。

とある。『三省堂大辞林』による。冬の季題である「時雨」から派生した言葉ではあっても、あくまでも比喩で元の意味を失っているので無季として扱っていいのだろう。
 崎は先端のことで、海のないところでも「崎」とつく地名はある。山や台地の先端も崎という。そういうところで上の方にも下の方にも家が立ち並び、それを遠く見ながら農夫が休息するという意味だろう。

四句目
   高低に崎なる家のしぐろふて
 沖細魚(さんま)の塩のぎかぬ南気 李里

 李里といえば、桃隣撰『陸奥鵆』の、

 紛らしや木の実の中に鹿の糞   李里
 木兎の笑ひを見たる時雨哉    李里

といった句を以前に紹介した。ここでは前句の「崎」を文字通り海辺の集落として、秋刀魚を塩漬けにしようとしても南から来る湿った風に上手く乾いてくれない、と付ける。