ネットで注文していた『日本茶の歴史』(橋本素子、2016、淡交社)が届いた。まだぱらぱらとめくっただけだが、お茶には二つの流れがあって、唐風喫茶文化(煎茶法)が先に入ってきて、次に宋風喫茶文化(点茶法)が入ってきたようだ。
唐風の煎茶法はいわゆる今日の煎茶ではないが、『日本後紀』に「大僧都永忠手づから茶を煎じ奉御す」とあるように、煮出して飲むお茶だった。ネットで見た原始的な番茶と呼ばれるものも、ここに端を発したものなのだろう。煎茶といえば煎茶だが、今日の煎茶ではないし、番茶といえば番茶だが、今日でいう番茶でもない。仮に「煎茶法の茶」と呼ぶことになる。
この煎茶法の茶は点茶が入ってきても廃れることなく、かといって貧しい庶民のお茶だったわけでもなく、朝鮮(チョソン)王朝の官人である宗稀璟(ソンヒケン)が日本回礼使として来日した時に、京都臨川寺の住持から煎茶法の茶をふるまわれたとあるから、庶民のものから格式のあるものまでピンきりだったようだ。
抹茶にしても中世には「大茶」と呼ばれる庶民のお茶があったという。抹茶もピンきりだったようだ。抹茶=高級、煎じ茶=庶民というのは、貧農史観の名残だという。
また、今日のお茶のサイトにある、抹茶はひと夏冷暗所で保存して秋以降に出すから新茶は秋のものだという説は戦国末から江戸時代にかけての宇治茶の発展によるもので、中世では抹茶も夏の初めの新茶を良しとしたという。宇治茶が高級品で、江戸の庶民は中世の頃と変わらずに煎茶法の茶と熟成しない抹茶を飲んでいたとすれば、「新茶」が元禄の頃でも夏の季語だったのはうなずける。煎茶法の茶なのか抹茶なのかはまだ特定できないが。あくまで好みの違いで両方だったのかもしれない。
隠元禅師の来日の際にもたらされた、明の茶葉を揉む工程を取り入れた煎茶法の茶は「唐茶」と呼ばれ、『虚栗』や『其袋』に用例があるという。調べてみたい。これが後の永谷宗円による、いわゆる今日の煎茶への発展に繋がる。
そういうわけで、
陽炎に眠気付たる医者の供
新茶のかざのほつとして来る 芭蕉
の新茶が抹茶なのか煎じ茶なのかは特定はできない。
さて次の句は、
二十一句目
新茶のかざのほつとして来る
片口の溜をそっと指し出して 酒堂
(片口の溜をそっと指し出して新茶のかざのほつとして来る)
だが、お茶の次は醤油の問題になる。なかなか難しい。
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