2017年7月2日日曜日

 今日は川崎市のあじさい寺、妙楽寺へ行った。紫陽花が密集して茂ると藪のようだし、蚊もいる。それでもやっぱり別座敷だ。
 そのあと久地駅前のBRIMMER BEER STATION KUJIでビールを飲んだ。

 ネットで吉田義雄さんの「『別座敷』『炭俵』連句抄」という論文のPDFファイルを見つけた。
 内容はいかにも真面目な文学者らしい、つまり俳諧の笑いを理解しない人らしい、西洋文学的なバイアスのかかった論考だが、『別座敷』の他の四歌仙に関する情報が含まれているのはありがたい。芭蕉が参加してない俳諧は、なかなか出版される機会にも乏しく貴重だ。
 まあ、そのままコピペするわけにも行かないので、あくまで学術のための引用になるように解説を付けながら句を拾ってみよう。
 まず桃隣の発句。

 取あげてそつと戻すや鶉の巣      桃隣

 鶉はウィキペディアによれば「5-10月に植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に、7-12個の卵を産む」という。鶉の卵は今では食用として一般的に用いられているが、かつては強精剤とされていたという。それを取らずに、いや最初は取ろうとしたが鶉の母の気持ちを思いそっと戻してやるというやさしさに溢れる句だ。発句として当座の挨拶として裏の含みがあったのかどうかはわからない。
 これを「何の感動もない平凡な『ただごと』の句」と言い切る吉田義雄さんはまたすごいが、たしかに蕉門の句にしては「いかにもやさしいんだぞ」というあざとさが感じられなくもない。
 ただ、『去来抄』「修行教」で「是皆細工せらるる也」と評された中の一句、

 御蓬莱(みほうらい)夜は薄絹も着せつべし 言水

の場合、蓬莱山を模した正月の飾りである「御蓬莱」に薄絹を掛けるなんてことは普通はやらないだろうというわざとらしさがあったのだと思う。これに対し、桃隣の句はまだ「あるある」の範囲ではなかったかと思う。
 有名な、

 朝顔につるべ取られてもらひ水   千代女

の句は明治の頃正岡子規に酷評されたが、わざとらしさを感じさせるか、それとも「あるある」なのかは微妙な所だ。これにくらべても、桃隣の句は自然な情の範囲ではないかと思う。


   取あげてそつと戻すや鶉の巣
 休む田植の尻に舗蓑        杉風
 (取あげてそつと戻すや鶉の巣休む田植の尻に舗蓑)

 発句のやさしい心を農夫の休息の時の出来事とする。挨拶という意味では、今回の興行でどうかおくつろぎ下さいということか。

第三
   休む田植の尻に舗蓑
 高低に崎なる家のしぐろふて      子珊
 (高低に崎なる家のしぐろふて休む田植の尻に舗蓑)

 「しぐろふ」は「しぐらふ」でWeblio辞書には、

 ①空がしぐれるようにぼんやりとかすんで見える。
 ②人や物がびっしりと密集していて、遠くからはぼんやりとして見える。

とある。『三省堂大辞林』による。冬の季題である「時雨」から派生した言葉ではあっても、あくまでも比喩で元の意味を失っているので無季として扱っていいのだろう。
 崎は先端のことで、海のないところでも「崎」とつく地名はある。山や台地の先端も崎という。そういうところで上の方にも下の方にも家が立ち並び、それを遠く見ながら農夫が休息するという意味だろう。

四句目
   高低に崎なる家のしぐろふて
 沖細魚(さんま)の塩のぎかぬ南気 李里

 李里といえば、桃隣撰『陸奥鵆』の、

 紛らしや木の実の中に鹿の糞   李里
 木兎の笑ひを見たる時雨哉    李里

といった句を以前に紹介した。ここでは前句の「崎」を文字通り海辺の集落として、秋刀魚を塩漬けにしようとしても南から来る湿った風に上手く乾いてくれない、と付ける。

0 件のコメント:

コメントを投稿