2017年6月29日木曜日

 人文科学を本当の意味で科学にするには、脳科学の十分な発展を待たなくてはならないが、その前でも出来ることはある。
 基本的には形而上学的独断を語らないということだ。
 神を現在において人間の理性では説明できぬものと定義する分にはかまわないが、それに「全知全能」だとか「唯一絶対」という属性を与えることは形而上学的独断に当たる。
 神は一人かもしれないし八百万の神がいるのかもしれない。また、そこに一即多の論理を当てはめることもできるかもしれない。そこは変数として処理しなくてはならない。いずれにせよ科学的に証明はできない。
 つまり、未だ科学的に証明されてないものが存在するということは主張できる。ただその内容については未知というほかなく、そこに神話を語るべきではない。
 言語や民族なる物が個々の人間を超越して存在するという主張についても、ならそれはどういう存在なのかといった時に非物質的な霊的な存在を仮定すべきではない。可能性があるとすればそれは人類の共通の遺伝子くらいであろう。もちろんそれでは個々の言語や民族は説明できないが、多様な言語や民族が生み出されるその根本が遺伝子に由来すると仮定することはできる。チョムスキーの言うような深層文法がもし存在するなら、それは遺伝的なものであろう。あるいは記憶一般の構造化に関わるものなのかもしれない。
 人間の記憶は何らかの形で要素に分解され構造化されることによってなされる。その操作の多くは意識に登ることはない。こうして人はそれぞれ自分の脳の中に無意識の内に世界を秩序付け構造化し記憶する。それが言葉や絵や音楽などの手段によって伝達可能なのは、その構造化の背後に遺伝的な要素があり、大体同じような内容になるからであろう。しかし、細かい所では多様性が生じる。
 哲学はこうした無意識の内に構造化された世界を意識化する作業ではないかと思う。その意識化の過程は哲学者によって様々で方法もばらばらだから、結局哲学者の数だけ哲学があることになる。ただ、根底にある世界の構造化そのものは遺伝的であるため、他人の哲学を全面支持はできなくてもある程度は共鳴することはできる。
 「世間一般」だとかハイデッガーの言う「日常的平均的なもの」についても、人によって捉え方はばらばらだ。だけど根底の部分に遺伝的要素があるからばらばらでも互いに共感することはできる。「何とかの常識は世界の非常識」なんて言い方もあるが、それでも複数の異なる常識があることは理解できる。それは同じものを違う角度から見ているとわかるからだ。最初から違うものを見ているなら共感も伝達も成立しない。
 世界を自分という一つの角度から見るのが哲学なら、複数の角度から見るのは連歌俳諧だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿