六月四日に里山ガーデンに行った帰り、十日市場の方へ歩いていく途中に梅田川に沿って歩ける道があって、そこの梅田川流水地でアオサギを見た。大きい鳥がいるのでなんだろうと思って後で調べたらアオサギのようだった。
『続猿蓑』に数少ない「つゆ」の用例として、
しら鷺や青くもならず黴(つゆ)の中 不玉
の句がある。この句はシロサギはシロサギでアオサギにはならないという意味なのだろう。
シロサギが大きくなって黴が生えたわけではないが、「黴」を利かすためにあえて「五月雨」ではなく「黴の中」としたのだろう。
不玉は出羽国酒田の町医者で、『奥の細道』の旅の途中で出会い、「川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿す。」とある。曾良の『旅日記』のよると、到着したとき(六月十三日)は留守で、「留守ニテ、明朝逢」とある。
この日(六月十四日)は寺島助彦亭に招かれ、
涼しさや海に入れたる最上川 芭蕉
を発句とする俳諧興行に参加している。このときの句は曾良の『俳諧書留』に記されていて、
月をゆりなす浪のうき見る
黒がもの飛行(とびゆく)庵の窓明て 不玉
の第三を詠んでいるが、残念ながら七句目までしか記されてない。「末略ス」とある。
この興行の翌日(六月十五日)から象潟へ旅に同行し、
象潟や汐焼跡は蚊のけふり 不玉
の句も詠んでいるが、残念ながらこの句は『奥の細道』には採用されなかった。
象潟から帰り、六月十九日にふたたび寺島助彦亭で芭蕉、曾良と俳諧三吟歌仙興行を行う。これにも参加し、
温海山や吹浦かけて夕涼
みるかる磯にたたむ帆筵 不玉
の脇などがある。この歌仙は三日かかっている。この頃の芭蕉の俳諧は出羽の時といいかなり時間を食ったようだ。六月十四日の興行も結局最後までできなかったから「末略ス」となったのかもしれない。こうした時間のかかりすぎる俳諧に何とかしなくてはということで、「軽み」の風が生み出されていったのだろう。
芭蕉の発句は、先の『奥の細道』の「淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿す。」のあとに、
あつみ山や吹浦かけて夕すずみ
暑き日を海にいれたり最上川
と直して記されている。
六月二十三日には近江屋玉志亭に招かれ、
三人の中に翁や初真桑 不玉
の句を詠んでいる。
この他にも曾良の『俳諧書留』には、
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 会覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
磯伝ひ手束の弓を提て 不玉
汐に絶たる馬の足跡 曾良
の四句が記されている。会覚は羽黒山別当代で、月山の雪のことを忘れるなよという餞別の句があったので、それに三人で付けている。芭蕉の脇は「ほの三日月の羽黒山」の句を踏まえている。
0 件のコメント:
コメントを投稿