学生の頃だったか、ミシェル・フーコーの『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳、1974、新潮社)を部屋に籠って、確かかなり一気に読んだという記憶がある。それだけ内容が衝撃的だったし、高校の時読んだアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』(清水徹訳、1967、新潮文庫)と並んで自分に大きな影響を与えた本だった。
この本で学んだのは「ヘテロトピア」という多様な秩序の混在する一種のユートピアと、時代によって学問の概念が変わってゆくというエピステーメという考え方だった。今でもヘテロトピアは私にとっての理想だし、一つの秩序の支配する一つの世界なんてのはまやかしどころか、世界を最終戦争に導く危険な考え方だと思っている。
エピステーメに関しては、すぐに思い立ったのが日本のエピステーメだった。それ以前から日本の思想には興味を持っていたが、あらためて伊藤仁斎、荻生徂徠、安藤昌益、三浦梅園など興味を持って読んでみた。
その頃に思いついたのが、平安末から江戸中期までのかなり長い間になるが、故実、部立て、機知を学問の中心としていた一つの時代があるのがわかった。
つまり、学問はまず儒学でも仏学でも神道でも、基本は経典を学ぶことであり、それも経典を字義通りに解釈するのではなく、その背後にある隠された真理を探究することが重要だった。その隠された真理は神仏儒道全ての根底にある普遍的なものとされていた。そのためには正統とされる経典だけでなく緯書やそのほかの伝承なども参照しながらの、いわゆる故実の学だった。
そして、それを論理的に解説するのではなく、基本的な概念などを分類し部立てして辞典のような形態で書き表していた。
さらに故実を学びそれを部立てするだけでは完全といえず、本当に大事なのはこうした知識を体得しながら、それを現実の様々な場面に臨機応変に対応する能力、いわゆる機知を養うことだった。
故実、部立て、機知はそのまま連歌や俳諧の基礎でもある。古歌を古詩などから風雅の心を学び、それを春夏秋冬、恋、述懐、神祇、釈教などに部立てし、それを踏まえた上で即興で句を付ける機知として実践されなくてはならなかった。
この日本の中世的エピステーメは江戸時代中期に突如「物」が登場することにより急変した。賀茂真淵、安藤昌益の時代がその変わり目になる。
この頃より故実の権威そのものが疑われだし、神仏儒道やさらにその細かい宗派が相対化され、故実の権威を「物」によって再編しようと動き出した。この頃盛んに繰り返された言葉が「天地は語らぬ経を読む」だった。
こうして、故実の位置に物学(ものまなび)が収まり、物についての知識は部立てから論理体系へと移り、硬直した原理主義的な主張がはびこるようになり、機知の場は隅に追いやられていった。蕪村の時代の興行俳諧の衰退も、このエピステーメの変化から説明することができる。
多分この「物」によるエピステーメの再編は日本だけのものではなく、朝鮮(チョソン)や清でも「実学」の動きとして平行して起こったものだと思う。あまり詳しくはわからないが。
一方で、このエピステーメの変化は近代化への道を開いた。蘭学もまたこの新しいエピステーメのもとに登場することとなった。そして明治になり、正岡子規によって連歌・俳諧の伝統は最終的な死を宣告されることとなった。
実は俳諧に本格的に興味を持って読むようになったのは、それよりかなりあとだった。学生生活も終わり就職、結婚といろいろ忙しくて、フーコーを読んでから八年後だったか、それは芭蕉からではなく蕪村からだった。
芳賀徹の『與謝蕪村の小さな世界』(1988、中公文庫)を読んでいて目に留まったのが
稲づまや浪もてゆへる秋津しま 蕪村
の句だった。それまでの学校での近代俳句の洗脳を受けていた頭では、なんだこりゃというこれまでの俳句の概念とまったくかけ離れた句だった。
そのあと、少しづつ昔の句に触れてゆくうちに、学校で習った俳句の概念が正岡子規によって作られたもので、それ以前には「俳諧」というまったく違った世界があったことに気づくことになった。
そして、蕪村を理解するにはまず芭蕉からとなり、芭蕉を理解するにはということで連歌を読むようになった。そして、芭蕉と蕪村との間に大きな断絶があることにも気づいた。そこで学生の頃思い描いた日本のエピステーメのことを思い出した。
連歌俳諧はそういうわけで、私にとっては、近代化し西洋的な意味での「文学」に高めるべき過去の遺物などではなかった。それは近代化の中で今の学問(エピステーメ)からは排除されているが、日本が生み出したオリジナルの文化で、その精神は死んだのではなく、今でも日本の大衆芸術の中に生き続け、ジャパンクールを根底で支えている。それこそが西洋の猿真似などではなく日本のオリジナルとして世界に誇れるもんだと信じるからだ。
西洋崇拝の連中は言う、「そんなものは日本だけの恥ずかしいものだ」と。そんなことはない。「日本だけ」ということに価値がある。
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