七日に梅雨入りしたものの、雨は少し降っただけで、暑い日が続く。
関東の梅雨は曇った日が続くだけでそれほど雨は降らない。それにひきかえ鹿児島に6年いたときの梅雨は毎度の事ながら凄かった。
「梅雨入り」という言葉は気象庁が梅雨入り梅雨明けを発表するようになって広まった言葉で、気象庁のホームページでは昭和二十六年(一九五一)からになっている。
梅雨という言葉は本来中国の言葉で、俳諧では「五月雨(さみだれ、さつきあめ)」という言葉が用いられている。「梅雨」「つゆ」の用例はほとんど見当たらない。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には一応「五月雨 梅雨 入梅 黴雨 墜栗花穴(ついり)」とある。
「入梅」は今日で言う梅雨の始まる日のことではなく、二十四節季に含まれない節季、雑節の一つで、『増補 俳諧歳時記栞草』には「[四時纂要]閩人(みんじん)、立夏の後、庚日に逢ふを入梅とす。」とある。ウィキペディアを見ると、立夏後の最初の庚の日、『埤雅』(1125)閩人についてとあり、これが元になっていると思われる。そのほかに。ウィキペディアは、芒種後の最初の丙の日(『神枢』『三元帰正』)、芒種後の最初の壬の日(『碎金録』『本草綱目』)と、諸説あったことを記している。
ちなみに「閩」は今の福建省の辺りにあった中国五代十国時代の国で、入梅はそのあたりの節季だったか。立夏後の最初の庚の日だと、時期的には沖縄の梅雨入りの時期に近い。芒種後だと日本の本土の梅雨入り時期に重なる。
さて、試しに『猿蓑』の五月雨の句を見てみよう。
五月雨に家ふり捨てなめくじり 凡兆
五月雨というと今日でもカタツムリを連想する人は多いと思うが、これもそうで、ただカタツムリと言わず、「家ふり捨てなめくじり」とカタツムリの殻のないナメクジを登場させる。これは生物学的にも正しく、ナメクジはカタツムリの殻の退化したものの総称とされている。
ただ、「家ふり捨て」だと、単なる殻の退化ではなく「出家」を連想させる。ナメクジは仏者だったか。
ひね麦の味なき空や五月雨 木節
ちょっと前に自分が乾物屋の配送をやってた頃、伝票に商品名のあとに括弧して「ひねもの」と書いてあるのを見たが、今でも古くなって在庫処分で値引きして売るものを「ひねもの」と言う。(一部には古くなって熟成する良い意味での「ひねもの」もあるようだ。)
この句の場合の「ひね麦」も同じで、五月雨の季節になって新麦が出回ると、去年の収穫分は「ひね麦」として安く売られていたのだろう。米でいえば古米と同じで味が落ちるから、ひね麦のように味の落ちる空だ、五月雨の空は、というのがこの句の意味だろう。
馬士(うまかた)の謂次第なりさつき雨 史邦
雨の日は道がぬかるんで、街道を歩くのにも苦労する。そんな日は金さえあれば馬に乗りたいもの。というわけで街道の馬方さんも強気で、こんな日は一切値引きしないばかりかいくらでも吹っかけてくる。五月雨の頃は馬の値段は馬方さんの言い値になる。おそらく当時のあるあるネタであろう。
笠嶋やいづこ五月のぬかり道 芭蕉
これは芭蕉の『奥の細道』の一句。
藤中将実方はなかなかの風流人だったがかなり熱い人で、書のほうで有名なクールな藤原行成とはそりが合わなかったようだ。
東山へ花見に行った時に、途中で雨が降りだしたが、そこで平然と、
さくらがり雨はふり来ぬおなじくは
濡るとも花の影にくらさん
藤中将実方
と歌って宮中の話題となったが、斎信大納言がこのことを帝に報告する時に行成が「歌はいいが、やることは正気ではない」とディスったという。
その後殿上で別のことで口論になり、実方が笏(しゃく)で行成の冠を叩き落としたものの行成のほうが平然として冠を正したため、一方的に非があったということで陸奥の守に左遷されたという。まあ、天才肌の不器用さというか、ありそうなことだ。
その実方が任地に赴く途中、この笠島の道祖神の前を拝もうともせず素通りした所、社の前でばたっと馬が倒れて実方は転がり落ちて死んだという。
後にこの地を訪れた西行法師が哀れに思い、
朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて
枯野のすすき形見にぞ見る
西行法師
と詠んでいる。
芭蕉さんもこの道祖神に挨拶しなくてはと思ったが、五月雨で難儀しているうちに通り過ぎてしまい、この句を詠んだという。幸いバチは当たらなかったようだ。
大和紀伊のさかひはてなし坂にて、往来の
巡礼をとどめて奉加すすめければ、料足つ
つみたる紙のはしに書つけ侍る
つづくりもはてなし坂や五月雨 去来
「はてなし坂」は熊野古道の果無峠の道のことで、標高1070メートル、かなり大変な山越えだったと思われる。巡礼者のための道を整備するのに寄付を求められ、そのお金を包む紙の隅っこにこの句を書いたという。
「つづくり」は繕うこと、修繕することを言う。五月雨にぬかるむ道を見ながら、修繕の方も果てのない坂だと洒落て、修繕の労をねぎらったのであろう。
髪剃や一夜に金情(さび)て五月雨 凡兆
梅雨時は湿気が多いので、研いだばかりの剃刀も一晩立てばもう錆びている。ありそうなことではある。句は「五月雨に髪剃の一夜に金情てや」の倒置。
日の道や葵傾くさ月あめ 芭蕉
これは6月2日の日記でも書いたが、太陽のもっとも盛んな旧暦五月は、その太陽が隠れてしまう五月雨の季節でもある。歴史も同じで、王朝時代の春は保元平治の乱によって終わりを告げ、以降乱世の時代になる。皇統の道は姿を見せず、五月雨の分厚い雲の彼方だが、葵(向日葵)は見えない天道に向って東へと傾いてゆく。「葵」はもちろん徳川家を象徴する。
縫物や着もせでよごす五月雨 羽紅
羽紅こと、おとめさんの句。黴の季節を詠んだもの。梅雨が別名「黴雨」という漢学の素養も覗かせたか。
さて、五月雨の最後を飾るのは其角さん。
七十余の老醫みまかりけるに、弟子共こぞ
りてなくまま、予にいたみの句乞ける。そ
の老醫いまそかりし時も、さらに見しれる
人にあらざりければ、哀にもおもひよらず
して、古来まれなる年にこそといへど、と
かくゆるさゞりければ
六尺も力おとしや五月あめ 其角
七十過ぎの老いた医者が亡くなったので、その弟子たちが涙ながらに其角の元に追善の句を求めてきた。とはいえ面識もない人なので、気の毒とは思っても実感が涌かず、「古希まで生きたのだから」と慰めてはみるものの、それでは許してもらえず、この句を詠む。
駕籠かきの者は「六尺」とも呼ばれた。なぜそう呼ばれたかは諸説あるようだ。私なんぞは偉大な老醫先生の駕籠かきのような者ですが、この五月雨の季節にはがっくりと力を落としてますという、まあ無難な追悼の句に作ってみせたわけだ。これも機知と言えよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿