2019年6月30日日曜日

 今日も一日小雨の降る天気で、家の中で静かに過ごした。退屈だ。
 トランプ米大統領と金正恩委員長は板門店で短い会談を行い、これが世界がうまく行く印ならいいな。
 プーチンさんは「リベラルな価値観は時代遅れ」と言っていたけど、一部のリベラルが社会主義者と手を組んで独裁政治やイスラム原理主義を支持しているからそう見えるだけだと思う。
 まあ、そういった連中がマスコミを牛耳ってたり、いろいろ情報操作するもんだから混乱しているけど、そういう間違ったリベラルは滅び、最終的には正しいリベラルが勝利すると思う。
 時代遅れなのは独裁や原理主義の方だ。
 それはともかくとして、ここは風流のページ。平和には賛成するとして、とりあえずは「いと凉しき」の巻の続き。今回は一気に挙句まで。

 九十一句目。

   遠く遊ばぬ盆の夕暮
 住つけば残る暑さも苦にならず  磫畫

 お盆に残暑とこれは軽く流した遣り句だろう。
 九十二句目。

   住つけば残る暑さも苦にならず
 月はこととふうら店の奥     幽山

 京の裏通りはいかにも暑そうだ。表と違い人通りも少なく、月だけが尋ねてくる。そろそろ名残の裏ということで、穏やかに流してゆく。
 名残裏。
 九十三句目。

   月はこととふうら店の奥
 秋の風棒にかけたる干菜売    桃青

 久しぶりに芭蕉さんの登場。
 裏通りを天秤棒に干し菜を下げた干し菜瓜が通る。うらぶれた風情のある句だ。
 九十四句目。

   秋の風棒にかけたる干菜売
 賤がこころも明樽にあり     宗因

 「明樽(あきだる)」は酒を作った後の空き樽。醤油、味噌、漬物などに再利用した。「飽き足る」に掛かる。満足するという意味。今でも否定形の「飽き足らぬ」という言葉にその名残がある。
 明樽で干し菜を漬ければ冬への備えも万全。野菜は干すことで旨みも増すし、貧しい庶民もこれで満足。宗因らしい人情句だ。
 九十五句目。

   賤がこころも明樽にあり
 綱手をもくり返しぬる網のうけ  幽山

 「網のうけ」は網の浮子船(うけぶね)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「漁具の一種。たらいのような桶で、定置網のへりにつけて浮子(うけ)とする。うけぶね。
 ※散木奇歌集(1128頃)雑「ひく島の網のうけ舟浪間よりかうてふさすとゆふしててかく」

とある。明樽は漁具として利用することもあったか。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 しづやしづ賤のをだまき繰返し
     昔を今になすよしもがな

という『義経記』の静御前の歌を引いている。この歌の元歌は『伊勢物語』の、

 いにしへの賤のをだまき繰返し
     昔を今になすよしもがな

で、最初の五文字だけが違う。
 この歌を本歌とし、海士が浮子船の引き綱を繰返し引くように、賤の心も、昔のことを忘れてよりを戻し、幸せになる事を願う。
 九十六句目。

   綱手をもくり返しぬる網のうけ
 あこぎが浦や牛のかけ声     吟市

 「あこぎが浦」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「三重県津市,伊勢湾にのぞむ海岸。岩田川河口から相川河口までの単調な直線状の砂浜海岸で,春は潮干狩り,夏は海水浴に利用され,冬はノリ漁場となる。かつては伊勢神宮の供物の漁場で,殺生禁断の海であった。昔貧しい漁夫平治 (次) が病母のためこの海で魚をとったため罰せられ,簀巻きにされて海に沈められたという物語は,謡曲,浄瑠璃に歌われて有名。近くに平治 (次) の霊をまつる阿漕塚がある。観海流泳法の発祥地といわれる。南半分を御殿場浜とも呼ぶ。一帯は伊勢の海県立自然公園に属する。」

とある。
 『源平盛衰記』にある、

 逢ふことも阿漕が浦に引く網も
     度重なれば顕はれやせん

の古歌は、『古今和歌六帖』の、

 逢ふことをあこぎの島に引く網の
     たび重ならば人も知りなん

を元歌としている。
 その阿漕が浦も江戸時代には伊勢街道の宿場として栄え、牛の掛け声が繰返し聞こえてきたのだろうか。
 九十七句目。

   あこぎが浦や牛のかけ声
 みづらいふわつぱも清き渚にて  信章

 「みづら(角髪)」は奈良時代までの古代の貴族の髪型で、牛飼童(うしかいのわらわ)は歳を取っても垂髪でまま髪を結わなかった。でも何となく古代というと角髪(みづら)の童(わっぱ)がいそうなイメージだったのだろう。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『阿漕』の「伊勢の海。清き渚のたまだまも。」の一節を引用している。
 九十八句目。

   みづらいふわつぱも清き渚にて
 馴てもつかへたてまつる院    磫畫

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「惟喬親王の御住居を渚の院という(伊勢物語)」

とある。交野の院に仕える牧童とした。

 「今狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしにさして、上、中、下、みな歌詠みけり。馬頭なりける人の詠める。

 世の中にたえて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし」

の歌はよく知られている。
 九十九句目。

   馴てもつかへたてまつる院
 そも是は大師以来の法の華    似春

 この興行の会場となった大徳院は弘法大師を開祖とする高野山真言宗のお寺で、前句の「院」を大徳院のこととし、そこには弘法大師以来の法の花が咲いているとする。「法の花」は似せ物の花だが正花になる。
 花は一座三句物で、「にせ物の花此外に一」と『応安新式』にあり、この巻はそれを律儀に守っている。
 挙句。

   そも是は大師以来の法の華
 土の筆にも道や云らん      少才

 「弘法筆を選ばず」というとおり、この俳諧は本来の筆ならぬ土の筆、つまり土筆(つくし)で書いたような粗末なものにすぎないが、道の一端でも云うことができただろうか、と謙虚でありながらもこの俳諧が大和敷島の言の葉の道であることを宣伝して終る。
 さて、宗因と芭蕉、後の世から見ると夢の競演だが、芭蕉の句は七句と素堂(信章)の九句よりも少ない。特に後半はわずかに二句で寂しい感じだ。談林のスピード感に戸惑う所もあったのか。
 それでも、

   反橋のけしきに扇ひらき来て
 石壇よりも夕日こぼるる     桃青
   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  同
   時を得たり法印法橋其外も
 新筆なれどあたひいくばく    同
   口舌事手をさらさらとおしもんで
 しら紙ひたす涙也けり      同
   数寄は茶湯に化野の露
 石灯篭月常住の影見えて     同
   はながみ袋形見なりけり
 さる間三年はここにさし枕    同
   月はこととふうら店の奥
 秋の風棒にかけたる干菜売    同

 といった句はどれも芭蕉らしい句だし、後の蕉門への片鱗も感じられる。

2019年6月29日土曜日

 大阪のG20も終った。世界に日本の狭さを発信できたか。まあ、昔は狭いお茶室にそうそうたる公家や大名が集まったのだから、これも侘茶の心とわきまえるべし。
 今の年金は税金とは別に徴収し、29年度は53兆円くらい集めたという。税収の60兆円にも迫る額だ。これに1兆6千万の失業保険の歳入を加え、すべて一括化してそれをそれを国民の数で割れば、一人当たり年間43万円くらいになる。月三万六千円のベーシックインカムは可能だ。これに生活保護費に当てられている国税・地方税も合わせれば、さらに上乗せできる。
 これを全部国税に一括できれば、地方税は減税になるし、保険料もなくなる。その分国税の何らかの増税にはなるが、手続きの簡素化などのメリットもある。何よりも細かな、あれを持っている、わずかでも働いているとかの理由で減額されたり消滅したるする心配がないので、ベーシックインカムの導入を考えてみる価値はあるだろう。
 「働かざるもの食うべからず」という価値観は根強いが、将来はAIとロボットでそうも言っていられなくなるだろう。わざわざ生産効率を落としてまで雇用を作るとしたら、それも本末転倒だ。働かなくても食える社会、働けばもっといい暮らしのできる社会、それが輝ける未来ではないか。
 ただ、みんなそれで本当に働かなくなると困るから、ベーシックインカムは定額保障ではなく、税収の一定比率に定めてそれを配分する方式にした方がいい。
 さて、旧暦五月も残す所あとわずか。それまでに挙句までいけるか。「いと凉しき」の巻の続き。

 八十一句目。

   うしろ帯して塗笠編笠
 屋敷者跡にたつたは年こばい   吟市

 「屋敷者(やしきもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」ぶ、

 「大名、旗本などの武家屋敷に住んでいる人。武家屋敷に奉公している人。また、その経験のある人。屋形者。屋敷。
 ※俳諧・談林俳諧(1673‐81)「うしろ帯して塗笠編笠〈似春〉 屋敷者跡にたったは年こばい〈吟市〉」

とある。
 「年勾配(としこばい)」も同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「 年齢にふさわしいこと。年かっこう。
 ※甲陽軍鑑(17C初)品四〇下「さすがに武士の心ばせなき者ならず、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが」

とある。
 武家屋敷で奉公する女中さんが入れ替わったことで、年相応の人物が入ってきた。それが「うしろ帯して塗笠編笠」となる。前帯をするのはやはり若いと言うイメージがあったのだろう。
 八十二句目。

   屋敷者跡にたつたは年こばい
 順の舞には小々性が先      又吟

 又吟さんの三句目。
 「順の舞(じゅんのまい、ずんのまい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「席にいる者が順に舞をまうこと。また、その舞。
 「我を覚えぬ程の酔のまぎれに―の芸づくし」〈浮・桜陰比事・一〉」

とある。今でも宴会の時などには順番に芸を求められることがある。
 「小々性(こごしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「まだ元服していない年若い小姓。
 ※信長記(1622)一五上「小々姓(コゴシャウ)には森らんまる」

とある。
 宴席で芸をやる時は、若い者からというのが普通だ。会社の宴会でもまず新入社員から始まって、課長、部長と上がっていって、最後に社長がトリを勤めることが多い。
 新入りとはいえある程度の年の人なら、やはり若手の方が先になる。
 八十三句目。

   順の舞には小々性が先
 常紋の袴のそばをかいどりて   似春

 常紋は定紋で家紋のこと。「かいどる(掻い取る)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、「着物の褄つまや裾を手でつまんで持ち上げる。 」とある。前句の小々姓の舞い姿を付ける。
 八十四句目。

   常紋の袴のそばをかいどりて
 雨にも風にもかよはふよなふ   宗因

 前句を雨で水溜りができたところをすそを濡らさないように歩く姿とする。夜這いの句にする。「かよはふよなふ」は通ってくるものもいれば、それを迎えて手助けするものもいるということ。
 八十五句目。

   雨にも風にもかよはふよなふ
 夢うつつ女姿のちみどろに    幽山

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「産婦鳥(ウブメ)。若い産婦の死霊が血にまみれて出て来る其の姿。前句をウブメが子のもとに通おうという語としてつけた。ウブメは雨や風の夜にあらわれる。」

とある。
 多分大体これでいいのだと思う。ただ、ウブメは産死した産婦の霊で、赤ん坊を人に抱かせたり、赤ん坊をさらったりするが、子供の元に通うというのはよくわからない。子供と共に死んでいるはずだから。
 これは産死した妻のお墓をせっせと尋ねる夫の句で、熱心にお参りしていると夢にウブメとなった妻が現れるということではないかと思う。
 そうして死んだ子供を抱いてやると成仏するとか、そんな良い話なのではないかと思う。
 ウブメというと翌年春の桃青信章両吟「此梅に」の巻の七十二句目に、

   君ここにもみの二布の下紅葉
 契りし秋は産妻なりけり       桃青

の句がある。これも亡き妻に会えたという句になっている。「ちみどろ」ではなく「二布の下紅葉」と綺麗に仕上がっている。
 八十六句目。

   夢うつつ女姿のちみどろに
 胸にたくのを別火とやいふ    木也

 「別火(べっか)」はウィキペディアに、

 「別火 (べっか)とは日常と忌み、物忌みの状態の間で穢れが伝播することを防ぐため、用いる火を別にすることである。
 穢れは火を介して伝染すると考えられており、日常よりも穢れた状態(忌み)から穢れが日常に入ることをさけるため、また日常から穢れが斎戒(物忌み)を行っているものに伝染することを防ぐために用いる火を別にすることが行われた。
 この目的のために、日常の住居とは別に小屋が設けられることもあり、忌みの者(月経、出産時の女性)がこもる小屋を「忌み小屋」「他屋」、物忌み中のものがこもる小屋を「精進小屋」などと呼んだ。」

とある。
 前句の血みどろの女の幽霊に対し、胸にまだ残る恋の炎が別火となって、その穢れを防いでくれる。
 八十七句目。

   胸にたくのを別火とやいふ
 ししくふた酬ひを恋にしられたり 信章

 「ししくふ」は鹿を食うことをいう。昔は鹿のことを「しし」と言った。鹿神を「ししがみ」と言い、鹿除けを「ししおどし」という。
 ただ、仏教思想の浸透した時代には、殺生をすると報いがあると考えられていた。中世の連歌には、

   罪の報いもさもあらばあれ
 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ   救済(きゅうせい)

の句もある。
 鹿の祟りのせいか恋も思うように行かず、めらめらと嫉妬の炎を燃やす。これは穢れを防ぐ別火か。前句の「とやいふ」という疑問の言葉を生かしている。
 八十八句目。

   ししくふた酬ひを恋にしられたり
 たが参宮の伊勢ものがたり    吟市

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、『和訓栞』の「ししくふむくひといふ諺も神宮にもはら猪鹿を忌よりいへるなるべし」の言葉を引用している。
 伊勢神宮の諺に恋物語の『伊勢物語』を掛けている。もちろん実際の『伊勢物語』に鹿を食った報いの話はない。鹿の声を聞く話ならある。
 八十九句目。

   たが参宮の伊勢ものがたり
 見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊  宗因

 前句を単に誰かの伊勢参宮の土産話のこととして、その話を聞いているうちに松坂のかけ踊りを見たくなる。
 「かけ踊」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「盆の踊りなどで踊り組が互いに踊りを掛けあい競いあう形態。室町末期から近世初期に流行した風流(ふりゆう)踊に特徴的に見られ,当時の

記録類には扮装や歌にくふうを凝らし,趣向を競った様子が記される。また風流踊を疫病送りなどに用いる所では,他村との境まで踊りを掛けて順次送り出す形態もあり,伊勢神宮まで踊り継いだ伊勢踊やお蔭踊はその変型といえる。現在岐阜県郡上(ぐじよう)地方に加喜(かき)踊が残る。【山路 興造】」

とある。ここでいう「かけ踊」は幕末のええじゃないかの「伊勢神宮まで踊り継いだ伊勢踊」の原型になるような踊りであろう。なるほど見てみたい。
 九十句目。

   見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊
 遠く遊ばぬ盆の夕暮       似春

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『論語』里仁篇の「父母在ス時ハ遠ク遊バズ。」を引用する。
 わざわざ松坂までいかなくても、盆の夕暮れにはその土地の盆踊りがある。それでもやはり遠くの踊りも見てみたい。

2019年6月28日金曜日

 台風はどこへ行っちゃったのかなという感じの朝だった。
 台湾でも中国寄りの台湾メディアに抗議するデモが起こり、G20の大阪では在日ウイグル人のデモもあったという。いろいろなところで世界は動いている。
 年金問題の方はいろいろ言われているが、積み立て式はインフレに弱いという欠点があるし、普通に個人で積み立てるのとあまりかわらない。
 年金は結局将来的にはベーシックインカムに統一されることになるのだろう。その際思うのだが、ベーシックインカムを定額にするのではなく、税収に連動するようにしたらどうだろうか。つまりみんなが働かなくなればベーシックインカムも減るようにする。
 まあ冗談はともかくとして、「いと凉しき」の巻の続き。

 七十五句目。

   誰かしつつる天竺の秋
 牢人を尋出たる空の月      宗因

 住所不定の牢人を天竺牢人というと、『近世俳句俳文集』(日本古典文学大系92、岩波書店)の注にある。『犬子集』(松江重頼編、寛永十年(一六三三)刊)に、

   天竺よりや秋は来にけん
 牢人と目にはさやかに見苦や   慶友

の句がある。
 月だけが尋ねてくる天竺牢人のことを誰が知っているか、と付く。慶友の句はただ外見の見苦しさを言うだけだが、宗因の句は天竺牢人の孤独な心境にまで踏み込む。
 七十六句目。

   牢人を尋出たる空の月
 霧にこもりし城の遠近      幽山

 城には集められた牢人たちもともに篭城している。月の光りのもとに彼らは集められ、今では霧の中の城に隠れている。
 大阪城の冬の陣、夏の陣の時も大坂牢人五人衆がいた。後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登。
 七十七句目。

   霧にこもりし城の遠近
 花おる事附り堀の魚取事     信章

 城の周辺には「花おる事を禁ず。附り、魚取事もまた禁ず」といった高札があったりする。あるあるネタか。
 七十八句目。

   花おる事附り堀の魚取事
 すり餌によする梅のうぐひす   吟市

 すり餌は鳥を飼う時の餌で、穀物の粉と魚の粉を混ぜたもの。ここでは庭に鶯を呼び寄せるのに用いられる。前句の文言は、こういう庭にあってもおかしくない。
 名残表。
 七十九句目。

   すり餌によする梅のうぐひす
 やよ見たか祇園あたりのはるの空 少才

 祇園は京都の八坂神社のあるあたり。八坂神社は牛頭天王を祭り、それが祇園精舎の守護神であるところから、祇園神社とも呼ばれていた。東山が近く、鶯も飛来したか。
 八十句目。

   やよ見たか祇園あたりのはるの空
 うしろ帯して塗笠編笠      似春

 「うしろ帯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① =うしろむすび(後結)①⇔抱え帯。
 ※日葡辞書(1603‐04)「Vxirovobiuo(ウシロヲビヲ) スル」
 ② 娘。また、特に、帯を背後で結んで、素人の娘のような姿をしている遊女。
 ※洒落本・虚実柳巷方言(1794)上「後帯のうつくしもの、弐人のそばによりそへば」
 [語誌](1)着用時に前に作った結び目は後ろにまわしたようだが、帯の幅が狭く結び目が小さい場合には動作に支障はなく、また寛文(一六六一‐七三)の頃までは帯の結び目を作らず、折り込むようにもしたので、その位置はさして問題にならなかった。
 (2)遊女は前帯であったが、時代が降ると素人風に後ろに結び、彼女等もまた遊里の用語で「後ろ帯」と呼ばれるようになった。」

とある。
 また、「世界大百科事典内の後帯の言及」には、

 「帯の結び目を前にした締め方。江戸時代には鉄漿(かね),留袖(とめそで)とともに,前帯は主婦であることの象徴であった。もともと帯は紐状の帯紐で,前に結ぶのが自然の締め方であった。しかし室町時代のころから公家や武家の女たちが袴をはかないようになり,それにつれて着物の袖や身丈(みたけ)が長くなるにしたがって,帯の幅も広くなり,いまのような帯付姿が流行するようになった。当初の帯の締め方は結び目が一定せず,前,後ろ,横さまざまであったが,元禄(1688‐1704)ころから着物の袖や帯の締め方により未・既婚の区別が生ずるようになった。」

とある。
 寛文の頃はまだ前帯、後帯はさしたる問題ではなく、元禄になると前帯は既婚、後ろ帯は未婚と区別されるようになった。江戸後期になると遊女が後ろ帯にするようになり、近代ではみんな後ろ帯になった。
 延宝の頃はというと、寛文と元禄の間ということで、よくわからない。
 塗り笠は黒い漆を塗った笠で女性がかぶる。編み笠は普通の笠。
 この頃はまだ遊里ではなく普通の門前町として繁栄していた。「うしろ帯して塗笠編笠」というのは遊女ではなく一般女性で賑わっているイメージだったのだろう。

2019年6月27日木曜日

 明日の朝には台風が通るという。もうそんな季節か。
 それでは「いと凉しき」の巻の続き。

 六十九句目。

   親の細工をあらためずして
 何物か人のかたちと成やらん   吟市

 これは「不細工」のことか。
 親の顔貌を受け継いで、一体誰が形人(かたちびと)、つまり顔立ちの美しい人になるだろうか、と。
 七十句目。

   何物か人のかたちと成やらん
 しばし楽屋の内ぞ床しき     幽山

 前句の「人のかたち」を人形のこととする。この頃はまだ文楽はなかったが、その前身となる人形劇はあったと思われる。
 ウィキペディアによると、竹本義太夫は最初は清水五郎兵衛を名乗って浄瑠璃を語り行っていたが、「延宝5年12月に京都の四条河原に芝居小屋を建てて独立した。加賀掾の興業主であった竹屋庄兵衛が組織した操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、延宝8年(1680年)のころ竹本義太夫と改名。」とある。
 七十一句目。

   しばし楽屋の内ぞ床しき
 来て見れば有し昔にかはら町   木也

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『鸚鵡小町』の一節を引用している。

 「雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内やゆかしきを引きかへて、内ぞゆかしきと詠む時は、小町が詠みたる返歌なり。」

 これは大納言行家が

 雲の上はありし昔に変はらねど
     見し玉簾の内やゆかしき

と詠んだのに対し、老いた小町が、

 雲の上はありし昔に変はらねど
     見し玉簾の内ぞゆかしき

と返した、これを鸚鵡返しというという話だが、鎌倉中期の『十訓抄』には女房の詠んだ歌に成範民部卿(藤原成範)が返すという話になっている。こちらの方が元ネタか。
 この歌を本歌にして、「床しき」に「有し昔にかはらねと」と付けるところを掛詞にして「かはら町」とする所に一工夫ある。
 「河原町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「京都中央部、鴨川の西を南北に走る通り。古くは鴨川の河原。近世は芝居小屋や茶屋などが並んだ。」

とある。
 七十二句目。

   来て見れば有し昔にかはら町
 小石をひろひ塔となしけり    信章

 古くは鴨川の河原だから、石を積んで塔をたてたりして死者を弔った。
 ただこの句、十三句目の、

   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

とかぶっている感じもする。
 七十三句目。

   小石をひろひ塔となしけり
 なひ物ぞ真の舎利は求ても    磫畫

 「石塔」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 塔婆の一種。石でつくった塔婆。本来は仏舎利を安置するためのものであるが、後に多く墓としてつくられるようになった。
 ※参天台五台山記(1072‐73)一「次礼二石塔一。九重高三丈許。毎レ重彫二造五百羅漢一。並有二二塔一」
 ② 石でつくった墓標。墓石。墓碑。石碑。
 ※評判記・色道大鏡(1678)一三「此三棟に、中将姫の誕生所これあり。猶中将姫の石塔(セキタウ)もあり」

とある。石塔は本来は仏舎利だった。仏舎利は本来はお釈迦様の遺骨・遺体のことで、本物のそれは探しても見つかるものではないが、石塔ならどこにでもある。
 七十四句目。

   なひ物ぞ真の舎利は求ても
 誰かしつつる天竺の秋      似春

 「しつつる」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「知りつる」とある。
 真の舎利はないことから、天竺の秋に思いを馳せる。まあ、遣り句と見ていいだろう。ここらで月が欲しい所だ。

2019年6月26日水曜日

 「いと凉しき」の巻の続き。

 六十一句目。

   上様風の吹旅の空
 御荷物に唐船一艘つくられたり 宗因

 これは平清盛のことだろう。清盛は宋との貿易を推進し、自らも宋船を所有していたという。
 船は風の力で動くものだが、「上様風」となれば「驕る平家」の言葉も思い起こされる。
 六十二句目。

   御荷物に唐船一艘つくられたり
 蜘てふ虫も糸のわけ口     似春

 前句を長崎に生糸を運ぶ中国船とした。
 蜘蛛は糸を吐くが生糸は作らない。そんな関係ないものにもその利益は及ぶ。貿易は当事者だけではなく、国全体を潤す。
 ところで蜘蛛の糸は最近ではその鉄鋼の四倍といわれる強度が注目され、蚕に蜘蛛の遺伝子を組み込んで蚕に蜘蛛の糸をはかせるなんてことも行われている。スパイダーシルクというらしい。
 さらに蜘蛛の糸よりももっと強い糸があるという。それは蓑虫の糸で、丈夫さでは蜘蛛の糸の約2.2倍、強度で約1.8倍だという。
 素堂は「蓑虫説」の中で、「みの虫みの虫。声のおぼつかなくて。かつ無能なるをあはれぶ。」と言ったが、実は意外な才能があった。
 六十三句目。

   蜘てふ虫も糸のわけ口
 鬢を撫て来べき宵也月の下   磫畫

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にあるとおり「古今集」の、

   思ふてふ言の葉のみや秋をへてのつぎ
   衣通姫の、独りいて、帝を恋い申し上げて
 わが背子が来べき宵なりささがにの
     蜘蛛のふるまひかねてしるしも

が本歌と見ていい。恋に転じる。
 六十四句目。

   鬢を撫て来べき宵也月の下
 伽羅の油に露ぞこぼるる    木也

 「伽羅の油」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「鬢(びん)付け油の一種。胡麻油に生蝋(きろう)、丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた。
 ※俳諧・玉海集(1656)一「薫れるは伽羅の油かはなの露〈良俊〉」
 ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「いにしへは女の伽羅(キャラ)の油をつくるといふは、遊女の外稀なる事成しを」

とある。粘りが強く髪をカチッと固めるのに用いる。今日ではポマード系か。古代の恋歌から遊女に転じる。
 三裏。
 六十五句目。

   伽羅の油に露ぞこぼるる
 恋草の色は外郎気付にて    似春

 「恋草」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 恋心のつのることを草の茂るのにたとえた語。
 ※万葉(8C後)四・六九四「恋草(こひぐさ)を力車に七車積みて恋ふらくわが心から」
 ② 恋愛。恋愛ざた。また、恋人。〔日葡辞書(1603‐04)〕
 ※浮世草子・傾城色三味線(1701)湊「都の恋草に御身のかくし所もなく」

とある。
 「外郎」はウィキペディアに、

 「ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。」

とある。気付け薬にも用いられた。
 仁丹に似た銀色の小さな粒は「露」を思わせる。募り募った恋草の色は外郎気付けのような露のようにこぼれる、と付く。
 六十六句目。

   恋草の色は外郎気付にて
 はながみ袋形見なりけり    少才

 「はながみ袋(鼻紙袋)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、「鼻紙入れ」に同じとあり、「鼻紙入れ」のところには、

 「鼻紙や薬・金銭などを入れて携帯する、布・革製の入れ物。紙入れ。鼻紙袋。」

とある。外郎を入れていた鼻紙袋が形見として残される。
 六十七句目。

   はながみ袋形見なりけり
 さる間三年はここにさし枕   桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲「松風」の一節を引用している。

 「行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し置き給へども。」

 ただ、形見は御立烏帽子狩衣ではなく鼻紙袋で、「ここにさし枕」と枕に挿してあると「差し枕」に掛けている。
 「差し枕」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  板で箱形に作った枕。箱枕。
  ②  男女が共寝をすること。 「たまさかの君の御出を嬉しがり先いねころび-かな/古今夷曲集」

とある。
 六十八句目。

   さる間三年はここにさし枕
 親の細工をあらためずして   宗因

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『論語』「学而篇」の「三年父之道ヲ改ムル無シ。孝ト謂ツ可シ。」の言葉を引用している。本説になる。
 前句の「さし枕」を箱枕とし、その細工の技術を三年改めなかった、孝行なことだとする。

2019年6月25日火曜日

 トランプ大統領が日米安保破棄のことを言ったとか言わないとか。
 ただ、トランプさんは選挙の時からアジアからの米軍の撤収を考えていたし、日米安保破棄も別におかしなことではない。
 ただ、すぐにというわけにも行かない。だから北朝鮮の非核化や中国経済の自由化に向けてかなり力を入れている。それがある程度達成できたなら、もはや米軍は必要ないということなのだと思う。そうなれば沖縄の基地問題も自然消滅する。
 アメリカも別に日本のために北朝鮮問題を解決しようとしているのではない。ただ、軍事費を削るには結局紛争を解決し、平和な世界を作るしかない。そうやって世界が平和になるならそれが一番だ。
 平和に賛成、ゲームで遊んでみんな幸せが一番ということで、「いと凉しき」の巻の続き。

 三表。
 五十一句目。

   うり家淋し春の黄昏
 欠落の跡は霞の立替り      似春

 「欠落(かけおち)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「近代法における失踪,律令制における逃亡に比当される近世法の用語。町方,村方に欠落人が生じると,町村の役人はこれを管轄官庁に届け出る。官庁は,親類町村役人へ,たずね出しを命じ,180日を経て発見しえない場合には,永尋 (ながたずね) の命を下した。永尋は,捜索人の懈怠を責めるものであるが,裏面において,今日の失踪宣告とほぼ同様の効果を生ぜしめるもので,これによって,欠落人の財産は相続人に移転された。なお,以上の制度は明治初期においても,「逃亡尋」と名を変えて,日限その他,そのままに行われていた。ちなみに,江戸期の奉公人証文にも,「欠落」の文字がしばしばみえるが,これは奉公人が契約期間満了前に失踪することである。そして,この場合には,請け人が弁償義務を負うのが通例であった。」

とある。ウィキペディアには、

 「欠落(かけおち・闕落)とは、戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。江戸時代には走り(はしり)などとも称された[1]。武士の場合には出奔(しゅっぽん)・立退(たちのき)などと呼んで区別したが、内容的には全く同一である。」

とある。
 「かけおち」というと、今日では一般に男女の駆け落ちの意味でしか使われない。欠落の原因の中には確かにこういうものもあっただろう。いつごろから男女の示し合わせた失踪を意味するようになったか、興味深い所だ。
 延宝の頃にはまだそういう意味はなかったのだろう。「欠落」は恋の言葉ではないし、次の句で恋に転じられることもない。
 前句の「うり家」の原因を住人の失踪とし、春の黄昏に霞を添える。
 五十二句目。

   欠落の跡は霞の立替り
 雪崩れする其岩のはな      幽山

 春になると雪が融けて雪崩が発生する。岩鼻だから雪庇の崩落か。
 前句の「欠落」を雪庇の欠け落ちることとする。
 五十三句目

   雪崩れする其岩のはな
 松明の煙につづく白湯かた    信章

 「湯かた」は本来は湯帷子(ゆかたびら)だが略してそう呼ばれる。「浴衣」とも書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「近世以前,蒸風呂での入浴の際着用した麻の湯帷子(ゆかたびら)の略。江戸時代以後現在のように裸体で入浴するようになって,浴後に着る木綿の単(ひとえ)を浴衣というようになり,暑中の外出にも用いられるようになった。白地または藍(あい)地の鳴海(なるみ)絞や中形(ちゅうがた)などが多く用いられる。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「行者の服装」とあるが、行者の着る白い衣は「鈴懸(すずかけ)」で、これを白ゆかたと呼ぶこともあったのか。
 あくまで風呂で着る浴衣だとしたら、あるいは山の中の温泉の風景なのかもしれない。この翌年の桃青・信章の両吟「此梅に」の巻の三十二句目に、

   たまさかにこととふ物はげたの音
 なを山ふかく入し水風呂     信章

の句がある。
 五十四句目。

   松明の煙につづく白湯かた
 果しあふよに出あへや出あへ   宗因

 この句が難しいのは、結局この松明に続く白浴衣の人たちが何者なのかが特定できないからだ。当時の人には多分すぐにわかったのだろう。
 白浴衣が行者だとしても、何でそれが果し合いになるのかわからない。
 かなり後のことだが享和元年(一八〇一)に足達八郎が杖立温泉で決闘をして六人を斬るという事件が起こるが、宗因の句にも何か当時の人なら知っている元ネタがあったのかもしれない。
 五十五句目。

   果しあふよに出あへや出あへ
 声高のみなもと聞ば衆道也    磫畫

 果し合いは衆道のいさかいだった。衆道ネタというと芭蕉も得意だが、宗因の句にもあるし、当時は俳諧には付き物のネタだったのだろう。磫畫も大徳院のお坊さんだから、この道には詳しいのかも。
 元禄七年の「鶯に朝日さす也竹閣子 浪化」の句を発句とする歌仙の十二句目に、

   小屋敷並ぶ城の裏町
 謂分のちょっちょっと起る衆道事 去来

の句がある。
 俳諧に登場する衆道には性奴隷のような悲惨さは見られない。遊女の句とは明らかに違う。
 五十六句目。

   声高のみなもと聞ば衆道也
 よりて芝居の垣間見をせん    吟市

 衆道と芝居との間には深い係わりがあった。女性による歌舞伎が売春に係わるなど風紀上の問題で寛永六年(一六二九)に禁じられ、今日のように男ばかりで歌舞伎が上演されるようになったが、そこにもやはり男娼による売春が行われていたりした。江戸中期になると陰間茶屋が芝居小屋に併設されるようになる。
 衆道の呼び込みの声に誘われて、芝居をちょっと覗いて行くということもあったのだろう。
 五十七句目。

   よりて芝居の垣間見をせん
 おもほえず古巾着の銭をさぐり 又吟

 又吟さんの二回目の登場。
 芝居を見るためにふところの巾着に銭があったかどうか探る。日常の何気ないことをそのまま詠んだ感じだ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『伊勢物語』第一段を引用している。

 「その里にいとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。 思ほえずふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。」

の「かいまみてけり。 思ほえず」が歌てにはのように上句と下句を繋いでいる。
 後の「軽み」の時代なら、この出典は必要なくなっていたかもしれないが、当時としては証歌や出典が必要だったのだろう。
 又吟も目立たないが、ちゃんとそういう技術を身につけた連衆だったと思われる。
 五十八句目。

   おもほえず古巾着の銭をさぐり
 めくら腰ぬけ夢の世中     似春

 「腰ぬけ」は本来は腰が悪くて立てない人のことで、転じて臆病者のことになった。
 目の不自由な人、腰に障害のある人、見ていて思わずお金を恵んであげたくなる。障害が有ろうともなかろうとも、ともに夢のように儚い人生、せいぜい助け合って楽しく生きていこうではないか。
 五十九句目。

   めくら腰ぬけ夢の世中
 慮外者さはらばなどと肱を張  幽山

 「慮外者(りょがいもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「不埒な者。慮外な人。無礼者。特に、武士に対して無礼なことをした者をいうことが多い。
 ※俳諧・鷹筑波(1638)二「君が代に春たったりや慮外(リョクヮイ)者〈宗次〉」

とある。
 巾着袋を探るものもいれば、寄るな触るなとばかりに肱を張って威嚇する者もいる。こういう心ない輩を慮外者という。いったいどっちがめくらで腰抜けなのか。
 六十句目。

   慮外者さはらばなどと肱を張
 上様風の吹旅の空       少才

 前句を「慮外者!さはらば」で台詞とし、上様風を吹かしている偉そうな旅人とする。

2019年6月23日日曜日

 今日は沖縄慰霊の日で、悲惨を極めた太平洋戦争末期の沖縄戦が、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将の自決によって事実上終了した日だという。
 司令部の自決は戦争の責任者としてまだわかるとしても、名もなき庶民までが自決を強いられたことはまったく馬鹿げたことだった。生き延びて、そこで地にへばりついてでも暮らしているという既成事実があってこそ、領土は守ることができる。
 沖縄は今でも中国と何かあった場合、戦場となる危険を孕んでいる。近海を常に中国の軍艦がうろうろしている状況で、本土とは比べ物にならないほどの緊張があるのは理解しなくてはならない。
 でも、できれば沖縄の人には今の資本主義経済の自由と豊かさを守る側に来て欲しいと思う。まあ、中国の夢を選ぶなら止めることはできないし、最も困難な非武装中立の道が可能ならそれに越したことはないが。
 いずれにせよ鈴呂屋こやんは平和に賛成します。
 それでは世間話はこれくらいにして、「いと凉しき」の巻の続き。

 三十一句目。

   夏花やつつじ咲匂ふらん
 あの山の風をもがなと窓明て   少才

 花の咲き匂うに窓を開けると、一応付け合いではあるがシンプルな軽い付けで流した。
 三十二句目。

   あの山の風をもがなと窓明て
 月の前なる雲無心なり      幽山

 風が欲しいというのを、月の前に雲があるからだとした。
 この場合の「無心」は心無いという否定的な意味。
 三十三句目。

   月の前なる雲無心なり
 露時雨ふる借銭の其上に     宗因

 前句の「無心」を金の無心とした。「経る借銭のその上に」「無心なり」とつながる。
 それに「ふる」を導き出すように「霧時雨」を序詞のように用いて、風雅な言葉を使いながら借金の話に落とす。
 庶民の言葉がまだ風雅に取り入れられていなかった比の特有の手法で、雅語を基調としながらいかに世俗の話題を取り込むかという工夫でもあった。
 「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗とが平行して描かれる。
 三十四句目。

   露時雨ふる借銭の其上に
 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 「さま」は合略仮名で記されている。
 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
 ここも「霧時雨」に「色替ぬ松」の雅を基調に、「借銭の其上に見し太夫さま」という俗とが平行して描かれる。
 太夫様が出たところで恋に転じる。
 三十五句目。

   見し太夫さま色替ぬ松
 空起請煙となるも理や      幽山

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鉢木(はちのき)』の「松はもとより煙にて、薪となるも理や。」の一節が引用されている。「いざ鎌倉」の由来とされる佐野源左衛門常世の物語で、北条時頼をもてなすのに鉢植えの梅や桜や松を惜しげもなく火にくべて暖を取らせる。
 ここでも「色替ぬ松」の「煙となるも理や」という雅の文脈、「見し太夫さま」「空起請煙となるも理や」の俗とが平行して描かれる。
 「空起請(そらぎしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「いつわって誓いをたてること。また、その文書。空誓文。」

とある。
 三十六句目。

   空起請煙となるも理や
 夜討むなしき野辺の夕暮     宗因

 ここでは恋は二句で去る。
 「新古今集」の哀傷歌に、

 あはれ君いかなる野辺の煙にて
     むなしき空の雲となりけむ
                 弁乳母

の歌がある。
 前句の「空起請」を主君への偽りの誓いとし、誓いを立てておきながら裏切って夜討ちにされ、野辺の煙(火葬の煙)となった。

 二裏。
 三十七句目。

   夜討むなしき野辺の夕暮
 あてのみの酒気を風や盗むらん  似春

 「当て飲み(あてのみ)」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「他人の懐を当てにして酒を飲むこと。
 「舌を吐きつつ口に手を、―は現 (げ) に盗 (ぬすびと) 上戸」〈読・八犬伝・三〉」

とある。
 前句の夜討を単なる比喩として、せっかく人の金で只で酒を飲めたのに、その酔いも風に当たってすっかり醒めちまった。こいつあ風めの夜討ちにあったようなものだ、となる。
 三十八句目。

   あてのみの酒気を風や盗むらん
 雨一とをり願ふ川ごし      又吟

 又吟さんは初登場だが詳細は不明。
 当て飲みの酒の酔いも風が吹いたら醒めてしまいそうだ。ここらで雨でも降って川留めになれば、帰らずにそのまま飲み続けられる。
 三十九句目。

   雨一とをり願ふ川ごし
 名号の本尊をかけよ鳥の声    木也

 鳥の声はホトトギスの声で、「テッペンカケタカ」とも言うが「本尊掛けたか」とも言う。
 ホトトギスは和歌では夜の雨とともに詠まれることが多い。

   ほととぎすをよめる
 心をぞつくし果てつるほととぎす
     ほのめく宵のむら雨さめの空
               藤原長方(千載集)
 いかにせん来ぬ夜あまたのほととぎす
     待たじと思へばむら雨の空
               藤原家隆(新古今集)
のようにホトトギスを待っていたら雨が降ってきてしまったというものもある。
 この場合も前句を「雨一とをり、願ふ川ごし」と切り離し、「名号の本尊をかけよ鳥の声」と雨が一降りするなかを「願ふ川ごし」と結ぶ。
 四十句目。

   名号の本尊をかけよ鳥の声
 それ西方に別路の雲       信章

 「別路の雲」は紫雲のことか。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもそうある。
 紫雲はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。」

 西方浄土へといざなわれる。

 四十一句目。

   それ西方に別路の雲
 口舌事手をさらさらとおしもんで 吟市

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『船弁慶』の「数珠さらさらとおしもんで‥‥西方大威徳」のフレーズを引用している。最後の地歌の部分で、名古屋春栄会のホームページから引用しておく。

 「そのとき義経すこしもさわがず.うちものぬき持ちうつつの人に。向うが如く。ことばをかわし戦い給えば。弁慶おしへだて.うち物わざに叶うまじと。数珠さらさらとおしもんで。東方降三世南方軍陀利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王中央大聖不動明王のさっくにかけて。祈りいのられ悪霊次第に遠ざかれば。弁慶舟子に力をあわせ。お舟を漕ぎのけみぎわによすれば.なお怨霊は。したい来たるを。追っぱらい祈りのけ.また引く汐にゆられ流れ。またひく汐にゆられ流れて。あと白波とぞなりにける。」

 「口舌事(くぜつごと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「男女関係についての言い争い。痴話げんか。くぜげんか。
 ※俳諧・江戸八百韻(1678)赤何「恋の大峯分そむるなり〈泰徳〉 口舌事うき身に添へる鬼二人〈言水〉」

とある。前句の「別路の雲」をきぬぎぬのこととして恋に転じる。
 四十二句目。

   口舌事手をさらさらとおしもんで
 しら紙ひたす涙也けり      桃青

 さあ久しぶりに芭蕉さんの登場。
 夫婦のいさかいに涙だけなら何の変哲もない句だが、そこに「おしもんで」「しら紙ひたす」という別の文脈を組み込む。これは「揉み紙」という和紙の製法による。
 「浅倉紙業株式会社 (ショールーム 紙あさくら)のブログ」のサイトに、

 「お客様のご依頼で、揉み和紙を製作しました。
 市場によく出回っている楮和紙の場合は、あらかじめ霧吹きなどでほんの少し水分を与えてから揉むと、キメ細やかなシワが出来ます(もんだ後は乾燥して下さいね)。和紙によっては、水分をほんのりではなく、しっかりと含ませて揉む「水揉み」を行う事もあります。」

とある。当時の旅に欠かせない紙子もコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「紙衣とも書く。紙で作った衣服。上質の紙を産する日本独自のもので,古くから防寒衣料や,寝具に用いられた。はり合わせた和紙をよくもみ,柿渋を塗って仕上げたもので,防寒用の胴着や下着に用いられた場合が多いが,木版で美しい模様をつけ,上着にしたものもある。産地は奥州白石,駿河安倍川などであった。」

とある。
 宗因が三十三句目で見せた「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗を並行させる技法の応用で、「さらさらとおしもんでしら紙ひたす」の揉み紙の製造工程と、「口舌事手をひたす涙也けり」の恋を並行して描いてみせる。宗因の技を盗んでさらに応用まで利かせてしまう芭蕉さんは、やはり恐るべし。
 四十三句目。

   しら紙ひたす涙也けり
 高面をのぞく障子の穴床し    少才

 「高面(たかめん)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「高免 高率の田租」とある。ただ、ここで租税の話に転じてしまうと、次の句でまた『源氏物語』の恋の場面に戻って輪廻になってしまうので、ここは「たかつら」のことではないかと思う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「高く盛りあがっている頬(ほお)。また、頬の盛り上がったところ。また転じて、頬。
 ※大日経承暦二年点(1078)五「面(タカツラ)円満せむ、端厳して相ひ称へらむ」
 ※有明の別(12C後)二「御めもはなもくちもたかつらも、いとおほきにこだいにて」

とある。威厳のある顔をいう。女房達がその顔を一目見ようと障子に穴をあけ、「あなゆかし」となる。「ゆかし」は惹きつけられるということで、恋の句が続いていると見た方がいい。
 四十四句目。

   高面をのぞく障子の穴床し
 ゆびのさきなる中川の宿     宗因

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「源氏物語の空蝉の巻に、中川の宿

で源氏が空蝉・軒端荻を覗見することあり。」とある。
 京極の中川は今では失われた川で、京極川ともいう。源氏の君は方違えのためにここにある紀伊の守の家に行く。そこで、

 「君は、とけてもねられたまはず、いたづらぶしとおぼさるるに御めさめて、この北のさうじのあなたに人のけはひするを、こなたや、かくいふひとのかくれたるかたならん、あはれやと御こころとどめて、やをらおきてたちぎき給(たま)へば、ありつる子のこゑにて」
 (源氏の君はくつろいではいても眠れなくて、期待はずれの一人寝になってしまったと思うとすっかり目が冴えてしまい、この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、こっちの方に例のあの女房がいるのかと思うと、高鳴る胸を圧し留めながら、やおら起きて立ち聞きをしていると、さっきの弟君の声がして)

となる。障子に穴はあけてないが、本説を取る時に談林の時代には少し変えてもいいようになったのだろう。本説もそのまんまではなく、設定の変更なんかも段々大きく許容するようになっていったとき、「俤付け」に自然に移行していったのかもしれない。
 四十五句目。

   ゆびのさきなる中川の宿
 蒔絵さへ寺町物と成にけり    幽山

 京の寺町は、寺町京極商店街のサイトによると、

 「現在の通り名としての「寺町通」の誕生は、天正18年(1590)。
 豊臣秀吉による京都大改造計画の一環で、洛中に散在していた寺院をこの地(東京極大路の在ったあたり)の東側に移転させたのがきっかけで「寺町」の名前が付きました。
 浄土宗・法華宗(日蓮宗)・時宗の諸寺院が整然と並べられており、その数約80か寺におよびます。
 門前町としての体裁が整ってくるに従って、商店街も形成されてきます。17世紀末前後から、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏箱・文庫・仏師・筆屋などの寺院とタイアップしたお店が並びます。
 さらに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人もこの通りに沿って集住しています。」

 延宝の頃から少しづつ仏具や骨董を扱う店が立ち並び始めていたか、蒔絵がここ寺町で売られていることもあったのだろう。寺町から中川はほんの指の先。
 四十六句目

   蒔絵さへ寺町物と成にけり
 数寄は茶湯に化野の露      似春

 「化野(あだしの)」は江戸時代には鳥野辺とともに火葬の地だった。
 京都には茶の湯にふさわしい名水がたくさんあるが、化野の露は何とも悪趣味で、まあ生死を超越したということなのか。
 四十七句目。

   数寄は茶湯に化野の露
 石灯篭月常住の影見えて     桃青

 儚い露に常住の月を対比させる。向え付け。
 四十八句目。

   石灯篭月常住の影見えて
 雪隠につづく築山の色      磫畫

 前句を広いお寺の庭か何かとした。常住不滅の真如の月という高い理想を掲げたあとは「雪隠」でシモネタに落とす。これはこれで正解とすべきか。
 四十九句目。

   雪隠につづく築山の色
 ますき垣南山幷に花の枝     宗因

 コトバンクの「垣(かき)」の「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「建物や敷地などの周囲を囲むように作られた工作物や植栽で,材料,形式によって多くの種類がある。塀もほぼ同じ意味で使われ,築地(ついじ)は築地塀あるいは築垣(ついがき)とも呼ばれた。一般に,板塀や土塀のように表面が連続して平滑な面をなすものを塀,間隙の多いものを垣と呼ぶ傾向がある。」

とある。ただ、生垣などは向こう側が見えないから、向こう側が見えるような隙間の多い垣を「間隙(ますき)垣」というのだろう。
 南山は漢詩によく詠まれる廬山のことで、特に陶淵明の「飲酒二十首」の其五の、「采菊東籬下 悠然見南山(菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る)」のフレーズは有名だ。
 前句の築山を雪隠の間隙垣から見た景色とし、それを廬山に喩え、さらに花を添える。
 まあ、陶淵明まで持ち出して、見事に前句のシモネタを救ったということか。一応大徳院主だし。
 五十句目。

   ますき垣南山幷に花の枝
 うり家淋し春の黄昏       吟市

 白楽天の「三月三十日題慈恩寺」の詩句に、

 惆悵春歸留不得 紫藤花下漸黄昏
 惆悵(ちうちゃう)す春の歸るは留め得ざるを、
 紫藤の花の下漸く黄昏

と、春の終わりの黄昏を詠んだものがある。ただそれでは俳諧にならないので、うり家という卑俗な題材を出して落としている。

2019年6月22日土曜日

 今日は昼頃から雨が降り出し、時折強く降った。梅雨が戻ってきた。
 それでは「いと凉しき」の巻の続き。

 三十一句目。

   夏花やつつじ咲匂ふらん
 あの山の風をもがなと窓明て   少才

 花の咲き匂うに窓を開けると、一応付け合いではあるがシンプルな軽い付けで流した。
 三十二句目。

   あの山の風をもがなと窓明て
 月の前なる雲無心なり      幽山

 風が欲しいというのを、月の前に雲があるからだとした。
 この場合の「無心」は心無いという否定的な意味。
 三十三句目。

   月の前なる雲無心なり
 露時雨ふる借銭の其上に     宗因

 前句の「無心」を金の無心とした。「経る借銭のその上に」「無心なり」とつながる。
 それに「ふる」を導き出すように「霧時雨」を序詞のように用いて、風雅な言葉を使いながら借金の話に落とす。
 庶民の言葉がまだ風雅に取り入れられていなかった比の特有の手法で、雅語を基調としながらいかに世俗の話題を取り込むかという工夫でもあった。
 「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗とが平行して描かれる。
 三十四句目。

   露時雨ふる借銭の其上に
 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 「さま」は合略仮名で記されている。
 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
 ここも「霧時雨」に「色替ぬ松」の雅を基調に、「借銭の其上に見し太夫さま」という俗とが平行して描かれる。
 太夫様が出たところで恋に転じる。
 三十五句目。

   見し太夫さま色替ぬ松
 空起請煙となるも理や      幽山

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鉢木(はちのき)』の「松はもとより煙にて、薪となるも理や。」の一節が引用されている。「いざ鎌倉」の由来とされる佐野源左衛門常世の物語で、北条時頼をもてなすのに鉢植えの梅や桜や松を惜しげもなく火にくべて暖を取らせる。
 ここでも「色替ぬ松」の「煙となるも理や」という雅の文脈、「見し太夫さま」「空起請煙となるも理や」の俗とが平行して描かれる。
 「空起請(そらぎしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「いつわって誓いをたてること。また、その文書。空誓文。」

とある。
 三十六句目。

   空起請煙となるも理や
 夜討むなしき野辺の夕暮     宗因

 ここでは恋は二句で去る。
 「新古今集」の哀傷歌に、

 あはれ君いかなる野辺の煙にて
     むなしき空の雲となりけむ
                 弁乳母

の歌がある。
 前句の「空起請」を主君への偽りの誓いとし、誓いを立てておきながら裏切って夜討ちにされ、野辺の煙(火葬の煙)となった。

 二裏。
 三十七句目。

   夜討むなしき野辺の夕暮
 あてのみの酒気を風や盗むらん  似春

 「当て飲み(あてのみ)」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「他人の懐を当てにして酒を飲むこと。
 「舌を吐きつつ口に手を、―は現 (げ) に盗 (ぬすびと) 上戸」〈読・八犬伝・三〉」

とある。
 前句の夜討を単なる比喩として、せっかく人の金で只で酒を飲めたのに、その酔いも風に当たってすっかり醒めちまった。こいつあ風めの夜討ちにあったようなものだ、となる。
 三十八句目。

   あてのみの酒気を風や盗むらん
 雨一とをり願ふ川ごし      又吟

 又吟さんは初登場だが詳細は不明。
 当て飲みの酒の酔いも風が吹いたら醒めてしまいそうだ。ここらで雨でも降って川留めになれば、帰らずにそのまま飲み続けられる。
 三十九句目。

   雨一とをり願ふ川ごし
 名号の本尊をかけよ鳥の声    木也

 鳥の声はホトトギスの声で、「テッペンカケタカ」とも言うが「本尊掛けたか」とも言う。
 ホトトギスは和歌では夜の雨とともに詠まれることが多い。

   ほととぎすをよめる
 心をぞつくし果てつるほととぎす
     ほのめく宵のむら雨さめの空
               藤原長方(千載集)
 いかにせん来ぬ夜あまたのほととぎす
     待たじと思へばむら雨の空
               藤原家隆(新古今集)
のようにホトトギスを待っていたら雨が降ってきてしまったというものもある。
 この場合も前句を「雨一とをり、願ふ川ごし」と切り離し、「名号の本尊をかけよ鳥の声」と雨が一降りするなかを「願ふ川ごし」と結ぶ。
 四十句目。

   名号の本尊をかけよ鳥の声
 それ西方に別路の雲       信章

 「別路の雲」は紫雲のことか。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもそうある。
 紫雲はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。」

 西方浄土へといざなわれる。

 これはほんのおまけだが、多分三十年前に天安門事件に触発されて書いた詩があったはずだとこの前から探していたが、ようやく見つけた。この頃はまだ韻を踏んでなかった。
 
   北京幻想
 銃声のなかった頃の北京は狼の声も切なく
 雲と霧にたそがれてゆく頃には森は静寂に包まれる
 サーベルトラはどこの穴に眠っているのか
 葉をすっかり落とした森にテナガザルのロングコールがこだまする
 
 はるか彼方に煙が立ちのぼる
 鹿の肉をかかえて帰る男たちは内臓の香りに心高ぶり
 女が一人背中を毛づくろいなだめる
 そのやさしさに男はかすかに微笑み、ほのかな愛に喜ぶ
 母親と焚火にあたる乳飲み子は
 未来も知らぬままに利己的な遺伝子の夢を育み
 母の乳房はもう一つの子宮となって
 その声は広大な大地となった

 夜になれば心は闇におびえ、戸惑うばかり
 火を囲み大人は騒ぎ、赤ん坊は眠いと泣き出す
 失った兄弟たちの悪夢がまだ醒めることなく
 燃え盛る炎が果てしなく闇を呪う

 見渡せば樹海ははるか彼方まで続くというのに
 生きてゆくためにはほんの片隅を守る
 殺しあうことがいいか悪いか分からないが
 人は増えても増えることのない団栗に
 今日もまた隣人の動きを気づかっては
 戦いの日に備えて石器を磨く

 戦いに死んだ男を
 生き返れとばかりにただ叩く
 他になす術もないまま
 やがて春風がこの芽を膨らませ
 新しい命が芽ぶくようにと
 団栗を男の体に添えて落ち葉の中に埋める
 そんなことの繰り返し…

   反歌
 獣声がよし銃声に変るとも人の心は変りはしない

2019年6月21日金曜日

 明日は夏至。関西では蛸を食べるらしい。蛸からすれば儚き夢を夏の月というところか。
 それでは「いと凉しき」の巻の続き。

 二表。
 二十三句目。

   参台過て既に在江戸
 時を得たり法印法橋其外も    信章

 「法印」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「僧綱(そうごう)の最上位。法印大和尚位とも。法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の上。864年定められ,空海,最澄,真雅の3人に授けられたのが最初。創設当初は官位では従2位に相当。中世以降仏師,社僧,医師,連歌師などにも与えられる称号となった。」

とあり、「法橋(ほっきょう)」は、

 「日本の僧位の一つ。僧綱(そうごう)の最下位である律師に与えられる。法橋上人位とも。官位でははじめ正4位に相当。法印と同様,中世・近世では僧以外にも与えられた。」

とある。
 法印の位に付いた連歌師というと中世では心敬がいる。季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。尾形光琳も後に法橋になる。
 法印法橋といった僧位を得て江戸に移住すれば、それこそ出世コースの頂点と言えよう。宗因は大阪天満宮の連歌宗匠にはなったが、特に法位はなかったようだ。
 二十四句目。

   時を得たり法印法橋其外も
 新筆なれどあたひいくばく    桃青

 法印法橋ともなれば揮毫するだけで高い値がつく。突飛な方の芭蕉ではなくリアルな方の芭蕉が見えている。
 二十五句目。

   新筆なれどあたひいくばく
 歌のこと世上に眼高ふして    似春

 新筆で高い値を付けている者を歌人とした。「世上に眼高ふして」は世間で高く評価されているという意味。
 二十六句目。

   歌のこと世上に眼高ふして
 明石の浦は蟹もしる覧      宗因

 世間で有名な和歌といえば、

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に
     島隠れ行く舟をしぞ思ふ
            柿本人麻呂?

 この歌なら人はおろか明石の浦の蟹すらも知っているに違いない。蟹は目が飛び出しているので「眼高ふして」いる。
 二十七句目。

   明石の浦は蟹もしる覧
 蛸にも其入道の名は有ぞかし   磫畫

 明石はここでは『源氏物語』の明石入道で、このことは蟹ですら知っているにちがいない。蛸ですら蛸入道と呼ばれているくらいだから。
 二十八句目。

   蛸にも其入道の名は有ぞかし
 八日八日は見えし堂守      木也

 ここでは蛸入道は蛸薬師のことになる。京都の永福寺、目黒の成就院などで蛸薬師は本尊とされている。八日が縁日になる。蛸だけに。
 二十九句目。

   八日八日は見えし堂守
 今のかも例をたがへぬ仏生会   吟市

 八日を四月八日の仏生会とする。灌仏会とも花祭ともいう。
 三十句目。

   今のかも例をたがへぬ仏生会
 夏花やつつじ咲匂ふらん     似春

 ツツジは春の季語だが春から初夏に掛けて咲くため、ここでは「夏花(かばな)」を添えて夏の句にしている。「つつじ夏花や」の倒置。花祭に花を添える。

2019年6月20日木曜日

 鼠ヶ関の北にはあつみ山があり、鶴岡、酒田、吹浦とくれば、そのさきはかつて象潟のたくさんの島々が織り成す景勝地があった。
 その象潟は文化元年の象潟地震によって1.8メートル隆起し、陸地となってしまった。この地震も今回の地震と同じ地震帯によるものなのだろう。
 それでは「いと凉しき」の巻の続き。

 十七句目。

   一生はただ萍におなじ
 わびぬればとなん云しもきのふ今日 少才

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「古今集」の歌を引用している。

 わびぬれば身を萍の根を絶えて
     さそふ水あらばいなんとぞ思ふ
             小野小町

 本歌というわけでもなく、浮草の縁で「わびぬれば」と詠んだ小野小町のことを思い起こし、謡曲「卒塔婆小町」のように、若い頃は美貌を誇った小野小町も年老いてゆくのは避けられないとする。
 十八句目。

   わびぬればとなん云しもきのふ今日
 それ初秋の金のなし口      吟市

 「わぶ」は「下げる」という意味で、頭を下げたり気分を下げたり身分を下げたりすると同様、生活水準を下げることをも言う。つまり貧乏するということ。
 「きのふ今日」は「昨日今日に始まったことではない」という意味だろう。
 江戸時代は大晦日とともに、お盆も借金を取り立てて回収する季節だった。今年も又お盆が来て、また借金取りが来る。昨日今日に始まったことではない。
 十九句目。

   それ初秋の金のなし口
 十年を爰に勤て袖の露      宗因

 丁稚奉公で十年勤め上げても、残ったものは袖の露。あとは借金取りの追い立てられるだけ。
 こういうふうに庶民の人情に理解を示すのが宗因流といえよう。
 二十句目。

   十年を爰に勤て袖の露
 おほん賀あふぐ山のはの月    似春

 秋も三句目なのでここらで月の欲しい所だ。ただ、次の二十一句目は花の定座になる。
 袖の露を主人の恩の有難さに涙が出ることとした。
 月を出してはいるものの、『源氏物語』の若菜下に、

 「 院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふことども こちたきに、さしあひては便なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。 二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、 御遊び絶えず。」

とあるような、春の満月の頃の御賀をイメージし、花呼び出しにしたのではないかと思う。
 昔は誕生日の祝いというのはなく、正月になると一つ年を取るので、五十の御賀、還暦の御賀、喜寿の御賀、米寿の御賀など、春に行われることが多かったのだろう。
 二十一句目。

   おほん賀あふぐ山のはの月
 春は花栬の比は西の丸      幽山

 前句の御賀を紅葉賀のこととしたか。春の御賀は花の宴、秋の御賀は栬(もみじ)の賀ということで、お城の西の丸で賑やかに宴が催される。
 西の丸はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸城の一郭。本丸の西南方にある。文祿元年(一五九二)創建。将軍隠居所・世子居所として使用。明治維新後、皇居となった。
 ※浮世草子・好色一代女(1686)四「日影も西(ニシ)の丸にかたふくに驚き」

とある。
 「春は花」とあるものの、「春は花」は過去のことで、意味的には秋の紅葉の句となる。
 二十二句目。

   春は花栬の比は西の丸
 参台過て既に在江戸       磫畫

 春は花の皇居に参内し、秋には江戸で西の丸にいる。
 「春は花」の句は春ではないので、秋四句続いた後の無季の句となる。

2019年6月19日水曜日

 昨日は新潟の方で大きな地震があった。震源は鼠ヶ関に近い。『奥の細道』の旅で芭蕉と曾良は六月二十八日に村上に宿を借り、村上城を訪ねている。
 みんなの無事を祈りつつ「いと凉しき」の巻の続き。

 初裏、九句目。

   よみくせいかに渡る鳫がね
 四季もはや漸々早田刈ほして   似春

 似春はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:元禄年間?(1688~1704)
 生年:生年不詳
 江戸前期の俳人。通称は平左衛門。俳号は初め似春,晩年に自準と改める。別号,泗水軒。京都大宮に住したようだが,のち江戸本町に移る。晩年は下総行徳で神職に就く。俳諧は初め北村季吟に学び,のち西山宗因に私淑する。『続山井』(1667)以下季吟・宗因系の選集に多くの入集をみている。江戸に移住後は,松尾芭蕉とも交わり,江戸の新風派として活躍した。延宝7(1679)年冬,上方に行脚,諸家と連句を唱和して『室咲百韻』(『拾穂軒都懐紙』とも)を編み,帰府後には『芝肴』を編んでいる。晩年は隠遁,清貧を志向し,「世をとへばやすく茂れる榎かな」などの句を残している。(加藤定彦)」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、『徒然草』第十九段を引用している。注にあるよりやや長めに引用しておく。   

 「七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田(わさだ)刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破やり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。」

 「四季」は「史記」と掛けているという。
 十句目。

   四季もはや漸々早田刈ほして
 あの間此間に秋風ぞ吹く     主筆

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「前句『四季』を四季の襖絵として、それにあしらう。」とある。
 確かに『四季耕作図』という定番の画題もある。
 十一句目。

   あの間此間に秋風ぞ吹く
 夕暮は袖引次第局がた      磫畫

 「局(つぼね)」はこの場合は大奥ではなく局女郎(つぼねじょろう)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「遊里で下級の女郎。上方、江戸の地域、または時代によりその品格は異なり、古くは必ずしも最下等の遊女ではなく、江戸新吉原でも、中程度の品格の者から種々含まれていたが、後期には、局(つぼね)と称する狭い長屋風の部屋に一人ずついて、時間で客をとる遊女を多くさしていう。つぼね。つぼねじょうろう。
 ※評判記・色道大鏡(1678)一「端女(はしおんな)。端女郎とも、局女郎(ツボネチョラウ)とも、あそびとりともいふ。けちぎり女の事なり」

とある。
 袖を引っ張って部屋に誘い込もうとするが、なかなか世知辛いの中でどの部屋も秋風が吹いていて、遊女の哀愁が漂う。
 十二句目。

   夕暮は袖引次第局がた
 座頭もまよふ恋路なるらし    宗因

 座頭というと琵琶か三味線を弾いて浄瑠璃姫の恋物語などを唄う者だが、その座頭も恋の道に迷うのだから、ましてや凡夫が局女郎に迷うのももっともなことだ。
 状況を限定しない一般論で付けることで次の展開を図る。
 十三句目。

   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

 これは座頭積塔からの発想で、恋路に迷う、まさに恋は盲目の座頭が加茂の川原に高い積塔を積み上げる。芭蕉らしい奇抜な発想だ。宗因も予想外の展開にびっくりしたのではないか。
 座頭積塔は「都名所図解」というサイトによると、

 「座頭積塔(ざとうのしゃくたふ) といふは、人王五十八代光孝天皇の姫宮雨夜内親王、御眼盲給ひてより、洛中の女の盲者を召して御伽をせさせ給ひ、賤しきには官を賜ひ、御前に伺候するゆゑ、御前と風儀しけり。それより男子の盲人も官を賜ひて座頭と称し、検校・勾当の官に任ずる事、この内親王よりの遺風なり。毎歳二月十六日はこの姫宮の御祥忌なれば、座頭集会をなして尊影を拝し、東の河原に出でて石を積みて報恩す。これを積塔といふ。」

とある。
 十四句目。

   そびへたりおもひ積て加茂の山
 室のとまりの其遊びもの     幽山

 さて、式目では恋は五句まで続けることができるので、さらに畳み掛けてゆく。
 「室のとまり」は室津のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「兵庫県揖保(いぼ)郡御津町の地名。播磨灘に面する。漁港があり、奈良時代は播磨五泊の一つに数えられる要港。中世には倭寇の根拠地となり、江戸時代は瀬戸内海航路の寄港地であった。遊女の発祥地としても知られた。瀬戸内海国立公園の一部。室。室の津。室の泊り。室津の泊り。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもあるが、謡曲『加茂』には、

 「抑これは播州室の明神に仕へ申す神職の者なり。
 さても都の賀茂と当社室の明神とは御一体にて御座候へども。いまだ参詣申さず候ふ程に。此度思ひ立ち都の賀茂へと急ぎ候。」

とある。
 室津の遊女を求めて集まる遊び人たちは、積もる思いを室の明神と一体の加茂の明神に託す。
 十五句目。

   室のとまりの其遊びもの
 草枕おきつ汐風立わかれ     木也

 さて、恋もここまでの五句目。「立わかれ」というと、

 たち別れいなばの山の峰に生ふる
     まつとし聞かば今帰り来む
                中納言行平

の歌も思い浮かぶ。
 十六句目。

   草枕おきつ汐風立わかれ
 一生はただ萍におなじ      信章

 恋を去り無常に転じる。「新古今集」に、

 葦鴨の羽風になびく浮草の
     定めなき世を誰か頼まむ
             大中臣能宣朝臣

の歌がある。

2019年6月18日火曜日

 「いと凉しき」の巻の続き。
 第三。

   軒を宗と因む蓮池
 反橋のけしきに扇ひらき来て   幽山

 幽山はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

「没年:元禄15.9.14(1702.11.3)
生年:生年不詳
江戸前期の俳人。名は直重。通称は孫兵衛。丁々軒と号す。晩年は竹内為入と号したという。初め京に住して,俳諧を松江重頼に学ぶ。寛文(1661~73)のころは,諸国を行脚し,その実績をもとに『和歌名所追考』12冊を出版。延宝2(1674)年ごろには江戸に下り,重頼の友人で奥州磐城平の城主内藤風虎の周辺で活躍した。修業時代の松尾芭蕉が,幽山の記録係を勤めたとの伝もある。延宝8年には,『誹枕』を刊行。やがて頭角をあらわしていく芭蕉と入れかわるごとく,俳壇から姿を消していく。晩年は,江戸から藤堂高通(俳号は任口)が初代藩主として立藩した久居(三重県)に移住した。」

とある。
 反橋は太鼓橋のことで、橋の下にある蓮池の景色を扇子の絵に見立てたもの。
 前句の蓮池は水辺の体で、反橋は水辺の用になる。発句の「法の水」が打越にあるが、これは似せ物の水ということで水辺にカウントしないのであろう。水辺だとしたら用にになり、用体用となるのでよくない。
 四句目。

   反橋のけしきに扇ひらき来て
 石壇よりも夕日こぼるる     桃青

 ここで早くも芭蕉さんの登場となる。
 石檀は石で作った祭壇で石段ではない。扇の間から夕日を透かしてみるように、反橋の下の半円の空間にある石壇から夕日が見える。
 「も」は強調の力もで、「石壇より夕日こぼるるも」の倒置か。
 五句目。

   石壇よりも夕日こぼるる
 領境松に残して一時雨      信章

 芭蕉(桃青)と素堂(信章)との付き合いはこの頃から既に始まっていた。翌年の春には「此梅に」の両吟興行を行う。
 「領境」は藩と藩の境界で、境界石が置かれていた。前句の石壇を境界石のこととしたか。
 前句の「夕日こぼるる」を時雨の後の晴れ間とし、四手にびしっと付ける。
 六句目。

   領境松に残して一時雨
 雲路をわけし跡の山公事     木也

 木也は不明。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、

 雲は皆はらひ果てたる秋風を
     松に残して月を見るかな
              藤原良経(新古今集)

を引いている。本歌と見ていいだろう。ただ、残っているのは月ではなく境界争いの公事(裁判)だと換骨奪胎している。
 七句目。

   雲路をわけし跡の山公事
 或は曰月は海から出るとも    吟市

 吟市はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-1682 江戸時代前期の僧,俳人。
近江(おうみ)(滋賀県)の人。真言宗高野山蓮華院,のち江戸安住院の住持となる。北村季吟(きぎん)の門人。延宝3年西山宗因を江戸にむかえてもよおされた大徳院の百韻に桃青(松尾芭蕉)らと参加。作品は「貝殻集」「諸国独吟集」などにみえる。天和(てんな)2年死去。法名は尊海。」

とある。
 七句目で月の定座となる。ただし定座は連歌の式目にはないし、宗祇の時代には特に定座というものはない。
 四句目の「夕日」から二句しか隔てたないが、俳諧では可隔三句物も可嫌打越物に引き下げられていたと思われる。
 前句の「雲路をわけし跡の山公事」を何かの書の一文として、或本によると月が雲路をわけて出てきたのではなく、海から出てきたと注釈する。
 後の『俳諧次韻』の、

   鷺の足雉脛長く継添て
 這_句以荘-子可見矣       其角

のような付け方だ。
 八句目。

   或は曰月は海から出るとも
 よみくせいかに渡る鳫がね    少才

 少才は不明。
 「よみくせ(読み癖)」は習慣的な読み方。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に漢文のレ点のことを雁点というとある。前句を漢文の注釈とした。

2019年6月17日月曜日

 今日は旧暦五月十五日。今日の空はすっきりと晴れて久しぶりに富士山を見た。そして夜には満月が、時折雲に隠れながらも見えている。
 最近ではストロベリームーンとか言うらしいが、今の日本だとイチゴの季節は三月四月でやや遅い。どちらかと言うと枇杷の季節だ。ロークワットムーンの方がいいのではないか。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では覆盆子(いちご)は四月になっている。本来覆盆子はラズベリー系のキイチゴのことだが、日本では室町時代にその栽培は廃れ、江戸時代の俳諧に出てくる覆盆子はクサイチゴのことと思われる。

 風流の初めやおくの田植歌     芭蕉

の発句に須賀川の等躬は

   風流の初めやおくの田植歌
 覆盆子を折て我まうけ草      等躬

という脇を付けている。
 五月の異名としては同じく『増補 俳諧歳時記栞草』に、鶉月、橘月、月見ぬ月、早苗月が挙げられている。
 さて、そろそろまた俳諧のほうに戻ろうかと思う。五月の俳諧といえば、延宝三年、宗因が江戸にやってきたとき芭蕉(当時は桃青)が同座した百韻がある。その発句、

   延宝三卯五月、東武にて
 いと凉しき大徳也けり法の水    宗因

は当時本所にあった大徳院での興行で、「大徳」に法の水を添えている。
 大徳院は「お寺めぐりの友」というサイトによると、

 「大徳院は、高野山真言宗のお寺です。 徳川家康によって、文禄3年1594に和歌山県の高野山に開かれました。 高野山を開いた弘法大師の「大」と徳川家の「徳」をとって「大徳院」と称しました。 それ以来、徳川家の勢力を背景に、全国に末寺ができましたが、大徳院は諸国末寺の総触頭として、寛永年間1626-1639神田紺屋町に屋敷を拝領し、寛文9年1666本所猿江に移転の後、貞享元年1684 2月、2000坪の土地をこの地両国に拝領し、移転しました。」

とのことで、延宝三年は寛文と貞享の間なので本所猿江にあった。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、『源氏物語』若紫の「いとたふとき大徳なりけり」を踏まえたものだと言う。
 マラリアを患った源氏の君が、北山のなんとか寺という所に霊力のある修行僧がいると聞いて尋ねてゆくと、峯の奥ではまだ山桜が咲いていて、岩窟のなかにみすぼらしい格好をした人がいて、今は俗世を捨ててしまったので、修法などのやり方も捨ててしまい忘れてしまったなどと言うが、

 「いとたふときだいとこなりけり。さるべきものつくりて、すかせたてまつり、かぢなどまゐる程(ほど)日たかくさしあがりぬ。」
 (そこはやはりありがたい高僧でした。しかるべき薬を作っては飲ませ、加持などを終えた頃には、既に日は高く登ってました。)

となる。
 興行場所の大徳院に掛けて、これはこれは涼しい高僧に招かれまして、と挨拶になる。
 これに対し、大徳院主の磫畫が脇を付ける。

   いと凉しき大徳也けり法の水
 軒を宗と因む蓮池        磫畫

 宗因の名前を読み込んで、法の水に蓮池を付ける。『校本芭蕉全集 第三巻』には、

 法の水深きさとりをたねとして
     むねの蓮の花ぞひらくる

という「玉葉集」の歌を引いている。

2019年6月16日日曜日

 「応安新式」の続き。

 「一、句数
 春 秋 恋(已上五句) 夏 冬 旅行 神祇 尺教 述懐(懐旧・無常在此内) 山類 水辺 居所(已上三句連之)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303~304)

 句数というのは、通常の題材は輪廻を嫌うため二句続けたら三句目は付けることはできないが、春夏秋冬や恋など連歌に欠かせない主要な題材については、筵それ以上続けることが望まれる。
 春と秋と恋は五句まで続けることができる。
 春と秋は夏や冬に較べて景物も多く、万人に好まれる季節で、春には花もあり、秋には月もあるため重視される。恋もまた大和歌は色好みの道といわれるくらい、和歌でも恋の歌は多くの巻を割き、その集の花ともいえる。
 江戸時代の俳諧では儒教道徳の影響からか、恋には余り重点を置かれなくなるし、一句で捨ててもいいということになったが、中世の連歌ではまさに連歌の花、みんなが競って恋の句を詠みたがった。
 式目には記されてないが、春は三句以上、恋は二句以上続けるのが暗黙のルールとされていた。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「春・秋句、不及三句は不用之、恋句、只一句而止事無念云々」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.123)

とある。
 夏、冬は三句まで続けることができる。
 旅行は羇旅ともいい、左遷や流刑や仏道の遊行などを言う。天皇の御幸なども含まれるが、当時は観光旅行という発想はなかった。大体は旅の苦しみを詠むものが多い。江戸時代には旅体とも呼ばれる。三句まで続けることができる。
 神祇、尺教(釈教)も三句まで続けることができる。連歌では形だけ神祇や釈教の言葉が入っていればいいというものではなく、実質的な内容が必要で、特に神祇や釈教の言葉を必要としなかった。

   きけども法に遠き我が身よ
 齢のみ仏にちかくはや成りて 宗祇

は釈教ではなく述懐になる。
 述懐は「懐旧・無常在此内」とあり、懐旧や無常も述懐の内とみなされ、三句までとされている。述懐三句続いた後、別に懐旧・無常を付けることはできない。
 山類、水辺、居所も三句続けることができる。ただし打越で体と用を違える必要がある。体体用、体用用、用用体、用体体なら良い。体と用に分けられているのは山類、水辺、居所の三つで、体と用を違えれば三句可と思っていい。
 体と用に別れてない生類(木類、草類、獣類、虫類、鳥類、人倫)と衣裳は二句までになる。

 「一、体用事
 岡 峯 洞 尾上 麓 坂 そば 谷 山の関(已上山体也)
 梯 瀧 杣木 炭竈(已上如此類山用也、他准之)
 海 浦 入江 湊 堤 渚 嶋 奥 磯 干潟 汀 沼 河 池 泉(已上水辺体也)
 浮木 舟 流 浪 水 氷 水鳥類 蝦 千鳥 葦 蓮 真薦 海松 和布 藻盬草 海人 盬 盬屋 盬干 萍 閼伽結 魚 網 釣垂 懸樋 氷室 下樋 手洗水(已上如此類用也)
 軒 床 里 窓 門 室戸 庵 戸 樞(とぼそ) 甍 壁 隣 墻(かき)(已上体也) 庭 そとも(已上如此類用也)
 人 我 身 友 父 母 誰 関守 主(如此類人倫也) 月をあるじ 花をあるじ そうづ 山姫 木玉(已上非人倫也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.304)

 山類、水辺、居所には体と用の区別がある。大雑把に言えば大きなものが体で小さなものが用といったところか。景色全体のパノラマになるような海、浦、入江、湊(みなと)、堤、渚、嶋、磯、干潟、汀、沼、河、池、泉などは体になる。
 「奥」は『連歌新式古注集』の注に見られないところから、『連歌初学抄』の方の間違いか。
 これに対し、景色の小道具になるような浮木、舟、流、浪、水、氷、水鳥類などは用になる。
 「連歌新式紹巴注」には「滝は山類用、水辺体也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.194)とあり、両方にまたがるものもある。
 体用とは関係ないが、ここに人倫と人倫でないものの区別も加えてある。「月をあるじ」「花をあるじ」は月や花がここの主人のようだという比喩なので人倫ではない。
 「そうづ」は本来は僧正に継ぐ僧官のことだが、案山子の意味もある。

 あしひきの山田のそほづおのれさへ
      我をほしてふうれはしきこと
              詠み人知らず

の歌が「古今集」にある。
 もとは「そほづ」だったが後に僧都と混同されたか。ししおどしのことも添水(そうず)という。
 「山姫(やまひめ)」は神の意味であれ山姥の意味であれ人外なので人倫にはならない。
 「木玉(こだま)」は「木霊」であってやはり人外。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「樹木に宿る精霊をいう。《和名抄》では樹神を〈和名古多万〉としている。また《源氏物語》の〈手習〉に〈たとひ,まことに人なりとも,狐・木魂やうのものゝ,欺きて,とりもて来たるにこそ侍らめ〉とあり,木霊は古くから怪異をなす霊とされていた。《徒然草》235段にも〈あるじなき所には……こたまなど云ふ,けしからぬかたちもあらはるるものなり〉とある。また《嬉遊笑覧》などでは天狗のこととされている。今日では,木霊は山などで人の声を反響する山彦のこととされているが,もとは山彦も山の樹木に宿る精霊のなせるわざと考えられていた。」

とある。
 最後に、

 「右大概准建治式作之、但当世好士所用来多不及取舎、只為止当座諍論、粗所定如件、
   応安五年十二月  日       後普光園摂政 判」

と奥書があり、「応安新式」は締めくくられる。
 応安五年は南北朝時代の北朝の元号で、西暦一三七二年。
 後普光園摂政は二条良基のこと。摂政の地位を持つものが判を押すことで、事実上皇室によって権威付けられた公式ルールとなった。
 ただ、たとえば野球やサッカーでも大まかなルールは変わらないが、細かな所では毎年改正されているように、連歌のルールも時代によって様々な調整が加えられることになった。
 「応安新式」「新式追加條々」「新式今案」の三つは摂政や関白の判によって権威付けられているものの、実際の所全国に散らばりそれぞれ旅をしている連歌の宗匠たちを一堂に集めて会議をするなんてこともできなかったのだろう。ある程度の細かい所の判断はそれぞれの宗匠に任されてきた部分もある。
 俳諧のルールも概ね連歌に準じてはいるが、去り嫌いをかなり緩和したりしている。これは百韻が主流だった中世の連歌に対し、歌仙や半歌仙などの短い巻が増えたことと関係があるのではないかと思う。実際、こういう少ない句数の中で五句去りを厳密に守ったら身動きが取れなくなる。多くは三句去りに引き下げられている。

2019年6月14日金曜日

 左翼の間ではようやく香港のデモの支援が解禁されたようだ。ネトウヨは最初から支援している。いずれにせよ香港加油(ガーヤウ)!
 ホルムズ海峡付近で攻撃を受けた国華産業(三菱系)の船の乗組員は、何かが飛んできたと言っていたのだが、いつのまにか船腹に仕掛けられたリモコン式の爆弾だなんてニュースになっていた。何だか情報が二転三転している。
 せっかくの我国の首相の調停も妨害された形になり、日本にとってもイランにとっても良いことではない。どこかに戦争を望む者がいるのか。きな臭い話だ。
 まあそれはともかくとして、ここは風流のサイトなので「応安新式」の続きを。

 「平秋の句に恋の秋付て、又平秋句不可付之、恋にも雑にも分がたからん句をば、已前の句に准て可用之(他准之、) 朽木と云句に杣と付て、又杣の名所不可付之、生田と云句に森と付て、杜の名所、かくし題にも不可付之、槇には木の字を不可憚、槇木戸には、木字五句可嫌之、良材之故也、」

 これは輪廻に関連したものか。普通の秋の句に秋の恋句を付けて、また普通の秋に戻すのは輪廻になる。
 「連歌新式永禄十二年注」に、

 「春の句に旅をむすびて、一句二句行て、又、春計の句などあしき也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.114)

とあるように、秋と恋に限らず、春と旅でも同様にただの春に戻るのを嫌う。恋か雑かわからないような句を付けて逃れる分にはいい。
 「杣」は前に杣木のところで述べたように、材木採取のために指定された山をいう。「朽木」に「杣」を付けると前句の朽木は単なる朽ちた木のことではなく、近江国の朽木(くつき)のことに取り成される。
 朽木の杣は「新古今集」に、

   年ごろ絶え侍にける女の、
   くれといふ物尋ねたりける、つかはすとて
 花咲かぬ朽木の杣の杣人の
     いかなるくれにおもひいづらむ
                 藤原仲文

という歌があり、また「金葉集」にも、

 年ふれど人もすさへぬ我が恋や
     朽木の杣の谷の埋もれ木
                 藤原顕輔朝臣

の歌がある。
 朽木が名所に取り成されているため、「朽木」と来て「杣」と来たその後に他の杣の名所を出すことはできない。
 榑(くれ)はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  板材。平安初期の規格では長さ一丈二尺、幅六寸、厚さ四寸。榑木。
  ②  薄板。へぎ板。板屋根などをふくもの。 〔下学集〕
  ③  薪。」

とある。「暮れ」と掛けている。
 「生田の森」は名所で、コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「生田神社境内の森。源平および新田・足利両氏の合戦があった所。今は、数本の巨木を残すのみ。
 ⦅歌枕⦆ 「君住まばとはまし物を津の国の-の秋のはつ風/詞花 秋」

とある。前句と二句合わせて生田の森とした場合、次の句にまた森の名所を付けることはできない。
 「かくし題にも不可付之」とあるのは、「連歌新式永禄十二年注」に、

 「木がらしとつくれば、木枯の杜になる也。是かくし題也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.115)

とある。「木枯の杜」はウィキペディアに、

 「木枯森(こがらしのもり)または木枯ノ森は、静岡県静岡市西部を流れる安倍川最大の支流、藁科川の河川敷にある中州である。静岡県指定の名勝となっている。」

とあり、

 「古来より和歌の世界では駿河国の歌枕として詠まれてきた。また、清少納言の随筆『枕草子』「森は」の段で述べられる「木枯らしの森」がこの地と考えられている(かつて京都市右京区太秦にあった同名の森とする説もある)。」

とある。
 はっきりと木枯しの杜と言うのではなく、森に木枯しが吹いてみたいに匂わすだけでも隠し題になるのでNGとなる。
 「槇」は杉や檜などをいうものなので、普通に木材や木でできたものの意味での「木」の字には嫌わないが、「真木戸」と「木」の字は五句去りになる。この場合の「真木」は良材の意味になるからだ。

 「躑躅 卯花(は木也) 藤(は草也) 海人小ふね・泊瀬山(舟の字に付て、水辺に可嫌之) 棹姫(は春也)
 立田姫は秋也 山姫は雑也、
 てにをはの字、相合て不可付之、」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 このほか紛らわしいものに草類なのか木類なのかというものがあるが、躑躅(つつじ)は木類になり、藤は草類になる。前に述べたが「竹」はどちらにもならない。
 「海人小ふね・泊瀬山」というのは『万葉集』の、

 海人小舟泊瀬の山に降る雪の
     日長く恋ひし君が音ぞする

のように「海人小舟」が泊瀬に掛かる枕詞に用いられる場合を言う。実際の泊瀬は「こもりくの泊瀬」で内陸部にある。
 「棹姫(さおひめ)」は佐保姫のことなので春。「立田姫」は紅葉の名所竜田川の女神なので秋になる。
 「山姫」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「 山を守る女神。
 「わたつみの神に手向くる―の幣(ぬさ)をぞ人は紅葉と言ひける」〈後撰・秋下〉」

とあるが、「デジタル大辞泉プラスの解説」には、

 「日本の妖怪。山中に住む女の妖怪。人の血を吸い死に至らしめるなどの言い伝えが全国各地に広く残る。「山女」とも。」

とある。無季で神祇にもならない。
 「てにをはの字、相合て不可付之」は「連歌新式心前注」に、

 「相合とは、下句の腰のてと、上句のてどまりとの事なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.290)

とある。これはよくわからない。「連歌新式紹巴注」には、「こしのとまり也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.191)とだけある。
 上句の末尾を「て」で止めることはよくあるが、そのあと下句に「て」の字を使うなということか。
 こうした細かな注意は句材をいろいろなカテゴリーに分けて去り嫌いのルールを適応する際、典型的なものはそれほど問題はない。ただ、どっちだろうかと迷うものもあるので、ある程度の目安を示したものと思われる。
 以前、概念は記憶による構造化で、個体発生的に作られるため、他の概念との境界は曖昧になるということを、よくある遠足ネタで「先生、バナナはおやつですか?」という例で述べたが、おやつか弁当かの境界は確かにはっきりしない。
 それと同じように、「藤は草ですか木ですか」ということにも一応の取り決めをする必要があった。

2019年6月13日木曜日

 今日は晴れた。梅雨の中休みだ。夕暮れには久しぶりに月を見たような気がする。半月よりも丸い十一日の月だ。
 それでは「応安新式」の続き。

 「夕に日ぐらし 時雨に時の字 名所の春日に日(如此不可嫌之)
 玉章にこと葉 歌にことのは 敷島の道に歌 偽にまこと 別に衣々 涙に袖の露 生死に命 齢に老 親に子 なくに涙 帰にわかれ うきにつらき・かなしき(如此類不可付之)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「夕に日ぐらし 時雨に時の字 名所の春日に日」は「連歌新式永禄十二年注」に「雖云不嫌之、不可然。打越可嫌之」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.113)とある。二条良基の頃には嫌わなかったが、紹巴の時代には嫌うようになったということか。
 「玉章にこと葉 歌にことのは 敷島の道に歌」はほとんど同語反復といっていい。「別に衣々 涙に袖の露」も同じ。「うきにつらき・かなしき」も同じ。こうした類語は打越はもとより付けるのも嫌う。
 「偽にまこと」のような対義語も同様に嫌う。

 「下紐 ひれ(衣裳也) 帯 冠 沓 衣々(非衣裳)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 これは衣裳に関するものだが、「下紐」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔上代は「したびも」〕
  ①  装束の下、小袖の上に結ぶ帯。したおび。
  ②  下裳したもまたは下袴したばかまの紐。 「愛うるわしと思ひし思はば-に結ひ付け持ちて止まず偲しのはせ/万葉集 3766」

とあるように、衣裳の一部になる。
 「ひれ」も領巾という字を書き、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「比礼とも書く。大化改新前から奈良時代にかけて用いられた女性装身具の一つ。両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布帛 (ふはく) 。奈良時代以来,装飾として礼服,朝服に使用され,平安時代に入って,一般には用いられなくなったが,女房装束として晴れ着には裙帯 (くんたい) と合せて着用された。地は紗,綾で,色は白や櫨 (はじ) だん,楝 (おうち) だんが多い。」

とあるように衣裳の内に入る。
 これに対し、「帯」はウィキペディアに「和服の帯は江戸時代初期までは幅10cm程度の細い物であった。紐が使われることもあった。」とあるが、これらは紐と呼ばれていた。「帯」は古代には革帯を意味し、帯鉤という金具で締め付けていた。
 「連歌新式心前注」に、

 「今人のする帯がひも也。ひもとは衣裳のはづれのことなり。帯、いしょうのうへにする物也。只の帯の事にはあらず。玉・沈・香などにてする物也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.288)とある。
 「冠」「沓」も衣裳にはならない。
 「衣々(きぬぎぬ)」は男女の朝の別れのことで、それぞれ衣服を着る所に語源があるにしても、それぞれの衣服のことを言い表す言葉ではない。ゆえに衣裳にはならない。

2019年6月12日水曜日

 昨日は一日雨で時折強く降った。今日も曇りで夕方には雨がぱらぱら降った。梅雨らしい日が続く。紫陽花やタチアオイの花が眩しい。
 それでは「応安新式」の続き。

 これとは反対に植物ではないようでいて植物になる物。

 「軒菖蒲 末松山 篠枕 稲筵 苔筵 蓬宿 葎宿 夕顔宿(已上植物也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「軒菖蒲(のきあやめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 植物「しょうぶ(菖蒲)」の異名。《季・夏》 〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕
  ② =のき(軒)の菖蒲(あやめ)
 ※山響集(1940)〈飯田蛇笏〉昭和一二年「軒菖蒲庭松花をそろへけり」

とあるが、このばあいは①の意味。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「軒にふくより外に別の用なければ、池に生たる時より、軒のあやめ也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とある。
 アヤメは、アヤメ科アヤメ属で、ショウブはショウブ科のショウブ属で別物。アヤメは花を観賞するが、ショウブの花は目立たず、芳香のある葉は今日でも端午の節句の菖蒲湯に用いられる。かつては軒先に魔除けとして吊っていたため、軒菖蒲(のきのあやめ)と呼ばれていた。
 軒に吊らなくても、池に生えている状態でショウブの別名として軒菖蒲(のきのあやめ)と呼ばれていたため植物(うえもの)になる。水辺に生えるため水辺(すいへん)にもなる。
 ハナショウブはアヤメ科アヤメ属でアヤメともショウブとも別物。園芸種で広まったのは戦国時代から江戸時代で、二条良基の時代にはまだなかったと思われる。
 「末松山(すえのまつやま)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「陸奥(むつ)国、今の宮城県多賀城市付近にあったという山。⦅歌枕⦆ 「君をおきてあだし心を我が持たば-浪もこえなむ/古今 東歌」

とある。貞観十一年(八六九年)の貞観地震のときの大津波も末の松山は越えなかったというところから、ありえないことの例えとされてきた。この末の松山は平成二十三年(二〇一一年)の東日本大震災の大津波も越えなかった。名所で山類であるとともに植物にもなる。
 「篠枕(ささまくら)」は「連歌新式永禄十二年注」には、

 「生たる篠を結たる枕也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とあり、「連歌新式心前注」に、

 「ささを枕にしたる事也。草枕とは心かはる也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.286)

とある。草枕のような比喩ではなく、実際に生えている笹を枕にしていたので植物となる。
 「稲筵(いなむしろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 稲のわらで編んだむしろ。
 「秋の田のかりねの床の―月宿れどもしける露かな」〈新古今・秋上〉
  2 稲が実って倒れ伏したようす。また、そのように乱れたもののたとえ。
 「夕露の玉しく小田の―かぶす穂末に月ぞすみける」〈山家集・上〉」

とある。植物になるのは2の意味のときであろう。「連歌新式永禄十二年注」に、

 「説々おほし。稲のほのいなむしろに似たると也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とある。
 「苔筵(こけむしろ)」は苔の筵。苔のびっちり生えた様を筵に喩えたものなので植物になる。「連歌新式永禄十二年注」に、

 「苔の生たるさまの、筵に似たると也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とある。
 「蓬宿(よもぎのやど)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「ヨモギなどが生え茂って荒れ果てた家。よもぎがやど。
「玉しける庭に移ろふ菊の花もとの―な忘れそ」〈頼政集〉」

とある。「葎宿」「夕顔宿」も同様、実際にその植物が生えているので植物となる。
 次は夜分になる物。

 「水鶏 螢 蚊遣火 筵 枕 床(ゆかは昼也) 又寝(已上夜也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「水鶏(くいな)」はウィキペディアに「湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息する。半夜行性で、昼間は茂みの中で休む。」とある。夜分で水辺になる。
 「螢」も夜に光る様を詠むものなので夜分になる。
 「蚊遣火」はウィキペディアに、

 「よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払う大正時代初期頃までの生活風習である。」

とある。夜分になる。
 「筵(むしろ)」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「①  わら・藺(い)・竹などで編んだ敷物。特に、わらを編んで作ったもの。わらむしろ。 「 -囲いの仮小屋」
  ②  すわる場所。また、会合の席。 「一道にたづさはる人、あらぬ道の-にのぞみて/徒然 167」
  ③  寝床。 「 -ニツク/日葡」

とあるが、夜分になるのは③であろう。
 「枕(まくら)」は寝る時に使うので夜分。
 「床(とこ)」も寝床のことなので夜分。ただし「ゆか」と読ませる場合は夜分にはならない。
 「又寝(またね)」は二度寝のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 一度目覚めてから、また寝ること。また、同衾した人と別れた後にまた寝ること。またぶし。
 ※古今著聞集(1254)八「又ねの心もあらばこそあかぬなごりを夢にもみめ」

とある。
 次に夜分でないもの。

 「浮寝鳥 共寝鳥 心月 鶉床 其暁 心のやみ 夢の世 常燈 明はてて 明過て 朝ぼらけ(已上非夜也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「浮寝鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 水に浮いたまま、首を翼の間に入れて眠っている雁や鴨などの水鳥。浮鳥。うきねのとり。《季・冬》 〔俳諧・誹諧通俗志(1716)〕
  ② =うきすどり(浮巣鳥)」

とある。この場合は①の意味で、必ずしも眠っているさまをいうのではなく、水の上で寝る鳥を総称していうため夜分にはならない。「連歌新式永禄十二年注」に、

 「水鳥の惣名なればなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.112)

とある。
 「共寝鳥」は不明。
 「心月(こころのつき)」は月のように澄んだ心のことであくまでも比喩としての月なので夜分にはならない。
 「鶉床(うずらのとこ)」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「うづらの常の居所也。ねどころにあらず。
  月ぞ住里はまことに荒にけり鶉の床をはらふ秋かぜ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.112)

とある。
 「其暁(そのあかつき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 迷いからぬけ出て涅槃の正理に帰するその時。特に、彌勒(みろく)三会(さんえ)の暁。
 ※長秋詠藻(1178)下「はるかなるそのあか月をまたずとも空のけしきはみつべかりけり」
  ② ある物事が実現したその時。」

とあり、あくまで比喩なので夜分にはならない。
 「心のやみ」「夢の世」も同様、比喩なので夜分ではない。「夢の世」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「迷人のさとりのひらけがたき心也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.112)

とある。
 「常燈」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  神仏の前に常にともしておくあかり。常灯明。
  ②  夜通しともしておく灯火。常夜灯。」

とあり①の意味で、昼夜常に灯っているため夜分ではない。
 「明はてて 明過て 朝ぼらけ」は夜が明けてしまっているので、夜分ではない。

2019年6月11日火曜日

 「応安新式」の続き。
 次は居所と居所でないものについて。

 「盬屋 宮居 寺(已上居所不可嫌之) 簾 床 御座(已上居所也) 都 御階 百敷 雲上 九重(已上非居所非名所)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.302)

 「盬屋(しおや)」の用例は『千載集』神祇の、

   白川法皇くまのへまゐらせ給うける御ともにて、
   しほやの王子の御まへにて、人人歌よみ侍りけるに、
   よみ侍りける
 おもふことくみてかなふる神なればは
     しほやにあとをたるるなりけり
              後三条内大臣

 また、『新古今集』の神祇にも。

   白河院が、熊野に御参詣になった時に、
   御供の人々が塩屋の王子で歌を詠んだ時に
 立ちのぼる塩屋の煙浦風に
     靡くを神の心ともがな
              徳大寺左大臣実能

の歌がある。
 塩屋の王子は熊野参詣道紀伊路にある熊野九十九王子の一つで御坊市にあった。
 九十九王子(くじゅうくおうじ)はウィキペディアに、

 「王子は参詣途上で儀礼を行う場所であった。主たる儀礼は奉幣と経供養(般若心経などを読経する)であり、神仏混淆的である。だが、よく言われるような熊野三山遥拝が行われた形跡は(少なくとも史料上では)確認できない。また、帰路にはほとんど顧みられることがないことから、物品の補給をおこなったとする説もあたらないと考えられている。これらの儀式が王子で行われたのは、王子とは熊野権現の御子神であるとの認識があり、すなわち参詣者の庇護が期待されたのである。」

とある。和歌では神祇として扱われていた。
 ここでは塩屋という地名に掛けて塩を焼く煙を詠んでいる。
 塩屋はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 塩を売る家。また、その人。
  2 海水を煮て塩を作る小屋。
 「これなる海人(あま)の―に立ち寄りて」〈謡・松風〉
  3 自慢する人。高慢な人。
 「何かあいつはきつい―だ」〈洒・売花新駅〉」

とあるが、古典に登場するのは藻塩を焼く煙りたなびく2の意味になる。製塩所なので居所ではない。
 「宮居(みやい)」も『千載集』神祇に、

   中納言家成、すみよしにまうてて歌よみ侍りける時、
   よみ侍りける
 神世よりつもりのうらにみやゐして
     へぬらんとしのかぎりしらずも
               大納言隆季

の歌がある。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 「①神が鎮座すること。また、その住まいとするもの。神社。
 出典千載集 神祇
 「神代(かみよ)よりつもりの浦にみやゐして」
 [訳] 神代から津守の浦に鎮座して。
  ②天皇が宮殿を造って、そこにお住みになること。また、皇居。
 出典平家物語 五・都遷
 「同国泊瀬(はつせ)朝倉にみやゐし給(たま)ふ」
 [訳] 同国の泊瀬の朝倉の地にお住みになる。」

とある。神の住まいなので居所にはならない。
 「寺」も同様、仏教の施設で、たとえ人が住んでいたとしても居所にはならない。
 「簾、床、御座」は居所になる。「御座」は「おましとも、みまし共。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.284)と「連歌新式心前注」にある。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  貴人が座ったり、臥せったりする所。また、貴人の居室。 「西の対に-などよそふ程/源氏 夕顔」
  ②  貴人の敷物。 「ここかしこ-ひきつくろはせなどしつつ/源氏 蓬生」

とある。
 「都、御階(みはし)、百敷、雲上、九重」は居所でも名所でもない。「百敷(ももしき)」は「連歌新式心前注」に、

 「大裏に、畳を百帖敷て、百官をなをさるる故也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.284)

とある。
 次は植物にならないもの。

 「草枕 柴戸 松門 杉窓 菅笠 篠菴 草庵 浮木 流木 妻木 柴取 画書草木(已上非植物)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.302)

 「草枕」は旅寝のことで本当に草の生えている上で寝るわけではない。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、「草を束ねた仮の枕、の意から」だという。
 「柴戸(しばのと)」は柴を材料とした戸で、生えている柴ではないので植物にはならない。
 「松門(まつのかど)」は「連歌新式心前注」に、

 「松木にてしたる門なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.284)

とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「松の立っている門。山住みの人の家にいう。山中の住家。
 ※壬二集(1237‐45)「とはれんとさしてはすまずまつのかど見はてんための秋の夕暮」

とある。
 「杉窓」は不明。
 「菅笠」は菅で編んだ笠。植物を原料として作られたものは基本的に植物ではないと思っていい。植物は生きている植物をいう。「篠菴、草庵」も同じ。
 「浮木(うきぎ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「うきき」とも》
 1 水の上に浮かんでいる木片。
 2 船。いかだ。
 「―に乗りて河の水上を尋ね行きければ」〈今昔・一〇・四〉
 3 マンボウの別名。」

とある。1と2の意味と思われるが、「連歌新式永禄十二年注」には、

 「何にても伐をきて、ねのなき木をも云。又、水の上に有をも云。
  昔思ふ庭に浮木をつみ置てみし世にも似ぬ年の暮哉
  天河かよふ浮木にこととはむ紅葉の橋は散やちらずや」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.108~109)

とあり。水の上とは限らない。伐った木を庭に積んでおいても浮木になる。
 「昔思ふ」の歌は西行法師で「新古今集」冬。「天河」の歌は藤原実方朝臣で「新古今集」雑中。
 「流木」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「流人の事をもいへり。水にながるる木にそへたり。
  流木も三年有てはかへるなり身のうきことぞ限しられぬ
  流木と立しら浪と焼塩といづれかからきわたつみのそこ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.109)

とある。「立しら浪と」の歌は菅贈太政大臣(菅原道真)で「新古今集」雑下。
 「妻木(つまぎ)」は爪木で薪にする小枝のこと。水無瀬三吟の三十二句目に、

   さゆる日も身は袖うすき暮ごとに
 たのむもはかなつま木とる山   肖柏

の句がある。
 「柴取」の柴も薪にしたり垣根にしたりするもので、生きてないものは植物にならない。
 「画書草木」つまり絵に描いた草木も生きてないので植物にはならない。ただし、「連歌新式永禄十二年注」には「花を書ば春になり、紅葉を書ば秋になる也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.109)とある。

2019年6月10日月曜日

 中国の脅威の前に日和見する国もある中、香港の市民は勇敢にも立ち上がった。
 日本にも中国に占領された時に備えて中国語を学ぶなんて言っていたパヨクがいたが、自由のために本当に戦う人が香港に百万人もいたのは見習うべきだろう。
 それでは「応安新式」の続き。

 春夏秋冬が終わり次は季語のようで季語にならないもの。

 「椿 蓬 葎 浅茅 蜻蛉(カゲロウ) 忘草 鴎(カモメ) 鳰(已上雑也、同浮葉も雑也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.302)

 椿も二条良基の時代にはまだ季語ではなかったようだ。「連歌新式紹巴注」には「花又咲字入ては春也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.189)とあり、椿だけだと只椿で無季になるが、椿の花、椿咲くだと春になる。
 「浮葉」も蓮の浮き葉は夏だが、浮き葉だけだと無季になる。
 コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「上代の文献や文学作品には数多くみられ、重要な植物である。中国の椿とは別種といわれる。常緑で生命力が盛んであることから呪(じゅ)性があると考えられ、『古事記』仁徳(にんとく)天皇条の「葉広(はびろ) 斎(ゆ)つ真椿(まつばき) 其(し)が花の 照り坐(いま)し 其(し)が葉の広(ひろ)り坐すは 大君(おほきみ)ろかも」は、天皇の勢威を賛美したものであり、『日本書紀』景行(けいこう)天皇12年条には、海石榴(つばき)を椎(つち)という武器につくり逆賊を征伐したとある。『出雲国風土記(いずものくにふどき)』意宇(おう)郡条には、草木のなかに「海榴(つばき)」がみえる。連なり咲く椿は、『万葉集』に「巨勢(こせ)山のつらつら椿つらつらに見つつ偲(しの)はな巨勢の春野を」(巻一・坂門人足(さかとのひとたり))などと詠まれており、また、椿の灰は紫草で染める媒染剤として用いられ、「紫は灰さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(たれ)」(巻一二)などと詠まれている。平安時代に入って、『古今六帖(こきんろくじょう)』六には、万葉歌が「椿」の項目に4首、また誤読されて「ざくろ(石榴)」の項目に1首収められているが、和歌にはほとんど詠まれず、『栄花物語』「ゆふしで」や『新古今集』「賀」にわずかの例がある。椿の葉で餅(もち)を包んだ椿餅(「つばいもちひ」などとよばれる)は、『うつほ物語』や『源氏物語』などにみえる。季題は春。」

とある。常緑樹であるところから、榊のような存在で、花そのものを観賞するようになったのは後になってからだったのだろう。
 「蓬(よもぎ)」も近代俳句では単独で春の季語になっているようだが曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「蓬摘」と「蓬餅」は春の季語だが蓬だけでは単独で季語にはなっていない。
 『源氏物語』の「蓬生」も卯月の話になっている。
 「葎」も蓬生と同様、夏の雑草のイメージがある。近代では夏の季語になっている。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では追加として「葎茂る」が夏とされていて、

 山賎のおとがひ閉づる葎かな   芭蕉

の句が引用されている。ただ、芭蕉は、

 さし籠る葎の友か冬菜売り    芭蕉

のように冬の句にも詠んでいる。
 和歌では百人一首にもある、

 八重葎しげれる宿のさびしきに
     人こそ見えね秋は来にけり
          恵慶法師『拾遺集』

の歌が有名だが、秋の八重葎を詠んでいる。
 「浅茅」も浅茅生のように雑草の生い茂るイメージがある。和歌だとやはり百人一首の、

 浅茅生の小野の篠原しのぶれど
     あまりてなどか人の恋しき
          参議等『後撰集』

がよく知られているが、特に季節は限定されてない。
 「蜻蛉(かげろう)」は今日では秋の季語になっているし、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にも秋の所に「蜻蛉(とんぼう) 秋津虫 かげろふ やんま」とある。
 ただ「連歌新式心前注」には、

 「蜻蜒、とんばうといふ虫也。秋つはともよむ。秋つはの姿の国と云は、日本の事也。とんぼうは夏也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.283)

とある。
 「忘草(わすれぐさ)」は忍草のところでも述べたが、「連歌新式紹巴注」に「雑也。花としては夏也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.189)とある。
 「鴎(かもめ)」は今日でも無季のようだ。「鳰(にお)」は冬になっている。「鳰の海」は琵琶湖のこと。

2019年6月9日日曜日

 今日は雨で、「応安新式」のほうも大分進んだ。

 「忍草(しのぶぐさ)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①しだ類の一種。のきしのぶ。古い木の幹や岩石の表面、古い家の軒端などに生える。[季語] 秋。
  ②「忘れ草」の別名。
  ③思い出のよすが。▽「偲(しの)ぶ種(ぐさ)」の意をかけていう。
 出典源氏物語 宿木
「しのぶぐさ摘みおきたりけるなるべし」
[訳] 思い出のよすがとして摘んでおいた(=産んでおいた)のであったのだろう。」

とある。季語としての「忍草」はシダ植物のノキシノブの方で、忘れ草の別名ではない。ウィキペディアの「ノキシノブ」の所には、

 「茎は短くて横に這い、表面には一面に鱗片があり、多数の細かい根を出して樹皮などに着生する(着生植物)。
 葉は茎から出て、全体に細長い単葉で、一般のシダの葉とは大きく異なる。形はヤナギの葉のような線形に近い楕円形。先端は細まり、少しとがる。基部は次第に細くなり、少しだけ葉柄が見られ、葉柄の部分は黒っぽくなって少し鱗片がある。葉は少し肉厚で、黄緑色、表面につやがない。乾燥した時には、葉は左右から裏側に向けて丸まる。
 胞子嚢は円形の集団となって葉裏にある。葉裏の主脈の両側にそれぞれ一列に並ぶ。丸く盛り上がって、葉からこぼれそうになることもある。」

とある。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 「真淵翁伝、しのぶ草は和名抄の苔の類に、垣衣をしのぶとよみたり。古き築地、朽たる物の端、古き軒端などに、常に生る草を云、とみゆ。」

とある。
 百人一首にも、

 百敷や古き軒端のしのぶにも
     なほあまりある昔なりけり
             順徳院

とあるように、昔を偲ぶと掛けて用いられることが多い。

 御廟年を経て忍ぶは何をしのぶ草  芭蕉

という『野ざらし紀行』の旅で詠んだ句もある。
 忘れ草も所によっては忍ぶ草とも呼ばれてたようだが、こちらはノカンゾウ、ヤブカンゾウなどを指す。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「忘草は、順和名には、絵を書て、ひとつばの様にてちひさく、うらに星のあるを、忘草と云り。したの葉のちいさき様なるを、忍草なり、と云り。但、是を忍草共、忘草共いふと也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)

とある。「うらに星のある」が何を指すのかよくわからないが、二つの植物は別物でありながら呼び方は一定しなかったようだ。
 忘草の方は、「連歌新式紹巴注」に「雑也。花としては夏也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.189)とある。
 「穂屋造(ほやつくる)」も「連歌新式永禄十二年注」に、

 「諏訪の祭の頭屋を、薄の穂にてふくを、ほや造と云り。」

とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 「① 薄(すすき)の穂で葺(ふ)いた屋根。また、その家。
 ※夫木(1310頃)三〇「すすきふくほやの軒ばのひとかたになひかは神のしるしともみん〈藤原為相〉」
  ② 八月二六~二八日(古くは陰暦七月二七日)、長野県諏訪上下両社で行なわれる穂屋祭に作られる青萱・薄で葺いた神事用の仮屋。《季・秋》
 ※無言抄(1598)下「秋〈略〉みさ山祭〈略〉ほやつくるなども此まつりに作るかりやの事なり」

とある。
 「豆懸」は不明。
 「初鳥狩 初鷹狩」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「初鳥狩とは、始て鷹をつかふ事を云なり。
  暮ぬとも初鳥や出しの箸鷹を一よりいかで合せざるべき
  鳥屋出し一羽も去年の毛なしはぎ足かはさしてたがおこす也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.100)

とある。初鳥狩で一つの言葉として用いるのではなく、意味としての初鳥狩が季語になる。
 「小鷹狩(こたかがり)」 はweblio古語辞典の「三省堂 大辞林」に、

 「小鷹を使って秋に行う狩り。ウズラ・スズメ・ヒバリなどの小鳥を捕らえる。初鳥(はつと)狩り。 ⇔ 大鷹狩り」

とある。これも「小鷹狩」という言葉を使うのではなく、

 とやかへるつみを手にすへあはづ野の
     鶉からむとこの日くらしつ
                 衣笠家良(新撰六帖)

のように意味として用いられた。季語というよりは季題というべきだろう。一般的に中世連歌の季語は形式的にその言葉が入っていれば自動的にその季節になるというものではなく、あくまで実質的にその季節を詠んでいるかどうかを重視する。
 「鶉衣(非動物)」は「連歌新式永禄十二年注」に「鶉を文に付たる衣也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.100)とある。衣装になる。
 「連歌新式心前注」には、

 「めゆひなどのやうの衣か。一説、唐の事也。昔、呉夏子と云者のきたる衣と云々。短き衣也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.278)

とある。この時代にはどういう衣かはっきりしなかったようだ。「めゆひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 布帛や革(かわ)を糸でくくって染めてから糸を解いてくくり目を文様としたもの。くくりを寄せた数によって三つ目結・四つ目結・九つ目結・十六目結などがあり、一面に配したのを滋目結(しげめゆい)といい、その目の細かいのを鹿子結(かのこゆい)という。纐纈(こうけち)。鹿子絞り。くくり染め。目染め。
 ※散木奇歌集(1128頃)雑上「君がよを神々いかに護るらんしげきめゆひの数にまかせて」

とある。
 鶉衣(じゅんい)と読んだ場合は、goo国語辞典の「デジタル大辞泉」に、

 「《子夏は貧しく、着ている衣服が破れていたのを鶉にたとえた「荀子」大略の故事から》継ぎはぎだらけの衣。みすぼらしい衣服。弊衣。うずらごろも。」

とあるが、呉夏子は子夏のことか。ただし、子夏は衛の人。
 「連歌新式紹巴注」には「五夏子、唐人着之。短単衣の名也。非生類名故秋也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.184)とある。短い単衣で必ずしも秋に着るものではなかったが「鶉」の名があるので秋だという。
 結局鶉衣に関してははっきりとはしないが、継ぎはぎだらけの衣のことではなく、かつて日本でそう呼ばれる薄手の衣が存在してたと考えた方がいいだろう。
 江戸時代の俳諧では継ぎはぎだらけの衣の意味で用いられる。江戸中期の也有の俳文集『鶉衣』は、粗末な継ぎはぎだらけの文章というへりくだった意味でこのタイトルを付けている。
 「萱 枯野露」は「連歌新式心前注」に、

 「かれのとばかりは冬也。露草などむすべば秋也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.278)

とある。枯野だけだと冬だが、枯野の露は秋になる。「萱」は薄、刈萱、茅などのことで今でも秋の季語になっている。
 「草枯花のこる」は、「連歌新式永禄十二年注」には「花の冬まで残がたければ也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.100)とあり、「連歌新式心前注」には「露・色花をそへては秋也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.278)とある。
 「残る」という言葉は次の季節になっても残っているという意味で後の季節になる場合が多いが、草枯れて花残る場合は例外的に秋になる。

 さて、ここから冬に入る。
 「沫雪」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「雪の性あはくして消やすきをいふなり。
  矢田の野に浅茅色付あらち山峯の淡雪寒ぞ有らし」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.103)

とある。
 和歌は『新古今集』で柿本人麻呂。あらち山(愛発山)はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「福井県敦賀市の南方一帯の山。古代、愛発関が置かれた。⦅歌枕⦆ 「八田の野の浅茅色付く-峰の沫雪寒く降るらし/万葉集 2331」

とある。
 「涙の時雨」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「=なみだ(涙)の雨《季・冬》
 ※貫之集(945頃)九「まつもみなたけもわかれをおもへばやなみだのしぐれふる心地する」

とある。
 引用されている和歌は京極中納言を悼む哀傷歌で、時雨のような涙でもあれば、折から降る時雨が涙のようだとも取れ、両方の意味を持つため冬の季語となる。
 「庭火」は「連歌新式永禄十二年注」に「神楽の篝火也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.103)とある。神楽は新嘗祭に行われるため冬の季語となる。
 「連歌新式心前注」には、

 「依句神祇也。神楽の一名也。先、節会の時の事也。新嘗会。(大嘗会)などの時有事也。さて、新嘗会とは、十一月中卯日、今年の初稲を神明に奉らせ給事也。(是は毎年の事なり。)
  いぬる秋おさめし稲を手向して年の泰なる始なりける
 新嘗会の歌也。大嘗会と云は、御代の始に一度有事也。又、神楽の名に庭火と云。庭火のかげにて人長などの舞事也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.281)

とある。
 「木葉衣」も「連歌新式心前注」に、

 「三皇の時之事也。伏羲・神農など、草葉をあみて為衣也。今用る衣裳は、遥後、漢の代よりの事也。<両方嫌之。己本に有>」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.281)

とある。「落葉衣」も同じか。植物と衣装の両方に嫌う。
 「紅葉のちりて物をそむる」の場合、「紅葉」は秋だが「紅葉散る」が冬の季語となるため、紅葉が散って染めたかのようだという比喩の場合も、紅葉の散る景色と切り離すことが出来ないので冬となる。
 近世の俳諧にも、

 尊がる涙や染めて散る紅葉   芭蕉

の句がある。「涙や染めて」は「涙を染めてや」の倒置で、「や」と疑うことで、涙が散る紅葉に赤く染まったかのようだとする。この「散る紅葉」は比喩のために引き合いに出された想像上のものではなく、折からの散る紅葉にという実景であるため冬の句となる。「涙の時雨」と同様に考えればいい。

2019年6月7日金曜日

 「応安新式」の続き。

 これより秋になるが、「日晩(ひぐらし)」は「蝉」が夏なのに対し秋になる。
 『古今集』でも、

 蝉の声聞けばかなしな夏衣
     薄くや人のならむと思へば
               紀友則
 蝉の羽の一重に薄き夏衣
     なればよりなむものにやはあらぬ
               凡河内躬恒

のように、蝉の羽を一重の薄衣に喩えている。『源氏物語』の「空蝉」もこの比喩を受け継いでいる。
 これに対しヒグラシは、

 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと
     思ふは山のかげにぞありける
              詠み人知らず
 ひぐらしの鳴く山里の夕暮れは
     風よりほかにとふ人もなし
              詠み人知らず

といった歌は秋に分類されている。
 「稲妻」も「古今集」に、

 秋の田のほのうへをてらす稲妻の
     ひかりのまにも我や忘るる
              詠み人知らず

と秋に詠まれている。
 「鳩吹」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「秋わたる鷹をとらむとて、柴をさしかざして、前に鳩をつなぎて、網をはりて鷹を待に、空を鷹のとおれば、鳩是をみて、地にふして、たかにみえじとする也。
 其時、待人、手を合て鳩の鳴こゑをまぬるを鳩吹といへり。
 其辺に人のくるをいとひて、手まねをして人を留也。
  ますらおが鳩吹秋のこゑ立てとまれと人をいはぬ計ぞ
  まぶしさす薩男の身にもたへかねて鳩吹秋のこゑ立つ也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.98)

とある。鳩の声ではない。鳩を真似た人の声をいう。
 「楸(ひさぎ)」はキササゲのことだと言われている。

 楸生ふる片山蔭に忍びつつ
     吹きけるものを秋の夕風
             俊恵法師「新古今集」

のように秋に詠まれている。
 「裏枯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 草木の先の方が枯れること。《季・秋》
 ※万葉(8C後)一四・三四三六「しらとほふ小新田山(をにひたやま)の守る山の宇良賀礼(ウラガレ)せなな常葉(とこは)にもがも」

とある。「連歌新式心前注」には、

 「野か山か草をそへずしてはならず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.277)

とある。
 「冷敷(すさまじき)」は今日でも秋の季語だが、和歌では冬に詠まれている。

 山里の風すさまじき夕暮れに
     木の葉乱れてものぞかなしき
             藤原秀能「新古今集」
 むらむらに小松まじれる冬枯れの
     野べすさまじき夕暮の雨
             永福門院「風雅集」

 「蔦」は紅葉を詠むため秋になる。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「蔦は、殊更、紅葉の色すぐれたる物なればなり。
  深山木の色かへぬ枝もみえぬまでかかれるつたは紅葉しにけり
  はふつたのなき世なりせば松が枝にかかる紅葉の色をみましや」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)

とある。
 「芭蕉」も「連歌新式永禄十二年注」に、

 「芭蕉は、秋風にあへず、やぶれぬるを感とせり。
  古郷の庭の芭蕉の一葉をあまたになして秋風ぞふく
  かたりなばそのいにしへもなからまし芭蕉にすぐる夜の村雨」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)

とある。

2019年6月6日木曜日

 「応安新式」の続き。

 「雉 遅桜 荻の焼原(已上春也)
 神祭 榊取 杜若 牡丹(杜若・牡丹可為春題、雖両説依景物少、夏に入之) 毛を易る鷹 毛を易る鳥 鳥屋鷹(以上夏也)
 日晩 稲妻 鳩吹 楸 裏枯 冷敷 蔦 芭蕉 忍草 穂屋造 豆懸 初鳥狩 初鷹狩
 小鷹狩 鶉衣(非動物) 萱 枯野露 草枯花のこる(已上秋也) 沫雪 涙の時雨 庭火 木葉衣 落葉衣
 紅葉のちりて物をそむる(已上冬也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.302)

 元来和歌には季語という概念はなかった。季語は連歌のルールに始まった。この時は季語だけでなく、山類、水辺、衣装、居所、植物、獣類、鳥類などの言葉があった。
 様々な句材の中の一つだったため、季語はそれほど多くはなかった。季語は江戸時代に入ると様々な俗語の季語が加わり、春夏秋冬にそれぞれ初、仲、晩の区別が成され、近代に入るとそれに歳旦が独立に加わり十三季になった。今日では数千もの季語がある。その裏で連歌・俳諧は衰退し、山類、水辺、衣装などの言葉は忘れ去られていった。
 「雉」をわざわざここで「已上春也」というのは、二条良基の時代にはまだ雉が春の季語として定着してなかったからだと思われる。
 雉を詠んだ和歌は古今集にも見られる。

 春の野のしげき草葉のつま恋ひに
     飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く
                平貞文

 雉はケンケンと鳴くもので、ほろろというのは羽を打つ音だという。ここでも飛び立つときに「ほろろ」という音を立てている。
 この歌は「俳諧歌」に分類されていて「春」の部ではない。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「雉子<きじといひても春也。但、狩場の雉子、可為冬歟>狩場のきぎすも、鳴としては春になるなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.93)

とある。
 「遅桜」は開花期の遅い桜のことで春になる。夏の季語になる「残る桜」とは区別される。
 「荻の焼原」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「春、野火で焼いたあとの荻の原をいう。また、荻の初生の芽が黒いのにたとえたものともいう。《季・春》
 ※後撰(951‐953頃)春上・三「けふよりは荻のやけ原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ〈兼盛王〉」

とある。
 夏になるが「神祭 榊取」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「夏神を祭事は、清和の天とて、陰陽ととのひたる時分なれば、四月に祭といへり。
 又、賀茂のみあれと申は、御所生と書。明神生れ給へる日を申とかや。
  神祭宿の卯花白妙のみてぐらかとぞあやまたれける
  榊取卯月になれば神山のならの葉柏もとつ葉もなし」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.96)

とある。「神祭」の歌は紀貫之で「拾遺和歌集」の夏にある。「榊取」の歌は曽禰好忠で「後拾遺和歌集」の夏にある。
 「杜若 牡丹(杜若・牡丹可為春題、雖両説依景物少、夏に入之)」とあるのは、カキツバタとボタンは春の題になすべきものだが夏に景物が少ないので夏に編入するというものだ。
 杜若は在原業平の「から衣」の歌があまりにも有名だが、そのほかに杜若を詠んだ歌はというと意外に少ない。牡丹も和歌では「ふかみ草」というが、作例は少ない。

 夏木立庭の野すぢの石のうへに
     みちて色こきふかみ草かな
               慈円(拾玉集)

は夏に詠まれている。「千載集」にも、

   夏に入りて恋まさるといへる心をよめる
 人しれず思ふ心はふかみぐさ
     花咲きてこそ色に出でけれ
               賀茂重保

と夏に詠まれているから、牡丹が夏と定まったのはかなり古い。
 杜若を春とするのはやや無理がある感じがするが、牡丹は藤や躑躅の頃に咲くから春としてもそれほど違和感はない。
 「毛を易る鷹 毛を易る鳥 鳥屋鷹(以上夏也)」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の「鷹の塒入(とやいり)」の項に、

 「[和漢三才図会]四月、羽毛を易んとするとき葦緡(あしかは)を解去て、鳥屋(とや)の内に放つ。餌食意に任す。日を逐て脱落て、また新毛を生じて、七月中旬旧のごとし。」

とある。

2019年6月4日火曜日

 「ノーパンしゃぶしゃぶ」なんて懐かしい言葉が急に出てきたりしたな。官僚の接待で一時期問題になったっけ。それならまだネットにイラストを投稿している方が趣味がいい。
 まあ、要は遊ぶなら風雅に遊ぼうということで「応安新式」の続き。

 「蓬屋 霞網 小田返 布曝 硯水(已上非水辺)
 山にある関は山に嫌之、浦にある関は浦に嫌之、岩橋 薪 妻木 猿 瀧津瀬(已上非山類)
 梯 杣木 洞 瀧 炭竈 嶋(水辺にも嫌之) 岡(已上非山類)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.304)

 蓬屋は篷屋(とまや)のことで、苫屋に同じ。
 苫屋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 苫で屋根を葺(ふ)いた家。苫葺きの粗末な小屋。とまのや。とまやかた。
 ※源氏(1001‐14頃)明石「興をさかすべき渚のとまや」
 ※新古今(1205)秋上・三六三「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ〈藤原定家〉」

 源氏物語の明石巻の用例にしても、定家卿の歌にしても「浦」に結びつくことが多い。
 横浜市民としては森鴎外作詞の横浜市歌の一節、「されば港の数多かれど、この横浜にまさるあらめや、むかし思えばとま屋の煙、ちらりほらりと立てりしところ」も思い浮かぶ。
 だが、苫屋自体はあくまで粗末な小屋という意味で水辺にはならない。

「連歌新式心前注」にも、

 「水辺さうにて水辺にならぬ物共也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.269)

とある。
 「蓬屋(ほうをく)」と読んだ場合も、大体意味は同じで粗末な小屋をいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「① 蓬(よもぎ)で屋根をふいた家。草ぶきの家。
 ※玉葉‐安元三年(1177)三月二七日「女院渡二御蓬屋一」 〔謝霊運‐過白岸亭詩〕
 ② 転じて、みすぼらしい家。自分の家をへりくだっていうのにも用いる。
 ※中右記‐承徳元年(1097)正月二一日「戌時許蓬屋之北隣一許町小屋等焼亡」

とある。謝霊運の「過白岸亭」の冒頭に、「拂衣遵沙垣 緩步入蓬屋」の句がある。
 「霞網」はこの場合鳥を取るための網ではない。この場合は「霞の網」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 一面に霞がたちこめているのを、網を張ったのにたとえていう。かすみあみ。《季・春》
 ※連理秘抄(1349)「非二水辺一物 砂、篷屋(とまや)、霞のあみ、鶴、鷺」

とある。「連歌新式心前注」にも、

 「あみのやうに立たる霞也。似物也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.269)

とある。「網」とあっても魚網のことではなく、あくまで比喩なので水辺ではない。「網」は水辺の用になる。
 「小田返(おだかえす)」はweblio季語・季題辞典に、

 「稲を刈ったあとそのままにしてある本田を、田植の用意に鋤で打返すこと」

とある。
 「布曝(ぬのさらす)」はweblio歌舞伎・浄瑠璃外題の「布晒し」に、

 「①  布を洗って日にさらすこと。
 ②  両手に長い布を持って洗いさらすさまを表す舞踊。また、その曲。長唄「越後獅子」、清元「六玉川(むたまがわ)」など。」

とある。水で洗う様は川べりを連想させるが、水辺にはならない。
 「硯水(すずりみづ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 墨をする時、硯に入れて使う水。また、そのために水入れに貯えておく水。
 ※宇津保(970‐999頃)菊の宴「加持したる水をすずり水にして奉れ給ふ」

とある。水には関係あるが水辺ではない。
 「山にある関は山に嫌之、浦にある関は浦に嫌之」の山にある関は、「連歌新式心前注」に、

 「山に有関とは、白川の関などの事也。山類也。非水辺。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.269)

とある、浦にある関は、「須磨の関、清見が関など也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.269)とある。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「なこその関は、山類にも水辺にも嫌之。両方へよめれば也。
  吹風をなこその関とおもへども道もせにちる山ざくらかな
  みるめかる海士の往来のみなとぢになこその関もわがすへなくに」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.90)

とある。「吹風を」の歌は源義家(千載集)、「みるめかる」の歌は、

 みるめかる海人の行きかふ湊路に
     なこその関も我はすゑぬを
                小野小町(新勅撰集)

 「岩橋 薪 妻木 猿 瀧津瀬(已上非山類)」は山に縁のあるようでいて山類にはならない。「岩橋」は「連歌新式紹巴注」に水辺とある。
 「梯 杣木 洞 瀧 炭竈 嶋(水辺にも嫌之)」の「梯(かけはし)」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「①  険しいがけ沿いに木や藤づるなどで棚のように設けた道。桟道。 「木曽の-」
 ②  谷や川などにかけ渡した仮の橋。
 ③  双方の関係を取り持つこと。また、その人や物。なかだち。橋わたし。 「日中友好の-」
 ④  はしご。階段。」

とある。川に架かる橋を連想させるため、山類の用でありながら水辺にも嫌う。
 「杣木(そまぎ)」の杣(そま)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「古代,材木採取のために指定された山を杣とか杣山といい,杣山から切出す材木を杣木または杣といった。転じて杣木を切出す人を杣人あるいは杣という。東大寺文書,『万葉集』などに散見する。」

とある。山類の用になる。水辺に嫌うのは、材木を運ぶのに川を利用したからか。
 「洞(ほら)」は山類の体。水辺に嫌う。洞窟には水が流れていたりするからか。
 「瀧(たき)」は山類の用。これは言うまでもなく水が流れているので水辺に嫌う。「連歌新式紹巴注」には、

 「滝は山類用、水辺体也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.194)

とある。
 「炭竈(すみがま)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 木材を蒸し焼きにして炭(木炭)を製造する窯(かま)。土、石、煉瓦などでつくられ、ふつう卵形で、手前に窯口、反対側に煙突が設けられ、中に木を入れ、口から点火して蒸し焼きにする。製法によって、黒炭をつくる黒炭窯と白炭をつくる白炭窯にわけられる。黒炭窯は土で築かれ、炭材の炭化の後に、窯を密閉して火を消すもの(窯内消火法)で、白炭窯は壁を石で、天井を土で築き、炭化後に精錬を行ない、白熱したものを窯から出して土をかけて火を消すもの(窯外消火法)。すみやきがま。《季・冬》
 ※元良親王集(943頃か)「ひとりのみよにすみかまにくふるきのたえぬ思をしる人のなさ」

とある。山類の用なのはわかるが、水辺に嫌う理由はよくわからない。
 「嶋(しま)」はもとより水辺の体。
 「岡(已上非山類)」はこのあとの「体用事」のところに(已上山体也)とあるので、よくわからない。「連歌新式永禄十二年注」の体用事のところには、山類と水辺の両方に「島」がある。

2019年6月3日月曜日

 今日から旧暦五月。今朝もほんの少し雨が降ったが梅雨入りも近い。
 それでは「応安新式」の続き。

 「一、水辺体用事
 假令、浪として浦と付て、又水盬などはすべからず、葦、水鳥、舟、橋などはすべし、為各別物故也、
 須磨 明石(可為水辺、上野岡非水辺、他准之) 難波 志賀(非水辺他准之) 杜若 菖蒲 葦 蓮 薦 閼伽結 懸桶 氷室 手洗水(已上可為水辺也)
 蓬屋 霞網 小田返 布曝 硯水(已上非水辺)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301)

 水辺体用事はこれだけでなくまだまだ続くが、実際に水辺について書いているのはここまで。あとは山類、春夏秋冬、居所、植物などの細かい注意事項が並ぶ。
 「浪として浦と付て、又水盬などはすべからず」というのは浪が水辺の用であり、浦という体を付けて次の句で水だとか盬(塩)だとかいう用を付けることはできない。ただし「葦、水鳥、舟、橋などはすべし」とあり、これらも用になるから、用、体、用となる。
 「為各別物故也」とあるように、浪と水・塩は同じものだからで、浪は水に立つ波で、潮の流れに生じる。これに対し、葦、水鳥、舟、橋は水で出来てはいない。同じ用でも別の物はかまわない。
 この場合の体と用は体言用言という意味ではなく、大きな景色のパノラマを体として、そこに登場するディティールを用とする。
 このあとの「体用事」のところに、

 「海 浦 入江 湊 堤 渚 嶋 奥 磯 干潟 汀 沼 河 池 泉(已上水辺体也)
 浮木 舟 流 浪 水 氷 水鳥類 蝦 千鳥 葦 蓮 真薦 海松 和布 藻盬草 海人 盬 盬屋 盬干 萍 閼伽結 魚 網 釣垂 懸樋

 氷室 下樋 手洗水(已上如此類用也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.304)

とある。「奥」は「沖」のことと思われる。
 名所でも「須磨 明石(可為水辺、上野岡非水辺、他准之) 難波 志賀(非水辺他准之)」とあるように、須磨・明石は水辺になるが、須磨の上野、明石の岡は水辺にならない。
 「須磨の上野」はネット上の「摂津名所図会」のページに、

 「須磨上野(すまうえの) すまの里の山岨にある日園をいふなるべし。
 『新千載』  浪かけぬすまの上野の霞にだになは塩たるる旅衣かな   浄阿
 『夫木』   鈴舟のよする音にやさわぐらん須磨の上野に雉子鳴くなり 顕昭」

とある。
 「明石の岡」は赤松山とも言われ、柿本神社(人丸神社)がある。
 「難波 志賀(非水辺他准之)」については、「連歌新式永禄十二年注」に、

 「いづれも都なれば也。但、難波津・難波江・志賀浦・志賀浜などは、水辺の名所也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.89)

とある。
 「杜若 菖蒲 葦 蓮 薦 閼伽結 懸桶 氷室 手洗水(已上可為水辺也)」のうち「杜若 菖蒲 葦 蓮 薦」は水辺の植物になる。
 「閼伽結」は「連歌新式心前注」に、

 「閼伽 夜分也。あかとは、水の梵語也。あかつき結ぶなどとかくし題にしても、水の字に付而悪し。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.267)

とある。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「サンスクリットarghaの音訳。功徳,功徳水または水と訳す。〈価値がある〉という意味のarghより転じて,神仏や貴人などに捧げる水を意味する。閼伽はもともと水を意味するが,中国においても日本でも閼伽水と呼ばれる場合が多い。仏会では加持した水や,霊地の水,あるいは香木を水に入れた香水(こうずい)を用いる場合が多い。閼伽の湧く井戸を閼伽井と呼び,東大寺二月堂下の閼伽井や園城寺金堂わきの井,秋篠寺の閼伽井など著名な井戸が現存する。」

とある。
 「懸桶」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「泉のわく所から縁先の手水鉢へ清水を導く樋(とい),またはその仕掛け。〈かけひ〉ともいい,懸樋とも書く。樋には節抜きまたは半割りの竹やくり抜きの木が用いられた。その水の落ちる音の閑寂な趣が好まれて《後拾遺集》以降の多くの和歌にうたわれ,また《北野天神縁起》《一遍上人絵伝》などに描かれるので,平安時代末ころから用いられたと思われる。茶の湯の発達にともない,蹲踞(つくばい)にしかけて水を落とすことが,さらにいっそう好まれるようになった。」

とある。
 「氷室」もコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「冬の氷を夏まで貯えておく室。文献上の初見は,《日本書紀》仁徳紀に見える大和の闘鶏(つげ)の氷室の記述である。その構造は,土を1丈余り掘り,厚く茅荻を敷き,その上に氷を置き,草をもって覆ったものという。同書孝徳紀にも氷連(ひのむらじ)の氏姓をもつ人名が見え,大化前代すでに朝廷所属の氷室の存したことが認められる。令制では宮内省主水司が氷室を管理したが,大宝令の制度では氷戸144戸が置かれ,役丁を結番して氷の貯蔵・運搬等に当たった。」

とある。
 同じ話だが、「連歌新式心前注」には、

 「六月一日に氷を天子は奉る事也。
 氷室のおこりは、仁徳天王御宇六十二年、額田大中彦の王子闘鶏と云所に狩し給ひて、山にのぼり野中を見やり給へば、庵有。あたりに翁をめして問給へば、氷室なりと申。
 皇子云。何として大旱にいたるまで氷て消ざるぞ と問たまへば、茅萱を覆て暑熱を避と云々。
 如此、冬の雪を穴にたたき入て置て、夏取出し、たべ候へば、薬と成、無病なる由を申上。
 さらば、それを御調物に上よとて、皇子、此水を仁徳聖の御門に初て奉給也。是より年毎に六月に上也。水辺の用也。(非山類。)」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.267~268)

とある。
 「手洗水」は「連歌新式心前注」に、

 「手あらひ水・たらひの水とよむ。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.268)

とある。

2019年6月2日日曜日

 旧暦だと今日で四月も終わり。サツキの花はとっく咲いている。
 新暦だとあさっては天安門事件から三十年。
 それまでの常識だと、開発独裁はやがて行き詰まり、民主化によって経済は更なる発展へと道を開くとされていた。だが、中国はそれを押しつぶしたまま後の開放政策によって高度成長を達成した。それが今の中国のゆがみというか、呪いといってもいい状態にしている。
 独裁体制を残したままの経済成長が可能だということを証明してしまったため、結局それが多くの独裁国家の民主化の足枷にもなっている。そして、経済力をつけた独裁国家は自由経済に背を向けて、かつての帝国主義の悪夢をよみがえらせている。
 中国の軍事的脅威はその周辺の国々に難しい決断を迫っている。フィリピンのドゥテルテ大統領も、中国とアメリカが戦争をすれば真っ先に戦場になるという危機感から、アメリカと距離を取って難しいバランスを取ろうとしている。台湾もそれ以上に難しい状況にある。
 沖縄も戦場になる可能性が高いため、中国を刺激しないようにと注意を払っているし、韓国の変節と迷走も米中戦争だけでなく、アメリカと北朝鮮が戦争になった場合でも真っ先に戦場になることを考えればしょうがなかったのかもしれない。
 北朝鮮もアメリカだけでなく背後の敵にも神経を尖らせなくてはならないから、国内が親中派と親米派に分裂していることは十分に考えられる。
 それがわかっているトランプさんは、軍事力を使わずに中国を潰すことができないか、いろいろ試しているのだと思う。
 まあ、そんな難しい国際情勢の中、鈴呂屋こやんはあくまで平和に賛成だし、今日もゲームの話をすることにする。「応安新式」の続き。

 「一、可分別物
 花の浪 花の瀧 花の雲 松風雨 木葉の雨 水音雨 月雪 月の霜 桜戸 木葉衣 落葉衣(如此類は両方嫌之) 涙の雨(降物に不可嫌之) 浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之) 花の雪(木に可嫌 降物に不可嫌之)
   似物之嫌様、雖非一様、当時所用如此、両方に可混合ものは嫌之、不混合は不嫌歟、」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301~302)

 これは比喩などによって、分類の分かりにくいものへの注意といえる。 「如此類は両方嫌之」については「連歌新式永禄十二年注」に、

 「両方、たがひにまがふ物なればなり」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.85)

とある。
 「浪の花」は、

 桜花散ぬる風の名残には
     水なき空に浪ぞたちける
              紀貫之「古今集」

による。風に揺れる桜を浪に喩えたもので、植物の木類として扱われ、去り嫌いの規則に従うのは勿論のこと、水辺としてもその規則に従う。
 「花の滝」は、

 山桜咲そめしよりひさかたの
     雲ゐにみゆる滝のしら糸
              源俊頼「金葉集」

による。これも桜を滝に喩えたもので、植物・木類であるとともに水辺にも嫌う。
 「花の雲」は、

 散は雪ちらぬは雲にまがひけり
     吉野の山の花のよそめは

が「連歌新式永禄十二年注」に証歌として引かれているが、出典はよくわからない。「古今集」の仮名序には「春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける」とあり、

 桜花咲きにけらしなあしひきの
     山のかひより見ゆる白雲
              紀貫之「古今集」

の歌がある。
 これも植物・木類だはあるが、聳物にも嫌う。
 「松風雨」は、

 陰にとて立かくるればから衣
     ぬれぬ雨ふる松のこゑかな
              紀貫之「新古今集」

による。松風の音を雨に喩えたもの。植物・木類だが降物にも嫌う。
 「木葉の雨」は、

 今は又ちらでもまがふ木葉かな
     独時雨る庭の松風
              源具親「新古今集」

による。木の葉を雨に喩えたもの。植物・木類だが降物にも嫌う。
 「水音雨」は、

 まばらなる槇の板屋に音はして
     もらぬ時雨や木葉成らん
              藤原俊成「千載集」

による。雨音を木の葉の音に喩えたもの。降物だが植物にも嫌う。
 「月雪」は、

 浜千鳥妻どふ月の影寒し
     芦の枯葉の雪の下風

が「連歌新式永禄十二年注」に証歌として引かれているが、出典はよくわからない。月の光を雪に喩えたもので、光物だが降物にも嫌う。
 「月の霜」は、

 霜を待籬の菊のよひのまに
     置まよふ色や山のはの月
           後鳥羽院宮内卿「新古今集」

による。月の光に霜が降りたみたいだというもの。光物だが降物にも嫌う。
 「桜戸」は、

 足引の山桜戸をあけ置て
     わが待君を誰かとどむる
           詠み人しらず「万葉集」
 逢坂の山桜戸の関守は
     人やりならぬ花やみるらん

による。後のほうの歌は出典がわからない。
 コトバンクの「山桜戸」のところの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 山桜の木で作った戸。
 ※万葉(8C後)一一・二六一七「あしひきの山桜戸(やまざくらと)を開け置きて吾が待つ君を誰か留むる」
  ② 転じて、山桜の咲いている所。桜の多くある山家。
 ※新勅撰(1235)春下・九四「名もしるし峰の嵐も雪と降るやまさくらどの曙の空〈藤原定家〉」

とある。①の意味だと居所だが、②の意味だと植物の意味も入る。どちらともいえないので、居所にも植物にも嫌う。
 「木葉衣 落葉衣」は、

 朝まだき嵐の山の寒ければ
     散紅葉ばをきぬ人ぞなき
           藤原公任「大鏡」

による。「拾遺和歌集」では「紅葉の錦きぬ人ぞなき」になっている。落ち葉を衣に喩えたもの。植物だが衣装にも嫌う。
 「涙の雨(降物に不可嫌之) 浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之) 花の雪(木に可嫌 降物に不可嫌之)」に関しては、涙、浪、花であることがはっきりしているので、それぞれ降物、植物、降物に嫌う必要はないとしている。
 「花の雲」だと、花の季節に実際に山に雲が掛かることも多く、どっちだろうかという所に意味があるが、「花の雪」だと、花の季節に雪が降ることは稀なので、「まごう」ことはない。まごうところに面白さがあるものについては両方を嫌うということか。