2019年6月7日金曜日

 「応安新式」の続き。

 これより秋になるが、「日晩(ひぐらし)」は「蝉」が夏なのに対し秋になる。
 『古今集』でも、

 蝉の声聞けばかなしな夏衣
     薄くや人のならむと思へば
               紀友則
 蝉の羽の一重に薄き夏衣
     なればよりなむものにやはあらぬ
               凡河内躬恒

のように、蝉の羽を一重の薄衣に喩えている。『源氏物語』の「空蝉」もこの比喩を受け継いでいる。
 これに対しヒグラシは、

 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと
     思ふは山のかげにぞありける
              詠み人知らず
 ひぐらしの鳴く山里の夕暮れは
     風よりほかにとふ人もなし
              詠み人知らず

といった歌は秋に分類されている。
 「稲妻」も「古今集」に、

 秋の田のほのうへをてらす稲妻の
     ひかりのまにも我や忘るる
              詠み人知らず

と秋に詠まれている。
 「鳩吹」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「秋わたる鷹をとらむとて、柴をさしかざして、前に鳩をつなぎて、網をはりて鷹を待に、空を鷹のとおれば、鳩是をみて、地にふして、たかにみえじとする也。
 其時、待人、手を合て鳩の鳴こゑをまぬるを鳩吹といへり。
 其辺に人のくるをいとひて、手まねをして人を留也。
  ますらおが鳩吹秋のこゑ立てとまれと人をいはぬ計ぞ
  まぶしさす薩男の身にもたへかねて鳩吹秋のこゑ立つ也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.98)

とある。鳩の声ではない。鳩を真似た人の声をいう。
 「楸(ひさぎ)」はキササゲのことだと言われている。

 楸生ふる片山蔭に忍びつつ
     吹きけるものを秋の夕風
             俊恵法師「新古今集」

のように秋に詠まれている。
 「裏枯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 草木の先の方が枯れること。《季・秋》
 ※万葉(8C後)一四・三四三六「しらとほふ小新田山(をにひたやま)の守る山の宇良賀礼(ウラガレ)せなな常葉(とこは)にもがも」

とある。「連歌新式心前注」には、

 「野か山か草をそへずしてはならず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.277)

とある。
 「冷敷(すさまじき)」は今日でも秋の季語だが、和歌では冬に詠まれている。

 山里の風すさまじき夕暮れに
     木の葉乱れてものぞかなしき
             藤原秀能「新古今集」
 むらむらに小松まじれる冬枯れの
     野べすさまじき夕暮の雨
             永福門院「風雅集」

 「蔦」は紅葉を詠むため秋になる。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「蔦は、殊更、紅葉の色すぐれたる物なればなり。
  深山木の色かへぬ枝もみえぬまでかかれるつたは紅葉しにけり
  はふつたのなき世なりせば松が枝にかかる紅葉の色をみましや」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)

とある。
 「芭蕉」も「連歌新式永禄十二年注」に、

 「芭蕉は、秋風にあへず、やぶれぬるを感とせり。
  古郷の庭の芭蕉の一葉をあまたになして秋風ぞふく
  かたりなばそのいにしへもなからまし芭蕉にすぐる夜の村雨」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)

とある。

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