「応安新式」の続き。
これより秋になるが、「日晩(ひぐらし)」は「蝉」が夏なのに対し秋になる。
『古今集』でも、
蝉の声聞けばかなしな夏衣
薄くや人のならむと思へば
紀友則
蝉の羽の一重に薄き夏衣
なればよりなむものにやはあらぬ
凡河内躬恒
のように、蝉の羽を一重の薄衣に喩えている。『源氏物語』の「空蝉」もこの比喩を受け継いでいる。
これに対しヒグラシは、
ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと
思ふは山のかげにぞありける
詠み人知らず
ひぐらしの鳴く山里の夕暮れは
風よりほかにとふ人もなし
詠み人知らず
といった歌は秋に分類されている。
「稲妻」も「古今集」に、
秋の田のほのうへをてらす稲妻の
ひかりのまにも我や忘るる
詠み人知らず
と秋に詠まれている。
「鳩吹」は「連歌新式永禄十二年注」に、
「秋わたる鷹をとらむとて、柴をさしかざして、前に鳩をつなぎて、網をはりて鷹を待に、空を鷹のとおれば、鳩是をみて、地にふして、たかにみえじとする也。
其時、待人、手を合て鳩の鳴こゑをまぬるを鳩吹といへり。
其辺に人のくるをいとひて、手まねをして人を留也。
ますらおが鳩吹秋のこゑ立てとまれと人をいはぬ計ぞ
まぶしさす薩男の身にもたへかねて鳩吹秋のこゑ立つ也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.98)
とある。鳩の声ではない。鳩を真似た人の声をいう。
「楸(ひさぎ)」はキササゲのことだと言われている。
楸生ふる片山蔭に忍びつつ
吹きけるものを秋の夕風
俊恵法師「新古今集」
のように秋に詠まれている。
「裏枯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 草木の先の方が枯れること。《季・秋》
※万葉(8C後)一四・三四三六「しらとほふ小新田山(をにひたやま)の守る山の宇良賀礼(ウラガレ)せなな常葉(とこは)にもがも」
とある。「連歌新式心前注」には、
「野か山か草をそへずしてはならず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.277)
とある。
「冷敷(すさまじき)」は今日でも秋の季語だが、和歌では冬に詠まれている。
山里の風すさまじき夕暮れに
木の葉乱れてものぞかなしき
藤原秀能「新古今集」
むらむらに小松まじれる冬枯れの
野べすさまじき夕暮の雨
永福門院「風雅集」
「蔦」は紅葉を詠むため秋になる。「連歌新式永禄十二年注」には、
「蔦は、殊更、紅葉の色すぐれたる物なればなり。
深山木の色かへぬ枝もみえぬまでかかれるつたは紅葉しにけり
はふつたのなき世なりせば松が枝にかかる紅葉の色をみましや」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)
とある。
「芭蕉」も「連歌新式永禄十二年注」に、
「芭蕉は、秋風にあへず、やぶれぬるを感とせり。
古郷の庭の芭蕉の一葉をあまたになして秋風ぞふく
かたりなばそのいにしへもなからまし芭蕉にすぐる夜の村雨」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)
とある。
0 件のコメント:
コメントを投稿