2019年6月12日水曜日

 昨日は一日雨で時折強く降った。今日も曇りで夕方には雨がぱらぱら降った。梅雨らしい日が続く。紫陽花やタチアオイの花が眩しい。
 それでは「応安新式」の続き。

 これとは反対に植物ではないようでいて植物になる物。

 「軒菖蒲 末松山 篠枕 稲筵 苔筵 蓬宿 葎宿 夕顔宿(已上植物也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「軒菖蒲(のきあやめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 植物「しょうぶ(菖蒲)」の異名。《季・夏》 〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕
  ② =のき(軒)の菖蒲(あやめ)
 ※山響集(1940)〈飯田蛇笏〉昭和一二年「軒菖蒲庭松花をそろへけり」

とあるが、このばあいは①の意味。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「軒にふくより外に別の用なければ、池に生たる時より、軒のあやめ也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とある。
 アヤメは、アヤメ科アヤメ属で、ショウブはショウブ科のショウブ属で別物。アヤメは花を観賞するが、ショウブの花は目立たず、芳香のある葉は今日でも端午の節句の菖蒲湯に用いられる。かつては軒先に魔除けとして吊っていたため、軒菖蒲(のきのあやめ)と呼ばれていた。
 軒に吊らなくても、池に生えている状態でショウブの別名として軒菖蒲(のきのあやめ)と呼ばれていたため植物(うえもの)になる。水辺に生えるため水辺(すいへん)にもなる。
 ハナショウブはアヤメ科アヤメ属でアヤメともショウブとも別物。園芸種で広まったのは戦国時代から江戸時代で、二条良基の時代にはまだなかったと思われる。
 「末松山(すえのまつやま)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「陸奥(むつ)国、今の宮城県多賀城市付近にあったという山。⦅歌枕⦆ 「君をおきてあだし心を我が持たば-浪もこえなむ/古今 東歌」

とある。貞観十一年(八六九年)の貞観地震のときの大津波も末の松山は越えなかったというところから、ありえないことの例えとされてきた。この末の松山は平成二十三年(二〇一一年)の東日本大震災の大津波も越えなかった。名所で山類であるとともに植物にもなる。
 「篠枕(ささまくら)」は「連歌新式永禄十二年注」には、

 「生たる篠を結たる枕也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とあり、「連歌新式心前注」に、

 「ささを枕にしたる事也。草枕とは心かはる也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.286)

とある。草枕のような比喩ではなく、実際に生えている笹を枕にしていたので植物となる。
 「稲筵(いなむしろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 稲のわらで編んだむしろ。
 「秋の田のかりねの床の―月宿れどもしける露かな」〈新古今・秋上〉
  2 稲が実って倒れ伏したようす。また、そのように乱れたもののたとえ。
 「夕露の玉しく小田の―かぶす穂末に月ぞすみける」〈山家集・上〉」

とある。植物になるのは2の意味のときであろう。「連歌新式永禄十二年注」に、

 「説々おほし。稲のほのいなむしろに似たると也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とある。
 「苔筵(こけむしろ)」は苔の筵。苔のびっちり生えた様を筵に喩えたものなので植物になる。「連歌新式永禄十二年注」に、

 「苔の生たるさまの、筵に似たると也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.110)

とある。
 「蓬宿(よもぎのやど)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「ヨモギなどが生え茂って荒れ果てた家。よもぎがやど。
「玉しける庭に移ろふ菊の花もとの―な忘れそ」〈頼政集〉」

とある。「葎宿」「夕顔宿」も同様、実際にその植物が生えているので植物となる。
 次は夜分になる物。

 「水鶏 螢 蚊遣火 筵 枕 床(ゆかは昼也) 又寝(已上夜也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「水鶏(くいな)」はウィキペディアに「湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息する。半夜行性で、昼間は茂みの中で休む。」とある。夜分で水辺になる。
 「螢」も夜に光る様を詠むものなので夜分になる。
 「蚊遣火」はウィキペディアに、

 「よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払う大正時代初期頃までの生活風習である。」

とある。夜分になる。
 「筵(むしろ)」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「①  わら・藺(い)・竹などで編んだ敷物。特に、わらを編んで作ったもの。わらむしろ。 「 -囲いの仮小屋」
  ②  すわる場所。また、会合の席。 「一道にたづさはる人、あらぬ道の-にのぞみて/徒然 167」
  ③  寝床。 「 -ニツク/日葡」

とあるが、夜分になるのは③であろう。
 「枕(まくら)」は寝る時に使うので夜分。
 「床(とこ)」も寝床のことなので夜分。ただし「ゆか」と読ませる場合は夜分にはならない。
 「又寝(またね)」は二度寝のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 一度目覚めてから、また寝ること。また、同衾した人と別れた後にまた寝ること。またぶし。
 ※古今著聞集(1254)八「又ねの心もあらばこそあかぬなごりを夢にもみめ」

とある。
 次に夜分でないもの。

 「浮寝鳥 共寝鳥 心月 鶉床 其暁 心のやみ 夢の世 常燈 明はてて 明過て 朝ぼらけ(已上非夜也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303)

 「浮寝鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 水に浮いたまま、首を翼の間に入れて眠っている雁や鴨などの水鳥。浮鳥。うきねのとり。《季・冬》 〔俳諧・誹諧通俗志(1716)〕
  ② =うきすどり(浮巣鳥)」

とある。この場合は①の意味で、必ずしも眠っているさまをいうのではなく、水の上で寝る鳥を総称していうため夜分にはならない。「連歌新式永禄十二年注」に、

 「水鳥の惣名なればなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.112)

とある。
 「共寝鳥」は不明。
 「心月(こころのつき)」は月のように澄んだ心のことであくまでも比喩としての月なので夜分にはならない。
 「鶉床(うずらのとこ)」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「うづらの常の居所也。ねどころにあらず。
  月ぞ住里はまことに荒にけり鶉の床をはらふ秋かぜ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.112)

とある。
 「其暁(そのあかつき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 迷いからぬけ出て涅槃の正理に帰するその時。特に、彌勒(みろく)三会(さんえ)の暁。
 ※長秋詠藻(1178)下「はるかなるそのあか月をまたずとも空のけしきはみつべかりけり」
  ② ある物事が実現したその時。」

とあり、あくまで比喩なので夜分にはならない。
 「心のやみ」「夢の世」も同様、比喩なので夜分ではない。「夢の世」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「迷人のさとりのひらけがたき心也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.112)

とある。
 「常燈」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  神仏の前に常にともしておくあかり。常灯明。
  ②  夜通しともしておく灯火。常夜灯。」

とあり①の意味で、昼夜常に灯っているため夜分ではない。
 「明はてて 明過て 朝ぼらけ」は夜が明けてしまっているので、夜分ではない。

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