台風はどこへ行っちゃったのかなという感じの朝だった。
台湾でも中国寄りの台湾メディアに抗議するデモが起こり、G20の大阪では在日ウイグル人のデモもあったという。いろいろなところで世界は動いている。
年金問題の方はいろいろ言われているが、積み立て式はインフレに弱いという欠点があるし、普通に個人で積み立てるのとあまりかわらない。
年金は結局将来的にはベーシックインカムに統一されることになるのだろう。その際思うのだが、ベーシックインカムを定額にするのではなく、税収に連動するようにしたらどうだろうか。つまりみんなが働かなくなればベーシックインカムも減るようにする。
まあ冗談はともかくとして、「いと凉しき」の巻の続き。
七十五句目。
誰かしつつる天竺の秋
牢人を尋出たる空の月 宗因
住所不定の牢人を天竺牢人というと、『近世俳句俳文集』(日本古典文学大系92、岩波書店)の注にある。『犬子集』(松江重頼編、寛永十年(一六三三)刊)に、
天竺よりや秋は来にけん
牢人と目にはさやかに見苦や 慶友
の句がある。
月だけが尋ねてくる天竺牢人のことを誰が知っているか、と付く。慶友の句はただ外見の見苦しさを言うだけだが、宗因の句は天竺牢人の孤独な心境にまで踏み込む。
七十六句目。
牢人を尋出たる空の月
霧にこもりし城の遠近 幽山
城には集められた牢人たちもともに篭城している。月の光りのもとに彼らは集められ、今では霧の中の城に隠れている。
大阪城の冬の陣、夏の陣の時も大坂牢人五人衆がいた。後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登。
七十七句目。
霧にこもりし城の遠近
花おる事附り堀の魚取事 信章
城の周辺には「花おる事を禁ず。附り、魚取事もまた禁ず」といった高札があったりする。あるあるネタか。
七十八句目。
花おる事附り堀の魚取事
すり餌によする梅のうぐひす 吟市
すり餌は鳥を飼う時の餌で、穀物の粉と魚の粉を混ぜたもの。ここでは庭に鶯を呼び寄せるのに用いられる。前句の文言は、こういう庭にあってもおかしくない。
名残表。
七十九句目。
すり餌によする梅のうぐひす
やよ見たか祇園あたりのはるの空 少才
祇園は京都の八坂神社のあるあたり。八坂神社は牛頭天王を祭り、それが祇園精舎の守護神であるところから、祇園神社とも呼ばれていた。東山が近く、鶯も飛来したか。
八十句目。
やよ見たか祇園あたりのはるの空
うしろ帯して塗笠編笠 似春
「うしろ帯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① =うしろむすび(後結)①⇔抱え帯。
※日葡辞書(1603‐04)「Vxirovobiuo(ウシロヲビヲ) スル」
② 娘。また、特に、帯を背後で結んで、素人の娘のような姿をしている遊女。
※洒落本・虚実柳巷方言(1794)上「後帯のうつくしもの、弐人のそばによりそへば」
[語誌](1)着用時に前に作った結び目は後ろにまわしたようだが、帯の幅が狭く結び目が小さい場合には動作に支障はなく、また寛文(一六六一‐七三)の頃までは帯の結び目を作らず、折り込むようにもしたので、その位置はさして問題にならなかった。
(2)遊女は前帯であったが、時代が降ると素人風に後ろに結び、彼女等もまた遊里の用語で「後ろ帯」と呼ばれるようになった。」
とある。
また、「世界大百科事典内の後帯の言及」には、
「帯の結び目を前にした締め方。江戸時代には鉄漿(かね),留袖(とめそで)とともに,前帯は主婦であることの象徴であった。もともと帯は紐状の帯紐で,前に結ぶのが自然の締め方であった。しかし室町時代のころから公家や武家の女たちが袴をはかないようになり,それにつれて着物の袖や身丈(みたけ)が長くなるにしたがって,帯の幅も広くなり,いまのような帯付姿が流行するようになった。当初の帯の締め方は結び目が一定せず,前,後ろ,横さまざまであったが,元禄(1688‐1704)ころから着物の袖や帯の締め方により未・既婚の区別が生ずるようになった。」
とある。
寛文の頃はまだ前帯、後帯はさしたる問題ではなく、元禄になると前帯は既婚、後ろ帯は未婚と区別されるようになった。江戸後期になると遊女が後ろ帯にするようになり、近代ではみんな後ろ帯になった。
延宝の頃はというと、寛文と元禄の間ということで、よくわからない。
塗り笠は黒い漆を塗った笠で女性がかぶる。編み笠は普通の笠。
この頃はまだ遊里ではなく普通の門前町として繁栄していた。「うしろ帯して塗笠編笠」というのは遊女ではなく一般女性で賑わっているイメージだったのだろう。
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