旧暦だと今日で四月も終わり。サツキの花はとっく咲いている。
新暦だとあさっては天安門事件から三十年。
それまでの常識だと、開発独裁はやがて行き詰まり、民主化によって経済は更なる発展へと道を開くとされていた。だが、中国はそれを押しつぶしたまま後の開放政策によって高度成長を達成した。それが今の中国のゆがみというか、呪いといってもいい状態にしている。
独裁体制を残したままの経済成長が可能だということを証明してしまったため、結局それが多くの独裁国家の民主化の足枷にもなっている。そして、経済力をつけた独裁国家は自由経済に背を向けて、かつての帝国主義の悪夢をよみがえらせている。
中国の軍事的脅威はその周辺の国々に難しい決断を迫っている。フィリピンのドゥテルテ大統領も、中国とアメリカが戦争をすれば真っ先に戦場になるという危機感から、アメリカと距離を取って難しいバランスを取ろうとしている。台湾もそれ以上に難しい状況にある。
沖縄も戦場になる可能性が高いため、中国を刺激しないようにと注意を払っているし、韓国の変節と迷走も米中戦争だけでなく、アメリカと北朝鮮が戦争になった場合でも真っ先に戦場になることを考えればしょうがなかったのかもしれない。
北朝鮮もアメリカだけでなく背後の敵にも神経を尖らせなくてはならないから、国内が親中派と親米派に分裂していることは十分に考えられる。
それがわかっているトランプさんは、軍事力を使わずに中国を潰すことができないか、いろいろ試しているのだと思う。
まあ、そんな難しい国際情勢の中、鈴呂屋こやんはあくまで平和に賛成だし、今日もゲームの話をすることにする。「応安新式」の続き。
「一、可分別物
花の浪 花の瀧 花の雲 松風雨 木葉の雨 水音雨 月雪 月の霜 桜戸 木葉衣 落葉衣(如此類は両方嫌之) 涙の雨(降物に不可嫌之) 浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之) 花の雪(木に可嫌 降物に不可嫌之)
似物之嫌様、雖非一様、当時所用如此、両方に可混合ものは嫌之、不混合は不嫌歟、」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301~302)
これは比喩などによって、分類の分かりにくいものへの注意といえる。 「如此類は両方嫌之」については「連歌新式永禄十二年注」に、
「両方、たがひにまがふ物なればなり」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.85)
とある。
「浪の花」は、
桜花散ぬる風の名残には
水なき空に浪ぞたちける
紀貫之「古今集」
による。風に揺れる桜を浪に喩えたもので、植物の木類として扱われ、去り嫌いの規則に従うのは勿論のこと、水辺としてもその規則に従う。
「花の滝」は、
山桜咲そめしよりひさかたの
雲ゐにみゆる滝のしら糸
源俊頼「金葉集」
による。これも桜を滝に喩えたもので、植物・木類であるとともに水辺にも嫌う。
「花の雲」は、
散は雪ちらぬは雲にまがひけり
吉野の山の花のよそめは
が「連歌新式永禄十二年注」に証歌として引かれているが、出典はよくわからない。「古今集」の仮名序には「春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける」とあり、
桜花咲きにけらしなあしひきの
山のかひより見ゆる白雲
紀貫之「古今集」
の歌がある。
これも植物・木類だはあるが、聳物にも嫌う。
「松風雨」は、
陰にとて立かくるればから衣
ぬれぬ雨ふる松のこゑかな
紀貫之「新古今集」
による。松風の音を雨に喩えたもの。植物・木類だが降物にも嫌う。
「木葉の雨」は、
今は又ちらでもまがふ木葉かな
独時雨る庭の松風
源具親「新古今集」
による。木の葉を雨に喩えたもの。植物・木類だが降物にも嫌う。
「水音雨」は、
まばらなる槇の板屋に音はして
もらぬ時雨や木葉成らん
藤原俊成「千載集」
による。雨音を木の葉の音に喩えたもの。降物だが植物にも嫌う。
「月雪」は、
浜千鳥妻どふ月の影寒し
芦の枯葉の雪の下風
が「連歌新式永禄十二年注」に証歌として引かれているが、出典はよくわからない。月の光を雪に喩えたもので、光物だが降物にも嫌う。
「月の霜」は、
霜を待籬の菊のよひのまに
置まよふ色や山のはの月
後鳥羽院宮内卿「新古今集」
による。月の光に霜が降りたみたいだというもの。光物だが降物にも嫌う。
「桜戸」は、
足引の山桜戸をあけ置て
わが待君を誰かとどむる
詠み人しらず「万葉集」
逢坂の山桜戸の関守は
人やりならぬ花やみるらん
による。後のほうの歌は出典がわからない。
コトバンクの「山桜戸」のところの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 山桜の木で作った戸。
※万葉(8C後)一一・二六一七「あしひきの山桜戸(やまざくらと)を開け置きて吾が待つ君を誰か留むる」
② 転じて、山桜の咲いている所。桜の多くある山家。
※新勅撰(1235)春下・九四「名もしるし峰の嵐も雪と降るやまさくらどの曙の空〈藤原定家〉」
とある。①の意味だと居所だが、②の意味だと植物の意味も入る。どちらともいえないので、居所にも植物にも嫌う。
「木葉衣 落葉衣」は、
朝まだき嵐の山の寒ければ
散紅葉ばをきぬ人ぞなき
藤原公任「大鏡」
による。「拾遺和歌集」では「紅葉の錦きぬ人ぞなき」になっている。落ち葉を衣に喩えたもの。植物だが衣装にも嫌う。
「涙の雨(降物に不可嫌之) 浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之) 花の雪(木に可嫌 降物に不可嫌之)」に関しては、涙、浪、花であることがはっきりしているので、それぞれ降物、植物、降物に嫌う必要はないとしている。
「花の雲」だと、花の季節に実際に山に雲が掛かることも多く、どっちだろうかという所に意味があるが、「花の雪」だと、花の季節に雪が降ることは稀なので、「まごう」ことはない。まごうところに面白さがあるものについては両方を嫌うということか。
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