「応安新式」の続き。
「一、句数
春 秋 恋(已上五句) 夏 冬 旅行 神祇 尺教 述懐(懐旧・無常在此内) 山類 水辺 居所(已上三句連之)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.303~304)
句数というのは、通常の題材は輪廻を嫌うため二句続けたら三句目は付けることはできないが、春夏秋冬や恋など連歌に欠かせない主要な題材については、筵それ以上続けることが望まれる。
春と秋と恋は五句まで続けることができる。
春と秋は夏や冬に較べて景物も多く、万人に好まれる季節で、春には花もあり、秋には月もあるため重視される。恋もまた大和歌は色好みの道といわれるくらい、和歌でも恋の歌は多くの巻を割き、その集の花ともいえる。
江戸時代の俳諧では儒教道徳の影響からか、恋には余り重点を置かれなくなるし、一句で捨ててもいいということになったが、中世の連歌ではまさに連歌の花、みんなが競って恋の句を詠みたがった。
式目には記されてないが、春は三句以上、恋は二句以上続けるのが暗黙のルールとされていた。「連歌新式永禄十二年注」には、
「春・秋句、不及三句は不用之、恋句、只一句而止事無念云々」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.123)
とある。
夏、冬は三句まで続けることができる。
旅行は羇旅ともいい、左遷や流刑や仏道の遊行などを言う。天皇の御幸なども含まれるが、当時は観光旅行という発想はなかった。大体は旅の苦しみを詠むものが多い。江戸時代には旅体とも呼ばれる。三句まで続けることができる。
神祇、尺教(釈教)も三句まで続けることができる。連歌では形だけ神祇や釈教の言葉が入っていればいいというものではなく、実質的な内容が必要で、特に神祇や釈教の言葉を必要としなかった。
きけども法に遠き我が身よ
齢のみ仏にちかくはや成りて 宗祇
は釈教ではなく述懐になる。
述懐は「懐旧・無常在此内」とあり、懐旧や無常も述懐の内とみなされ、三句までとされている。述懐三句続いた後、別に懐旧・無常を付けることはできない。
山類、水辺、居所も三句続けることができる。ただし打越で体と用を違える必要がある。体体用、体用用、用用体、用体体なら良い。体と用に分けられているのは山類、水辺、居所の三つで、体と用を違えれば三句可と思っていい。
体と用に別れてない生類(木類、草類、獣類、虫類、鳥類、人倫)と衣裳は二句までになる。
「一、体用事
岡 峯 洞 尾上 麓 坂 そば 谷 山の関(已上山体也)
梯 瀧 杣木 炭竈(已上如此類山用也、他准之)
海 浦 入江 湊 堤 渚 嶋 奥 磯 干潟 汀 沼 河 池 泉(已上水辺体也)
浮木 舟 流 浪 水 氷 水鳥類 蝦 千鳥 葦 蓮 真薦 海松 和布 藻盬草 海人 盬 盬屋 盬干 萍 閼伽結 魚 網 釣垂 懸樋 氷室 下樋 手洗水(已上如此類用也)
軒 床 里 窓 門 室戸 庵 戸 樞(とぼそ) 甍 壁 隣 墻(かき)(已上体也) 庭 そとも(已上如此類用也)
人 我 身 友 父 母 誰 関守 主(如此類人倫也) 月をあるじ 花をあるじ そうづ 山姫 木玉(已上非人倫也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.304)
山類、水辺、居所には体と用の区別がある。大雑把に言えば大きなものが体で小さなものが用といったところか。景色全体のパノラマになるような海、浦、入江、湊(みなと)、堤、渚、嶋、磯、干潟、汀、沼、河、池、泉などは体になる。
「奥」は『連歌新式古注集』の注に見られないところから、『連歌初学抄』の方の間違いか。
これに対し、景色の小道具になるような浮木、舟、流、浪、水、氷、水鳥類などは用になる。
「連歌新式紹巴注」には「滝は山類用、水辺体也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.194)とあり、両方にまたがるものもある。
体用とは関係ないが、ここに人倫と人倫でないものの区別も加えてある。「月をあるじ」「花をあるじ」は月や花がここの主人のようだという比喩なので人倫ではない。
「そうづ」は本来は僧正に継ぐ僧官のことだが、案山子の意味もある。
あしひきの山田のそほづおのれさへ
我をほしてふうれはしきこと
詠み人知らず
の歌が「古今集」にある。
もとは「そほづ」だったが後に僧都と混同されたか。ししおどしのことも添水(そうず)という。
「山姫(やまひめ)」は神の意味であれ山姥の意味であれ人外なので人倫にはならない。
「木玉(こだま)」は「木霊」であってやはり人外。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、
「樹木に宿る精霊をいう。《和名抄》では樹神を〈和名古多万〉としている。また《源氏物語》の〈手習〉に〈たとひ,まことに人なりとも,狐・木魂やうのものゝ,欺きて,とりもて来たるにこそ侍らめ〉とあり,木霊は古くから怪異をなす霊とされていた。《徒然草》235段にも〈あるじなき所には……こたまなど云ふ,けしからぬかたちもあらはるるものなり〉とある。また《嬉遊笑覧》などでは天狗のこととされている。今日では,木霊は山などで人の声を反響する山彦のこととされているが,もとは山彦も山の樹木に宿る精霊のなせるわざと考えられていた。」
とある。
最後に、
「右大概准建治式作之、但当世好士所用来多不及取舎、只為止当座諍論、粗所定如件、
応安五年十二月 日 後普光園摂政 判」
と奥書があり、「応安新式」は締めくくられる。
応安五年は南北朝時代の北朝の元号で、西暦一三七二年。
後普光園摂政は二条良基のこと。摂政の地位を持つものが判を押すことで、事実上皇室によって権威付けられた公式ルールとなった。
ただ、たとえば野球やサッカーでも大まかなルールは変わらないが、細かな所では毎年改正されているように、連歌のルールも時代によって様々な調整が加えられることになった。
「応安新式」「新式追加條々」「新式今案」の三つは摂政や関白の判によって権威付けられているものの、実際の所全国に散らばりそれぞれ旅をしている連歌の宗匠たちを一堂に集めて会議をするなんてこともできなかったのだろう。ある程度の細かい所の判断はそれぞれの宗匠に任されてきた部分もある。
俳諧のルールも概ね連歌に準じてはいるが、去り嫌いをかなり緩和したりしている。これは百韻が主流だった中世の連歌に対し、歌仙や半歌仙などの短い巻が増えたことと関係があるのではないかと思う。実際、こういう少ない句数の中で五句去りを厳密に守ったら身動きが取れなくなる。多くは三句去りに引き下げられている。
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