今日は沖縄慰霊の日で、悲惨を極めた太平洋戦争末期の沖縄戦が、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将の自決によって事実上終了した日だという。
司令部の自決は戦争の責任者としてまだわかるとしても、名もなき庶民までが自決を強いられたことはまったく馬鹿げたことだった。生き延びて、そこで地にへばりついてでも暮らしているという既成事実があってこそ、領土は守ることができる。
沖縄は今でも中国と何かあった場合、戦場となる危険を孕んでいる。近海を常に中国の軍艦がうろうろしている状況で、本土とは比べ物にならないほどの緊張があるのは理解しなくてはならない。
でも、できれば沖縄の人には今の資本主義経済の自由と豊かさを守る側に来て欲しいと思う。まあ、中国の夢を選ぶなら止めることはできないし、最も困難な非武装中立の道が可能ならそれに越したことはないが。
いずれにせよ鈴呂屋こやんは平和に賛成します。
それでは世間話はこれくらいにして、「いと凉しき」の巻の続き。
三十一句目。
夏花やつつじ咲匂ふらん
あの山の風をもがなと窓明て 少才
花の咲き匂うに窓を開けると、一応付け合いではあるがシンプルな軽い付けで流した。
三十二句目。
あの山の風をもがなと窓明て
月の前なる雲無心なり 幽山
風が欲しいというのを、月の前に雲があるからだとした。
この場合の「無心」は心無いという否定的な意味。
三十三句目。
月の前なる雲無心なり
露時雨ふる借銭の其上に 宗因
前句の「無心」を金の無心とした。「経る借銭のその上に」「無心なり」とつながる。
それに「ふる」を導き出すように「霧時雨」を序詞のように用いて、風雅な言葉を使いながら借金の話に落とす。
庶民の言葉がまだ風雅に取り入れられていなかった比の特有の手法で、雅語を基調としながらいかに世俗の話題を取り込むかという工夫でもあった。
「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗とが平行して描かれる。
三十四句目。
露時雨ふる借銭の其上に
見し太夫さま色替ぬ松 吟市
「さま」は合略仮名で記されている。
太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
ここも「霧時雨」に「色替ぬ松」の雅を基調に、「借銭の其上に見し太夫さま」という俗とが平行して描かれる。
太夫様が出たところで恋に転じる。
三十五句目。
見し太夫さま色替ぬ松
空起請煙となるも理や 幽山
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鉢木(はちのき)』の「松はもとより煙にて、薪となるも理や。」の一節が引用されている。「いざ鎌倉」の由来とされる佐野源左衛門常世の物語で、北条時頼をもてなすのに鉢植えの梅や桜や松を惜しげもなく火にくべて暖を取らせる。
ここでも「色替ぬ松」の「煙となるも理や」という雅の文脈、「見し太夫さま」「空起請煙となるも理や」の俗とが平行して描かれる。
「空起請(そらぎしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「いつわって誓いをたてること。また、その文書。空誓文。」
とある。
三十六句目。
空起請煙となるも理や
夜討むなしき野辺の夕暮 宗因
ここでは恋は二句で去る。
「新古今集」の哀傷歌に、
あはれ君いかなる野辺の煙にて
むなしき空の雲となりけむ
弁乳母
の歌がある。
前句の「空起請」を主君への偽りの誓いとし、誓いを立てておきながら裏切って夜討ちにされ、野辺の煙(火葬の煙)となった。
二裏。
三十七句目。
夜討むなしき野辺の夕暮
あてのみの酒気を風や盗むらん 似春
「当て飲み(あてのみ)」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、
「他人の懐を当てにして酒を飲むこと。
「舌を吐きつつ口に手を、―は現 (げ) に盗 (ぬすびと) 上戸」〈読・八犬伝・三〉」
とある。
前句の夜討を単なる比喩として、せっかく人の金で只で酒を飲めたのに、その酔いも風に当たってすっかり醒めちまった。こいつあ風めの夜討ちにあったようなものだ、となる。
三十八句目。
あてのみの酒気を風や盗むらん
雨一とをり願ふ川ごし 又吟
又吟さんは初登場だが詳細は不明。
当て飲みの酒の酔いも風が吹いたら醒めてしまいそうだ。ここらで雨でも降って川留めになれば、帰らずにそのまま飲み続けられる。
三十九句目。
雨一とをり願ふ川ごし
名号の本尊をかけよ鳥の声 木也
鳥の声はホトトギスの声で、「テッペンカケタカ」とも言うが「本尊掛けたか」とも言う。
ホトトギスは和歌では夜の雨とともに詠まれることが多い。
ほととぎすをよめる
心をぞつくし果てつるほととぎす
ほのめく宵のむら雨さめの空
藤原長方(千載集)
いかにせん来ぬ夜あまたのほととぎす
待たじと思へばむら雨の空
藤原家隆(新古今集)
のようにホトトギスを待っていたら雨が降ってきてしまったというものもある。
この場合も前句を「雨一とをり、願ふ川ごし」と切り離し、「名号の本尊をかけよ鳥の声」と雨が一降りするなかを「願ふ川ごし」と結ぶ。
四十句目。
名号の本尊をかけよ鳥の声
それ西方に別路の雲 信章
「別路の雲」は紫雲のことか。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもそうある。
紫雲はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。」
西方浄土へといざなわれる。
四十一句目。
それ西方に別路の雲
口舌事手をさらさらとおしもんで 吟市
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『船弁慶』の「数珠さらさらとおしもんで‥‥西方大威徳」のフレーズを引用している。最後の地歌の部分で、名古屋春栄会のホームページから引用しておく。
「そのとき義経すこしもさわがず.うちものぬき持ちうつつの人に。向うが如く。ことばをかわし戦い給えば。弁慶おしへだて.うち物わざに叶うまじと。数珠さらさらとおしもんで。東方降三世南方軍陀利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王中央大聖不動明王のさっくにかけて。祈りいのられ悪霊次第に遠ざかれば。弁慶舟子に力をあわせ。お舟を漕ぎのけみぎわによすれば.なお怨霊は。したい来たるを。追っぱらい祈りのけ.また引く汐にゆられ流れ。またひく汐にゆられ流れて。あと白波とぞなりにける。」
「口舌事(くぜつごと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「男女関係についての言い争い。痴話げんか。くぜげんか。
※俳諧・江戸八百韻(1678)赤何「恋の大峯分そむるなり〈泰徳〉 口舌事うき身に添へる鬼二人〈言水〉」
とある。前句の「別路の雲」をきぬぎぬのこととして恋に転じる。
四十二句目。
口舌事手をさらさらとおしもんで
しら紙ひたす涙也けり 桃青
さあ久しぶりに芭蕉さんの登場。
夫婦のいさかいに涙だけなら何の変哲もない句だが、そこに「おしもんで」「しら紙ひたす」という別の文脈を組み込む。これは「揉み紙」という和紙の製法による。
「浅倉紙業株式会社 (ショールーム 紙あさくら)のブログ」のサイトに、
「お客様のご依頼で、揉み和紙を製作しました。
市場によく出回っている楮和紙の場合は、あらかじめ霧吹きなどでほんの少し水分を与えてから揉むと、キメ細やかなシワが出来ます(もんだ後は乾燥して下さいね)。和紙によっては、水分をほんのりではなく、しっかりと含ませて揉む「水揉み」を行う事もあります。」
とある。当時の旅に欠かせない紙子もコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「紙衣とも書く。紙で作った衣服。上質の紙を産する日本独自のもので,古くから防寒衣料や,寝具に用いられた。はり合わせた和紙をよくもみ,柿渋を塗って仕上げたもので,防寒用の胴着や下着に用いられた場合が多いが,木版で美しい模様をつけ,上着にしたものもある。産地は奥州白石,駿河安倍川などであった。」
とある。
宗因が三十三句目で見せた「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗を並行させる技法の応用で、「さらさらとおしもんでしら紙ひたす」の揉み紙の製造工程と、「口舌事手をひたす涙也けり」の恋を並行して描いてみせる。宗因の技を盗んでさらに応用まで利かせてしまう芭蕉さんは、やはり恐るべし。
四十三句目。
しら紙ひたす涙也けり
高面をのぞく障子の穴床し 少才
「高面(たかめん)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「高免 高率の田租」とある。ただ、ここで租税の話に転じてしまうと、次の句でまた『源氏物語』の恋の場面に戻って輪廻になってしまうので、ここは「たかつら」のことではないかと思う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「高く盛りあがっている頬(ほお)。また、頬の盛り上がったところ。また転じて、頬。
※大日経承暦二年点(1078)五「面(タカツラ)円満せむ、端厳して相ひ称へらむ」
※有明の別(12C後)二「御めもはなもくちもたかつらも、いとおほきにこだいにて」
とある。威厳のある顔をいう。女房達がその顔を一目見ようと障子に穴をあけ、「あなゆかし」となる。「ゆかし」は惹きつけられるということで、恋の句が続いていると見た方がいい。
四十四句目。
高面をのぞく障子の穴床し
ゆびのさきなる中川の宿 宗因
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「源氏物語の空蝉の巻に、中川の宿
で源氏が空蝉・軒端荻を覗見することあり。」とある。
京極の中川は今では失われた川で、京極川ともいう。源氏の君は方違えのためにここにある紀伊の守の家に行く。そこで、
「君は、とけてもねられたまはず、いたづらぶしとおぼさるるに御めさめて、この北のさうじのあなたに人のけはひするを、こなたや、かくいふひとのかくれたるかたならん、あはれやと御こころとどめて、やをらおきてたちぎき給(たま)へば、ありつる子のこゑにて」
(源氏の君はくつろいではいても眠れなくて、期待はずれの一人寝になってしまったと思うとすっかり目が冴えてしまい、この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、こっちの方に例のあの女房がいるのかと思うと、高鳴る胸を圧し留めながら、やおら起きて立ち聞きをしていると、さっきの弟君の声がして)
となる。障子に穴はあけてないが、本説を取る時に談林の時代には少し変えてもいいようになったのだろう。本説もそのまんまではなく、設定の変更なんかも段々大きく許容するようになっていったとき、「俤付け」に自然に移行していったのかもしれない。
四十五句目。
ゆびのさきなる中川の宿
蒔絵さへ寺町物と成にけり 幽山
京の寺町は、寺町京極商店街のサイトによると、
「現在の通り名としての「寺町通」の誕生は、天正18年(1590)。
豊臣秀吉による京都大改造計画の一環で、洛中に散在していた寺院をこの地(東京極大路の在ったあたり)の東側に移転させたのがきっかけで「寺町」の名前が付きました。
浄土宗・法華宗(日蓮宗)・時宗の諸寺院が整然と並べられており、その数約80か寺におよびます。
門前町としての体裁が整ってくるに従って、商店街も形成されてきます。17世紀末前後から、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏箱・文庫・仏師・筆屋などの寺院とタイアップしたお店が並びます。
さらに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人もこの通りに沿って集住しています。」
延宝の頃から少しづつ仏具や骨董を扱う店が立ち並び始めていたか、蒔絵がここ寺町で売られていることもあったのだろう。寺町から中川はほんの指の先。
四十六句目
蒔絵さへ寺町物と成にけり
数寄は茶湯に化野の露 似春
「化野(あだしの)」は江戸時代には鳥野辺とともに火葬の地だった。
京都には茶の湯にふさわしい名水がたくさんあるが、化野の露は何とも悪趣味で、まあ生死を超越したということなのか。
四十七句目。
数寄は茶湯に化野の露
石灯篭月常住の影見えて 桃青
儚い露に常住の月を対比させる。向え付け。
四十八句目。
石灯篭月常住の影見えて
雪隠につづく築山の色 磫畫
前句を広いお寺の庭か何かとした。常住不滅の真如の月という高い理想を掲げたあとは「雪隠」でシモネタに落とす。これはこれで正解とすべきか。
四十九句目。
雪隠につづく築山の色
ますき垣南山幷に花の枝 宗因
コトバンクの「垣(かき)」の「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「建物や敷地などの周囲を囲むように作られた工作物や植栽で,材料,形式によって多くの種類がある。塀もほぼ同じ意味で使われ,築地(ついじ)は築地塀あるいは築垣(ついがき)とも呼ばれた。一般に,板塀や土塀のように表面が連続して平滑な面をなすものを塀,間隙の多いものを垣と呼ぶ傾向がある。」
とある。ただ、生垣などは向こう側が見えないから、向こう側が見えるような隙間の多い垣を「間隙(ますき)垣」というのだろう。
南山は漢詩によく詠まれる廬山のことで、特に陶淵明の「飲酒二十首」の其五の、「采菊東籬下 悠然見南山(菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る)」のフレーズは有名だ。
前句の築山を雪隠の間隙垣から見た景色とし、それを廬山に喩え、さらに花を添える。
まあ、陶淵明まで持ち出して、見事に前句のシモネタを救ったということか。一応大徳院主だし。
五十句目。
ますき垣南山幷に花の枝
うり家淋し春の黄昏 吟市
白楽天の「三月三十日題慈恩寺」の詩句に、
惆悵春歸留不得 紫藤花下漸黄昏
惆悵(ちうちゃう)す春の歸るは留め得ざるを、
紫藤の花の下漸く黄昏
と、春の終わりの黄昏を詠んだものがある。ただそれでは俳諧にならないので、うり家という卑俗な題材を出して落としている。
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