「いと凉しき」の巻の続き。
第三。
軒を宗と因む蓮池
反橋のけしきに扇ひらき来て 幽山
幽山はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、
「没年:元禄15.9.14(1702.11.3)
生年:生年不詳
江戸前期の俳人。名は直重。通称は孫兵衛。丁々軒と号す。晩年は竹内為入と号したという。初め京に住して,俳諧を松江重頼に学ぶ。寛文(1661~73)のころは,諸国を行脚し,その実績をもとに『和歌名所追考』12冊を出版。延宝2(1674)年ごろには江戸に下り,重頼の友人で奥州磐城平の城主内藤風虎の周辺で活躍した。修業時代の松尾芭蕉が,幽山の記録係を勤めたとの伝もある。延宝8年には,『誹枕』を刊行。やがて頭角をあらわしていく芭蕉と入れかわるごとく,俳壇から姿を消していく。晩年は,江戸から藤堂高通(俳号は任口)が初代藩主として立藩した久居(三重県)に移住した。」
とある。
反橋は太鼓橋のことで、橋の下にある蓮池の景色を扇子の絵に見立てたもの。
前句の蓮池は水辺の体で、反橋は水辺の用になる。発句の「法の水」が打越にあるが、これは似せ物の水ということで水辺にカウントしないのであろう。水辺だとしたら用にになり、用体用となるのでよくない。
四句目。
反橋のけしきに扇ひらき来て
石壇よりも夕日こぼるる 桃青
ここで早くも芭蕉さんの登場となる。
石檀は石で作った祭壇で石段ではない。扇の間から夕日を透かしてみるように、反橋の下の半円の空間にある石壇から夕日が見える。
「も」は強調の力もで、「石壇より夕日こぼるるも」の倒置か。
五句目。
石壇よりも夕日こぼるる
領境松に残して一時雨 信章
芭蕉(桃青)と素堂(信章)との付き合いはこの頃から既に始まっていた。翌年の春には「此梅に」の両吟興行を行う。
「領境」は藩と藩の境界で、境界石が置かれていた。前句の石壇を境界石のこととしたか。
前句の「夕日こぼるる」を時雨の後の晴れ間とし、四手にびしっと付ける。
六句目。
領境松に残して一時雨
雲路をわけし跡の山公事 木也
木也は不明。
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、
雲は皆はらひ果てたる秋風を
松に残して月を見るかな
藤原良経(新古今集)
を引いている。本歌と見ていいだろう。ただ、残っているのは月ではなく境界争いの公事(裁判)だと換骨奪胎している。
七句目。
雲路をわけし跡の山公事
或は曰月は海から出るとも 吟市
吟市はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「?-1682 江戸時代前期の僧,俳人。
近江(おうみ)(滋賀県)の人。真言宗高野山蓮華院,のち江戸安住院の住持となる。北村季吟(きぎん)の門人。延宝3年西山宗因を江戸にむかえてもよおされた大徳院の百韻に桃青(松尾芭蕉)らと参加。作品は「貝殻集」「諸国独吟集」などにみえる。天和(てんな)2年死去。法名は尊海。」
とある。
七句目で月の定座となる。ただし定座は連歌の式目にはないし、宗祇の時代には特に定座というものはない。
四句目の「夕日」から二句しか隔てたないが、俳諧では可隔三句物も可嫌打越物に引き下げられていたと思われる。
前句の「雲路をわけし跡の山公事」を何かの書の一文として、或本によると月が雲路をわけて出てきたのではなく、海から出てきたと注釈する。
後の『俳諧次韻』の、
鷺の足雉脛長く継添て
這_句以荘-子可見矣 其角
のような付け方だ。
八句目。
或は曰月は海から出るとも
よみくせいかに渡る鳫がね 少才
少才は不明。
「よみくせ(読み癖)」は習慣的な読み方。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に漢文のレ点のことを雁点というとある。前句を漢文の注釈とした。
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