鼠ヶ関の北にはあつみ山があり、鶴岡、酒田、吹浦とくれば、そのさきはかつて象潟のたくさんの島々が織り成す景勝地があった。
その象潟は文化元年の象潟地震によって1.8メートル隆起し、陸地となってしまった。この地震も今回の地震と同じ地震帯によるものなのだろう。
それでは「いと凉しき」の巻の続き。
十七句目。
一生はただ萍におなじ
わびぬればとなん云しもきのふ今日 少才
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「古今集」の歌を引用している。
わびぬれば身を萍の根を絶えて
さそふ水あらばいなんとぞ思ふ
小野小町
本歌というわけでもなく、浮草の縁で「わびぬれば」と詠んだ小野小町のことを思い起こし、謡曲「卒塔婆小町」のように、若い頃は美貌を誇った小野小町も年老いてゆくのは避けられないとする。
十八句目。
わびぬればとなん云しもきのふ今日
それ初秋の金のなし口 吟市
「わぶ」は「下げる」という意味で、頭を下げたり気分を下げたり身分を下げたりすると同様、生活水準を下げることをも言う。つまり貧乏するということ。
「きのふ今日」は「昨日今日に始まったことではない」という意味だろう。
江戸時代は大晦日とともに、お盆も借金を取り立てて回収する季節だった。今年も又お盆が来て、また借金取りが来る。昨日今日に始まったことではない。
十九句目。
それ初秋の金のなし口
十年を爰に勤て袖の露 宗因
丁稚奉公で十年勤め上げても、残ったものは袖の露。あとは借金取りの追い立てられるだけ。
こういうふうに庶民の人情に理解を示すのが宗因流といえよう。
二十句目。
十年を爰に勤て袖の露
おほん賀あふぐ山のはの月 似春
秋も三句目なのでここらで月の欲しい所だ。ただ、次の二十一句目は花の定座になる。
袖の露を主人の恩の有難さに涙が出ることとした。
月を出してはいるものの、『源氏物語』の若菜下に、
「 院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふことども こちたきに、さしあひては便なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。 二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、 御遊び絶えず。」
とあるような、春の満月の頃の御賀をイメージし、花呼び出しにしたのではないかと思う。
昔は誕生日の祝いというのはなく、正月になると一つ年を取るので、五十の御賀、還暦の御賀、喜寿の御賀、米寿の御賀など、春に行われることが多かったのだろう。
二十一句目。
おほん賀あふぐ山のはの月
春は花栬の比は西の丸 幽山
前句の御賀を紅葉賀のこととしたか。春の御賀は花の宴、秋の御賀は栬(もみじ)の賀ということで、お城の西の丸で賑やかに宴が催される。
西の丸はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「江戸城の一郭。本丸の西南方にある。文祿元年(一五九二)創建。将軍隠居所・世子居所として使用。明治維新後、皇居となった。
※浮世草子・好色一代女(1686)四「日影も西(ニシ)の丸にかたふくに驚き」
とある。
「春は花」とあるものの、「春は花」は過去のことで、意味的には秋の紅葉の句となる。
二十二句目。
春は花栬の比は西の丸
参台過て既に在江戸 磫畫
春は花の皇居に参内し、秋には江戸で西の丸にいる。
「春は花」の句は春ではないので、秋四句続いた後の無季の句となる。
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