今日は雨で、「応安新式」のほうも大分進んだ。
「忍草(しのぶぐさ)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①しだ類の一種。のきしのぶ。古い木の幹や岩石の表面、古い家の軒端などに生える。[季語] 秋。
②「忘れ草」の別名。
③思い出のよすが。▽「偲(しの)ぶ種(ぐさ)」の意をかけていう。
出典源氏物語 宿木
「しのぶぐさ摘みおきたりけるなるべし」
[訳] 思い出のよすがとして摘んでおいた(=産んでおいた)のであったのだろう。」
とある。季語としての「忍草」はシダ植物のノキシノブの方で、忘れ草の別名ではない。ウィキペディアの「ノキシノブ」の所には、
「茎は短くて横に這い、表面には一面に鱗片があり、多数の細かい根を出して樹皮などに着生する(着生植物)。
葉は茎から出て、全体に細長い単葉で、一般のシダの葉とは大きく異なる。形はヤナギの葉のような線形に近い楕円形。先端は細まり、少しとがる。基部は次第に細くなり、少しだけ葉柄が見られ、葉柄の部分は黒っぽくなって少し鱗片がある。葉は少し肉厚で、黄緑色、表面につやがない。乾燥した時には、葉は左右から裏側に向けて丸まる。
胞子嚢は円形の集団となって葉裏にある。葉裏の主脈の両側にそれぞれ一列に並ぶ。丸く盛り上がって、葉からこぼれそうになることもある。」
とある。
曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、
「真淵翁伝、しのぶ草は和名抄の苔の類に、垣衣をしのぶとよみたり。古き築地、朽たる物の端、古き軒端などに、常に生る草を云、とみゆ。」
とある。
百人一首にも、
百敷や古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり
順徳院
とあるように、昔を偲ぶと掛けて用いられることが多い。
御廟年を経て忍ぶは何をしのぶ草 芭蕉
という『野ざらし紀行』の旅で詠んだ句もある。
忘れ草も所によっては忍ぶ草とも呼ばれてたようだが、こちらはノカンゾウ、ヤブカンゾウなどを指す。
「連歌新式永禄十二年注」には、
「忘草は、順和名には、絵を書て、ひとつばの様にてちひさく、うらに星のあるを、忘草と云り。したの葉のちいさき様なるを、忍草なり、と云り。但、是を忍草共、忘草共いふと也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)
とある。「うらに星のある」が何を指すのかよくわからないが、二つの植物は別物でありながら呼び方は一定しなかったようだ。
忘草の方は、「連歌新式紹巴注」に「雑也。花としては夏也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.189)とある。
「穂屋造(ほやつくる)」も「連歌新式永禄十二年注」に、
「諏訪の祭の頭屋を、薄の穂にてふくを、ほや造と云り。」
とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、
「① 薄(すすき)の穂で葺(ふ)いた屋根。また、その家。
※夫木(1310頃)三〇「すすきふくほやの軒ばのひとかたになひかは神のしるしともみん〈藤原為相〉」
② 八月二六~二八日(古くは陰暦七月二七日)、長野県諏訪上下両社で行なわれる穂屋祭に作られる青萱・薄で葺いた神事用の仮屋。《季・秋》
※無言抄(1598)下「秋〈略〉みさ山祭〈略〉ほやつくるなども此まつりに作るかりやの事なり」
とある。
「豆懸」は不明。
「初鳥狩 初鷹狩」は「連歌新式永禄十二年注」に、
「初鳥狩とは、始て鷹をつかふ事を云なり。
暮ぬとも初鳥や出しの箸鷹を一よりいかで合せざるべき
鳥屋出し一羽も去年の毛なしはぎ足かはさしてたがおこす也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.100)
とある。初鳥狩で一つの言葉として用いるのではなく、意味としての初鳥狩が季語になる。
「小鷹狩(こたかがり)」 はweblio古語辞典の「三省堂 大辞林」に、
「小鷹を使って秋に行う狩り。ウズラ・スズメ・ヒバリなどの小鳥を捕らえる。初鳥(はつと)狩り。 ⇔ 大鷹狩り」
とある。これも「小鷹狩」という言葉を使うのではなく、
とやかへるつみを手にすへあはづ野の
鶉からむとこの日くらしつ
衣笠家良(新撰六帖)
のように意味として用いられた。季語というよりは季題というべきだろう。一般的に中世連歌の季語は形式的にその言葉が入っていれば自動的にその季節になるというものではなく、あくまで実質的にその季節を詠んでいるかどうかを重視する。
「鶉衣(非動物)」は「連歌新式永禄十二年注」に「鶉を文に付たる衣也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.100)とある。衣装になる。
「連歌新式心前注」には、
「めゆひなどのやうの衣か。一説、唐の事也。昔、呉夏子と云者のきたる衣と云々。短き衣也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.278)
とある。この時代にはどういう衣かはっきりしなかったようだ。「めゆひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 布帛や革(かわ)を糸でくくって染めてから糸を解いてくくり目を文様としたもの。くくりを寄せた数によって三つ目結・四つ目結・九つ目結・十六目結などがあり、一面に配したのを滋目結(しげめゆい)といい、その目の細かいのを鹿子結(かのこゆい)という。纐纈(こうけち)。鹿子絞り。くくり染め。目染め。
※散木奇歌集(1128頃)雑上「君がよを神々いかに護るらんしげきめゆひの数にまかせて」
とある。
鶉衣(じゅんい)と読んだ場合は、goo国語辞典の「デジタル大辞泉」に、
「《子夏は貧しく、着ている衣服が破れていたのを鶉にたとえた「荀子」大略の故事から》継ぎはぎだらけの衣。みすぼらしい衣服。弊衣。うずらごろも。」
とあるが、呉夏子は子夏のことか。ただし、子夏は衛の人。
「連歌新式紹巴注」には「五夏子、唐人着之。短単衣の名也。非生類名故秋也」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.184)とある。短い単衣で必ずしも秋に着るものではなかったが「鶉」の名があるので秋だという。
結局鶉衣に関してははっきりとはしないが、継ぎはぎだらけの衣のことではなく、かつて日本でそう呼ばれる薄手の衣が存在してたと考えた方がいいだろう。
江戸時代の俳諧では継ぎはぎだらけの衣の意味で用いられる。江戸中期の也有の俳文集『鶉衣』は、粗末な継ぎはぎだらけの文章というへりくだった意味でこのタイトルを付けている。
「萱 枯野露」は「連歌新式心前注」に、
「かれのとばかりは冬也。露草などむすべば秋也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.278)
とある。枯野だけだと冬だが、枯野の露は秋になる。「萱」は薄、刈萱、茅などのことで今でも秋の季語になっている。
「草枯花のこる」は、「連歌新式永禄十二年注」には「花の冬まで残がたければ也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.100)とあり、「連歌新式心前注」には「露・色花をそへては秋也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.278)とある。
「残る」という言葉は次の季節になっても残っているという意味で後の季節になる場合が多いが、草枯れて花残る場合は例外的に秋になる。
さて、ここから冬に入る。
「沫雪」は「連歌新式永禄十二年注」に、
「雪の性あはくして消やすきをいふなり。
矢田の野に浅茅色付あらち山峯の淡雪寒ぞ有らし」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.103)
とある。
和歌は『新古今集』で柿本人麻呂。あらち山(愛発山)はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「福井県敦賀市の南方一帯の山。古代、愛発関が置かれた。⦅歌枕⦆ 「八田の野の浅茅色付く-峰の沫雪寒く降るらし/万葉集 2331」
とある。
「涙の時雨」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「=なみだ(涙)の雨《季・冬》
※貫之集(945頃)九「まつもみなたけもわかれをおもへばやなみだのしぐれふる心地する」
とある。
引用されている和歌は京極中納言を悼む哀傷歌で、時雨のような涙でもあれば、折から降る時雨が涙のようだとも取れ、両方の意味を持つため冬の季語となる。
「庭火」は「連歌新式永禄十二年注」に「神楽の篝火也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.103)とある。神楽は新嘗祭に行われるため冬の季語となる。
「連歌新式心前注」には、
「依句神祇也。神楽の一名也。先、節会の時の事也。新嘗会。(大嘗会)などの時有事也。さて、新嘗会とは、十一月中卯日、今年の初稲を神明に奉らせ給事也。(是は毎年の事なり。)
いぬる秋おさめし稲を手向して年の泰なる始なりける
新嘗会の歌也。大嘗会と云は、御代の始に一度有事也。又、神楽の名に庭火と云。庭火のかげにて人長などの舞事也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.281)
とある。
「木葉衣」も「連歌新式心前注」に、
「三皇の時之事也。伏羲・神農など、草葉をあみて為衣也。今用る衣裳は、遥後、漢の代よりの事也。<両方嫌之。己本に有>」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.281)
とある。「落葉衣」も同じか。植物と衣装の両方に嫌う。
「紅葉のちりて物をそむる」の場合、「紅葉」は秋だが「紅葉散る」が冬の季語となるため、紅葉が散って染めたかのようだという比喩の場合も、紅葉の散る景色と切り離すことが出来ないので冬となる。
近世の俳諧にも、
尊がる涙や染めて散る紅葉 芭蕉
の句がある。「涙や染めて」は「涙を染めてや」の倒置で、「や」と疑うことで、涙が散る紅葉に赤く染まったかのようだとする。この「散る紅葉」は比喩のために引き合いに出された想像上のものではなく、折からの散る紅葉にという実景であるため冬の句となる。「涙の時雨」と同様に考えればいい。
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