明日の朝には台風が通るという。もうそんな季節か。
それでは「いと凉しき」の巻の続き。
六十九句目。
親の細工をあらためずして
何物か人のかたちと成やらん 吟市
これは「不細工」のことか。
親の顔貌を受け継いで、一体誰が形人(かたちびと)、つまり顔立ちの美しい人になるだろうか、と。
七十句目。
何物か人のかたちと成やらん
しばし楽屋の内ぞ床しき 幽山
前句の「人のかたち」を人形のこととする。この頃はまだ文楽はなかったが、その前身となる人形劇はあったと思われる。
ウィキペディアによると、竹本義太夫は最初は清水五郎兵衛を名乗って浄瑠璃を語り行っていたが、「延宝5年12月に京都の四条河原に芝居小屋を建てて独立した。加賀掾の興業主であった竹屋庄兵衛が組織した操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、延宝8年(1680年)のころ竹本義太夫と改名。」とある。
七十一句目。
しばし楽屋の内ぞ床しき
来て見れば有し昔にかはら町 木也
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『鸚鵡小町』の一節を引用している。
「雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内やゆかしきを引きかへて、内ぞゆかしきと詠む時は、小町が詠みたる返歌なり。」
これは大納言行家が
雲の上はありし昔に変はらねど
見し玉簾の内やゆかしき
と詠んだのに対し、老いた小町が、
雲の上はありし昔に変はらねど
見し玉簾の内ぞゆかしき
と返した、これを鸚鵡返しというという話だが、鎌倉中期の『十訓抄』には女房の詠んだ歌に成範民部卿(藤原成範)が返すという話になっている。こちらの方が元ネタか。
この歌を本歌にして、「床しき」に「有し昔にかはらねと」と付けるところを掛詞にして「かはら町」とする所に一工夫ある。
「河原町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「京都中央部、鴨川の西を南北に走る通り。古くは鴨川の河原。近世は芝居小屋や茶屋などが並んだ。」
とある。
七十二句目。
来て見れば有し昔にかはら町
小石をひろひ塔となしけり 信章
古くは鴨川の河原だから、石を積んで塔をたてたりして死者を弔った。
ただこの句、十三句目の、
座頭もまよふ恋路なるらし
そびへたりおもひ積て加茂の山 桃青
とかぶっている感じもする。
七十三句目。
小石をひろひ塔となしけり
なひ物ぞ真の舎利は求ても 磫畫
「石塔」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 塔婆の一種。石でつくった塔婆。本来は仏舎利を安置するためのものであるが、後に多く墓としてつくられるようになった。
※参天台五台山記(1072‐73)一「次礼二石塔一。九重高三丈許。毎レ重彫二造五百羅漢一。並有二二塔一」
② 石でつくった墓標。墓石。墓碑。石碑。
※評判記・色道大鏡(1678)一三「此三棟に、中将姫の誕生所これあり。猶中将姫の石塔(セキタウ)もあり」
とある。石塔は本来は仏舎利だった。仏舎利は本来はお釈迦様の遺骨・遺体のことで、本物のそれは探しても見つかるものではないが、石塔ならどこにでもある。
七十四句目。
なひ物ぞ真の舎利は求ても
誰かしつつる天竺の秋 似春
「しつつる」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「知りつる」とある。
真の舎利はないことから、天竺の秋に思いを馳せる。まあ、遣り句と見ていいだろう。ここらで月が欲しい所だ。
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