2019年6月3日月曜日

 今日から旧暦五月。今朝もほんの少し雨が降ったが梅雨入りも近い。
 それでは「応安新式」の続き。

 「一、水辺体用事
 假令、浪として浦と付て、又水盬などはすべからず、葦、水鳥、舟、橋などはすべし、為各別物故也、
 須磨 明石(可為水辺、上野岡非水辺、他准之) 難波 志賀(非水辺他准之) 杜若 菖蒲 葦 蓮 薦 閼伽結 懸桶 氷室 手洗水(已上可為水辺也)
 蓬屋 霞網 小田返 布曝 硯水(已上非水辺)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301)

 水辺体用事はこれだけでなくまだまだ続くが、実際に水辺について書いているのはここまで。あとは山類、春夏秋冬、居所、植物などの細かい注意事項が並ぶ。
 「浪として浦と付て、又水盬などはすべからず」というのは浪が水辺の用であり、浦という体を付けて次の句で水だとか盬(塩)だとかいう用を付けることはできない。ただし「葦、水鳥、舟、橋などはすべし」とあり、これらも用になるから、用、体、用となる。
 「為各別物故也」とあるように、浪と水・塩は同じものだからで、浪は水に立つ波で、潮の流れに生じる。これに対し、葦、水鳥、舟、橋は水で出来てはいない。同じ用でも別の物はかまわない。
 この場合の体と用は体言用言という意味ではなく、大きな景色のパノラマを体として、そこに登場するディティールを用とする。
 このあとの「体用事」のところに、

 「海 浦 入江 湊 堤 渚 嶋 奥 磯 干潟 汀 沼 河 池 泉(已上水辺体也)
 浮木 舟 流 浪 水 氷 水鳥類 蝦 千鳥 葦 蓮 真薦 海松 和布 藻盬草 海人 盬 盬屋 盬干 萍 閼伽結 魚 網 釣垂 懸樋

 氷室 下樋 手洗水(已上如此類用也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.304)

とある。「奥」は「沖」のことと思われる。
 名所でも「須磨 明石(可為水辺、上野岡非水辺、他准之) 難波 志賀(非水辺他准之)」とあるように、須磨・明石は水辺になるが、須磨の上野、明石の岡は水辺にならない。
 「須磨の上野」はネット上の「摂津名所図会」のページに、

 「須磨上野(すまうえの) すまの里の山岨にある日園をいふなるべし。
 『新千載』  浪かけぬすまの上野の霞にだになは塩たるる旅衣かな   浄阿
 『夫木』   鈴舟のよする音にやさわぐらん須磨の上野に雉子鳴くなり 顕昭」

とある。
 「明石の岡」は赤松山とも言われ、柿本神社(人丸神社)がある。
 「難波 志賀(非水辺他准之)」については、「連歌新式永禄十二年注」に、

 「いづれも都なれば也。但、難波津・難波江・志賀浦・志賀浜などは、水辺の名所也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.89)

とある。
 「杜若 菖蒲 葦 蓮 薦 閼伽結 懸桶 氷室 手洗水(已上可為水辺也)」のうち「杜若 菖蒲 葦 蓮 薦」は水辺の植物になる。
 「閼伽結」は「連歌新式心前注」に、

 「閼伽 夜分也。あかとは、水の梵語也。あかつき結ぶなどとかくし題にしても、水の字に付而悪し。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.267)

とある。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「サンスクリットarghaの音訳。功徳,功徳水または水と訳す。〈価値がある〉という意味のarghより転じて,神仏や貴人などに捧げる水を意味する。閼伽はもともと水を意味するが,中国においても日本でも閼伽水と呼ばれる場合が多い。仏会では加持した水や,霊地の水,あるいは香木を水に入れた香水(こうずい)を用いる場合が多い。閼伽の湧く井戸を閼伽井と呼び,東大寺二月堂下の閼伽井や園城寺金堂わきの井,秋篠寺の閼伽井など著名な井戸が現存する。」

とある。
 「懸桶」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「泉のわく所から縁先の手水鉢へ清水を導く樋(とい),またはその仕掛け。〈かけひ〉ともいい,懸樋とも書く。樋には節抜きまたは半割りの竹やくり抜きの木が用いられた。その水の落ちる音の閑寂な趣が好まれて《後拾遺集》以降の多くの和歌にうたわれ,また《北野天神縁起》《一遍上人絵伝》などに描かれるので,平安時代末ころから用いられたと思われる。茶の湯の発達にともない,蹲踞(つくばい)にしかけて水を落とすことが,さらにいっそう好まれるようになった。」

とある。
 「氷室」もコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「冬の氷を夏まで貯えておく室。文献上の初見は,《日本書紀》仁徳紀に見える大和の闘鶏(つげ)の氷室の記述である。その構造は,土を1丈余り掘り,厚く茅荻を敷き,その上に氷を置き,草をもって覆ったものという。同書孝徳紀にも氷連(ひのむらじ)の氏姓をもつ人名が見え,大化前代すでに朝廷所属の氷室の存したことが認められる。令制では宮内省主水司が氷室を管理したが,大宝令の制度では氷戸144戸が置かれ,役丁を結番して氷の貯蔵・運搬等に当たった。」

とある。
 同じ話だが、「連歌新式心前注」には、

 「六月一日に氷を天子は奉る事也。
 氷室のおこりは、仁徳天王御宇六十二年、額田大中彦の王子闘鶏と云所に狩し給ひて、山にのぼり野中を見やり給へば、庵有。あたりに翁をめして問給へば、氷室なりと申。
 皇子云。何として大旱にいたるまで氷て消ざるぞ と問たまへば、茅萱を覆て暑熱を避と云々。
 如此、冬の雪を穴にたたき入て置て、夏取出し、たべ候へば、薬と成、無病なる由を申上。
 さらば、それを御調物に上よとて、皇子、此水を仁徳聖の御門に初て奉給也。是より年毎に六月に上也。水辺の用也。(非山類。)」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.267~268)

とある。
 「手洗水」は「連歌新式心前注」に、

 「手あらひ水・たらひの水とよむ。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.268)

とある。

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