2023年12月30日土曜日

  秦野市俳句協会のホームページが移転してるが、まだ検索にかからないようだが、https://hadanosihaiku.jimdofree.com/なのでよろしく。
 今年もあとわずか。相変わらずロシアの侵略を止めることができないまま、中東までが火を噴いて、この流れがさらにあちこちに飛び火しそうで、何とも不安な世の中だ。
 せっかくコロナが収まって街もイベントも賑わいを取り戻したのだから、乱世も収まってほしいものだ。

 芭蕉に虚実の論はない。
 虚実の論は芭蕉の花実の論の支考の解釈によるもので、その成立は享保の頃になることに留意する必要がある。支考も『続五論』(元禄十一年刊)では華実論として展開している。

 「詩歌といふは道也。道に華実あるべし。実は道のみちにして人のはなるべからざる道をいふ也。華は道の文章にして神のこころをもやはらげぬべし。」(続五論)

 実は道であり、道は朱子学の理に相当するもので、その人間において現れるものは「誠」という。花実の論は他の蕉門にも見られる。
 虚実の言葉自体はそれより前の『南無俳諧』(宝永四年刊)にも登場するが、それが全面的に展開されるのは『俳諧十論(享保四年刊)になる。
 「実」はこの場合本意本情であり、普遍的な誠を意味する。
近松の虚実皮膜論は近松の死後、元文の頃に登場するもので、この場合の「実」は実事であって関連はない。
 実事はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「実事」の意味・読み・例文・類語」に、

〘名〙 (「実」はまこと、まごころの意)
① 歌舞伎で、分別があり、常識をわきまえた誠実な役柄。また、その演技や演出法。
※評判記・役者大鑑(1692)二「おさまれる実(じつ)事、ぶだうもろ共、大かたにしこなしたまへは」
② まじめなこと。真剣なこと。また、真実みがこもっていること。本当のこと。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)江戸「それは太夫さまともおぼえぬむごき御事と、実事(ジツゴト)を申出せば」

とある。誠という点では俳諧の実と共通しているが、元文三年刊『難波土産』の「発端」には、

 「昔の浄るりは今の祭文同然にて花も実もなきもの成しを、某出て加賀掾より筑後掾へうつりて作文せしより、文句に心を用る事昔にかはりて一等高く、たとへば公家武家より以下みなそれぞれの格式をわかち、威儀の別よりして詞遣ひ迄、其うつりを專一とす。此ゆへに同じ武家也といへ共、或は大名或は家老その外禄の高下に付て、その程々の格をもつて差別をなす。是もよむ人のそれぞれの情によくうつらん事を肝要とする故也。
 浄るりの文句、みな実事を有のまゝにうつす内に、又芸になりて実事になき事あり。近くは女形の口上、おほく実の女の口上には得いはぬ事多し。是等は又芸といふものにて、実の女の口より得いはぬ事を打出していふゆへ、其実情があらはるゝ也。此類を実の女の情に本づきてつゝみたる時は、女の底意なんどがあらはれずして、却て慰にならぬ故也。さるによつて芸といふ所へ気を付ずして見る時は、女に不相応なるけうとき詞など多しとそしるべし。然れ共この類は芸也とみるべし。比外敵役の余りにおく病なる体や、どうけ樣のおかしみを取ル所、実事の外芸に見なすべき所おほし。このゆへに是を見る人其しんしやく有べき事也。」

とあり、女形のセリフが普通の女なら言わないような本音を言うことで、その実を表すとしている。芸というのはいかにも実際にありそうなというだけでなく、その本質(誠)に迫る必要があるという点では俳諧の虚実と共通している。ここからあの有名な、

 「ある人の云、今時の人はよくよく理詰の実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、むかし語りにある事に当世請とらぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、兎角その所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子供だましのあじやらけたる事は取らず。
 近松答云、この論尤のやうなれ共、芸といふ物の真実のいきかたをしらぬ説也。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。成程今の世実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役のごとく顏に紅脂白粉をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生なりあたまは剝なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。」

という虚実皮膜論に展開する。実事は単に実際の家老の姿に似せるのではなく、今でいうテンプレに近いもので、いわばいかにもという家老キャラを作り上げることで、その本質(実)を表す。それを虚実皮膜と呼んだ。
 俳諧の虚実はどのようなものかというと、例えば、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の句で言えば、当時どこにでもあったありふれた古池に、春になると不意に蛙の水音がしてドキッとする、その「あるある」の部分が古池の噂で虚になる。
そこに業平の「月やあらぬ」の悲しみを感じさせるのが実になる。
 芭蕉の古池は近代俳句の感覚からするとそれが写実だという所だが、実際のところ我々は誰も芭蕉が芭蕉庵の古池で蛙の音を聞いたところを見ているわけではないし、我々が知ってるのはあくまでも芭蕉さんのうわさ話にすぎない。この「噂」という言葉は当時の俳諧の議論で良く用いられる。
 いくらもっともらしいことでも基本俳諧は噂であり虚にすぎない。そこに人間の誠の心が込められてるかどうかが大事であり、それを実と呼んでいた。

 近代俳句で言えば、

 鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

のどこにでもありそうな鶏頭の姿が虚になり、「咲きにけり」ではなく、あえて主観的に力強く「ありぬべし」とする所に、死に瀕した病床にあって何でもない鶏頭すら愛しく思えるその心が実になる。
 実相観入という近代の言葉もある。仏教では目に見えるものは色相であり虚の世界、真実の世界は仏様の世界、実相ということになる。
 虚実のこうした逆転現象は近代以前の哲学には洋の東西を問わず普遍的に見られる。カント哲学の「物自体」も物質そのものではなく、神の領域を言う。現実の目に移る世界は現象(Erscheinung)と呼ばれる。
 この前の句会の、

 蓋とれば鰤の白眼にぶつかりし 大石繁子

の句も、鰤鍋に煮上がって美味しそうな様が鰤鍋の噂で虚となり、煮立ってなお睨みつけるような鰤の眼に、生命への畏敬と殺生の罪を感じさせるところがこの句の実になる。

2023年12月24日日曜日

  はぴほりー。と言っても日本にはクリスマス休暇がないので、ホリデーというのも何かおかしい感じがする。まして隠居して毎日がホリデーになってしまった身としては、今更感がある。
 クリスマスは今年は日曜日と重なったが、大抵は一年で一番忙しい日に重なり、残業を命じられたり、やっと仕事が終わっても大渋滞で、なかなか家に帰れないもので、次の日もまた仕事があったりする。昔作った句、

 渋滞も今宵サンタの橇の列

 バブルの頃はホテルを予約してティファニーの宝石を買って、恋人たちの夜として盛り上がったが、その熱量も今は昔。
 イルミネーションもクリスマス飾りの意味合いが薄れて冬中やってたりする。花のない季節の花といったところか。
 コロナ明けのクリスマス、街は盛り上がってるのかな。田舎に引き籠ってしまったのでよくわからないが。田舎でも山の中の公園にイルミネーションが灯る。

 イルミネーション見に山に入る耶蘇祭り

2023年12月13日水曜日

  毎日新聞の記事はクリストファー・ファーガソン氏の意見として、

 「大前提として、『トランスジェンダーを自認する人の多くは、実際にトランスジェンダーで、医療的ケアを必要とする人たちだ』と解説する。」

と書いている。トランスジェンダーは手術やホルモン投与を必要とするものという考え方は、今の日本でも知らないうちに普通に認められるようになってきたのか。大手三大新聞の一つに堂々と書いてあるくらいだからな。
 これ以上書くとそろそろポリコレ棒で叩かれるかな。

 俺の世代だと八十年代のゲイパワーのことは日本でも大きく報道され、有名ミュージシャンのカミングアウトも話題になった。まあ、フレディ・マーキュリーに関しては当然という感じで、髭を生やして現れた時は「えっ?」とは思い、前のひらひら衣装の方が良かったという意見はあったものの、ゲイであることで人気を落とすこともなかった。
 当時女の子の間ではデビッド・ボウイ、デビッド・シルビアン、フレディ・マーキュリーは三強だった。女性的な男の魅力に日本の女子は常に肯定的な反応を示した。このことが日本にその後ビジュアル系というジャンルを生むことにもなった。
 その後のアメリカのゲイの話題は次第に希薄になり、最近になってLGBTという言葉でもっぱら差別のことばかり話題になるようになった。
 LGBTに関してアメリカは明らかに後退した。かつてのような胸を張ってゲイやレズビアンを公言できる時代が終わり、同性愛は治療の必要な病気とみなされ、かつてのゲイやレズビアンは「トランスジェンダー」に一括りにされ、性同一障害と同等に扱われるようになった。
 このことを日本の人権派は見落として、未だに八十年代の栄光から抜け出してないのではないか。
 昔だったらトムボーイと呼ばれてた男勝りのお転婆娘が、今ではトランスの烙印を押され、手術を強要されるというなら、そんなものは決して進んだ人権国家などではない。どうなってんだアメリカ。

2023年12月12日火曜日

 アビゲイル・シュライアーさんのIrreversible damege - the transgender craze seducing our daughters - (回復不能なダメージ─娘たちを誘惑するトランスジェンダーの流行─)は周知のように、日本では「あの子もトランスジェンダーになった─SNSで伝染する性転換ブームの悲劇─」というタイトルで翻訳書が出る予定だったが、一部の狂信的な人権派の人々によって中止させられた。
 基本的には西洋人は長いことキリスト教の支配のもとに、同性愛者を犯罪とみなしてきた、その歪みに由来するトランスジェンダーへの無理解と混乱が原因と思われる。もちろん急速発症性性別違和などというものは医学的に存在しない。我々が知ってるのは中二病のことだ。
 思春期には自分自身の独立への願望から、既存の価値観に反抗するのは、いつの時代でもどこの国でも見られるものだ。ただ、その表れ方はその社会を反映する傾向がある。
 六十年代の若者なら社会主義の革命の闘志になるというのが、一番一般的だっただろう。ヒッピーカルチャーは日本ではそれほど流行らなかったが、それでもインドを放浪したりする人はいた。
 今の日本では違う自分になろうにも、既に社会主義の理想は死に絶え、現実世界で実現できないから、アニメやラノベのキャラを気取るくらいになって、中二病(厨二病)と呼ばれている。ただ、中二病という言葉の用法は、革命の戦士気取りの者にも用いられている。
 当然ながら中二病は成長過程での自然なもので、「病」と付くものの病気ではないし、医学の対象になることはない。つまり中二病などという医学用語は存在しない。
 江戸時代の衆道もあるいはそういう傾向があったかもしれない。いわゆる歌舞伎者(この言葉は「かたぶく」が「かぶく」になったと言われている)
 思春期に一時的なトランスジェンダー的行動が発生することは、日本ではよく知られている。男子校や女子高の疑似恋愛がそれで、それは成人後も空想の世界で様々な形でジャパンクールと呼ばれる諸芸術に取り入れられている。代表的なのはBL、百合、TSだ。他にもケモ耳だとか獣人だとかを好んだり、様々なフェチを伴う性癖がこうした芸術の欠かせぬ要素になっている。
 百合(YURI)もガンダムシリーズの「水星の魔女」で完全に市民権を得てるし、TSは新海誠監督の『君の名は。』で世界的に知られることとなった。BLは七十年代の萩尾望都や竹宮恵子の作品にまで遡れるし、ケモ耳は今は『ウマ娘』が知られている。
 こうしたトランスジェンダー的なものへの憧れは自然なもので、リアルな肉体的性癖とは関係なく、大人になっても維持されていることが多い。古くは衆道を気取った芭蕉さんや歌舞伎の女形が千両役者になったりもした。近代には宝塚の男役が多くの女の子を魅了してきた。
 基本的に人がトランスジェンダーをかっこいいと思いそれに憧れるのは自然な感情で、それは逆説的に現実社会で要求されるジェンダーの縛りの窮屈さと裏腹なものだ。トランスジェンダーは自由の象徴と言っても良い。それは今の欧米社会でも同じだと思う。
 こうした思春期に顕著に表れる、憧れとしてのトランスジェンダーはもちろんのこと、リアルなトランスジェンダーの多くも正常なものであり、病気ではない。そのため本来こうした人たちにホルモンの投与や外科手術など必要とはされてこなかった。それらが必要なのはいわゆる性同一性障害に限定される。病気でもない一般のLGBTにホルモン投与や外科手術を施すこと自体、日本では考えられないことだ。
 むしろ欧米社会の方が、長いこと同性愛を犯罪とみなしてた歴史があって、それがつい最近俄に解放されたため、未だにどう扱っていいかわからず戸惑ってるのではないかと思う。
 性同一性障害ではなく、普通のトランスジェンダーにホルモン投与や外科手術を施すのは、まだ彼らを病気と見て社会から排除しようとしているとしか思えない。ミシェル・フーコーは三つの排除の形式、禁止・狂気・非合理を挙げていたが、ようやく犯罪者(禁止)を免れたLGBTが、結局治療を必要とする精神病として扱われているのではないかと疑わざるを得ない。どうしてもLGBTをそのまま放っておくことができないみたいだ。
 あるいはノンケなのかLGBTなのかはっきりしない連中を白黒つけなくては気が済まないのか。何が何でも心が男であるか女であるかという型にはめないと気が済まないのか。現実のLGBTはそんなにはっきりと分類できるものではない。
 虹のシンボルで言えば、日本では虹は七色とされているが、国によっては六色だったり五色だったり四色だったりする。色の変化は連続的で境目のないグラデーションを形成している。それを分けるのはあくまで人間の側の任意の便宜的なものにすぎない。LGBTという虹は本来は境界など存在しないし、同じようにノンケ(英語ではストレートだとかシスだとか言うのか)とLGBTとの間の明確な境界線も存在しない。
 リアルなトランスジェンダーは病気ではないし、治療の必要はない。まして中二病でトランスジェンダーを気取りたがる若者を治療する必要などない。明らかに欧米社会は狂っている。transgender crazeはまさにtransgender crazyだ。
 そして、何よりも情けないのは、こういう遅れた野蛮な西洋のトランスジェンダー観を崇拝している日本の人権派の連中だ。むしろ我々は彼らに教えてやらなくてはならない。あんたらのトランスジェンダーの扱い方は根本的に間違ってると。同性愛を犯罪として排除することのなかった日本人だからこそ言えることだ。
 もちろん、「あの子もトランスジェンダーになった─SNSで伝染する性転換ブームの悲劇─」が速やかに出版され、反面教師とされることを願う。

2023年12月10日日曜日

秦野市俳句協会のホームページが移転したのでよろしく。
用いた画像は四日前の十二月六日に震生湖で撮影したオリジナル。
今日も震生湖まで散歩したが、紅葉から冬枯れへの移行期で、まだまだ西日が当たると黄色く輝いて奇麗だった。

  震生湖の秋
地滑りの跡ソーラーの秋日和
弁天の律の調べや風に波
秋思とは地のさけぶ声の閑かさや
潜龍の淵何もなく鮒を釣る

これは先月の震生湖誕生百年俳句大会に応募した句で、句会だから一句として審査されるが、連作にもなっている。
「律の調べ」「潜龍の淵」などマニアックな季語を使うと選者の受けが良いというのは、カドカワの俳句大会で学んだことだった。「律の調べ」の句は三人の選者に選ばれて九位、「潜龍の淵」も二人の選者が選んでくれた。
鈴呂屋書庫の方もX芭蕉終焉記をアップした。