2022年11月30日水曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「原回頭
 朝霧や空飛ッ夢を富士颪    晋子
 富士は常雪半面や秋の色    キ翁

   富士川渡航
 不盡や笠赤蜻蛉のわたる空   横几

   清見
 あかつきの鹽やき遠し荻の色  岩翁
 ほと鴫の渡るも淋しきよみかた 尺草

   しつはた
 紙子屋に冬はと問し山路哉   尺草

   うつの山
 袖にたく香爐や消ん蔦の道   キ翁
 小手袖の襦袢うつなりつたの道 横几
 御所柿をしらで過けりうつの山 尺草
 うらがれや馬も餅くふうつの山 晋子」

 ずっと発句が並ぶ。

   原回頭
 朝霧や空飛ッ夢を富士颪    晋子

 題の「回頭」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回頭」の解説」に、

 「① 頭をめぐらすこと。ふりむくこと。
  ※正法眼蔵(1231‐53)仏性「長老見処麽と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず」
  ② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。
  ※官報‐明治三七年(1904)六月二七日「我艦隊は一斎に右八点に回頭し」

とある。
 沼津では富士山は愛鷹山に隠れてよく見えないが、原の辺りに来るとよく見えるようになる。その辺りで富士山の方を向いてということか。
 三島から原までは三里くらいで、暗いうちに三島を出たなら、朝霧が晴れる頃だ。
 朝霧の中ではどのみち手前の愛鷹山も見えないが、心の中では空を飛んで富士の姿を思い浮かべる。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の、

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉

の句を思い出させる。

 富士は常雪半面や秋の色    キ翁

 富士山はだいたい上半分だけが雪になっている。夏は雪がないので、半分雪が積もり富士山らしくなり、麓の方が赤く染まると秋の色になる。

   富士川渡航
 不盡や笠赤蜻蛉のわたる空   横几

 赤蜻蛉は「あかとんばう」であろう。富士川の河原には赤蜻蛉が飛び回っていたのだろう。
 富士山に笠雲がかかる時は風が強い。晋子(其角)の句にも富士颪とあるから、下界も風が強かったのだろう。

   清見
 あかつきの鹽やき遠し荻の色  岩翁

 沼津から由比までは九里強で、多分そこで一泊して暁に薩埵峠を越えたのだろう。この時代の清見潟で実際に塩焼きをしてたかどうかは分らないが、家々から煙が昇る時間に峠を越えたのではないかと思う。

 ほと鴫の渡るも淋しきよみかた 尺草

 ほと鴫はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ぼと鴫」の解説」に、

 「① 鳥「やましぎ(山鴫)」の異名。
  ※俳諧・毛吹草(1638)二「八月〈略〉鴫つき網 〈略〉 ぼとしぎ」
  ② =かやくぐり(茅潜)」

とある。ウィキペディアには、

 「日本では北海道で夏鳥、本州中部以北(中部・東北地方)と伊豆諸島で留鳥、西日本では冬鳥である。」

とあるが、江戸時代の寒冷期には東日本でも冬鳥だったか。秋も終わりになって清見潟に渡ってきている。

   しつはた
 紙子屋に冬はと問し山路哉   尺草

 「しつはた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「倭文機」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「しつはた」) 倭文を織る織機。また、それで織った織物。しず。
  ※書紀(720)武烈即位前・歌謡「大君の 御帯の之都波(シツハタ) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに」

とある。ここでは紙子のことか。
 紙子は風を遮るので冬の防寒具として優れている。山路は宇津の山の山路で、丸子宿あたりか。

   うつの山
 袖にたく香爐や消ん蔦の道   キ翁

このあと、宇津の山が四句続く。
 宇津の山越えは蔦の細道とも呼ばれていた。『伊勢物語』九段に、

 「わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心ほそく、すずろなるめを見ることと思ふに」

とあることから来ている。
 ここまで来ればさすがの在原業平の香を焚き込んだ袖の香も消えてしまったことだろう。

 小手袖の襦袢うつなりつたの道 横几

 小手袖はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「籠手袖・小手袖」の解説」に、

 「① 当世具足の袖の一種。籠手の、肘(ひじ)から上の部分に取りつけた袖。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 武具の籠手袋のように袖口を細く先すぼみに仕立てた袖。
  ※談義本・遊婦多数寄(1771)三「猿若勘三が小手袖の衣にてかるわざがあたった評判」

とある。ここでは②の方か。袖口の細い襦袢を砧で打つのを宇津の地名に掛けたのだろう。

 御所柿をしらで過けりうつの山 尺草

 御所柿は奈良の御所で作られた完全甘柿。木練柿ともいい、枝になった状態で既に甘柿になっている。この時期は宇津の辺りでも作られるようになったか。知ってたら食べたのに。

 うらがれや馬も餅くふうつの山 晋子

 うらがれはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末枯」の解説」に、

 「〘自ラ下一〙 うらが・る 〘自ラ下二〙 (「うら」は「すえ」の意)
  ① 草木の先の方が色づいて枯れる。《季・秋》
  ※歌仙本人麿集(11C前か)下「我せこを我が恋をれば我宿の草さへ思ひうら枯に鳧(けり)」
  ※太平記(14C後)二「岡辺の真葛裏枯(ウラカレ)て、物かなしき夕暮に」
  ② 声がかれる。かすれる。
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)六「こはつきも舌ばやにうらがれ、かくもいやしく成物かな」
  ※夜行巡査(1895)〈泉鏡花〉二「泣出す声も疲労のために裏涸(ウラカ)れたり」
  ③ うらぶれる。うらぶれてわびしいさまである。」

とある。ここでは季語で、①の意味になる。
 草が枯れて馬も食う草がないから茶店の餅を食っている、ということで、本当か?話を作ってないか?と首をひねらせるあたりが其角の持ち味といえよう。

2022年11月29日火曜日

 「夜も明ば」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 其角の『句兄弟』は元禄七年の自序があるが、その中には九月六日に江戸を発って、十月十一日に大阪の芭蕉の所に辿り着くまでの行程が記されている「隨縁紀行」が収録されている。これを読んでみようと思う。テキストはグーグルブックスの「其角全集」、老鼠堂永機、阿心菴雪人校訂『其角全集』東京博文館蔵版(明治三十一年刊、博文堂)を用いる。

  「甲戌仲秋
 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 三春の花一夜の月風光うつりゆけども友かはらず。ことしは石山寺に詣て湖水を見ん、いや嵯峨の法輪にとまりて広沢をなどと、とりどり心定めかね遠き思ひをつくして出たつ日をいそぎけるに、思の外の風雨に旅行をさえられて今さらに身をやるかたなく人々一夜の逍遥をうらやみ侍るなり。
 九月六日とかくして江戸をたつ俳連だれかれ送り申され綰柳の吟もあり。

 首途をみよ千秋の秋のかぜ   岩翁
 幾人の送りていさむ初紅葉   亀翁

  六郷のわたりにて
 草枕稲干縄のしづくかな    横几

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

 秋の空尾上の松をはなれたりといふ吟ここにもかなふべし。

   三嶋にて旅行の重陽を
 門酒や馬屋の脇の菊を折    晋子
 朝影や駕籠で礼するきくの酒  岩翁
 きく酒や畠の中の小家まで   尺草
 間鍋に所のきくや旅屋形    亀翁」

 九月六日に江戸を出て九月九日に三島に泊まるというのは、九月六日に江戸から戸塚まで、九月七日に戸塚から小田原まで、九月八日に三島までという、一日十里平均の標準的な日程で三島へ行き、一泊してから翌日九月九日の重陽を迎えたということだろう。この日芭蕉は奈良にいた。

   甲戌仲秋
 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 木母寺(もくぼじ)はウィキペディアに、

 「東京都墨田区にある天台宗の寺院。」

で、

 「この寺の寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子であったが、梅若丸5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入ったが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられたのであった。」

とあり、

 「1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。江戸に下向する勅使たちが度々訪れている。」

とある。東向島の白髭神社より北の方の隅田川沿いになる。
 名月の夜にはここで和歌の会があったのだろう。いつも同じメンバーで春は花見して秋は月見する。
 それは楽しいことだけど何か物足らず、今年こそは近江石山寺へ詣でて湖水の名月を見たいなだとか、嵯峨の広沢の池の月も捨てがたいとか思いつつ、天候に恵まれず、結局出発が九月になってしまった。
 綰柳(わんりゅう)は柳の枝を輪にした飾りで、張喬の「寄維揚故人」の詩に、

 離別河邊綰柳條 千山萬水玉人遙

の句があるという。離別の吟ということになる。

 首途をみよ千秋の秋のかぜ   岩翁

 「首途」はは「かどで」と読むと字足らずなので「たびだち」だろうか。千秋(せんしう)は長い月日の意味があり、今吹いているこの秋風は、長年吹き続けて昔と変わらぬ秋の風で、そこの古人の旅を偲ぶという意味であろう。
 岩翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷巌翁」の解説」に、

 「?-1722 江戸時代前期-中期の俳人。
  江戸の人。幕府の桶(おけ)御用をつとめる。松尾芭蕉(ばしょう)初期の門人のひとりで,のち榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。狩野昌運について,画もよくした。享保(きょうほう)7年6月8日死去。通称は長左衛門。号は岩翁ともかく。編著に「若葉合」。」

とある。

 菊植て我と水くむ明日かな   岩翁(続虚栗)
 隈篠の廣葉うるはし餅粽    岩翁(猿蓑)

などの句がある。

 幾人の送りていさむ初紅葉   亀翁

 これは見送りが沢山来たというよりも、大勢での旅立ちを見送るかのようにようやく色づき始めた紅葉も勇んでいるようだ、という意味だろう。
 亀翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷亀翁」の解説」に、

 「?-? 江戸時代前期-中期の俳人。
  多賀谷巌翁の子。父の影響ではやくから俳諧(はいかい)をはじめ,榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。元禄(げんろく)3年(1690)「一夏百句」をよみ,八十村(やそむら)路通編「俳諧勧進牒(かんじんちょう)」におさめられた。通称は万右衛門。」

とある。

 むめの花しばし置けり卓の上  キ翁
 はる風に脱もさだめぬ羽織哉  同

などの句が『俳諧勧進牒』にある。
 この二人は同行者で、このほかにも横几、尺草、松翁の句が道中の句に記されている所を見ると、最低でも六人のグループで旅をしていたことになる。芭蕉の旅とはやはりちがう。

   六郷のわたりにて
 草枕稲干縄のしづくかな    横几

 六郷橋は貞享五年に流されて、この時は渡し舟になっていた。
 草枕はここに泊まったということではなく、単に旅という意味で用いたのであろう。
 六郷の辺りの田んぼは稲刈りが終わっていて、稲を干す繩が張られている。「しづく」は旅の悲しみという古典の羇旅歌の本意で添えたものであろう。
 横几は、

 星出て明日の花見のきほひ哉  横几
 追ひ落す鮎のよどみや石の音  同

などの句が『雑談集』にある。

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

 山は紅葉しているが、街道の関所の辺りの平地は杉並木なので、杉並木を出て山を登って行く馬が紅葉の中を行くのが見える。
 櫨は「はぜ」あるいは和歌では「はじ」と読むが、村櫨で五文字だとどう読むのかよくわからない。ここでは「むらもみぢ」か。紅葉するので、

 山ふかみ窓のつれづれとふものは
     色づきそむるはじの立ち枝
             西行法師
 鶉なく交野にたてるはじ紅葉
     ちりぬばかりに秋風ぞふく
             藤原親隆

といった歌がある。
 「秋の空尾上の松をはなれたり」というのは

 秋の空尾上の杉にはなれたり  其角(炭俵)

の句のことで、まさに箱根峠の秋の空は街道の杉を離れたり、ということになる。
 三島に着くと翌日は重陽で、

   三嶋にて旅行の重陽を
 門酒や馬屋の脇の菊を折    晋子


という句を詠むことになる。宿屋には馬屋があって乗掛馬がいたのだろう。そこの脇の菊を折って、旅の重陽とする。
 重陽は菊の花を折って菊酒にするので、

 心あてに折らばや折らむ初霜の
     おきまどはせる白菊の花
             凡河内躬恒

の歌があるように、菊の花は折ることを本意とする。

 朝影や駕籠で礼するきくの酒  岩翁

 朝三島宿を発つとき、駕籠の前で重陽の挨拶をして菊酒を飲み交わす。

 きく酒や畠の中の小家まで   尺草

 菊酒を籠の中に持ち込んで、宿場を離れて畑の中に出るまでゆっくりと飲む。
 尺草は、

 雨に折れて穂麦にせばき径哉  尺草

の句が『俳諧勧進牒』にある。

 間鍋に所のきくや旅屋形    亀翁

 間鍋(かんなべ)はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「酒の燗をするための鍋。多くは銅製で、つると注ぎ口がある。」

とある。燗鍋という字だとわかりやすい。
 旅の途中の重陽はその場所の菊を使った菊酒を燗にして飲む。

2022年11月28日月曜日

 中南米の強豪にびしっと守られてしまうと手も足も出ないという感じだったね。完全に蛇に睨まれた蛙状態で、すっかり委縮してコスタリカに楽に守らせてしまった。
 ドイツとスペインが引き分けで混戦になった。とにかくあとはスペインに勝つしかない。
 中国がどうなっているかは情報が少ないのでよくわからないが、独裁国家に対しては中国人だって戦っているんだと思うと、我々が降伏してどうするんだという所だ。

 それでは「情と日本人」の続き。最終回。

 「情はエゴイズムで濁ってはいけない。生き生きしていなければいけない。また、宣長が歌に詠んだように、諸情緒が絢爛と華やかでなければいけない。教育はこれを目標とすべきです。」(p28)

 エゴイズムという抽象的で西洋的な概念はもう少し見直す必要があるだろう。基本的に情は利己的なもので、「情けは人の為ならず」というのは自分のためになるからだ。だから、形而上学で理屈をいじくってエゴイズムがどうのこうのと論じるべきではない。本居宣長が現代に生きてたら西洋意と言うところだろう。
 また、情が絢爛と華やいだところで、基本的に限られた生産量で人口が増えれば人は過酷な生存競争にさらされる。そして情というのはその生存競争に勝って進化してきたものだ。
 根本的な所で生産性の向上と人口抑制というものがないなら、豊かな感情の花も過酷な生存競争の夏草に埋もれてゆくことになる。
 自然な情は自然の争いを生む。理性は思想の争いを生む。意志は意志同士ぶつかりあってやはり争いを生む。争いの根底にあるものを解決しなければ、いくら豊かな情を解放しても、哀れと悲しみの涙を解放するだけだ。

 「今の日本は情が濁ってひからびてしまっている。これを早く変えなければ大変なことになってしまう。そう思うのです。充分に膚で分ってほしいですね。なんか私がいっている間だけ、なんとなくそういう気がするが、済んでしまったら忘れてしまうんでしょう。そういうものなんです。」(p28)

 むしろいつの時代でもどこの国でも人間の情は変わらないんだと、それを信じるべきだと思う。ただ、思想の支配がそれを抑圧しているだけで、この「情と日本人」がドグマとして一つの思想や教条として受け継がれるなら、結局それがまた健全な情を抑圧することになりかねない。
 自然な情で物を言っているのに「お前の情は濁ってる」だとか言うことになる危険がある。一つの哲学として情が思想の支配下に置かれると、正しい情と間違った情が教条となって、それによってヘイトと暴力がまかり通ることになる。それだけは防がなくてはいけない。それは岡潔さんの意図に反することなのは言うまでもない。
 大事なのは岡潔さんが残した言葉を理論として受け止めるのではなく、あくまでその情を引き継ぐことだ。言葉は違ってもいい。言ってることが違って、感情を思想的な抑圧から解放することが大事だ。
 「肌でわかってはほしい」というのはそういうことで、「頭で分って」なんて言ってはいない。

 「人類というのは音楽が割合よく分るんですが、情が流れているとそれを感じるんでしょう。流れが止むとそれを覚えていないんでしょうね。見極めないから存在まで行かないのでしょうね。見極めるには自分で情を働かさなければ。人の動かすのをただ情的に感知するに留めておくから、その人の情の動きがなくなると一切がなくなってしまう。」(p28)

 この見極めは情で見極めるのであって、論理や思想で見極めるなら情は抑圧され失われる。情から理性を湧き興すのであって、情と理性を対立させるのではない。だから「見極めるには自分で情を働かさなければ」とある。
 理論を学んでそれで情をコントロールするというのが西洋式の考え方だが、そうではなく情に基づいて理論を絶えず湧き興し、情に基づいて修正し、情に基づいて再構築を繰り返す。
 簡単なことで、どんな理論も最初の仮説は情から沸き起こる。そしてうまく行かなければ絶えずそれを修正する。絶えず修正や再構築を繰り返すうちに理論は真理の近似値を取るようになる。
 ところが人は得てして一つの理論を作ってしまうとそれに縛られる。修正したくてもそれをすると「ぶれた」などと言われる。それを恐れて理論をかたくなに守り、情をそれに合わせようとして情を抑圧し、ゆがめてゆく。
 一つ理論を立てても矛盾を恐れてはいけない。「人生というのは矛盾したものだ」と多くの人が言うとおりだ。そもそも無矛盾の論理体系なんてものは不可能だ。
 他人の指摘に従って情を硬直した理論に封じ込めてゆけば、情の動きがなくなり「非情」になってゆく。大事なのは自分の情だ。

 「自分の情を動かす。自分で見極めなければいけない。それをやってほしい。これが知性の教育なんです。知が大事だっていうなら、学校はこれをやらなければいけないのです。自分で情を動かして、情の目で見極めるということを充分やらなけらばいけないのです。どんなにやらしても、やらし過ぎるということはない。」(p28~29)

 教育においては教条を叩きこむのではなく、自発的な思考を促すのが基本になる。「自分で見極める」ことが大事で、他人が勝手に見極めていいものではない。
 批判は問題点の指摘にとどめるべきもので、徹底的に論破すべきものではない。そもそもどんな大哲学者の思想だって結局はその人個人の感想にすぎないのだから、凡人が自分の感想を述べることは当たり前のことだ。
 思想というのはその人の情に基づいて、その人個人の試行錯誤の上に組み立てられた一つの感想の体系にすぎない。「それはあなたの感想でしょ」というなら、「その『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」ということになり、その「『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」もあなたの感想でしょということになって、きりがない。
 思想はみんなその人の感想にすぎないんだから、そこに思想信条の自由というものが有る。特定の思想が正しくて、あとのは間違ってるというのなら、思想信条の自由は存在しない。独裁あるのみだ。
 教育は特定の思想を吹き込むのではなく、一人一人の感想の体系を育てることだ。自分自身の情に基づいて、自分自身の感想を育てて行く。それが必要だ。

 「何しろ難しい問題です。松とか竹とかが分るのは知だといって放ってあるでしょう。これが世界の人の目です。はなはだここは見えにくい。よく見てみると情が分るからです。松の趣というものが情で分るから、それで松とか竹とかが教えられるんですね。」(p29)

 知の成立はまず情によって引き起こされ、その感想を投げかけ、その繰り返しによって朧げな概念が形成される。この概念は情を伴うもので、情と不可分な知識として成立する。
 知識の成立過程を見ずに知識が最初からあるものと考えてしまうのは、まさに「初めに言葉ありき」の発想だ。言葉によって知識が成立するのではない。個々の非言語的に形成された経験の蓄積に、他人の言った言葉がぴたっと当てはまったとき、初めて知識は言葉になる。
 西洋の文化はこの言葉にもたらされる過程を見ずに「初めに言葉ありき」から始める。そして「言葉が自分」で、肉体の衣を着ていると考える。そこで松や竹でも何かしら松一般、竹一般の普遍的な概念が先験的に存在するかのように考える。
 どうしてそれができたか説明がつかないから、プラトンは想起説(アナムネーシス)などといって前世を持ち出してそれを説明している。なら前世でどうやってそれを獲得したかというと、それも説明できないから前前前世と延々と遡ってゆくしかない。ニーチェはこれを永劫回帰と呼んだ。
 クリスチャンはこれを「言葉は神なりき」の一言で解決する。

 「情が働かなかったら教えようがない。盲に自然を教えようとするようなもの。知の地図の上に描くのが意志であり、情あるが故に言葉も有り得る。そして形式も有り得る。それが知。根本は情だということを充分自覚してもらわなければいけない。」(p29)

 めくらの比喩は正確ではない。知覚にどのような障害があろうとも、それは自然の認識の妨げにはならない。なぜなら知覚は情報処理の道具にすぎないからだ。道具の不備で自然に関するある種の情報が欠落するだけで、その部分は他の情報で補うことで自然を認識している。そのため盲に自然を教えるのは何ら難しいことではない。
 そもそも健常者だってこの宇宙の情報のほんのわずかしか感じることができないんだから、五十歩百歩というものだ。我々は量子を見ることはできないし、多次元時空を感じることもできない。もしそれを感じることができる生命体がいたなら、我々はみんなめくらということになる。
 意思は知の地図の上に描かれ、その地の地図を作るのは情の働きだ。「形式」というのは形式論理学的な意味での論理形式のことだろうか。平たく言えば「理屈」だが、言葉も理屈も情の上に成立する。
 めくらの比喩はむしろ今日ではAIに自然を教える難しさと考えた方がいいかもしれない。AIは情を持たず、あらかじめプログラムされた論理に基づいて論理を「自発的に」学習する。それは自発的に学習せよと命令されているのであって、その自発性に情はないし自由もない。
 AIは言葉も形式もあるが情はない。人間の情を解析してそれに似たものは作れるかもしれないが、情は存在しない。ジョン・サールの中国語の部屋の比喩のようなものだ。

 「人本然の情に従うのが道徳である、といった人が一人もいないというくらい人類は馬鹿なんです。それで世界がうまく治まる訳がない。だけど一人もいませんよ。
 儒教なんか見てますと、仁が基だといっているのに、その仁が情だとはいっていないんだから、余程わからないのですね。仏教の修行を見てご覧なさい。意志で修行しようとする。それで多くは難行。苦行です。大抵そうです。」(p29~30)

 これは前にも述べたように偏見であって、「盲に自然を教えようとするようなもの」と同様に偏見と言わねばならない。
 情から知への過程は試行錯誤であって、だから情は間違ったこともたくさん言う。ただ硬直した教条(ドグマ)と違って、修正が利く。絶えず修正することで知の精度を上げてゆくことができる。だから、岡潔さんがこういったからと言って、それを教条にしてはならない。

 「情が本体であるということを知って、まっ先に教育を変えなければいけない。学校教育もですが、家庭教育を変えなければいけない。赤ん坊の時は情の中に住んでいますが、生まれて三ヶ月は『優しさと喜びの世界』に住んでいる。情の世界は一口にいって『優しさと喜びの世界』ですが、これがずっと続けば良い。青年ぐらいまで続けば良い。」(p30)

 もちろん「優しさと喜びの世界」は理想であって現実ではない。現実の赤ちゃんも様々な周囲の状況から、過酷な状況に置かれることも少なくない。ましてそれが青年くらいまで続いたらどんな温室育ちか。
 わざわざ優しさと喜びを奪うようなことはしてはいけない。これは当然のことだ。ただ、そうでないのが普通だという前提で今の教育は考えなくてはならない。むしろ人は赤ちゃんの頃からヘイトにさらされる、ということも考えなくてはいけない。
 当然ながら、既に大人たちの生活がある所に赤ちゃんは突然投げ込まれるのだ。そして、それまでの大人たちの生活の一部を奪いながら自分の世界を獲得してゆく。それは生存の取引だ。
 「優しさと喜びの世界」は無条件に与えられているのではない。それは大人との間の取引によって獲得される。大人が先にいて、そこを様々な大人の情で埋め尽くしている場所に、赤ちゃんは遅れてやって来る。そこで赤ちゃんは自分の情で塗り替える。それを助けるのが家庭教育だ。
 母親だって人間だ、赤ちゃんの泣き声には悩まされるし、育児放棄したいという情に何度もかられながら赤ちゃんを育てて行く。父親だってそうだ。自分の仕事をしなければ赤ちゃんを食わせてゆけなくなる。そこで親も兄弟も親戚もその周囲の人も、絶えず悩みながら赤ちゃんを育てて行く。それは裸のままの情のぶつけ合いだ。それが生存の取引だ。

 「みんながそうなる為には、一人一人が先ずわかってもらいたい。わかる為には自分の情の目で見ることですが、いちいち見て成程とわかったら、まだわかってない人にいう。そのやり方なら初めは極く少しの人ですが、直ぐ広がる。そうしてもらいたいと思う。」(p30)

 「成程とわかったら」というのは各自がそれぞれの情の目でわかることであって、知識としてわかることではない。だから岡潔さんと見解が違ってたとしてもそれはかまわない。情の所で共感できるものがあるかどうかそれだけが大事だ。言っていることは違っててもいい。
 細かい違いにこだわらないなら広がりやすくなる。一々小さな違いに目くじら立てて批判し合ってたのではいつまでたっても広がらない。
 岡潔さんの文章だけでなく、今のこの私の文章もそのように受け取ってほしい。

 「世界を救う道は日本人ほどやり易くはないだろうけど、結局は情が人であると教えることです。ヒューマニティーが道徳に一番近い。それだのにカントは『実践理性批判』、理性というようなものが道徳に近いという。見当違いです。」(p30~31)

 カントの『実践理性批判』の無力については西洋人も戦後の実存主義の中で散々指摘してきたことだ。二十世紀の虐殺は「汝為すべし」の理性の声で感情を押し殺して行われた。その反省があったからだ。
 ただ、西洋文明はなかなかロゴス中心主義から抜け出せない。今の人権思想も、人権が大切だということは間違ってないが、それを情ではなくロゴスによってやろうとしている所で問題だらけになり、世界中に多くの反人権派を生む元となっている。
 ヒューマニティーは残念ながら人間を「ロゴスを持つもの」と規定する思想から逃れてないので、日本人が考える「情」とは程遠い。ただ、日本人が通常用いている「ヒューマニティー」だとか「ヒューマニズム」だとかいう言葉は、日本独自の意味が付け加わっているため、それが情であるかのように感じられるだけだろう。
 むしろ情に近いものはエモーションの方ではないかと思う。エモいは正義だ。
 また、情だけでは世界を救えないことも学ぶべきだろう。情は世界の様々な問題を考えるきっかけとなりエンジンにはなるが、ゴールは与えていない。
 情に基づいて、情を離れないようにしながらも、とにかく考え抜かなくてはならない。そして何が問題なのかを理解しなくてはならない。そして、何よりも大事なのは憎しみに負けてはいけない。誰かを憎み、誰かを抹殺することで解決できるほど世界の闇は浅いものではない。でもよく考えれば結局単純な事実に行き着くはずだ。
 つまり、地球は有限で無限の生命は不可能という単純な事実だ。そこから必然的に生存競争が生まれる。生きるために必死になる。情の多くはまず自分が生きるためにその多くを割くことになる。
 でも、自分が先ず生きなくてはならないにせよ、沢山のこの世界で生存競争に敗れて死んでゆく人や悲嘆にくれる人の情の声が聞こえるなら、何十億もの人がその情に促されて思考を進めるなら、必ず悪い方向にはゆかない。
 その情の声を抑圧する冷淡な指導者の声に従ってはいけない。
 ごく一部の特定の可哀想な人の物語を作って、情を利用しようとする連中について行ってはいけない。

 「赤ん坊は理性など働かしはしません。心の世界に住んでいる。むしろ、あんなものを働かさないから、こころの世界に住んでいる。真情の命じるままですね。それが道徳であり、それが幸福なんです。」(p31)

 赤ん坊も生まれた時から必死に生きよう泣き叫んでいる。その声をいつまでも心の中に持ち続け、過酷なこの世界で生存の取引を繰り返し、自分の居場所を確保する。まずそれが前提条件になる。
 そして、そのあとなお多くの情の声が聞こえるなら、それは必ず世界を良い方向に導く。
 道徳は自己犠牲ではないし、自分の家族の犠牲の上に成り立つものでもない。宗教や主義主張は犠牲を命じるかもしれないが、聞く必要はない。
 自分を犠牲にすることは、必ずその家族や友人をも犠牲にすることになる。なぜならあなたが犠牲になることを悲しむからだ。そんなところに幸福はない。
 生活を切り詰めて家族の進学の夢も犠牲にして、いくら世界平和のための良かれと思って寄付をしても、そんなことでは周囲の人がみんな不幸になるだけだ。その不幸の連鎖の行き着くところはテロリズムだ。
 そんなのは党の活動のために生活資金をつぎ込んでいる人だって同罪だ。やはり行き着くところはテロリズムだ。
 自分の情を大切にするということは、自分の情を犠牲にしないということだ。そうでなければ世界は救えないのはもちろんのこと、自分自身すらも救えない。
 自分の情に忠実に考え、行動してゆけば、それが道徳となり、そして自ずと幸福もついてくる。自分が幸せになれない道徳が人を幸せにできるはずがない。

2022年11月27日日曜日

 台湾で親中派が勝利を収めた場合、最悪の場合台湾人が北京の支配を完全に受け入れるというのも、今後想定しなくてはならない。
 台湾の無血併合で、まず台湾からの亡命者が日本に殺到する。これも大きな問題だが、それは序の口にすぎない。
 そして、次に中国は沖縄が固有の領土だということを主張してくるだろう。その時沖縄も島が戦場になることを良しとせずに、中国への無血併合を望むなら、日本も残念ながら沖縄を中国に割譲せざるをえなくなるだろう。
 そして日本と中国との間に緩衝地帯はなくなる。中国が日本を併合しようとするなら、日本の国土が戦場になる。まあ、ウクライナと同じ状況になるわけだ。
 しかもウクライナよりもっと悪いことに、北にロシアがいる。そして北朝鮮が動かないという保証もない。韓国もまた北が侵攻してきた場合、抵抗せずに統一朝鮮が誕生する可能性すらある。
 そしてさらにもっと最悪の事態を想定するなら、アメリカが共和党政権になった時にモンロー主義に一気に傾き、アジアに干渉しないという事態も有り得るし、その時はウクライナの武器支援を停止する可能性すらある。こうなったらロシアも中国もやりたい放題だ。
 その最悪の前提の中で日本人はどう戦うかを考えなくてはならない。
 岡潔の言葉が胸に突き刺さる。

 「日本民族の滅亡だけは何としてでも喰い止めたいと思う」

 一足先に首都を離れたのは正解だったかな。

 それでは「情と日本人」の続き。

 「情がどうして生き生きとしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群に大別することができる。
 その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。
 それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
 いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。」(p.26~27)

 素粒子は今では「量子」という言葉を使った方が良いだろう。
 これはよくわからないが重ね合わせ状態になった量子が時空を構成していて、それが収縮した時に我々に観測される安定した量子になるということだろうか。
 これだと、我々が認識している物理的事象は、無数の観測されてない不安定な量子の中に浮んでいるようなイメージになる。
 これを感情の海に浮かぶ理性の比喩として用いているのだろうか。まあ、案外意識というのはこうした安定しない観測されない量子の場によって生み出されているのかもしれないが。まあ、ここには今は深入りしないでおこう。

 「やはり情緒が情緒として決っているのは、いわばその位置だけであって、内容は絶えず変っているのである。人の本体は情である。その情は水の如くただ溜ったものではなく、湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変わっているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。」(p27)

 人間の自分自身の脳回路であれ、人間は意識してそれを設計したり組み替えたりできない。それは意識の力を越えた所で形成されている。それを意識は捉えることができない。
 その回路は非常に微細でいて複雑で、人はそれをまだ認識できない。その意味ではそれは水のような捉えどころのないもので、それでありながら、この脳が自分の衝動を突き動かし、それが理性を働かせる原動力にもなっている。
 改めて人間というのは自分自身すら知り得ないものでありながら、その知り得ないものとして生きていると言わねばならない。それはひょっとしたら何らかの量子の場によって生じているのかもしれない。
 これは古い形而上学の動物機械論のような、機械的な必然性によって脳が支配されているわけではない。いわゆる古典物理学の因果律によって支配されているのではなく、量子の不確定な要素によって支配されている。そこで我々は自分自身を見出す。

 「自分がそうであるように、他(ひと)も皆そうである。人類がそうであるように、生物も皆そうである。大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。」(p27)

 これは仏教の梵我一如の影響だろうか。特に神秘体験をした人が陥りやすい罠でもある。
 神秘体験はただ既存の認識に囚われない自由を与えるもので、宇宙そのものの認識を与えることはない。
 正確にはある特定の量子の場が意識や感情を生み出すことはあっても、それ以上のものではない。それはほんの少しだけ時間を止めたり、時間を逆行させたりできるかもしれないが、時間空間のない世界があるわけではない。

 「ともかく、生きるということは生き生きとすることです。それがどういうことであるか見たければ幼児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。」(p27)

 幼児は脳回路の発達に様々な可能性を持ってはいるが、我々はそれを導くことはできない。それは幼児の脳そのものの自発性によるもので、それは本人にすら制御できるものではなく、まして他人である親や先生が干渉したところで、それを止めることはできない。
 ただ、過酷な干渉は心に傷を残すだけとなる。

 「教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有得ない。意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから。地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。」(p27)

 つまりその人の持つ本来の情をできる限り自由に伸ばすことができれば、その上に知が形成され、理性が働き、意志が生まれて来る。

2022年11月26日土曜日

 それでは情と日本人」の続き。

 「道徳がうまく行かないのは、情を重んじないからです。情のみがこれが道徳か、これが不道徳かを見分けることができる。これは教えなくても分ってる。だから道徳というものが有り得るんです。」(p.24)

 道徳は情による。ただ注意しなくてはいけないのは、不道徳もまた情から発するもので、特に嫌悪や憎悪の情は、情報操作によって容易に植え付けることができる。正しい道徳感情を働かせるにはこうした情報操作に対する耐性を付ける必要がある。
 誰かものすごく可哀想な人の物語を聞かせて、そこで誰が悪い、誰を殺せなどと誘導する。こうしたものを安易に信じないようにすることも大事だ。
 情は道徳のエンジンだが、安全に走るには理性のハンドルが必要なのも確かだ。情だけでは善行を成すことはできない。それゆえに『論語』にも、「學びて思はざれば則ち罔(くら)し。 思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し」とある。思うのは情の作用で道徳のエンジンに当る。それに対してしかるべき運転操作を学ばなければ必ず道徳の車は人を撥ねることになる。
 学ぶというのはその人の自発的な自然に任せれば、本然の情に基づいて必要なものを学んで行く。これに対し外から吹きこまれた誘導された知識は必ず危険なことになる。道徳教育は職人の技と一緒で、学ぶんではなく盗むものと言って良いだろう。
 今の教育が危ないのは、情報ばかりを詰め込んでその情報がきちんとその人本来に結びついてないことで、自分の身につかない情報で行動する習慣をつけたなら、簡単に情報操作に乗せられて間違ったことをしでかす。まあ、権力者にしても革命家にしても、最初からこうした洗脳が狙いなのだろうけど。

 「ところで、日本人は情の人ですが、今だって意識してはいませんが、情の人の如く行為しているんだけれども、その自覚がないから知や意の働かしようがない。だからそれから後、さっぱり進展がない。だから情の人であるというのが正しいのである、それが大事である、という自覚をしてもらうことが非常に大事なんです。」(p.24~25)

 日本の教育では情に基づいて知識を吸収するのではなく、情を否定されたところに外から知識を吹き込まれる。だから知識は暗記科目になって地に足がついていない。かえって学校の成績の悪かった人の方が、社会に出て有能だったりする。
 そのため情と知識が分裂していることが多い。言ってることとやってることが違うというか、理想だけは立派だが、やってることはひどく卑しかったりする。
 立派な理想を掲げているのに、それをどうやって実現するかを考えずに、政府のあら探しやスキャンダル追及ばかりしている国会議員などもそうだ。
 「日本人は二階には世界のあらゆる哲学書が並んでいるが、一階ではそれと全く関係なく生活している」と言ってた日本に来た哲学者もいたが、一階で問題になっていることを二階に上がって解決しようとしない。二階に上がると一階(現場)で起きている問題が途端に見えなくなる。「事件は会議室で起きている」という映画の通りだ。
 情の大切さを自覚するというのは、知性を捨てることではない。知性に情という動力を与えることだ。それが「自覚」だ。

 「その為には一人一人が自分がそうなって隣の人に話し、成程そうだとうなずかして行くのが早いんだけど、そのきっかけが仲々つかめないらしい。で、同じことを繰り返し繰り返しいう外ないだろうと思う。同じ一つのことについてだから、同じ話になってしまうんですが、それを繰り返すのはその効果がないからです。一人になった時、やっぱりそう思っているということもなければ、新たな人にその話をするということもしないから、ひとつも進展がないんですね。」(p.25)

 この一階の情と二階の知識の分離状態の中で議論すると、知識は知識だけで空回りして、情についてはそれを正確に語る学問の言葉がない。
 岡潔さんはそこからどうしても先へ進めなくなってしまったのだろう。
 ここから先に進む方法があるとすれば、伝統文化、それも言葉になったものについて、自分の日常の延長でとらえ直すしかないのではないかと思う。
 儒学や仏典では昔の人の情が伝わらない。だから和歌、連歌、俳諧、あるいは物語などの昔の人の情を学べるものを、西洋の文学理論を排して直に学ぶ必要がある。これは本居宣長がやったことでもある。あの時代は「漢意」を排することだったが、今は西洋意を排して、できる限り今の日常の感覚の延長線上で昔の文学を再現する。それしかないと思うし、結果的にそれはこの私がやってきたことだった。
 今の情をもってして古人の情に直に共感できたなら、その情は日本人の根底にある不易の情といえる。
 ところが日本の国文学は長いこと西洋文学をまず学び、西洋文学の知識を古典に当てはめようとしてきた。これでは国文学はその上っ面を撫でるだけで、その情を理解することができない。
 西洋文学の目で見るのではなく、一日本人の目で古典文学を捉え直した時、我々は初めてそれを語る言葉を見つけることができる。
 俳諧は笑いの文学である。だからその笑いは今日の芸人たちの笑いに受け継がれている。あるあるネタ、自虐ネタ、パロディネタ、シュールネタ、それはすべて芭蕉がやってきたことだった。芭蕉だけではない。今のラノベの笑いを理解するなら『源氏物語』にもそれを発見することができる。
 だが、国文学者はえてして芸人やラノベを軽蔑しがちだ。西洋のコメディや純文学が高尚だと信じていて、日本のものは低俗だと思っている。だから、低俗な感性で古典を読むことを嫌うし、ヘイトすら覚えるようだ。筆者も何度頭ごなしに怒られたことか。
 まあ、岡潔さんが生きていたら、きっとこんなのは駄目だと言って怒られそうだが。
 ただ、いつまでも堂々巡りで同じことを言い続けるのではなく、一歩でも前へ進もうという気持ちがあるなら試してほしい。情について今の大衆の情と昔の大衆の情を同時に学べる方法を見逃す手はないと思う。

 「一通りその自覚が行き渡ってからでなくては、教育一つも変えられはしません。今のままの情を粗末にする教育では、赤軍派の学生のようなものがみすみす出るということが分っていても、変えられない。どう変えればいいかは簡単だけど、大勢の同意がいるんですね。それには一人一人に自覚してもれうより仕方がない。で、根気よく繰り返し繰り返しいっている訳なんです。」(p.25)

 まあ、今でも出所してきた赤軍派の生き残りをマスコミが賛美して、元首相を暗殺したテロリストを英雄として祭り上げているのを見ると、これからもこういう連中が出続けることになるし、それを待望する風潮すらある。
 だからこそ、繰り返すだけではだめだと言いたい。西洋意から日本人の情を開放するには、我々のそのままの情を古典の道に繋がなくてはならない。

 「一つは情がエゴイズムで非常に濁っている。もう一つは、生気が充分生き生きしていないんです。情というものだけど、生きるということは情が生き生きすることだと思う。」(p.26)

 なら、今の日本人がどういうものに生き生きしているか、それを見なくてはいけない。
 大学のキャンパスにいて授業に出て来る学生を見る限りでは、みんな死んだような眼をしているかもしれない。でも今の日本人もいろんなことに熱狂しているし、生き生きとする瞬間もたくさんある。そこに飛び込まなくてはならない。
 そしてまず自分が生き生きとしなくてはいけない。

2022年11月25日金曜日

 それでは「情と日本人」の続き。

 現代人が情がなくなっているというのは、おそらく事実ではない。人間の脳に発するものがそう簡単に変わることはない。変わったのはその脳の周辺環境の方だ。
 人々がまだ小さな集落に住んでいることには、毎日目にする人は皆顔見知りで、プライベートな細かいことまで熟知していた。だから、その中で困ったことがあった人がいれば、全員で対処することができた。それこそ一人も漏らさずにケアできた。
 たまに旅人が通ると、それは「まれびと」とも呼ばれ、歓待すると同時に事細かいことまで穿鑿して無害かどうか確認したことだろう。
 稀人だけに滅多にそんな人も来ないから、何年何十年たって再開してもちゃんと覚えてる。そして困ったことがあったら助けてあげる。そんな時代があった。
 江戸時代になり大都市が形成されるようになると、毎日すれ違う人の名前を全員覚えることすら不可能になり、怪しげな人がいつもうろうろしているような状態になる。そうなると、人情の及ぶ範囲は大分限られてくる。
 芭蕉が富士川の捨子に、

 「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

と突き放したようなことを書いているのも、当時捨子は珍しいことでなく、都市や街道筋など人の多い所ではもはや対処しきれなかったからだと思われる。
 残念ながら日本に孤児院ができたのは明治のことだ。広い日本に捨子が十人二十人とか、数えられる程度しかいなかったなら、誰かが面倒を見ることができたかもしれない。数が多ければお寺だって抱えきれない。お寺はそうでなくても家督を継げない二男三男以下の吹き溜まりになっていて、いくらお布施を集めても収容人員に限界がある。
 近代化前の社会では常に人口増加圧にさらされている。その人口調節を江戸時代までは「捨子」という手段で調節していたことは想像に難くない。
 小さな村落共同体であっても、飢饉がくれば飢餓に陥り、口減らしが行われたような時代に、街道の捨子を、それも一人二人でない数を養うことはできなかった。それが芭蕉の「唯これ天にして」だった。
 悲しいけど放置するしかない。ただ、その悲しみをいつまでも心に留め、決してあきらめたり思考停止したりすることがなければ、いつか解決できる時代が来るかもしれない。それが「情」の果たす本来の役割だ。
 すべての問題を解決するには人間はあまりにも無力だ。公害だってそうだ。一人いくら悲しんでもそれだけで解決はできない。ただ問題を心にとどめておく、それが精いっぱいなんだ。
 まして今日の情報過多の時代には、世界中の不幸な人の情報が分刻みで入って来る。それに一々対処できるほど人間の脳のキャパシティはない。
 この無力さも傍から見れば、「こんなに困っている人がいるのに何無視してんだ」みたいな非難はいくらでもできる。世界中のニュースを搔き集めてくれば困った人など何十億人もいる。その中の一人を取り上げて「何でこれを放っておくんだ。人間は情を失ったとか思えない」とが言っても、もはや言い掛かり以外の何でもない。
 ただ、こういうプロパガンダがマスメディアの言説の上で溢れかえっている。それをいちいち大問題だと真に受けていれば、確かに「今の人は感情を失った」という神話が出来上がる。
 パラリンピックのときなどもマスコミは二三の選手が障害からいかにして立ち直って選手となったかなんてお涙頂戴のドラマを作っていたが、はっきり言ってパラリンピックに出るような人は全員同じようなドラマを持っていると言って良い。
 マスコミや左翼はプロパガンダのためにごく一部の人に同情を集中させようとする。それは一つのサンプルで留まるなら罪はないが、これに同情しないと途端に感情がないだとかヘイトスピーチを始める。
 人間は怒ると我を忘れるものだ。だから、人間の自然な感情を十全に引き出そうと思ったら、絶対にヘイトを煽ってはいけない。どこそこに可哀想な人がいる。ただ、誰しもそれぞれ事情があってその人ばかりにかまってられないのに、「人間の情がないのか」とひたすら罵倒する。こういうヘイトが社会にあふれかえれば人間関係はぎすぎすして、解決できるものも解決できなくなる。
 感情は大事だがヘイトは感情を殺す感情だとわきまえるべきであろう。まあ、「わきまえない女」というのも流行ってるようだが。
 この糞ったれな社会に少しでも人情を取り戻させようというのなら、「情がない」なんて言ってヘイトをまき散らすより、むしろ押し隠された情を察してやることの方が大事だ。

 「情操教育という言葉ですが、情操教育が大事だっていったら、絵をかかせたり、音楽ひかしたり。そんな馬鹿な。人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当外れをやっている。」(p.21)

 まあ、絵を描いたり音楽をやったりするのが自然な感情の表現であるなら、これは間違ったことではない。
 間違っているのは「かかせる」「ひかしたり」の方だ。感情表現は自発的なものであって、強要されるものではない。
 だいたいこういう教育というのは、決して自由に絵を描かせたり音楽を鳴らせたりしない。漫画を描いたら怒られる、ロックやヒップホップも怒られる。ジャズまでがぎりぎりOK。
 七十年代だと小学校の図工では輪郭線を描いただけで「それはマンガだ」なんて言われたものだ。スフマートをやらないと正しい絵とは見なされなかった。音楽だって、ロックは不良の音楽だし、音楽の時間は普通の流行歌でさえ駄目だった。
 結局情操教育も政治が絡むと、自分たちに都合のいいように怒りを爆発させようという意図が働くものだ。
 そんなことをするくらいなら放置する方がよっぽどいい。「かまわぬ」の精神だ。

 「ともかく情を軽んじたんでしょう。だから本居宣長
   しきしまの大和心を人問はば
        朝日に匂ふ山桜花
情緒というものが大事であると思っているんでしょう。はっきりそうと分っていませんが、何となくそれが分ったんでしょうね。それで『漢意清く捨てられるべし』といったり、『しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』といったりしたんでしょう。」(p.21)

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉がある。桜は剪定してはいけない。大和心も同じで、いかに自然のままに放置するかが大事だ。放置しつつ、それを捻じ曲げようと屁理屈こねる奴を矯正する。それが正しい情操教育だ。江戸時代の人が言った「かまわぬ」の精神が大事だ。

 「情が自分だから、情を大事にせよとずばりといえなかったんだが、あそこでもっと自分を振り返ってみる暇があったら、それの分る日本人も出て来たかも知れない。あそこでは、ぐずぐずしていたら滅ぼされてしまうというそういう状態にあったから、大急ぎで明治維新をやった。それから外国と戦う為に兵器を準備した。」(p.24)

 黒船がやって来た時にアメリカが日本に押し付けた要求は概ねタイ王国と同等のもので、いきなり日本を植民地にしようというものではなく、かなり友好的なものだった。事実、タイはその後も独立を維持した。インドや中国に対する対応とはかなり違っていた。
 ただ、長州藩士の吉田松陰は、この時の西洋列強の脅威を利用して、西洋の真似をして世界征服に乗り出す野望を抱いていた。事実吉田松陰はアジアはもとよりオーストラリアまで掠め取れと『幽囚録』で言っている。

 「今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。」

 「濠斯多辣利の地は神州の南に在り、其の地海を隔てて甚しくは遠からず、其天度正に中帯に在り。宜なり、草木暢茂し人民繁殷し、人の争ひ取る所となるも。而して英夷開墾して拠るも僅かに其の十の一なり。吾れ常に怪しむ、苟も吾れ先ず之を得ば、当に大利あるべしと。」

 明治の軍国主義はこうした思想に煽られたもので、明治に入って正岡子規も明治十八年の『筆まかせ』で、

   「文明の極度
 世界文明の極度といへば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種となるの時にあるべし 併シなほ一層の極点に達すれば国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし。」

と言っている。「一つの世界」というのは一見きれいごとのようだが実質は世界征服だ。正岡氏句は明治三十年正月の『明治二十九年の俳句界』では、

 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」

と言っている。明治以降の日本の軍国主義は、単なる防衛の範囲を越えた「一つの世界」のための戦いだった。
 そして、昭和二十年、敗戦の時、和辻哲郎は日本の世界統一の敗北として捉えた上で、逆に日本は自らの文明を捨てて西洋文明に統一されることを説いた。

 「しかるに、日本の伝統を捨てるといふ努力は、日本人のみのなし得る特殊な体験である。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.588)

 「要はヨーロッパ文化の摂取によっておのれを新しくすること、新しい国民的性格の創造、新しい文化の創造に邁進することである。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.589)

 これが戦後思想の根底になる。戦後思想はこれに左翼の革命思想が加わって、アメリカ以外による(ロシア、中国、イスラム国でもアメリカ以外なら何でもよく)世界統一を目指すものとなり、それが終始一貫した執拗な反日哲学として今日に至っている。
 先日のワールドカップドイツ戦の日本の勝利も、さぞかしこうした人たちには不快だったに違いない。
 こうした戦後思想が学会を席巻している状態では、「自分は情だ」なんて言って理性信仰の西洋哲学に逆らい、本居宣長を評価する機運が生まれなかったのは当然だ。

 「兵器を準備しようと思ったら、西洋の学問より仕方がない。それで西洋の学問を取り入れた。そのうちにすっかり西洋の学問に溺れてしまった。戦後はそれが極端にまで来ている。」(p.24)

 単に国を守るための軍事力なら、ここまで徹底的に自国の文化を破壊する必要はなかった。世界征服の準備だからこそ、徹底させる必要があった。
 そして、戦後は他国併合を望み、日本の文化をちょっとでも擁護すると軍国主義者だと言われ、そんなことをしたらまた何百万もの人が死ぬなどと言って人殺し呼ばわりされるようになった。

 「こんな風な訳で、日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったかということを、ゆっくり考え自覚する暇がなかった。それで一人も、日本人は情の人であると、それが人として正しいのである、といった人はいないのです。が、それが非常に大事です。」(p.24)

 実際、応神天皇以前の日本というと文献資料が希薄でその内実を探ることは困難だ。
 ただ、日本の弥生時代から応神以前までは江南系の文化の影響を強く受けていたことは想像できる。高床式の倉庫があり、村の入口には鳥の飾りがあり(これは鳥居の起源と思われる)、鵜飼や養蚕をし、歌垣で結婚相手を選ぶといった風習は、長江文明に起源があると思われる。この地域は桜の文化でもある。
 そして、その長江文明の哲学は楚人であった老子にその片鱗が見られる。無為自然を尊び作為や論理を嫌う。形式ばった道徳や戒律を嫌う。
 応神以前にこうした無為自然の崇拝、真理を言葉にすることを嫌う「神ながら言挙げせぬ国」は、元来長江文明から来たもので、そのため応神以降の日本の国体の形成も儒教よりも道教が重視された。何よりも「天皇」という称号が道教の神天皇大帝から来ているのを見てもわかる。
 いまだに、我々はその自覚を欠いている。
 明治の国家神道でさえ、ついに明確な教義や戒律が作られることはなかった。これは「神ながら言挙げせぬ国」が守られたと言ってもいい。神道には教義も戒律もない。ただ自然を敬い、自然の偉大さを前にしてそれを恐れ身を慎む。これに尽きる。この基本は応神以前のものだと思う。中国やインドの文化にはない要素だ。

2022年11月24日木曜日

 日本ドイツ戦は、前半日本が引き気味で無理しなかったのが良かったのだろう。ロシアの攻撃を一点でしのいで、後半から中ごろの選手交代から一気に攻勢に出ての逆転。良い試合だった。
 ジャイアントキリングなんて声もあるが、ドイツは前回ロシア大会から落ち目で、あの時は韓国にも負けている。そんな大げさに考えずなくても、日本は実力通りの結果を出しただけだと思う。
 あと、ドイツの選手で一人早いのがいたね。カール・ルイスが走って来たかと思った。
 スポーツは情の祭典。横浜FCの応援歌にもあったが「友よ歌え狂え叫べよ」。
 それでは「情と日本人」の続き。

 「これは二つの点でうまく行かないのです。一つは情が濁っていますから、すぐ自己中心の考えに走る。それで企業が公害を取り除くことに反対します。政府だって、やはり産業優先というようなことを考える。一つはそういう害がある。」(p.20)

 情の濁りは本情と私情の違いということで、四端の心と七情とで、七情の方に偏り、四端の心が忘れ去られる、ということで説明できる。
 私利私欲というのは、必ずしも肉体的な欲望を意味するのではない。生きてゆくために最低限の食欲を満たすなら、それは肉欲と言えるかもしれないが、美食への願望は文化的なものだし、美食を競うとなると他人に勝ちたいという別の欲求になる。インスタに上げてこんな物食ったぞと自慢するのもまた別の承認欲求だし、こうしたものを一口に肉欲ということはできない。
 ファッションへの欲求を「肉体を飾る欲望」だから肉欲だという人がいるが、、肉体を満たすことと肉体を誇ることは同じではない。
 なら、経済的な欲求というのは「肉欲」なのだろうか。金儲けのために寝食を惜しむ人は「肉欲に溺れている」のだろうか。少なくとも食欲と睡眠欲には勝っている。
 そう考えるなら、私利私欲というのも社会的な関係の中で生じる欲求がほとんどを占めている。単純な生物学的欲求とは無関係に、社会的に生じる様々な感情によって作られている。
 生物学的に言うなら生存競争の勝利はいかに子孫をいかに沢山残すかであり、億万長者でも子供がいないならその人は生物学的な意味では生存競争の敗者だ。貧乏でも子沢山なら勝者になる。
 ならば我々の社会で「生存競争」と呼ばれているものは一体何なのかということにもなる。
 企業が公害を取り除くことに反対するのには、実際には様々な感情が働いている。
 誰だって公害を出したくて出したのではない。ただ、公害のリスクを予想する際に、人によってその評価に差が出る。
 例えば農薬にヒ素が含まれているものを用いようとした時、ヒ素が猛毒であるという認識はある。ただその農薬の殺虫効果と秤にかける。つまり、それを使用した場合の農作物の生産性の向上による利益とその薬害による健康被害による損失とを秤にかける。
 秤にかけた末に使用を決断した時に、予想外に損害の方が大きかった場合、基本的には即座に停止するのが倫理的に正しい。ただ、それができない事情というのも生じる。
 基本的には賭けに負けたわけだが、その損失は自分だけではなく自分の家族や大勢の従業員とその家族にまで及ぶ。そこでまた彼らの損失と薬害の損失を秤に掛けなくてはならなくなる。おそらく最初にリスクの判断を誤った経営者であるなら、ここでもまた判断を誤る可能性が高い。
 ならば、最初の段階でほんのわずかでもリスクがあるならやめればそれでいいのか。そういう単純なものでもない。
 世界には飢餓で苦しむ人がたくさんいる。農産物の生産性向上に役立つ発明は、それを救うことができるかもしれない。飢餓を救うだけでなく、よりよい生産物を安価に流通させることができるなら、それは多くの消費者の利益にもなる。
 基本的に新しいことを始めようとしたら何らかのリスクはあり、そのリスクを一切取ることを禁じるなら社会に進歩というものはなくなる。飢餓に苦しむ人たちはそのまま放置され、庶民は高い農産物を買い続けることになるし、その供給がいつ止まるかという不安にさらされる。少なくとも世界の人口が増え続ける限り、農産物を増産しなければいつか世界が飢餓に陥る。
 技術革新による生産性の向上は急務であり、新技術は常に賭けではあるが、そこから逃げることはできない。
 基本的に「感情の濁り」というのは賭けに負けた時の責任の取り方にあると言って良い。そこに求められるのは「潔さ」だ。それを渋るのは「感情の濁り」だ。
 ワクチンにしても同じことが言える。どんなワクチンでも少なからずアレルギー反応によるリスクというのは存在する。リスクがあるから一切使用しないというのであれば、人々は病魔に抗すべくもなくバタバタと死んでゆく。
 ワクチンを使用するというのは病魔による不幸とワクチンの副作用による不幸とを秤にかけるということで、ワクチンの副作用による不幸が病魔の不幸に勝るなら使用を停止しなくてはならない。もちろん、アレルギー体質などによる高リスクが予想される人を接種の対象から外すことでそのリスクを軽減することはできる。
 正しい判断を行うことで多くの人を救いたいという感情は惻隠の心であり、それを鈍らせるのは私情による濁りである。「濁った感情」というのはそう定義することができるだろう。
 企業倫理においても政府の倫理においてもそれは同じだ。

 「もう一つは、情が生き生きと働かなかったら、存在というものがない。それで淀川を見ても、これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる。だから公害だって、みんなが絶えず心に留って、気にかかるというふうじゃない。」(p.20)

 気を付けなくてはいけないのは「心を痛める」ということ自体は特定の行動を促すのではない。むしろ最善の解決のための思考を働かせるための起爆剤にしなくてはならないということだ。
 ただ、大抵は考えるのが面倒だから放置する。考え悩むことを嫌がる。それよりもっと楽しいことをしたいと思う。いわゆる「思考停止」だ。
 「これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる」というのはいわゆる思考停止の問題に他ならない。
 即座にその場の感情で短絡的に行動することは、かえって結果を悪くする。そのことは誰もが分かっている。感情はそれが強烈であればあるほど、短絡的な行動は大きな災いをもたらす。ただ、それは思考を促すことであって停止することではない。思考停止は感情の濁りに他ならない。
 ワクチンの例で言えば、ワクチンで人が死んだからと言って、直情的にワクチンを即座に禁止しろというのは、病気によるはるかに多くの死者に目をつぶることになる。
 どちらの死者にも感情を働かせているなら、こういう行動にはならない。つまり短絡的な反ワクは一見感情に正直なようでいて、実は感情の欠如なのである。
 様々な異なる立場の者に対してきちんと感情を働かせているなら、必ず思考が促される。思考停止は物事の一方のことにしか感情を働かせてないからだ。それは結局感情の欠落なのである。
 感情が正しく働くというのは直情的になることではない。むしろ持続させることが重要だ。理性と感情は一方的に理性が感情を押さえたりコントロールしたりするのではない。むしろ感情が理性を促すことで最適解を発見する。

 「この二つからうまく行かない。それで情をきれいにし、よく働かすようにするより仕方がない。」(p.20)

 失敗を潔く認める心と感情を持続させて思考停止させない心。公害をなくすのに本当に必要なのはこの二つと言って良いだろう。

 「日本歴史を昔からずっと見てみますと、応神天皇以前は多分うまく行っていた。が、応神天皇の時、中国から文化を取り入れた。そうすると、知が人の中心だといっている。その後、印度から仏教を取り入れた。やはり知が中心だといっている。ともかく情が大事だといってない。」(p.20)

 これは正しくない。
 情は大事だが、知の軽視は情の軽視と同じくらい間違っている。
 むしろ日本人は中国やインドの知の文化を取り入れながらも、それを本来の情の文化とうまく融合させたことを誇っていいと思う。それは近代に西洋の知が入ってきた時も一緒だ。
 知の文化と知の文化は矛盾するし喧嘩する。しかし日本人はそれに情を与えることで、相矛盾する文化を絶妙に融合してきた。
 応神天皇以前は情はあっても無知だったといった方がいい。正しい情を持続させ、それによって思考を促し、知を使いこなすことで情はその持っている最大限の力を発揮できる。
 考えてみてもわかることで、いくら病人が可哀想だと思っても、治療法を知らないなら放置したり間違った治療をして却って殺してしまう。漫画「ワンピース」でチョッパーの師匠が言っていたことだ。情熱だけでは何もできない。
 応神天皇が中国の知識を取り入れたのは英断だったし、その後の御門が仏教を取り入れたことも英断だった。そして、明治維新で西洋の科学を広く取り入れたのも英断だった。それは誇って良いことだ。
 正しい感情は正しい認識があって初めて正しい行動となる。

 「それで本居宣長の頃になって、『漢意清く捨てらるべし』、そんな風になって来た。どんな風にいけなかったかというと、ともかく儒教の修行も仏教の修行も、ひどく陰気くさく見えたんだと思う。」(p.20)

 私は本居宣長のことは勉強してないので、この引用が正しいかどうかは判断できない。ただ、一般的には漢意を拝して日本の古典を学ぼうとした人だとされている。
 古典を理解する際に、後の世の認識を当てはめるのではなく、当時の人の考え方を再現するというのは間違っていない。
 芭蕉を研究するにも、当時の人の考え方、特に朱子学などから理解すべきで、安易に西洋の文学理論を当てはめるべきではない。その意味で本居宣長が古典を研究するのに漢意を排するのは理解できる。
 ただ、実際に生活に役に立っているものを中国製だから排除するというのなら間違っているのと同様、今の時代に役に立つ知識を安易に捨てるべきではない。それは本居宣長もわかっていたはずだ。

 「儒教は形式一点張り。だから裃を着て、しゃちほこ張ったようなものになってしまう。仏教の方は難行、苦行が多い。大体、意志の修行です。だから矢張り暗いものになってしまう。そうして、うまく行かなかった。それだけじゃなく、単に濁りを取るということに留めて、情を積極的にはぐくみ育てるということを全然しない。つまり今でいえば、情操教育ということをしない。」(p.20)

 岡潔さんの情は理解するが、儒教についても仏教についてもイメージだけで短絡的に判断すべきではない。まずそのイメージが正しいイメージかどうか疑うべきだろう。
 印象操作というのはいつの時代にも存在する。明治以降の西洋学者は当然ながら自分たちの学んだ西洋の学問の価値をアピールするために、それまでの儒教や仏教を貶めて、誤ったイメージを植え付けようとしてきた。それを真に受けるべきではない。
 李退渓から林羅山を経て日本で国教として確立された朱子学の精神は、芭蕉によって豊かな情を表現するための不易流行の理論となり、四端と七情を区別しながらもその情の大切さを庶民の間に広めていった。
 仏教も難行・苦行が本質的なものでないことは既にお釈迦様が体現してたことで、苦行をやめて着の身着のまま裸足で杖を突いて山から下り、本当の仏法を発見しようと努めた。
 儒教がしゃちこばったもので、仏教が難行苦行をするというのは印象操作にすぎない。

2022年11月23日水曜日

 西洋の理性の形而上学に日本の情の形而上学を対抗させても、実証不能の形而上学対形而上学の戦いは水掛け論にしかならない。最後には手が出ることになる。
 基本的には俳諧や日本文化のための美学を作るのであれば、闇雲に形而上学を振り回すのではなく、科学に基礎づける必要がある。
 科学的美学は急務であり、美学だけでなく人権思想も科学に基づかなくてはならない。もうやめようサピアウォーフに白紙説。
 それでは「情と日本人」の続き。

 「それ、わかるでしょう。これがわかっていないから、知的にいっても今の教育は全然駄目なんです。上滑りしてしまって、形式しかわからない。本当にわかったんじゃない。『悟る』というのは情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが、『悟る』『自覚する』ということです。そうすれば存在して消えない。」(p.18)

 教育もまた、カビの生えた白紙説なんかではなく、科学に基づいた方法が必要とされる。体育の方ではスポーツ医学に基づいた合理的なトレーニングが世界的に広まっているのに、知育の方は古色蒼然の感がある。まして道徳教育は形而上学の大安売りだ。
 「情の目で見極める」というのは情の脳理論を必要とする。

 「芭蕉は『散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし』といっていますが、見止め聞き止めるのは情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが『悟る』『自覚する』ということです。そうすれば存在して消えない。」(p.18)

 芭蕉の引用は土芳『三冊子』「あかさうし」の、

 「師の曰、乾坤の變は風雅のたね也といへり。静なるものは不變の姿也。動るものは變也。時としてとめざればとゞまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散亂るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.103~104)

のことだろうか。これと『三冊子』「しろさうし」の、

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

の「花に鳴鶯‥‥おかしきこの比を見とめ」がミックスされた感じだ。
 「飛花落葉の散亂るも(花に鳴鶯も)、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。」で、「散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし」というとこか。まあ、芭蕉の研究者ではないので、不正確な引用は大目に見よう。
 この場合の「止める」は句として書き留める、句に収める、という意味になる。
 そのまま流れ去って行く経験を言葉として記憶にとどめておくことができるということではあっても、存在論ではない。

 「存在を与えているものは情だけです。これも銘々の経験があるでしょう。深い印象とか深い感銘、これは決して消えないでしょう。生涯消えないでしょう。こんな力を持っているのは情以外にありません。」(p.19)

 情を前述のように「個々の先験的及び経験的に形成された固有な脳の回路に由来するもの」と定義するなら、それが我々の存在の体験であるのは言うまでもない。
 ただ、毎時毎時夥しい数の情報にさらされながら、その多くは記憶されないし、意識にすら登らない。意識されたとしても意識されたその瞬間に忘却されるもので、それに名前を付けてインデックスを付けて保存するのは言葉の役割になる。
 言葉は記憶に付けられたインデックスであり、これによって我々は過去の記憶を偶発的なフラッシュバックに頼ることなく、意図的に記憶をたどることを可能にする。
 強い感情を持った記憶は言葉として記載されなくても、様々な場面でフラッシュバックされるが、そうでない記憶は言葉から引き出される。
 記憶はそのまま画像や動画として保存されているのではない。様々な要素に分解されて仕舞われ、思い出す時にはそれを再構成する。そのため要素に分解して整理する段階で記憶はかなり変容している。それはちょうど携帯電話の音声が一度符号化されて、合成音声として再現されるのに似ている。
 我々にとって存在するものを感じ取ったり、そのクオリア(質感)を再現したりしても、それは一度脳の信号に変換されたもので、それが我々にくり返し感動をもたらし、深い情を引き起こしている。脳はこうした感情を伴った体験を保存する装置でもある。
 俳句の持つ力もまた、他人の言葉でありながらも、それが刺激となって自分自身の感情を伴った記憶が引き出される。それが人生にとって大事な記憶であればある程深い感銘を与えることになる。ただ、感銘は句自体に内在するのではなく、それを聞いた人が引き出した記憶の中にある。
 俳句は他人の記憶を引き出すきっかけになればそれで良く、自分の記憶を伝えるにはあまりに言葉足らずな無力なツールにすぎない。

 「人の本体は情であると知ることは、非常に大切なことなんです。大勢の人がそれをわかったら、例えば教育はいっぺんに改められます。そうすれば余程変って来る。そうする以外にやりようがない。」(p.19)

 知識の伝達はわりと容易だが、実際その人間の固有の経験に基づく固有の感情が伝達可能なのかという問題はある。
 情に基づく教育は、いわゆる「教える」のではない。ただその人の大切な記憶を引き出すための教育でなければならない。
 道徳教育は道徳律や格言を教えるのではなく、その人間の四端の記憶を引き出さなくてはならない。

 「公害という問題が欧米から輸入されて、日本で大分やかましくいわれている。日本人は、人が情の動物であるということは、自覚なしにだけどよく知っている。それと共に、もう一つ詰まらないことを思っている。文化は外国から入って来るものだと思っている。外国から入って来ないものは文化にあらずと思っている。」(p.19)

 公害という言葉が一九七二年の時点での流行語だったことは先にも述べた。今だと広く環境問題全般のことをになる。
 当時だと水俣病やイタイイタイ病や四日市ぜんそくなどの公害病が大きな問題になっていて、光化学スモッグなども問題になっていた。そのほかごみ問題、騒音、振動、日照権なども問題になった。
 ここで唐突に外来文化の問題に飛んでいるが、この当時の雰囲気として公害問題が常に「日本は遅れている」といったマスコミや左翼の反日的なトーンとセットになってたのは今と変わらない。
 公害問題は被害者への惻隠の心が働くかどうかが問題なのに、関係ない反日イデオロギーとセットになる。そうなると、その部分に反発して議論がとんでもない方向にそれてしまう。
 今でも「旧統一教会」が問題になるときに、被害者への情ではなく政府攻撃や安倍元首相暗殺を正当化する方向に議論が逸れてしまい、しまいには「統一教会」なるものがいつの間にか日本を陰で牛耳っているかのような陰謀説まで流布されている。これではまともな議論は不可能だ。
 当時の公害問題も似たり寄ったりだった。話が被害者救済ではなく、資本主義は悪だ、革命を起こせなんて方向に行ってしまうと、その過激な革命理論を否定しただけで公害企業に味方しているだの、人殺し呼ばわりされたりする。問題が完全にすり替わっている。
 これは様々な社会問題を政府転覆や革命のために利用しようとする人たちによって生じる問題なのだが、こうした人たちの中に潜んでいるのは「戦後思想」という自虐的な思想で、これが被害者救済よりも「日本は遅れている」というプロパガンダの方ばかりを際立たせてしまう。
 公害問題が起こっている。だから日本は悪い、日本は遅れている、日本人は駄目だ、それでは公害問題は解決しない。
 戦後思想というのは簡単に言えば、根底にあるのは世界史は「一つの世界」を作るための戦いであるという歴史観で、そこから日本は戦争に負けたからどこか他所の国が作る「一つの世界」にやがて併合されなくてはならないというもので、憲法第九条の戦争放棄はそのためのものと位置づけられる。
 なら、どこに併合されてもいいのかというと、彼らは共産主義者である以上、アメリカだけは除外ということになる。アメリカ以外ならロシアでも中国でもイスラム国でもどこでもいいのである。
 簡単に言えば強い国には無抵抗で併合されろ、ということだ。この論理は日本だけでなく香港や台湾やウクライナもそうするべきだ、それが平和への道だと考えている。
 当時の公害問題がこうした勢力の格好のプロパガンダになっていたことは、今の状況からも十分想像できると思う。実際そうだった。
 公害問題に「日本は遅れている」「日本は野蛮国」「日本人は劣等民族」、「早くソ連や中共の属国になった方がいい」、そう左翼やマスコミや「識者・文化人」と称する連中が煽り立てる。それは一九七二年も二〇二二年も一緒だった。
 岡潔さんもそういう雰囲気の中で、心情的には被害者に同情して、惻隠の心を動かしても、そういう何か違う論調に反感を抱いていたのだろう。ただそれを、岡潔さんは「外来文化」の問題として認識してたようだ。

 「それで公害という言葉、これは文化の一種ですね。外国から入って来て日本で大分やかましくいわれている。外国にオリジンがあるから、こんなにジャーナリズムが取り上げたんですよ。しかし公害、さっぱりうまくいかない。何故うまくいかないかというと、情の濁りから取り去らないからです。単に濁りだけじゃありませんが、情からきれいにして行かないからうまく行かない。」(p.19)

 理屈ばかりが先行しているというか、理屈自体がずれてしまっているというのが本当だったのだろう。公害をなくすことよりも政府を追及することばかりに忙しく、資本主義が公害を生んだんだから資本主義を倒さなくては解決しないだとか言い出すと、解決できるものも解決できなくなる。

2022年11月22日火曜日

 それでは「情と日本人」の続き。

 「ところが、こういうことをいった人類は一人もいない。私だってこんなこというのは今年になってからです。そうすると七十年かかっている。一旦分って言ってみれば、こんな明白なこと。ところが、それが言葉にいえないらしい。」(p.14)

 「情が自分だ」というのが哲学の命題だとすれば、そういうことを言った人類は一人もいないかもしれい。まあ、世界中の人の声を聞いたわけでないから断定はできない。
 本当に一人もいないかどうかは「悪魔の証明」になる。「いた」ことを証明するにはその人物が誰であるかを指摘すればいい。「いない」ということの証明は困難。悪魔の証明になる。
 とはいえ、ここではその証明が問題なのではなく、岡潔が前例のない事を提起するということが重要だと言えよう。
 思考が自分であることの証明はデカルトの「コギト・エルゴ・スム(われ思うゆえにわれあり)」がある。証明するというそのこと自体が思考である以上は、自我は思考でしか決定できない。これはトートロジーと言って良い。
 もちろん「情が自分だ」ということは、今この言葉を聞いてしまってからでは誰でも言うことができる。しかし、これは論証にはならない。
 強いてこれを証明できるとしたら、人間の個別性の根底が先天的であれ後天的であれ脳回路の偶発的な唯一無二性に根拠づけることは可能であろう。そして、この脳が自分を意識できるとすれば、その固有にして独自の脳回路によってであり、決して論理的に設計されたものではない脳回路によって自分というものが自覚されている所に根拠を求めることができる。
 人間は自分の脳回路を自分で設計することはできないし、もちろん組み替えることもできない。脳の判断の決定はその意味で「理性」でコントロールすることはできない。
 一定の思考による判断は意識することができる。しかし人間がその都度その都度行う判断は、決して一貫した思考に基づくものではない。人間はいつだって矛盾している。それが自然な状態なのは、人間は自分自身の自覚的な思考ですべてを決定することができないばかりか、自覚的な思考自体が、決して自分自身で自覚することのできない脳回路の上に成り立っているからだ。
 「情が自分だ」という命題はそれゆえ、デカルト的自我が完全でも自己完結的なものでもなく、自分自身の認識できぬものの上に成り立つことを認めるなら、「思考は自分のすべてでなく、思考の根底に広大な情動が存在し、それが自我を形成している」という意味で可能と言える。
 デカルト的自我は広大な情動の海に浮かぶほんの小さな木の葉にすぎない。このイメージはフロイトを彷彿させるが、フロイトの時代にはイドと呼ばれるこの情動を科学的に解明する脳科学が存在してなく、ただ内省法と患者の言葉の分析によってしか接近できなかった。
 それゆえ、日常的な感覚としては「情が自分だ」と思ってはいても、それが科学や哲学の言葉になることはなかった。

 「戦後日本は情というものを非常に粗末にしている。情が非常に濁っている。多くは自己中心的なもので濁っている。その上ひからびている。これは改めなければいけない。これを改めるには、日本人は情の人だけど、その自覚がない。それを自覚するということが非常に大事です。」(p.14~15)

 戦後日本の人情の薄れたのは、必ずしも西洋化の影響だけではない。豊かさは情への依存を軽減する。
 情というのは生存のための保険の意味がある。飢えた時に飯を分けてもらえるのは「情」であり、日頃から情に厚い人間はいざという時にその互恵的な援助を受けやすくなる。諺に「情けは人の為ならず」というのは本来そういう意味だった。
 日頃から人に情けを掛けて、困った人を助けたりしてあげていれば、自分が困ったときにその恩を返してもらえる。本来「情けは人の為ならず」は「巡り巡って自分の為になる」という功利的なものだった。
 戦後の高度成長によってもたらされた未曾有の豊かさは、こうした功利的な互恵的な関係を不要にしていった。これが人情の衰退の一番大きな原因ではないかと思う。
 戦後のサラリーマンは終身雇用でそこそこ真面目に仕事をしていれば一生安泰という安心感がある。だから人に情けを掛けて、いざという時に助けてもらう必要がなくなった、それが大きい。
 あまり知られてないが、終身雇用制は戦前にはなかった。戦中で多くの労働者が戦争に取られて人材不足が生じ、国内での生産活動で必要な人員を確保するために労働者の移動を制限したのが始まりだった。
 もちろん、国家総動員という事態になってそれだけでは足りず、朝鮮半島から百万人もの労働者を「雇用」する必要が生じた。彼らは強制連行されたのではない。雇用されたのは間違いないが、労働者の斡旋の際に悪質な人買い業者がいて渡航を強制された者はいたし、戦後に支払われた残りの給与を掠め取る政治団体がいたことなどもあって、戦後の左翼団体が「強制連行」の神話をでっち上げ、朝鮮半島の人達に広めたことが今日の徴用工問題の起こりになっている。
 話はそれたが、戦後日本人の終身雇用の下でのエスカレーター式の人生が、それまでの相互扶助のための互恵的関係を必要としなくなり、人情が薄れ、他人に関して無関心になって行った。

 「自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。大体『知、知』と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。今の教育なんかもそうだけど、知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。」(p.15)

 情の大切さは貧しければ貧しいほど互恵的相互扶助が欠くことができないため、否が応でも自覚していると思う。だからこそ、それを「卑俗だ」と見下す風潮が世界的にいわゆる支配階級の中にあったのではないかと思う。
 『荘子』には、「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」という言葉がある。貧しい下層階級ほど他人の情に頼る必要があり、そのための互恵的関係を築かなくてはならず、自ずと皆人情に篤くなる。
 豊かになり、他人の援助を必要としなくなることで、人は人情に疎くなる。その果てが「君子の交わり」ということだ。
 そのため、感情の軽視は特権階級のステータスであるといえるかもしれない。同様に戦後の日本の高度成長の中でも、義理人情を蔑むことが都会で成功したエリートのステータスになった。
 哲学というのは概ね支配者階級のもので、その支配者階級の哲学が感情を重視するはずもない。人情に頼るのは下賤なもののすることで、君子は理知的でなければならないと考えるのは、いわばエリート意識だ。それは洋の東西に係わらず、不変的な傾向ではないかと思う。
 日本人でも中国人でも印度人でも西洋人でも、一般庶民は一致して情に篤いと思う。豊かさと特権意識が「知」への偏りをもたらし、自分たちが偉いのは「知」のおかげだという意識を形成していくのだと思う。
 そういう意味では経済成長によって豊かな社会がもたらされれば、世界中どこでも情の軽視という傾向が生じると考えた方がいい。

 「知の働きは『わかる』ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵『理解』するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。」(p.15)

 松が松だとわかり竹が竹だとわかるのは、むしろ習慣と言った方がいい。生物学的分類など知らなくても、人はそれを習慣的に区別している。だから松に似ている木も松だと言ったりする。
 松ではなく杉の例だが、ヒマラヤスギというのがあるが、あれはマツ科であってスギ科ではない。ほとんどの人は正確な生物学的分類を知っているわけではない。
 江戸時代の人も鶴とコウノトリの違いは本草学者なら知ってたかもしれないが、俳諧師の間ではしばしば混同されていた。
 松を松とし、竹を竹とするのは知識ではなく習慣の共有がまず先にある。あれを「松」と呼び、あれを「竹」と呼ぶのは、誰かがそう言ってたからで、自分でその違いを理解したからではない。
 人がそう呼びならわす。その経験の繰り返しで、それぞれの人の中に「松」とはだいたいこういったもの、「竹」とはだいたいこういったものというイメージが形成される。松も竹もまず第一義的には、過去に聞いたその単語の用例の平均なのである。
 そこで典型的な松の概念が形成され、竹の概念が形成される。この典型は各自の脳の中で作られるもので、必ずしも普遍的なものではない。中にはかなり勘違いしている人もいることだろう。
 概念形成というのはまず第一にそれを言い表す習慣から生じるもので、それを知的に整理するのは後になってからだ。それは「メタフィジックス」であり、「メタ」は「後から」という意味だ。習慣的に知っているフィジックな世界に対して、あとから論理的に概念を整理して得られるのがメタフィジック、形而上学だ。

 「理解というのは、その『理』がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その『趣(おもむき)』がわかるんでしょう。」(p.15)

 松が松とわかり、竹が竹とわかるのは、習慣的に形成されたイメージによるもので、それは「趣き」と言い換えてもおかしくはない。

 「松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。」(p.15~18)

 松という概念は必ずしも言語的に形成されるわけではない。ただ、経験的に生じた様々な概念に、人は他人の話した言葉をそれに当てはめ、それに名前を与える。
 自分の脳の中に何となく松らしきものを特に名前もなく概念と形成していたものに、他人がそれを「松」と呼んだから、そこに「松」という言葉がピタっと当てはまる。
 だから、他人の「松」のイメージと自分の「松」のイメージは同じものを見て行っている以上似てはいるが、完全に一致するものではない。人は自分自身の経験の中から「松」の概念を形成し、それを伝えるために他人の言葉で言い表す。言葉は必ず他人の言葉であり、自分の言葉は一般的には存在しない。言語創作をしない限り。
 だから松に関して情緒的に分っていることは、それは自分自身の経験から来るものであり、他人のものではない。ただ、同じものを見ている以上、他人と似通ってはいる。「松」という言葉から思い浮かべるものは人それぞれ違うが、全く違うものではなく、特に同じ地域に棲むものは似たような体験をしているために似通う。
 小さな集落なら「松」といえば、「ああ、あそこの松ね」という同じ松の木のイメージを持ちやすい。国が違えばそれぞれ自分の国の松を思い浮かべるから、共通点が少なくなる。
 情緒的に分る「松」はそういう性格のもので、それを人は同じ「松」という記号によって共有する。

 「それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。」(p.18)

 「知」はもともと非言語的に概念形成した時点で、各自の脳の中に存在している。ただ、それは自分だけの経験的知識にすぎない。とはいえ、職人の高度な技など、他人に伝えることの困難な繊細な部分は、こうした個々の脳の中での固有な概念形成に因っている。
 それは経験の積み重ねの中で形成される。
 言語は自分のイメージと他人のイメージを擦り合わせることで、共通の言葉を持つだけのもので、同じ言葉を共有していても、その理解が同じという保証はない。
 技術の伝達でも、自分が教えたことを必ずしもそのまま他人が学んでいるわけではない。ただ共通の言葉を通じて、それぞれが自分の持っていたイメージを再確認したり修正したりすることができるにすぎない。絵師が自分の持てる技術をすべて伝授しても、やはり弟子の描く絵や師匠の絵とはことなる。それは弟子の脳の中で再構築された技術だからであり、師匠の体得した技術がそのまま伝わったわけではないからだ。
 だから職人の間でよく、「学ぶのではなく見て盗め」というのはそういうことだ、師匠の技術そのものは師匠の脳の中にしかない。教えたとしても、それが弟子が独自に経験的に積み重ねてきた技術の中に融合されなければ、ただ弟子の中で異質な、どう扱っていいかどうかわからないものにすぎない。
 技術の継承は弟子がこういう技術が欲しいと思っていたものをたまたま師匠がやっていて、それを自分の技術の体系の中に組み入れることができた時に初めて完了する。
 自分の技術、師匠の技術と別個に存在していても、二つの異なる技術が喧嘩して、大体良い結果は出ない。完全に融合できるというのは、師匠の技術を自分の技術に出来た時であり、それを「盗む」と表現する。
 教えられたとおりにやっていても、それは師匠の技術であって自分の技術ではない、自分の技術の中に取り込んだ時、技術は継承される。
 「松」が喚起するその人固有な情も、その人の持つ「松」の体験を全部知っているわけはないから、「松」という言葉で分り合ったような気になっていても、完全に同じイメージを共有することはない。それゆえ、そこには言葉で言い尽くせないものが存在する。

 「言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。」(p.18)

 さて、ここでも「情」の概念がかなり拡張されて用いられていることは分ると思う。
 情はむしろ「個々の先験的及び経験的に形成された固有な脳の回路に由来するもの」と定義した方が良いのかもしれない。

2022年11月21日月曜日

 ワールドカップのカタール=エクアドル戦は一時半に目が覚めたので途中からリアルタイムで見て、開会式は朝になってから見た。
 みんなマスクもなしに大声で声援を上げて、コロナ時代が終わったのを実感した。
 暑さを考慮してこの時期に開催知るというのも、IOCは東京オリンピックで認めてほしかったな。1964年の時のような十月開催だったら、あんな反オリにでかい顔されることもなかったろうに。
 反オリはスポーツそのものを批判してたから、やはりワールドカップも見ないのかな。まあ、今回のワールドカップも世界中にアンチがいるようだが。多少の濁りはあっても感動のある世界の方がいいな。
 あまり潔癖で、理性の命令だけがすべてという感動を否定された世界はディストピアだ。それは「情と日本人」のテーマでもある。

それでは「情と日本人」の続き。

 「西洋人は悪魔に魂を取られはしないかと思って、びくびくしている。そうすると情というものは大切なものではあるが、自分ではないと思っているんですね。」(p.12~13)

 西洋のキリスト教やギリシャ哲学の伝統では、自分というのはロゴスであり、ロゴスが肉体の衣を纏っていると考える。
 ロゴスは非物質的な超越的な存在であり、霊魂や精神のことをいう。それゆえ肉体は滅んでも精神は永遠の命を持つ。
 肉体的欲望に溺れて我を失うことは悪魔の誘惑であり、悪魔に魂を奪われて地獄に落ちるとされている。
 これに対して情の地位は曖昧で、形而上学の理論の中から抜け落ちる傾向にある。だが、概ね激情は肉体の悪魔であり、情熱(パッシオン)は同時に受難を意味する。
 リッキー・マーティンのヒット曲「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」の元の歌詞が日本の郷ひろみの歌と全然違うのを見ると面白いが、恋が悪魔の誘惑だという捉え方は西洋では割と普通なのだろう。
 大酒飲んで飲めや歌え、酒の神様に乾杯なんていうのも、日本では普通であっても、西洋ではペイガニズムと結びつく。キリスト教は禁酒法を作ったくらいで、酒もまた悪魔の誘惑で罪なものと考えられている。

 「東洋人はまだしも、心を自分だと思っているから、その中には情も含まれますが、西洋人に至っては情を自分だとは思っていないらしい。その魂というほどの深みの情、これも今の日本人には分りにくいでしょう。」(p.13)

 情は理性や精神やロゴスと対立するもので、そのため情について深く考察する哲学は発達しなかった。ここで東洋人というのが陽明学のことだとしたら心即理の思想であり、心の中には孟子の四端も含まれているから、感情を否定しているわけではない。

 「感情などというのは極く浅い情。もっと深い情とは一口にいって、どんな風なものか。これは一例をあげれば良い。日本人は情というものを無意識的によく知っている。それで一例をあげれば足りるんです。
 明治になってからの話ですが、お母さんと子供が住んでいた。子供が十三歳になった。そして禅の修行をしたいといい出した。それで修行の為に家を出ることになって、いよいよ別れるという時になって、お母さんはこういった。
 お前の修行がうまくいって、人がちやほやしている間は、お前は私のことを忘れていても良い。しかし、お前の修行がうまくいかなくなって、人に後指を指されるようになったら、私を思い出して、私の所へ帰って来ておくれ。そういった。」(p.13)

 仏道というのは「出家」という言葉が示す通り、家族を捨てることであり、家族への情を断つことを要求される。
 中世の『西行物語』では西行が出家を思い立つ際に、庭で遊んでた我が子を見て、これが出家の障壁になっているんだと蹴飛ばす場面がある。
 逆の立場からすれば説経節の『苅萱』のように、突然家の主人が出家してしまい、母と息子がそれを追いかけて高野山まで行くが、女人禁制のため母は会うことがかなわず、息子の石童丸は父と再会して弟子になるが、最後まで父親だということを認めてはくれなかった。
 出家したら家族のことは忘れろというのは、その意味では「出家」の本意にかなっている。そして仏道がうまく行かなかったらいつでも帰ってこいと言うのは親としての自然な愛情だ。

 「それから三十年程たった。子供は修行がうまくいって、偉い禅師になった。松島の碧厳寺という大きなお寺の住職をしていた。その時、郷里から使いが来て、お母さんは年をとって、この頃では寝たきりである。お母さんは何ともいわないが、私達がお母さんの心を推し量ってお知らせに来た。そういった。
 それで禅師はとるものもとりあえず家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に座った。そうするとお母さんは子供の顔を見てこういった。
 この三十年、私はお前に一度も便りをしなかったが、しかし、お前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ。
 私はこの話を最初杉田お上人から聞いた。その時、涙が流れて止まらなかった。これが情の本態です。」(p.13~14)

 出家したのだから、親の存在は煩悩にすぎないから、それを忘れてほしい。これは法(のり)だ。
 それに対して子供のことを思わぬ日は一日もない。これは情だ。
 帰って来てくれたのは嬉しい。しかし、そのことがまた煩悩になる。いわば義理と人情のはざまに立たされる。押さえなくてはいけなかった情だからこそ、その不条理に涙が出て来る。
 ただ、今の日本人はこの話では多分涙は出ないだろう。それは今の仏教はこうした厳しさを失い、良いに着け悪いにつけ世俗化しているから、この葛藤は今の時代にはリアリティを持たない。
 新興宗教ならこうした厳しさは存在するかもしれない。親が宗教を信じ、それが四のため人のためと信じて、家庭を顧みずに働いて得たお金を子供のためには使わずに教団への寄付につぎ込む。
 そしてその親が全く見も知らない他所の子のために命を投げ出したとしらどうだろうか。
 すべての人の命の価値は等しい。だから自分の子も他人の子もその価値は同じで、我が子のために命を捨てられるなら、見ず知らずの子のためにも命を捨てられなくてはならない。
 それは理屈ではあるが人情ではない。子供からすれば自分よりも他人の子を愛した母を一体どう思うだろうか。

 「こういう情というものがあるのだということを西洋人は知らないのでしょう。この情を魂といっている。」(p.14)

 西洋の人権の理論にはこういう情は存在しないし、韓国のムン・ソミョンの宗教にも存在しないと思われる。ただ、西洋人も同じ人間であり、情そのものが存在しないのではない。ただ理性の優位を神の言葉(ロゴス)として信じている。
 そのため、西洋でもその唯一神の不条理が描き出された時はやはり涙すると思う。カミュの『異邦人』や映画の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように。
 戦後特にナチスやスターリンや毛沢東やポルポトなど、理性の名において虐殺が繰り返される中で、こうした不条理を学び、それが西洋の「哲学の終わり」をもたらしたといえるかもしれない。
 だから、単純に西洋人は情を知らないというべきではない。ただ、理性によって強く抑制されているのは確かだろう。

 「人にはこういう情というものがある。それが人の本体です。幸福は情が幸福なのであって、道徳には情があるが故にあるのである。明白なことです。」(p.14)

 情は理性の命ずる法に対してその不条理を告発するという意味では、戦後の西洋哲学もその方向に向かっていた。ナチズムにしてもスターリニズムにしても、理性の名において命じられる虐殺の不条理、感情に反したことを要求される極端な人権思想、こうしたものに対して人間らしさを開放するのは感情だった。
 岡潔のこの文章も、基本的にはそうした流れの中で日本の伝統文化に目を向けようという方向にあるのは間違いないが、ただ、すっかり西洋化された教育の中で日本の文化を再発見する動きは入口に着いたばかりだ。そのせいで同じことを何度も堂々巡りのように言うことになってしまうのであろう。

2022年11月20日日曜日

 いよいよワールドカップが始まるね。楽しみだ。
 合成の誤謬ということで、あまりみんな勤勉だと労働力の供給が過剰になり、かえって給料が下がるのかもしれない。働かないことも重要だ。
 まだ働けるのに遊んでばかりいて、とか言われたら、「俺が働いたらその分若者が一人失業する」とでも言おうかな。若くて本当に今お金が欲しい人に働いてほしい。

 それでは「情と日本人」の続き。

 「情と知と意を比べてみますと、情は自分の体だけど、知や意はなんか着物のような、そうい感じがするでしょう。知的や意的に分ったって、本当に膚で分ってないという、そういう気がするでしょう。」(p.10~11)

 情は全部先天的に決まっているのでもなければ、すべて後天的に獲得されたのでもない。情の骨格は先天的に決まっていても、実際の感情の形成は生後の様々な経験の中で偶発的に回路が形成されてゆく。
 こうした脳の発達は個別のもので、誰一人として同じだはない。ただ、笑ったり泣いたり怒ったり悲しんだりという大枠は一致しているし、互いに共感できるが、笑いのツボは人それぞれ違う。同じように同じ物語を見て泣ける人と泣けない人がいたり、同じ事件のニュースを聞いても怒る人と怒らない人はいる。これが人それぞれの個性(キャラ)を形成する。
 知もまた数学や論理能力は先天的(哲学では先験的ともいう)だが、人それぞれ考え方は違う。これは諸概念の形成が後天的な言語体験によって変わるためで、言葉や概念の意味は耳にした用例を基に形成されるため、同じ言葉でもイメージするもの人それぞれ違う。静岡や山梨で育てば、山というと富士山を思い浮かべ、青森で育てば岩木山を思い描くようなものだ。

 遠山に日の辺りたる枯野かな 虚子

の句を聞いても、人それぞれ「遠山」のイメージは違う。アメリカのユタ州で育てば、あの未知との遭遇に出てきたようなモニュメントバレーに日が当たってる様子が浮かんでくるかもしれない。
 同じように言葉が意味するものは、それぞれの過去の体験と言語体験に依存する。そのため、同じ日本語を使っていても、実際にイメージしているものはまったく違っていて、違うものを考えている以上、考え方が違ってくるのも当然だ。
 そのたも、物の考え方は人それぞれで、論理としては理解できても感覚として理解できないことがしばしばある。確かに理屈は通ってるんだけど何か違う、そういう感覚は別に珍しいことでものでもなく、普通のことだ。そういう者同士がいくら議論しても水掛け論になるだけだ。
 この人それぞれの感じ方、そこから引き起こされる感情はその人の「身体」であり、それは後天的であっても脳の偶発的な形成はやり直しのきかないものなので、その人の肉体と言ってもいい。
 余談だが、性的嗜好というのもそういうものだと思う。LGBTは先天的ではないにしても、脳の発達の偶発性によるもので、それはきわめて多様で一人一人みな違うと言って良い。人それぞれの多様な性癖は異常なものでもないし、まして病気なんかではない。それを日本語では「趣味」と呼ぶ。
 同性愛やバイセクシャルは異性の好みが多様であるのの延長線上のもので、たまたまその境界を越えていると理解すべきであろう。
 人それぞれの偶発的に形成された脳回路はその人の身体であり肉体である。
 これに対して人から学んだ知識はあくまで身につけた情報であって、それは着物にすぎない。
 意思もまた一人一人のそれぞれの思いとは別に集団の一員として与えられる使命は必ずしも自分のものではない。ここでいう「意的」というのは、自分の心から発する意思ではなく、同調している集団の意思のことではないかと思う。
 人から説得され、ある思想を信じ、ある行動に使命を感じたとしても、それはその人の生身の心ではなく、あくまで衣をまとっているにすぎない。
 この考え方は西洋的に考えるなら逆になる。西洋のキリスト教やギリシャ哲学の伝統ではむしろ、人間とは知(ロゴス)であり、それが肉体の衣をまとっていると考える。
 「知的「意的」をこうした思想的な知識や行動と解することで、次の文章にスムーズにつながる。

 「今度、赤軍派の学生が無茶をやった。そうすると皆それを非難している。それで日本は赤軍派の学生のようなものを出したという短所よりも、ああいうものが出たら皆非難するという長所を現したわけです。つまり赤軍派には情がない、残酷であるということをひどく非難している。」(p.11)

 一九七二年の時点で赤軍派の起こした事件というと、一九七二年二月の連合赤軍によるあさま山荘事件、一九七二年五月三十日のテルアビブ空港乱射事件であろう。
 つい最近重信房子が出所したが、今でも彼らを山上徹也容疑者と並べて英雄視している人たちがいるのも確かだ。
 ただ、それは一部の思想にかぶれた人たちで、大半の日本人はテロを支持しない。ただ、日本にも思想がその人の人間の証であり、それが肉体の衣をまとっていると考える人たちがそれなりの数いるのも確かだ。

 「ああいうものが出たら直ぐそれを非難する。これが日本人の長所です。短所を恥じるよりも長所を誇った方が良い。しかし、そうであるという自覚がない。だからそれから先、話が少しも進展しない。」(p.11)

 これは今でも日本の「サイレント・マジョリティ」の弱点と言って良いかもしれない。
 西洋の思想にかぶれた人間は赤軍派を賛美して山上容疑者を山神様と崇めて、テロや殺戮を賛美し、それを残虐だと思う感覚が欠落している。ロシアがウクライナ人に対して行っている虐殺に対しても一緒だ。
 これに対して多くの日本の国民はそれを非難しているのに、それを日本人の長所として誇ろうとしない。
 いや、誇りにしているのだけど、それを伝える手段がないといった方が良いのかもしれないが。日本のマス・メディアやSNSの運営がすっかり特定思想に染まって情報を管理している中で、どうやってそれを表現しろと言うのか。
 イーロン・マスクがいなかったら、日本のツイッターの実態が暴露されることもなかっただろう。

 「こういうものが出るのは、人の本態は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである、教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞にはひとつもなかった。情が非常に大事だということ、分るでしょう。」(p.11)

 日本の教育も、当然そうした特定思想の人達の圧力を受けている。元文科省の前川喜平を見ればわかることだ。文科省も新聞も共犯なんだからこれは当然だ。日本の新聞は一九七二年の頃から変わってないし、むしろ悪くなっている。新聞の発行部数がそれを物語っている。

 「情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、その自覚がなかったら、何が何だか分らないのですね。」(p.11)

 先ず始めなくてはならないのは、自分の今感じている感情の正しさを、思想やメディアにひるんで卑屈になる習慣をやめることからではないかと思う。自分は正しいんだと胸を張る所から始めなくてはならない。

 「日本人は誰でも、情が自分だといえば成程そうだと分りますね。そうすると、情が自分だという自覚がなかったら、どんなにものがうまく運ばないのかということの方を知れば良いでしょうが、ともかく情が自分だということは、日本人ならいわれたら直ぐ分る。」(p.11~12)

 まずは自分たちの当たり前を、西洋の思想に対して卑屈になることなく、これが正しいんだと胸を張ることから始めよう。

 「だが、本当の自分とは情であると、はっきり思った日本人は一人もいないらしい。何故かといったら、そんなこと誰も書いていない。誠に不思議なことだけど、情がじぶんだといった人はありません。日本人にないんだから、世界にそんな人はありません。そういう人類は一人もいないということになる。」(p.12)

 なぜそうなのかで予想がつくのは、情の概念が通常は朱子学でいう七情、つまりその時その時の喜怒哀楽の情を指すことが多く、この意味では情は自分だというには限定され過ぎている。
 「本当の自分とは情である」と言うには情の概念を四端を含めた全人格の根底を形作る概念に拡大する必要があったからだ。これは岡潔さんの唯一無二の発想であり、独自の哲学と言って良い。

 「東洋は情を自分だとは思わないらしい。心は情、知、意に働きますが、その情、知、意と連ねた心というものを自分だと思っているらしい。これは日本人である私には想像のつかないことです。どうすればそんなことが思えるのかわからないが、そう思っているに違いない。」(p.5)

 注意して読むと、ここでは日本人を東洋から除外している節がある。そしてここで東洋と名指しているのは陽明学ではないかと思う。「心即理」の説明としてはこれで良いと思う。朱子学はおそらく理解の範囲を越えていたのだろう。

 「その証拠には、中国では知が基だといいますが、仏教も知が基だといっている。それだったら心が自分だと思っているんでしょう。そうでなければ、そんなこといえる訳がない。」(p.12)

 これはおそらく中国の「理」の優位と仏教の「法」の優位のことを言っているのだと思う。儒教の性理は陽明学では心と同一視され、仏教の法(dharma)も三界唯心の中に存在する。
 孟子もまた四端については「情」ではなく「心」を用いている。
 ただ、性理や三界唯心は宇宙全体まで拡大されるため、自分は何かというと心の概念としては広すぎることになる。その意味で一人一人の「私」が生じるのは確かに「情」だと見ても納得できる。
 情は宇宙と一体化した大なる心ではなく、個々の人間の個別性の根源だというなら「情」で差し支えない。

 「西洋人に至っては、情の中で大脳前頭葉で分る部分、これが感情ですね。これは極く浅い情です。もっと深い情を西洋ではどういっているかというと、ソール(魂)といっている。これが情です。」(p.12)

 大脳前頭葉はこの当時の脳科学の知識では感情、意思、理性、人格などの人間らしさを全般的につかさどるような認識ではなかったかと思う。いわば情、知、意を含めたものと思われていたと思う。
 感情の中心という意味ではむしろ偏桃体ではなかったかと思う。
 ただ、今日ではそういう単純なものではなく、脳全体の連関が重視されるようになっている。
 ソールは英語のsoul、ドイツ語のSeeleで、一般的に感情を意味するemotion、Emotionenを用いないのは、岡潔の言う「情」がそれより広い全人格的な意味を求めているからと思われる。
 岡潔の言う「情」は一般的な意味での感情よりは広い意味を持つことは前にも言ったが、ここからすると、ほぼ人格と同義で用いられていると言って良いかもしれない。ただ、理性の優位な西洋的人格に対して、情の優位にある日本的人格を提示したと見なして良いかもしれない。
 今日的に言うなら欲望、感情、理性などをすべて含めた個別の脳組織の全体を現すと言ってもいいかもしれない。

2022年11月19日土曜日

 「情と日本人」の続き。

 「戦後、幸福ということをよくいう。世界のはやりに従って、日本はことにアメリカの真似をして、近頃の人は幸福ということをよくいうんですが、戦前は幸福などといわなかったものです。」(p.9)

 これは検証する必要があるが、「幸福」という概念は確かに江戸時代にはなくて、西洋の言葉の翻訳として広がったと思われる。「しあわせ」にしても、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「仕合・幸」の解説」には、

 「〘名〙 (「しあわす(為合)」の連用形の名詞化)
  ① めぐり合わせ。運命。なりゆき。機会。よい場合にも、悪い場合にも用いる。
  ※雑事覚悟事(1489頃か)「もろひざをつきてもくるしからず。当座のしあわせによるべし」
  ※中華若木詩抄(1520頃)上「わかき時は、学問して、功名を立んと思たれば、何とやらん、しあわせわるうて」
  ② 幸運であること。また、そのさま。
  (イ) (形動) 運がよいこと。また、そのさま。幸福。
  ※虎明本狂言・末広がり(室町末‐近世初)「『そなたは仕合な人じゃ』〈略〉『それは誠に仕合でござる』」
  (ロ) (━する) 幸運にめぐりあうこと。運が向くこと。うまい具合にいくこと。
  ※咄本・軽口露がはなし(1691)四「されば今年程無仕合なる事はなし。〈略〉来年は仕合して結講申べし」
  ③ 物事のやり方、または、いきさつ。事の次第。始末。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)四「其科のがれず、終には捕えられて此仕合(シアハセ)とかたる」
  ④ 人が死ぬこと。不幸、葬式。
  ※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)七月一一日「左衛門殿御袋御仕合に付而、上隠岐同道いたし、湯沢へ罷越」

とある。実際に「幸福」の概念は戦後広まったものなのかもsぢれない。
 同じように「夢」という言葉も、「あらまし」の意味で用いられるようになったのは近代になってからで、西洋の言葉の翻訳と思われる。
 「自由」も今とは意味が異なっていたし、自由に相当する言葉はむしろ「かまわぬ」ではなかったかと思う。
 「人権」も西洋の言葉の翻訳で、それに近いとすれば「人情」であろう。
 西洋の哲学だと、幸福は感情というよりは苦痛のない状態として規定されることが多い。「最大多数の最大幸福」という場合は飢餓や圧政や重労働などからの解放をいう。
 まあ、ならば「水虫を掻いている時は幸福なのか」ということになるけど、水虫を掻いている状態は苦痛を別の刺激でごまかしているだけで、水虫が完治したなら幸福ではないかと思う。
 もう一つの幸福の概念は至福に近いもので、いわば宗教的な忘我の状態を言う。仏教でいえば悟りの境地ということか。
 その意味では戦後は西洋の幸福の概念を輸入はしたものの独自な感情の概念として広まった可能性もある。特にこの一九七二年の翌年には落合恵子の「スプーン一杯の幸せ」が大ヒットすることになる。

 「幸福とは何が幸福かということですが、これは知、情、意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。よし意味をなしたところで、そんな幸福、どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。」(p.9)

 西洋形而上学だとむしろ理性の充足の方に宗教的な幸福か、そうでなければ欲望の充足ということになる。精神の充足か肉体的充足かのどちらか、ということになる。
 情という視点はその意味で幸福の日本的解釈と言って良いのだろう。

 「人は動物ですが、動物の中で割合信頼できます。なぜ信頼できるかというと、人には人の情というものがあるから信頼できる。みすみすなことは大抵はしない。それは人には人の情というものがあるからです。」(p.9)

 信頼できるといえば、犬や猫も人間とよく情が通じるから、「割合」という意味では信頼できる。この「割合」というのは間違いなく動物と人間とを連続的に捉える発想で、日本人には普通に受け入れられるが西洋的ではない。アメリカではいまだに創造説を信じる人が過半数を占めていて、人間と動物との間には厳密な境界があると信じられている。
 レイシズムはある種の人種を動物の側に押しやるもので、人間と動物との厳密な境界が前提されている。その意味では日本にはレイシズムはない。
 禽獣夷狄という言葉はあるが、それは朱子学の人間は「万物の霊」という考え方から来るもので、縦気か横気かによるもので、感情の根源としての「気」は連続している。

 「こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の『こころ』もこれを書いている。」(p.9)

 漱石の方は置いておくとして、第二次大戦の悲惨な虐殺の中で西洋哲学もまたそれまでの理性中心の考え方に大きな反省を強いられることとなった。
 ナチスのユダヤ人虐殺は、日頃隣どうして友達だったユダヤ人の友人をある日アウシュビッツに送らなくてはならなくなる。感情的には憎しみはない。それでも社会正義のために「汝なすべき」の声によってそれを遂行する。ここでカント的な定言命令、「汝なすべし」の声が人間の情に反する残虐な命令を下す事態が生じる。これではいけないと、もっと生身の人間の感情の声を取り戻さなくてはならないということで実存主義の流行となった。
 個人的には恨みはないが社会正義の名目でレイシズムが蔓延する。これは日本人は経験していない。南京事件は便衣兵の恐怖から中国人全体に不信感が広まっての感情的な爆発で、レイシズムの要素はなかった。組織的な民族浄化は存在しなかった。
 情というのはその意味で、理性の命令による組織的な虐殺には至らないが、不安や恐怖が爆発した場合は虐殺も起こりうることを示している。日本で起きる虐殺は基本的にこのパターンで、関東大震災の時も根底にあったのは恐怖だった。
 情は両面的なもので、概ね身内には甘く、敵には残虐になる。

 蝶を噛んで仔猫を舐むる心かな 其角

だ。この両面性には十分注意を払わなくてはならない。

 「そうすると道徳は人本然の情に従うことである。そういえると思う。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在し得ないでしょう。人は情あるが故に道徳というものが存在し得るのです。」(p.9~10)

 この辺りの考え方は基本的に『孟子』のよるものであろう。「本然の情」は正確には「本然の性」であろう。惻隠の心が「情」なのかどうかは儒教内部でも議論のある所ではある。
 いわゆる孟子の四端は喜怒哀楽などの感情のより根底にあるもので、それと区別するなら「性」の方がふさわしい。
 李退渓については一応簡単にウィキペディアを引用しておこう。

 「彼の学問は徹底した内省を出発点としており、この立場から朱熹の学説を整理した。四端七情と理気との関係をめぐる奇大升との長年にわたる朝鮮儒学史上著名な論争でも、論理的整合性を重視する奇大升に対して、人間のあるべき道徳的な姿を求めて、理気の互発説(四端は理の発、七情は気の発)を主張して、さらに理自体の動静(運動性)を明言した。」

 この四端を喜怒哀楽の七情から切り離して、より根源的なものとして捉えるのが李退渓から林羅山に引き継がれた朱子学の道で、芭蕉もまたこの考え方に基づいて本情と一時の私情を区別する。おそらく朱子学神道の大家だった吉川惟足の高弟岩波庄右衛門(曾良)を経由してのものであろう。
 不易流行説は四端を不易として七情を流行とするところに哲学的基礎を持っている。
 道徳の根源にあるのは四端であり、特に仁の根源という意味では惻隠の心を指す。一般的には惻隠の情という言い方もされていて、広義の情に含まれると見てもいい。

 「道徳とは人本然の情に従うのが道徳です。背くのが不道徳です。ところが古来そういった人は一人もいない。孔子なんか随分道徳について説いた。それが儒教ですね。ところが儒教はいろんな形式は詳しく説いていますが、内容は説いていない。」(p.10)

 これは近代の儒教が孟子や易姓革命を否定する明治の国体思想のもとに「孔子のみ」の儒教になったことによる偏見と言って良いだろう。岡潔さんが学校で習った儒教のイメージは確かにこういうものだったと思われる。
 岡潔さんの「道徳とは人本然の情に従うのが道徳です」という考え方は、間接的にであれ孟子から学んだのではないかと思われる。

 「儒教の内容は『仁』です。ところが仁とは何かということいってない。だから儒教は形式は分っても、内容は分らない。仁とは何であるかというと、人本然の情、それが仁でしょう。情の中から不純なものを削り去って、良い所だけを残して、これを『真情』ということにすると、真情が仁です。ところがそういってない。」(p.10)

 これは用語の多少のずれはあるにしても、朱熹、李退渓、林羅山に受け継がれた儒教の考え方と異なるものではない。
 ただ、明治以降のゆがんだ国体儒教からは排除されていた考え方で、本来の儒教を岡潔さんが独力で再発見したのであれば類稀な達観と言っていいだろう。

 「真情が仁だといえば人には誰でも分る。だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。ところが内容が仁であるのが道徳であるというんだから、どうしていいか全く分らない。それで形式ばかり重んじている。それが儒教でしょう。少しも実があがってない。」(p.10)

 真情は芭蕉の言う本情と同じに考えていいだろう。

2022年11月18日金曜日

  秦野市俳句協会の入門講座で貰った岡潔さんの「情と日本人」という冊子を、今回は読んでみようと思う。有名な数学者らしいけど、その方面のことはよく知らない。

 「今日初めて聞かれる方もあるかも知れませんが、その方にとっては関係ないことだけど、そうじゃない方もおられる。で、そうでない方に対して、今日また同じことを繰り返そうと思う。」(p.8)

 これはまあ導入部で、これまで何度も同じ話をしていたということで、大事なことなので何回でも繰り返しますという意味が込められていると思う。

 「どういうことかというと、日本人は『情』の人である。人としてそれが正しいんです。そうであるということが非常に大事だのに、少しもそれを自覚していない。」(p.8)

 これはひとえに西洋崇拝の弊害と言えよう。西洋哲学は長いこと霊肉二元論によって、一方には盲目的な欲望を持つ肉体があり、もう一方にはそれを制御する理性がある。
 これは例えば男女の仲で言えば、闇雲で無差別な性欲があって、それを制御するのが理性であるということで、そこには恋愛感情を差し挟む隙間がない。
 もちろん西洋の小説や様々な物語に恋愛は描かれている。ただ、哲学者の中にそれは存在しなかったと言って良い。
 正確には肉体から切り離された観念の上での愛はあっても、それは肉体的欲求とは区別される。いわゆるプラトニックラブと呼ばれるものしかない。そして欲望はただ見境のない、誰かれ構わないものとみなされる。
 西洋の哲学は一貫して人間のメンタルな部分やエモーショナルな部分を取りこぼしてきた。そして、明治以降の日本の学者もそれに右に倣えしてきたと言って良い。
 もちろん西洋でもニーチェのようにディオニソス的なものを取り戻そうという動きもあった。ただ、日本の本来の文化が本来人情を基礎としてきたことは自覚してないというよりも、西洋化の名のもとに否定され、抑圧されてきたと言って良い。
 日本人が本当に人情を忘れたのではないことは近代の大衆文化を見れば一目瞭然で、それは西洋的な学問の支配によってただ抑圧されてきたにすぎない。ただそういったものを卑俗だとか低俗だとか言ってきただけのことだった。

 「日本人は情の人であるということと自覚するということが、今非常にしなければならないことであると本当に分って、本当にそう思うようになってもらいたいと思うんです。つまり、言葉でいえば『日本人は情の人である』だけなんです。そういえば成程と思う。これは日本人だからだと思いますが、しかし、それから先が進まないんですね。」(p.8)

 「日本人は情の人である」という、こうした命題として規定する言い方自体が理性的な文脈に置かれていて、「情」が日本語では「こころ」だったり「まこと」だったり「なさけ」だったり多様な側面を持っていることを、西洋的な形而上学の理論ではうまく説明できない。
 ハイデッガーのいうSolgeはそれに近いかもしれないし、それが個人のものではなくVolkとしての社会的のものとして規定されるなら、日本語の「人情」に近いものにはなるが、西洋哲学の言葉はそれ以上の豊かさを持っていない。
 ロシアのドゥーギンのナロッドもまた、正教会とプラトニズムの支配下にあり、霊肉二元論を逃れるものではなく、いかにディオニソス的な「闇」を解放したとしても、ロシアが西ヨーロッパに比べてこの闇に精通しているとしても、その豊かさはまだ限定的と言える。
 その困難な闇を日本人は易々と日常的平均的に理解している。それゆえハイデッガーのいうDas Manへの頽落は知識人は別としても大衆レベルでは生じていない。和辻哲郎がハイデッガーのいう現存在の本来性と非本来性が逆だと指摘したのも、日本人にとっての日常的平均的なものは決して利益共同体(ゲゼルシャフト)でもなければ、「~のための」の連関によって生活が道具化しているという事実もなく、「死への存在」すら仏教の伝統によって日常の中に取り込まれ、現存在の有限性なども当然のこととして認識されている。日本人はコノハナサクヤヒメの神話以来、永遠の生を放棄したからだ。
 問題はこの日常的平均的なものの中で実現されているメンタルでエモーショナルな社会が西洋の言葉を使うや否や自覚できなくなる、というその一点ではないかと思う。
 これは西洋哲学の欠陥ではあっても日本人の欠点ではない。

 「大阪へ行って淀川を見る。これはひどい、これではいけないと直ぐ公害を思うんだけど、川が見えなくなるとけろりと忘れてしまう。そんな風な分り方ではさっぱりことは進展しない。で、そうじゃないようにしようと思う。」(p.8)

 この文章は一九七二年の公演を筆記したもので、「公害」という言葉が当時の流行語だった。やがて「環境汚染」「環境破壊」だとかいう言葉が多く使われるようになって、「公害」は今では死語に近いものになっている。「公害」は示す内容がかなり漠然としているため、どうでもいい些細なことに「何々公害」だとか矮小化されていくうちに、次第に用いられなくなっていった。
 公害と向き合うにはまず「公害」の内容そのものが漠然としたものではなく、客観的に議論できる明確な対象となる必要がある。ただ漠然として川が汚れているというのではなく、川にどういう有害物質があり、それはどのように流れ込むかまで踏み込めば、その対策も可能になる。ただ漠然と汚れているというだけなら、雨で増水して泥水になっているのと変わらない。
 同じように「日本人は情の人である」ということを常に意識に留めるには、それを明確に規定する言葉が必要になる。ただ、西洋哲学はそれを欠いている。そこが問題になる。

 「そうすると、結局同じことを繰り返し繰り返しいうことになってしまう。そうする他はない。それで今日も同じことを繰り返していおうと思うんです。」(p.8~9)

 ここで冒頭の言葉に帰ってくる。このことは前にも言ったし、今まで何度となく同じことを繰り返し言い続けてきた、と。
 岡潔さんは数学者ではあっても哲学者ではないし、日本の哲学者のほとんどは、はっきり言って西洋哲学を理解できてないし、ただ細かな語句を整理して目録を作る位の作業しかしていない。理解できてないものを発展させ、日本人の情を哲学の言葉にするなどと言う作業は求むべくもなかった。

2022年11月16日水曜日

 軍事上の情報は作戦上の思惑もあるから、すべて正確に伝えられることはないと思った方が良いのだろう。いずれにせよ多くの人の命がかかわっているから、単純に「知る権利」を振り回すべきではない。特に戦時下であればなおさらだ。
 バイデンさんは参戦したくないし、参戦の口実を作りたくないという思惑があるのだろう。

 それでは「雪おれや」の巻の続き、挙句まで。
 名残裏、九十三句目。

   三文もせぬ筆津虫なく
 智恵づけや先小学の窓の露    卜尺

 小学はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小学」の解説」に、

 「① 中国、夏・殷・周三代の学校で、八歳以上の児童を教育したところ。また、そこで主として教えた学科、すなわち進退・洒掃(さいそう)・文字など。転じて、儒学における初歩的、基本的な学問をいう。
  ※古活字本毛詩抄(17C前)一〇「郷人の子弟たるもの、小学の学校に入て学問するを秀士と云」
  ※閑耳目(1908)〈渋川玄耳〉漢文自修法「字画を覚え字音を識(しる)のは所謂小学(セウガク)、学問に於ての第一歩である」 〔礼記‐王制〕
  ② (①で、主として文字を教えたところから) 文字の字形・字音・字義に関する研究。
  ※随筆・続昆陽漫録補(1768)「小学は文字の学ゆへ」
  ③ 「しょうがっこう(小学校)」の略。
  ※文部省布達第一三号別冊‐明治五年(1872)八月三日「学校は三等に区別す。大学中学小学なり」
  [2] 書名。劉子澄が朱子に指導を受けて編集した初学者課程の書。淳熙一四年(一一八七)成立。内外二編、六巻よりなり、洒掃・応対・進退などの作法、修身道徳の格言、忠臣孝子の事績などを集めている。江戸時代には、昌平黌(しょうへいこう)や藩校で用いられた。」

とある。ここでは貧しい家庭でも三文の筆で①の「儒学における初歩的、基本的な学問」を身に付けさせようということであろう。
 秋がまだ二句なので、ここは窓の雪ではなく窓の露になる。
 九十四句目。

   智恵づけや先小学の窓の露
 薬をきざむ町の呉竹       一朝

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『竹雪』の、

 「地子の別れ路を悲しみて、竹の雪をかきのくる。わが子の死骸あらば孟宗にはかはりたり。嬉しからずの雪の中や。思ひの多き年月も、はや呉竹の窓の雪夜学の人の燈火も、払らはばやがて消えやせん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2892). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 町医者の子どもであろう。後を継がせようと教育に熱心だ。
 九十五句目。

   薬をきざむ町の呉竹
 箱根路を我越来れば子をうむ音  志計

 「箱根路を我越来れば」といえば、

 箱根路を我が越え来れば伊豆の海や
     沖の小島に波の寄る見ゆ
              源実朝(続後撰集)

の歌で、「いづのうみや(伊豆の海や)」を「いつの生みや」として、子を産むとする。
 前句を小田原の有名な藤の丸の膏薬屋としたか。延宝七年の「須磨ぞ秋」の巻九十八句目に、

   千年の膏薬既に和らぎて
 折ふし松に藤の丸さく      桃青

の句がある。
 九十六句目。

   箱根路を我越来れば子をうむ音
 狐にばかされ明てくやしき    在色

 街道で産気づいた女がいて駆け寄ったが狐だった。
 九十七句目。

   狐にばかされ明てくやしき
 待ぼうけまつ毛のかはく隙もなし 松臼

 狐に化かされて待ちぼうけをくらう。待つだけにまつ毛が涙で濡れる。
 九十八句目。

   待ぼうけまつ毛のかはく隙もなし
 思ひの色や辰砂なる覧      正友

 辰砂はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「辰砂・辰沙」の解説」に、

 「① 水銀の硫化鉱物。特徴ある紅色の土状または塊状物。六方晶系。水銀の原料鉱物として重要。古くから顔料の朱としても用いられた。中国の辰州(湖南省沅陵県)から産したのでこの名がある。朱砂。丹砂。丹朱。
  ※太平記(14C後)二五「風を治する薬には、牛黄金虎丹、辰沙(シンシャ)、天麻円を合せて御療治候べしと申す」
  ② 陶磁器で、銅を含む釉(うわぐすり)の一種。還元焔焼成により、天然朱の辰砂に似た鮮紅色に発色する。中国では釉裏紅(ゆうりこう)という。」

とある。いずれにしても血の涙の色。

 見せばやな雄島のあまの袖だにも
     濡れにぞ濡れし色は変らず
              殷富門院大輔(千載集)

は血の涙を遠回しに言った歌として知られている。血の涙を直接詠んだ歌は、

 ちの涙おちてぞたぎつ白河は
     君か世までの名にこそ有りけれ
              素性法師(古今集)

の哀傷歌に見られる。
 九十九句目。

   思ひの色や辰砂なる覧
 玉垣の花をささげていのり事   雪柴

 前句を思う心の清き赤き心と取り成す。赤心はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「赤心」の解説」に、

 「① (「赤」は、はだか、あるがままの意) うそいつわりのない心。まごころ。誠意。赤誠。丹心。
  ※菅家文草(900頃)七・未旦求衣賦「容光正レ襟。推二赤心於微隠一」
  ※正法眼蔵(1231‐53)身心学道「赤心片々といふは、片々なるはみな赤心なり、一片両片にあらず、片々なるなり」 〔魏志‐董昭伝〕
  ② ものの赤い中心。赤い芯(しん)。〔毛詩草木鳥獣虫魚疏〕」

とある。
 赤心奉国は『資治通鑑』が出典だという。幕末になると赤心報国になって、尊王のスローガンになる。
 挙句。

   玉垣の花をささげていのり事
 女性一人広前の春        一鉄

 広前(ひろまへ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「広前」の解説」に、

 「〘名〙 神仏の前をうやまっていうことば。神の御前。また、神殿・宮殿などの前庭。太前(ふとまえ)。宝前(ほうぜん)。大前(おおまえ)。
  ※文徳実録‐嘉祥三年(850)七月丙戌「天御柱国御柱神の広前に申賜へと申く」

とある。神の御前で祈りを捧げて一巻及び千句興行は目出度く終わる。
 前書きに「あらがねの槌音絶ぬ鍛冶町と云所へ時々会合して」とあるように神田鍛冶町の松意の家で行われた興行ではあったが、この千句を神前に捧げる意図があったのであろう。

2022年11月15日火曜日

 筆者も左翼の家庭に育った者として、そろそろラスボス戦に挑む時が来たのかもしれない。つまり「資本論」を攻略すべき時が。
 それが二十世紀の共産主義がもたらした数々の虐殺への、元共産主義者としての責任に他ならない。

 マルクスは結局拡大再生産が富をもたらすということを理解してなかったとしか思えない。
 多分マルクスは生産性の向上は資本主義的拡大再生産とは別個の所で起きる、単純で偶発的な発明にすぎないとでも思っていたのだろう。
 そうではなく、剰余価値を更に生産性を高めるための技術開発や新たな生産システム構築に充てるがゆえに、資本主義は生産性を飛躍的に高めて行くシステムになった。
 労働価値説の見地では、剰余価値を含めた全生産物の商品価値と労働者への賃金は等しくならなくてはならない。つまり剰余価値をすべて労働者に還元することを要求し、それを怠ることは搾取であると断罪する。これでは拡大再生産は生じず、資本を単純再生産に縛り付けることになる。そこには経済成長はない。
 マルクスの時代の産業革命がもたらした豊かさは、たまたま起こった発明によるもので、その豊かさが労働者に還元されてないから、それは疎外であり搾取であると断罪した。
 だが、実際には資本主義はその過酷な競争の中で、より生産性を高める発明を求め、より生産性の高い効率の良い生産手段を開発することで急成長をもたらした。マルクス主義はその好循環を否定する思想だったなら、マルクス主義にもはや未来を託すことは危険以外の何物でもない。
 マルクスが描いた共産主義が、経済にブレーキをかけ、その停滞した富を再分配するだけのシステムだったなら、つまり今の社会主義者・共産主義者が正しいマルクス主義者であるなら、それは飢餓と粛清の嵐しか生まない。断固それと戦わねばならない。
 マルクスが理想としては拡大再生産を肯定していたが、「資本論」の資本の分析で、古典経済学の労働価値説が足かせになって失敗しただけだというなら、マルクスをマルクス主義から切り離して救い出すことができる。
 でも、そうでなかったならマルクスを救う理由は何もない。そこにあるのはこれからも血みどろの屍の山だ。
 日本共産党はマルクスを捨てるか、マルクスとマルクス主義を切り離すかどちらかをしなくてはならないが、その際今やらなくてはならないのは綱領からの「革命」の文言の削除だ。
 民主主義革命と言葉を変えてごまかしても、不可逆的な体制の変革を求めるなら、反動分子を警察や解放軍などの暴力装置を用いて取り締まるのは必然だ。
 つまり厳密な意味での非暴力革命なんてのは存在しない。ただ暴動やテロや武装蜂起ではなく、公権力の奪取による公的暴力による変革があるだけの話だ。革命の文言が残っている限り、日本共産党は暴力革命を肯定している。

 あと、「峰高し」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「雪おれや」の巻の続き。
 名残表、七十九句目。

   月に向ひて恋の先がけ
 文づかひ夕の露を七の図まで   松臼

 七の図はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「七の椎」の解説」に、

 「(「ず」は「ずい」の略か) 背骨の大椎部から数えて七節と八節の間。七枚目の肋骨。尻の上部。
  ※浮世草子・懐硯(1687)四「背中を脱ば、七の椎(ズ)に王といふ文字の下に大きなる判すわりたるを」

とある。
 ライバルよりも早く文を届けようと近道して夕暮れの露の降りた草むらを走り抜ける。 尻の上まで露でぐっしょりとなる。
 八十句目。

   文づかひ夕の露を七の図まで
 木刀のすゑ尾花波よる      一鉄

 その男の姿は薄に埋もれて見えず、木刀の先に吊るした状箱だけが歩いて行く。
 八十一句目。

   木刀のすゑ尾花波よる
 一流のむさしの広く覚たり    雪柴

 薄が原というと武蔵野ということで、二天一流の宮本武蔵の木刀とする。
 八十二句目。

   一流のむさしの広く覚たり
 千家万家に分る水道       松意

 前句の一流を一筋の流れとして、玉川上水のこととする。玉川上水は承応二年(一六五三年)に完成した。
 八十三句目。

   千家万家に分る水道
 下り酒名酒にてなどなかるべき  正友

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『俊寛』の、

 「これは仰せにて候へども、それ酒と申すことは、もとこれ薬の水なれば、醽酒にてなどなかるべき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2934). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 上方から下ってくる透き通った清酒は名酒で、千家万家に分ける薬の水の道だ。
 「など」は反語になる。
 八十四句目。

   下り酒名酒にてなどなかるべき
 大江山よりすゑのかし蔵     卜尺

 かし蔵はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「貸蔵」の解説」に、

 「〘名〙 料金を取って、他に貸す倉庫。貸し倉庫。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「大江山よりすゑのかし蔵〈卜尺〉 踏分て生野の道の鼠くそ〈一朝〉」
  ※咄本・軽口露がはなし(1691)一「戸をさし『借家(かしいへ)かし蔵』と書付しを」

とある。
 この場合の大江山は地理的なものではなく、大江山の酒呑童子を退治して以来ということで、下り酒は鬼をも倒すものだから名酒でないはずがない、となる。
 八十五句目。

   大江山よりすゑのかし蔵
 踏分て生野の道の鼠くそ     一朝

 大江山に生野の道は、

 大江山いく野の道の遠ければ
     まだふみも見ず天橋立
              小式部内侍(金葉集)

の歌による。
 大江山の向こうにある貸し蔵に行くには、生野の道の鼠の糞を踏み分けて行かなくてはならない。
 八十六句目。

   踏分て生野の道の鼠くそ
 笹枕にぞたてしあら鍔      志計

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「鼠の糞は『鏽腐鉄器、鼠尿塗新小刀表、安於醋桶上得醋気刮去之肌如古刃』(和漢三才図会)と言われるから、旅寝の枕元に新鍔の道中差を置いたところ、一夜にして錆びたというのであろう。「銹」の抜句であろる。」

とある。
 八十七句目。

   笹枕にぞたてしあら鍔
 鎗持や夢もむすばぬ玉霰     在色

 笹枕を那須の篠原として、

 もののふの矢並つくろふ籠手の上に
     霰たばしる那須の篠原
              源実朝(金槐和歌集)

の縁で霰を降らせ、武士の一段下の槍持ちを登場させる。
 鎗には鍔すらない。
 八十八句目。

   鎗持や夢もむすばぬ玉霰
 口舌に中は不破の関守      松臼

 槍持ちの恋は言い争いになって家庭不和になる。不和を不破の関守に掛ける。
 八十九句目。

   口舌に中は不破の関守
 年経たる杉の木陰の出合宿    一鉄

 出合宿はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出合宿」の解説」に、

 「〘名〙 男女が密会に使う家。出合屋。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「草のまくらに今朝のむだ夢〈一鉄〉 ばかばかと一樹の陰の出合宿〈雪柴〉」

とある。例文は「峰高し」の巻二十三句目。そこでも書いたがラブホの原型とも言えるもので、昭和の時代は「連れ込み宿」と言った。「温泉マーク」「さかさくらげ」という言葉もあった。
 まあ幽霊でも出そうなぼろっちい宿を選んで口論になったのだろう。関所に杉は付き物。
 九十句目。

   年経たる杉の木陰の出合宿
 いかに待みむ魚くらひ坊     雪柴

 出合宿で待ってたのはなまぐさ坊主だった。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注にもあるように、

 みわの山いかにまち見む年ふとも
     たづぬる人もあらじと思へば
              伊勢(古今集)

を本歌とする。
 九十一句目。

   いかに待みむ魚くらひ坊
 一休を真似そこなひし胸の月   松意

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「一休咄に、食った魚を生かして放つという一休のことばを信じて、人々の待つ話がある。」

とある。
 九十二句目。

   一休を真似そこなひし胸の月
 三文もせぬ筆津虫なく      正友

 筆津虫はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「筆津虫」の解説」に、

 「〘名〙 昆虫「こおろぎ(蟋蟀)」の異名。《季・秋》
  ※古今打聞(1438頃)中「ふでつむしあきもいまはとあさちふにかたおろしなる声よわるなり 筆登虫は蛬を云也」

とある。
 一休の筆なら高く売れそうだが、偽物は三文にもならない。

2022年11月14日月曜日

 ツイッターも変なネットデモの声が聞こえてこなくなったし、絵師たちのいろんな絵がTL復活祭で表示されるようになったし、次は誰か2チャンネルを取り戻してくれないかな。
 結局日本のネットを駄目にしたのは朝日とハフポストだったということか。あと、CNNでもクーリエでもBBCでもジャパンと付くのは日本のメディアなので気をつけよう。今は現地語のニュースでもグーグルが訳してくれる。
 あと、鈴呂屋書庫に「髪ゆひや」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「雪おれや」の巻の続き。
 三裏、六十五句目。

   何院殿の法事なる覧
 籠払ひそれらが命拾ひもの    正友

 籠払ひはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「牢払」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、牢内の囚人を解放すること。将軍家の法事などに際し、諸国の軽罪囚の赦免が行なわれたほか、江戸小伝馬町の大牢で、出火あるいは近火の時に、三日間の日限付きで囚人を解放した。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「籠(ロウ)払ひそれらが命拾ひもの〈正友〉 角のはへてや来る伝馬町〈卜尺〉」

とある。今でいう恩赦のこと。
 前句の法事で恩赦が下され、死刑囚も命拾いする。
 六十六句目。

   籠払ひそれらが命拾ひもの
 角のはへてや来る伝馬町     卜尺

 伝馬町にはかつて牢屋敷があった。
 出てきた囚人は髪や髭が伸び放題になって鬼のようで、角が生えているのかと思わせるような風体だった。
 六十七句目。

   角のはへてや来る伝馬町
 胸の火をかな輪にもやす亭女   一朝

 かな輪はこの場合はコトバンクの「世界大百科事典内の金輪の言及」に、

 「…このほか籐製などもある。火鉢の付属品として火箸,灰ならし,五徳(ごとく)(炭火の上に置いて鉄瓶などをかける脚付きの輪,古くは金輪(かなわ)といった)が使われる。 火鉢は和風住宅の暖房器具を代表するものといえる。…」

とある、火鉢に乗せる金輪か。
 亭女は前句の伝馬町からすると伝馬宿の女亭主であろう。火鉢の前で嫉妬の炎をメラメラ燃やしながら夫の帰りを待っている。あたかも角が生えたようだ。
 六十八句目。

   胸の火をかな輪にもやす亭女
 別はの酒寒いにま一つ      志計

 前句を別れ際の悲しみの恋心の炎として、火鉢に掛けた熱燗を別れ際に「まあ、一つ」と差し出す。
 六十九句目。

   別はの酒寒いにま一つ
 長枕寝肌の雪の朝ぼらけ     在色

 寝肌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寝肌」の解説」に、

 「〘名〙 寝ているときの肌。また、ともに寝た人の肌の具合。
  ※曾丹集(11C初か)「あらいそに荒波たちてあるるよもきみがねはたはなつかしきかな」

とある。
 雪は雪の朝とも取れるし、共に寝た人の肌の雪のような白さとも取れる。
 寒いので酒を一杯飲んでから出て行く。
 七十句目。

   長枕寝肌の雪の朝ぼらけ
 待くたびれてうぐひすの声    松臼

 二人用の長枕に来ぬ人を待って夜が明けたとする。春が来たというのにあなたは帰らない。
 七十一句目。

   待くたびれてうぐひすの声
 峰の雲花とおどろく番太郎    一鉄

 番太郎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「番太」の解説」に、

 「〘名〙 (「ばんたろう(番太郎)」の略)
  ① 江戸時代、町村で治安を守り、警察機構の末端を担当した非人身分の番人。平常は、番人小屋(番屋)に詰め、町村内の犯罪の予防、摘発やその他の警察事務を担当し、番人給が支給されていた。番非人。番太郎。番子。
  ※俳諧・当世男(1676)秋「藁一束うつや番太が唐衣〈見石〉」
  ② 特に、江戸市中に設けられた木戸の隣の番小屋に住み、木戸の番をしたもの。町の雇人で、昼は草鞋(わらじ)、膏薬、駄菓子などを売り内職をしていた、平民身分のもの。番太郎。番子。」

とある。非人の身分であることが多く、

 五月雨や竜灯あぐる番太郎    芭蕉

の句もある。暗くなると愛宕灯籠を点けて回ったりもしていた。
 花の雲は『古今集』仮名序に、

 「よしのの山のさくらは、人まろが心には、くもかとのみなむおぼえける」

とある。それ以来桜は雲に喩えられるが、その面白さは番太郎でもわかる、というところだろう。
 七十二句目。

   峰の雲花とおどろく番太郎
 人丸が目やかすむ焼亡      雪柴

 焼亡はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「焼亡」の解説」に、

 「〘名〙 (「もう」は「亡」の呉音。古くは「じょうもう」)
  ① (━する) 建造物などが焼けてなくなること。焼けうせること。焼失。しょうぼう。
  ※田氏家集(892頃)中・奉答視草両児詩「勝家焼亡曾不レ日、良医傾没即非レ時」
  ② 火事。火災。しょうぼう。
  ※権記‐長保三年(1001)九月一四日「及二深更一、西方有二焼亡一」
  ※日葡辞書(1603‐04)「Iômǒno(ジョウマウノ) ヨウジン セヨ」
  [語誌](1)「色葉字類抄」によると、清音であったと思われるが、「天草本平家」「日葡辞書」など、室町時代のキリシタン資料のローマ字本によると「ジョウマウ」と濁音である。
  (2)方言に「じょうもう」の変化形「じょーもん」があるところから、室町時代以降に口頭語としても広がりを見せたと思われる。」

とある。
 人丸は「ひとまる=火止まる」と掛けて火災除けの神様でもあった。
 鍛冶で焼け野原になったところに白い煙が残っている様を番太郎が峰の花かと思う。人麿の目を持っている。
 七十三句目。

   人丸が目やかすむ焼亡
 年月と送る藁屋のめし時分    松意

 前句の人丸を謡曲『景清』の悪七兵衛景清の娘の人丸とする。
 日向の国にやってきて、そこで、

 「不思議やなこれなる草の庵古りて、誰住むべくも見えざるに、声めづらかに聞こゆる は、もし乞食のありかかと、軒端も遠く見えたるぞや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2949). Yamatouta e books. Kindle 版. )

という藁屋に辿り着く。
 前句の焼亡が実は飯炊く湯気だったとする。
 七十四句目。

   年月と送る藁屋のめし時分
 つとめの経やすみの衣手     正友

 前句を僧の藁屋とする。
 飯を炊いているから朝のお勤めの経を上げるその衣手は炭で汚れている。
 七十五句目。

   つとめの経やすみの衣手
 うき世かなおくれ先だつ夫婦中  卜尺

 妻に先立たれて夫が出家してお経をあげる。
 七十六句目。

   うき世かなおくれ先だつ夫婦中
 大和の国になみだ雨ふる     一朝

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『三輪』の、

 「五濁の塵に交はり、暫し心は足引の大和の国に年久しき夫婦の者あり。八千代をこめ し玉椿、変らぬ色を頼みけるに」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2308). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。言葉は借りているがこの謡曲の趣向ではないので本説ではない。
 情としては、

 墨染めの君が袂は雲なれや
     たえす涙の雨とのみふる
              壬生忠峯(古今集)

の哀傷歌であろう。
 七十七句目。

   大和の国になみだ雨ふる
 悋気にや宇野が一党さはぐらん  志計

 宇野の一党は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』に、

 「大和国宇野太郎親治の一党。保元物語に家の子郎党を率いて新院の加勢に向かう途中、敵軍に包囲されて滅亡したとある。」

とある。これは宇野七郎親治のことか。その息子には宇野太郎有治がいる。
 宇野七郎親治の方はウィキペディアに、

 「大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎に繋がれていたが、戦後赦免されて本拠の大和に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。」

とある。宇野太郎有治の方は、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「源有治」の解説」に、

 「1139-1221 平安時代後期の武将。
保延(ほうえん)5年8月30日生まれ。源親治(ちかはる)の長男。大和源氏。治承(じしょう)4年(1180)源頼政(よりまさ)の挙兵にくわわるが敗れ,法然をたよって出家。大和(奈良県)宇野や吉野で念仏の教化につとめた。承久(じょうきゅう)3年2月2日死去。83歳。通称は宇野太郎,斎院次官。法名は聖空。」

とある。
 いずれにせよ負け将で、ここではその故事を引きながらも、あくまで現代の女を廻る諍いとする。
 七十八句目。

   悋気にや宇野が一党さはぐらん
 月に向ひて恋の先がけ      在色

 誰かが宇野一党出し抜いて抜け駆けして、月の野原を女の下にまっしぐら。

2022年11月13日日曜日

 資本主義は人類に莫大な富をもたらしたが、何でそれが悪者にされてしまったのか。
 思うに、剰余価値を再投資することで経済成長させるシステムを搾取だと言い出したからだろう。
 剰余価値をすべて労働者に還元してしまったら、拡大再生産ではなく単純再生産になり経済は停滞する。
 資本主義が国家の統制下に置かれ、剰余価値の再分配が要求されれば、間違いなく経済は停滞する。
 労働者の給与は資本の側からすれば原材料を仕入れたり工場を立てたりするのと同様の投資であり、その時点で労働者への富の配分は完了している。
 それプラス剰余利益を配分するということは、いわゆる業績好調の際のボーナスという形態はあるものの、本来の給与ではない。
 一方剰余利益は株主の配当という形で出資者へも還元されるが、これも剰余利益の全部が分配されることはない。株主の権利として全部の分配を求めるなら、それもまた拡大再生産を不可能にして、経済の停滞をもたらす。
 この比率は市場原理にゆだねるのが正しい。労働者への還元は質の高い労働者を集めるための手段ではあっても、義務ではない。配当もまた株主の出資を促し株価を上げる手段ではあっても義務ではない。いずれも市場原理が決める。

 それでは「雪おれや」の巻の続き。
 三表、五十一句目。

   川原おもての貝がらの露
 目前にうつす二見の秋の景    在色

 二枚貝の二身に伊勢の二見ヶ浦を掛ける。貝殻の内側に二見ヶ浦の景色が描かれている。
 五十二句目。

   目前にうつす二見の秋の景
 反平をふむちどりなく也     松臼

 反平は「はんひやう」とある。千鳥は反閇(へんばい:千鳥足)を踏んで歩くが、それをもじって漢詩の反法の平仄を踏んで鳴くとする。
 五十三句目。

   反平をふむちどりなく也
 山家おち妹がり行ば小夜更て   一鉄

 漢詩のイメージから山家に隠棲する僧が堕落した夜這いに行ったとする。和歌でなく漢詩で口説く。
 五十四句目。

   山家おち妹がり行ば小夜更て
 諸行無常とひびくかね言     雪柴

 かね言はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「予言・兼言」の解説」に、

 「〘名〙 (「かねこと」とも。かねて言っておく言葉の意) 前もって言うこと。約束の言葉、あるいは未来を予想していう言葉など。かねことば。
  ※後撰(951‐953頃)恋三・七一〇「昔せし我がかね事の悲しきは如何契りしなごりなるらん〈平定文〉」
  ※洒落本・令子洞房(1785)つとめの事「ふたりが床のかねごとを友だちなどに話してよろこぶなど」

とある。
 まあ破戒僧の約束だから常ならずで、儚く消えて行く。
 五十五句目。

   諸行無常とひびくかね言
 付ざしの口に飛込気色あり    松意

 付ざしはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「付差」の解説」に、

 「〘名〙 自分が口を付けたものを相手に差し出すこと。吸いさしのきせるや飲みさしの杯を、そのまま相手に与えること。また、そのもの。親愛の気持を表わすものとされ、特に、遊里などで遊女が情の深さを示すしぐさとされた。つけざ。
  ※天理本狂言・花子(室町末‐近世初)「わたくしにくだされい、たべうと申た、これはつけざしがのみたさに申た」

とある。
 付ざしの酒か煙管を差し出した遊女の口からは、営業用の甘い言葉が飛び出すが、遊女の色気にやはりそこは飛び込んでいきたい。
 五十六句目。

   付ざしの口に飛込気色あり
 蠅にならひて君に手をする    正友

 口ざしにと差し出されたものに、蠅のように手を擦って飛びつく。
 五十七句目。

   蠅にならひて君に手をする
 はげあたま甲をぬいて旗を巻   卜尺

 禿げ頭だと蠅も滑って落ちると言われる。ここでは単なる縁語として用いて、意味のつながりはない。
 主君の前で甲を抜いて、禿げ頭を隠すために旗を頭に巻き、手を擦って取り入ろうとする。
 五十八句目。

   はげあたま甲をぬいて旗を巻
 名は末代の分別どころ      一朝

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「諺『一は一代名は末代』」とある。
 生きて汚名を背負うより死して名を末代に残す。前句を敗将の自害とする。
 五十九句目。

   名は末代の分別どころ
 有明の月の夜すがら発句帳    志計

 発句帳という立圃の『俳諧発句帳』(寛永十年刊)。
 きっと後世になお残すために有明の月を見るまで夜通し句を案じていたのだろう。

 霧の海底なる月はくらげ哉    立圃

の句がある。
 六十句目。

   有明の月の夜すがら発句帳
 京都大坂江戸の秋風       在色

 京都大坂は談林の盛んな所で、今は江戸でも大流行している。みんな夜すがら発句帳に俳諧のネタを書き留める。
 六十一句目。

   京都大坂江戸の秋風
 穀物の相場さだめぬ露時雨    松臼

 穀物の相場は時雨のように定めなきもので、それで儲ける人もいれば秋風の吹く人もいる。
 六十二句目。

   穀物の相場さだめぬ露時雨
 先算盤に虫のかけ声       一鉄

 算盤はじきながら市場で競りの掛け声をかけるのを、前句の露時雨を受けて虫の掛け声とする。
 六十三句目。

   先算盤に虫のかけ声
 綱うらは麓の野辺に御影石    雪柴

 御影石は六甲山地で取れる花崗岩で、大阪城の築城にも用いられて、巨大なものが石垣に残されている。
 切り出した御影石に綱を付けて麓に引っ張ってくるが、儲けようと人足の給料をケチっているので、みんな虫の息の掛け声で士気が上がらない。
 六十四句目。

   綱うらは麓の野辺に御影石
 何院殿の法事なる覧       松意

 野辺の放置された御影石は一体何院殿の供養塔になるのだろうか。

2022年11月12日土曜日

 それでは「雪おれや」の巻の続き。
 二裏、三十七句目。

   かけ奉る虎やうそぶく
 花生はもとこれ竹の林より    松意

 竹林の虎は画題の定番。由来はよくわからない。
 花を生ける一輪挿しの竹も元は竹林から取って来るもので、それに掛け軸の虎を合わせる。
 三十八句目。

   花生はもとこれ竹の林より
 相客七人はるのあけぼの     正友

 竹林と言えば竹林の七賢、 阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉伶・阮咸・王戎だが、本物なのか、それともたまたま七人の客が来たというだけか。
 三十九句目。

   相客七人はるのあけぼの
 比丘尼宿はやきぬぎぬに帰る鴈  卜尺

 比丘尼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「比丘尼」の解説」に、

 「① (bhikṣuṇī bhikkhunī の音訳。苾蒭尼(びっしゅに)とも音訳する) 仏語。出家して具足戒(三四八戒)を受けた女子。尼。びくにん。
  ※書紀(720)敏達六年一一月「百済の国の王、還使大別王等に付て、経論若干巻并て律師、禅師、比丘尼(ヒクニ)、呪禁師、造仏工、造寺工、六人を献る」
  ② 歌比丘尼・熊野比丘尼・絵解(えとき)比丘尼など、尼の姿をして諸国を巡り歩いた一種の芸人。中世から江戸時代ごろまで続き、江戸時代には、尼の姿で売春をした下級の私娼をもいう。びくにん。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)二「酒などすこしづつ、のみける処に、比丘尼(ビクニ)ども一二人いで来て、哥をうたふ」
  ③ 良家の子女の外出につきそってその過失を身にひきうける尼。科負(とがおい)比丘尼。
  ※浮世草子・好色五人女(1686)三「十五六七にはなるまじき娘、母親と見えて左の方に付、右のかたに墨衣きたるびくにの付て」

とある。ここでは②の意味で、一晩に七人の客を取って、明け方にみんな雁のように列になって帰って行く。戦時中の従軍慰安婦みたいで、合戦の前とかにありそうだ。
 四十句目。

   比丘尼宿はやきぬぎぬに帰る鴈
 かはす誓紙のからす鳴也     一朝

 誓紙は起請文に同じ。あなただけですよと形だけの誓いを文章にして客みんなに渡す。カラスがあきれて鳴いている。
 四十一句目。

   かはす誓紙のからす鳴也
 終は是死尸さらす衆道事     志計

 死尸は「しかばね」とルビがある。衆道の三角関係がしばしば刃傷沙汰になることは西鶴の『男色大鏡』にもある。
 四十二句目。

   終は是死尸さらす衆道事
 豆腐のぐつ煮夢かうつつか    在色

 衆道はお坊さんに多いので、その快楽も豆腐をぐつぐつ煮る間の夢と消える。
 黄粱を炊く間の夢に一生の栄華を見る邯鄲の枕の故事による。
 四十三句目。

   豆腐のぐつ煮夢かうつつか
 す行者もこよひは爰にかり枕   松臼

 す行者は修行者。腹をすかせた修行者が行き倒れになって、夢に豆腐のぐつ煮を見る。
 四十四句目。

   す行者もこよひは爰にかり枕
 番場とふげはつもる大雪     一鉄

 番場は中山道の宿場で摺針峠のことか。鳥居本宿との間にある。琵琶湖湖畔の平地から関が原へ向かう山地に差し掛かる所にある。鎌倉末期の北条仲時の悲劇の地でもあるが、この悲劇は夏の事。
 冬は大雪になりやすい。
 四十五句目。

   番場とふげはつもる大雪
 駒とめて佐保山の城打ながめ   雪柴

 佐保山城はかつて彦根にあった石田三成の城で、関が原合戦に敗れたあと三成の父石田正継がこの城に籠って応戦したが落城し、石田の一族は絶えることとなった。石田三成は長浜の北の高時川の方へ逃れたが捕縛された。
 いずれにしても雪の季節ではないし、特に本説ということではなく、普通に旅体の句と言って良いだろう。

 駒とめて袖打ち払ふ陰もなし
     佐野のわたりの雪の夕暮れ
              藤原定家(新古今集)

が本歌になる。
 四十六句目。

   駒とめて佐保山の城打ながめ
 朝日にさはぐはし台の波     松意

 はし台はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「橋台」の解説」に、

 「① 橋の両端にあって、橋を支える台状のもの。きょうだい。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「駒とめて佐保山の城打ながめ〈雪柴〉 朝日にさはぐはし台の波〈松意〉」
  ② 橋のそば。橋際。橋もと。
  ※洒落本・客衆一華表(1789‐1801頃)丹波屋之套「こっちらの橋台(ハシダイ)の酒ゃア算盤酒やといって名代でございやす」

とある。犬上川の橋台か。
 奈良の佐保川だが、

 佐保川の汀に咲ける藤袴
     波の寄りてやかけむとすらむ
              源忠季(金葉集)

の歌がある。
 四十七句目。

   朝日にさはぐはし台の波
 苔むすぶ石を袂に扨こそな    正友

 朝日は、

 曇りなくとよさかのぼる朝日には
     君ぞつかへむ万代までに
              源俊頼(金葉集)
 君が代は限りもあらじ三笠山
     みねに朝日のささむかぎりは
              大江匡房(金葉集)

などの賀歌に詠まれる。そこから、

 わか君は千世に八千代にさざれ石の
     いはほとなりて苔のむすまで
              よみ人しらず(古今集)

の連想で、朝日に苔結ぶ石を袂に入れて、さて、とする。
 朝日を賀歌に詠む伝統は近代の旭日旗に通じるのかもしれない。
 四十八句目。

   苔むすぶ石を袂に扨こそな
 子どもの小鬢かぜぞ過ゆく    卜尺

 小鬢(こびん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小鬢」の解説」に、

 「〘名〙 (「こ」は接頭語) 頭の左右側面の髪。びん。また、特にこめかみのあたり。
  ※太平記(14C後)三二「小鬢(コビン)のはづれ、小耳の上、三太刀まで切られければ」

とある。
 石合戦であろう。小鬢を石がかすめて、その風圧に髪の毛が揺れる。
 四十九句目。

   子どもの小鬢かぜぞ過ゆく
 伽羅のあぶらかほる芝ゐの月明て 一朝

 芝居の子役であろう。子供ながらに伽羅の香りがする。
 五十句目。

   伽羅のあぶらかほる芝ゐの月明て
 川原おもての貝がらの露     志計

 川原おもては『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に四条河原とある。芝居小屋が並んでいた。貝殻は鬢つけ油を入れた容器で、河原に落ちている。

2022年11月11日金曜日

 今日は実朝公の首塚を見に行った。
 東田原にあって、田原ふるさと公園になっていた。墳墓ではなく五輪塔が立っていた。

 それでは「雪おれや」の巻の続き。
 二表、二十三句目。

   霞にむせぶうけ出され者
 春やむかし忘れ形見の革つづら  志計

 忘れ形見の大切な形見の革葛籠をやっとのことで借金を返して取り戻して、ただ涙。

 面影の霞める月ぞ宿りける
     春や昔の袖の涙に
              俊成女(新古今集)

の歌を踏まえる。
 二十四句目。

   春やむかし忘れ形見の革つづら
 なんだ足袋屋が板敷に落     在色

 「なんだ」は涙。
 『伊勢物語』四段の、

 「泣きながら泣きながら、荒れ果てた板敷に、月が西に傾くまで横になって、去年を思い出して歌を、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身は一つもとの身にして」

を踏まえるが、忘れ形見の革葛籠に涙して板敷に横になってるのは足袋屋だった。革葛籠の中味は商品の足袋だったのだろう。
 二十五句目。

   なんだ足袋屋が板敷に落
 ごみほこりうき名つもりて高崎や 松臼

 高崎は足袋の生産地で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「高崎足袋」の解説」に、

 「〘名〙 群馬県高崎地方で産出した刺足袋。足首の部分の高さが低いもの。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)二「高崎足袋(タカサキタビ)つつ短かに、がす雪踏をはき」

とある。
 まあ、田舎の方で作っている足袋だから、いろいろけなされたりしてたのか。さては他所の足袋屋の陰謀か。
 なお、行田足袋はウィキペディアに、

 「行田足袋の発祥は『貞享年間亀屋某なる者専門に営業を創めたのに起こり』と伝わり、文献では享保年間(1716年〜1735年)頃の『行田町絵図』に3軒の足袋屋が記されている」

とあり、この時代はまだなかったから白。
 二十六句目。

   ごみほこりうき名つもりて高崎や
 いのる妙喜の山おろしふく    一鉄

 妙喜の山は妙義山。同じ上州の山。妙義神社に祈るが、激しかれとは祈っていない。
 本歌はもちろん、

 憂かりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
              源俊頼(千載集)

になる。
 二十七句目。

   いのる妙喜の山おろしふく
 手あやまち三尺計もえ揚リ    雪柴

 「手あやまち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手過」の解説」に、

 「〘名〙 あやまち。過失。そそう。特に、失火をいう。そそう火。てあいまち。
  ※平家(13C前)一一「昼で候へば、手あやまちではよも候はじ」

とある。
 護摩を焚いて祈ったのだろう。山おろしの風にあおられて一メートルの炎が揚がる。
 妙義神社も昔は神仏習合で別当がいた。
 二十八句目。

   手あやまち三尺計もえ揚リ
 ゆがみをなをす棒は真二つ    松意

 曲がった棒を火で炙って直そうとしたら燃えてしまった。
 前句の「手あやまち」を文字どうり手元を誤って、とする。
 二十九句目。

   ゆがみをなをす棒は真二つ
 人らしき心もたずばもたせうぞ  正友

 三十棒で人らしき心を持たせようとしたが、そこは人外さんのことで棒が簡単に真っ二つになる。なかなか手強い。
 三十句目。

   人らしき心もたずばもたせうぞ
 所帯を分てうさもつらさも    卜尺

 前句の「人らしき」を人並みのという意味にして、所帯から独立させて人並みの苦労をさせようとする。昔から「こどおじ」っていたのだろう。
 三十一句目。

   所帯を分てうさもつらさも
 世の中はへんてつ一衣かるい事  一朝

 へんてつは褊綴(へんとつ)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「褊綴・褊裰」の解説」に、

 「〘名〙 (「とつ」は「綴」「裰」の慣用音) 法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを折衷して、十徳のように製した衣。主に空也宗の鉢叩の法衣であったが、江戸時代には羽織として医師や俗人の剃髪者などが着用した。へんてつ。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※狂歌・古今夷曲集(1666)一〇「よわみなくかたしないしな禅門はまだ幾年かへんとつをきん」

とある。
 医者など、今でいう自由業の象徴なのだろう。俳諧師もこれに含まれるか。芭蕉の門人も医者や医者の息子が多い。
 三十二句目。

   世の中はへんてつ一衣かるい事
 あかつきおきの瓢箪の音     志計

 前句を鉢叩きとする。鉢叩きは俗形・俗名で、普段や茶筌売などをやっている。
 三十三句目。

   あかつきおきの瓢箪の音
 小便やしばらく月にほととぎす  在色

 年末の鉢叩きのこっこっこっこという音は、一瞬冬にホトトギスが鳴いたのかと思う。
 三十四句目。

   小便やしばらく月にほととぎす
 病目もはるる夏山の雲      松臼

 夏の青葉は目に良いと言われている。

 若葉して御目の雫ぬぐはばや   芭蕉

の句もある。
 ホトトギスに夏山が付く。
 三十五句目。

   病目もはるる夏山の雲
 涼風や峰ふき送る薬師堂     一鉄

 目が治るということで薬師堂を付ける。
 ウィキペディアに、

 「江戸近郊の江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところ、たちまち回復したとされることから、特に眼病治癒の利益(りやく)に関して有名になった。新井薬師は目の薬師として知られている。」

とある。
 ただ、山の近くとは言えないが。
 三十六句目。

   涼風や峰ふき送る薬師堂
 かけ奉る虎やうそぶく      雪柴

 虎は薬師如来の化身だという。そのため寅の日にお参りしたり、寅年に開帳したりする。
 また、「虎うそぶけば風生ず」という諺があり、コトバンクの「故事成語を知る辞典「虎嘯けば風生ず」の解説」に、

 「時勢の変化に乗じて、英雄が活発に活動を始めることのたとえ。
  [由来] 「北史―張定和伝・論」の一節から。「虎嘯きて風生じ、竜騰のぼりて雲起こる。英雄の奮発も、亦また各々時に因る(虎が吠えるときには風が吹き、竜が飛び立つときには雲が湧き出る。英雄の出現も、風や雲のような時勢があって可能になるのだ)」とあります。」

とある。
 峰から吹き下ろす涼風は、虎に化身した薬師様が嘯いたから、とする。

2022年11月10日木曜日

2022年11月9日水曜日

 アメリカの上院議員選挙。またバイデンジャンプ、あるのかな。

 それでは「雪おれや」の巻の続き。
 初裏、九句目。

   小家三つ四つむすぶしら露
 きりぎりす念仏講にこゑそへて  正友

 念仏講はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「念仏講」の解説」に、

 「① 念仏を行なう講。念仏を信ずる人達が当番の家に集まって念仏を行なうこと。後に、その講員が毎月掛金をして、それを講員中の死亡者に贈る弔慰料や、会食の費用に当てるなどする頼母子講(たのもしこう)に変わった。
  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)一「はなのさかりに申いればや 千本の念仏かうに風呂たきて〈重明〉」
  ② (①で、鉦(かね)を打つ人を中心に円形にすわる、または大数珠を回すところから) 大勢の男が一人の女を入れかわり立ちかわり犯すこと。輪姦。
  ※浮世草子・御前義経記(1700)三「是へよびて歌うたはせ、小遣銭少しくれて、念仏講(ネンブツカウ)にせよと」

とある。ここは①の意味。三四件集まってのささやかな念仏講で、コオロギが辺りで鳴いている。
 十句目。

   きりぎりす念仏講にこゑそへて
 煮しめその外萩の花など     執筆

 念仏講には煮しめ、コオロギには萩の花を添える。
 十一句目。

   煮しめその外萩の花など
 はるばると野路の玉川留守見廻  一朝

 野路の玉川はコトバンクの「デジタル大辞泉「野路の玉川」の解説」に、

 「六玉川の一。滋賀県草津市野路町にあった小川。萩の名所。[歌枕]
 「明日もこむ―萩こえて色なる波に月やどりけり」〈千載・秋上〉」

とある。萩の玉川ともいう。
 野路の玉川の留守番に来た人が煮しめを食ってという、花より団子ネタ。
 十二句目。

   はるばると野路の玉川留守見廻
 人魂中の勢田の長橋       松意

 人魂は「じつこん」とルビがある。昵懇(じっこん)と同じで懇意にしていること。
 留守番のためにわざわざ野路の玉川まで来てくれる人というのは懇意にしている人で、勢田の長い唐橋を渡ってくる。
 十三句目。

   人魂中の勢田の長橋
 俵一つ御無心申かねのこゑ    在色

 懇意の仲だと言いながら米の無心にやってくる。三井寺の鐘を添える。
 十四句目。

   俵一つ御無心申かねのこゑ
 大雨にはかよその夕暮      志計

 前句の俵を土嚢のこととしたか。
 十五句目。

   大雨にはかよその夕暮
 ほととぎす万民是を賞玩す    一鉄

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『高砂』の、

 「中にもこの松は、万木にすぐれて、十八公の粧ひ、千秋の緑をなして、古今の色を見ず。始皇の御爵に、あづかる程の木なりとて異国にも、本朝にも万民これを賞翫す。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.102). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 この場合その前の、

 「然るに、長能が言葉にも、有情非情のその声みな歌に漏るる事なし。草木土沙、風声水音まで万物のこもる心あり。春の林の東風に動き秋の虫の、北露に鳴くも皆・和歌の姿ならずや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.102). Yamatouta e books. Kindle 版. )

が重要で、つまり万物皆歌だという所で、にわかに大雨が降ってもそれに構わず鳴く時鳥の声は歌だという所で万民是を賞玩する。
 日本人は自然の音を言語脳で聞く能力を持っているという。
 雨の時鳥は、

 五月雨の空もとどろに郭公
     何を憂しとかよただ鳴くらむ
              紀貫之(古今集)
 郭公雲路に惑ふ声すなり
     小止みだにせよ五月雨の空
              源経信(金葉集)

などの歌に詠まれている。
 十六句目。

   ほととぎす万民是を賞玩す
 花柚をここにうける盃      卜尺

 花柚はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「花柚」の解説」に、

 「〘名〙 柚(ゆず)の一種。果実は柚よりも小さく、花・莟・果実の皮の切片を酒や吸い物に入れたり、料理の付け合わせに用いたりしてその香気を賞する。はなゆず。《季・夏》
  ※浮世草子・好色一代男(1682)三「たばね牛蒡に花柚(ハナユ)などさげて」

とある。
 郭公というと橘だが、同じ柑橘の花柚にして、その酒の味を万民賞玩す。
 十七句目。

   花柚をここにうける盃
 小刀の峰より月のかけ落て    雪柴

 花柚を切る小刀の刃のない方の「峰」に掛けて「峰より月」として、花柚の実がまっ二つに切られるのを「欠け落ちて」とする。
 十八句目。

   小刀の峰より月のかけ落て
 品玉とりや夜寒なるらむ     松臼

 品玉とりは品玉師のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「品玉師」の解説」に、

 「〘名〙 品玉の曲芸を演ずる者。手品師。曲芸師。品玉使い。品玉取り。
  ※雑俳・天神花(1753)「取まいて・人でかきしたしなだまし」

とある。その品玉は、「精選版 日本国語大辞典「品玉」の解説」に、

 「① 猿楽、田楽などで演ずる曲芸。いくつもの玉や刀槍などを空中に投げて巧みに受け止めて見せるもの。転じて、広く手品や奇術の類をいう。〔新猿楽記(1061‐65頃)〕」

とある。ジャグリングの一種と言えよう。
 小刀を用いたジャグリングで、名月の宴などには呼ばれたりするが、月が欠けて行くと仕事もなくなり懐も寒くなる。
 十九句目。

   品玉とりや夜寒なるらむ
 渡る雁そも神変はいさしらず   松意

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『海人』の、

 「かの海底に飛び入れば、空は一つに雲の波、煙の波を凌ぎつつ、海漫漫と分け入りて、直下と見れども底もなく、辺も知らぬ海底に、そも神変はいさ知らず、取り得ん事は不定なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.4167). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 この最後の「取り得ん事は」は竜が海底に持ち去った宝珠をいう。それを踏まえるなら、品玉師のどんな難しい玉も「取り得ん事はない」という自負と言えよう。
 二十句目。

   渡る雁そも神変はいさしらず
 鳥羽田の面の虫のまじなひ    正友

 鳥羽田は鴨川下流域から宇治川北岸の鳥羽の田んぼで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥羽田」の解説」に、

 「[2] (「とばだ」とも) (一)にあった田。歌枕。
  ※新古今(1205)秋下・五〇三「大江山かたぶく月の影さえてとばだの面に落つるかりがね〈慈円〉」

とある。
 用例の慈円の歌を踏まえて、鳥羽田の田面に降りて来る雁も知らないのま虫よけのまじないの神変、とする。
 二十一句目。

   鳥羽田の面の虫のまじなひ
 庭の花伏見の山をねこぎにて   卜尺

 ねこぎは根こそぎということ。
 鳥羽田から伏見の花の庭まで根こそぎ虫の害が出ているので、虫除けのまじないを行う。
 二十二句目。

   庭の花伏見の山をねこぎにて
 霞にむせぶうけ出され者     一朝

 うけ出はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「請出」の解説」に、

 「① 借り金を払って、質にはいっているものを引き取る。請け戻す。請け返す。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 身代金と負債とを抱え主に支払って、遊女や芸妓を自由の身とする。身請けをする。請け返す。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※評判記・色道大鏡(1678)二「傾城をうけ出す事、男の大功に似たりといへども、頗る陽気の沙汰なり」

とある。
 ここは②の意味で、伏見の遊女を根こそぎ身請けされてしまい、遊女の居なくなった茶屋は煙に巻かれたようだ。