「夜も明ば」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
其角の『句兄弟』は元禄七年の自序があるが、その中には九月六日に江戸を発って、十月十一日に大阪の芭蕉の所に辿り着くまでの行程が記されている「隨縁紀行」が収録されている。これを読んでみようと思う。テキストはグーグルブックスの「其角全集」、老鼠堂永機、阿心菴雪人校訂『其角全集』東京博文館蔵版(明治三十一年刊、博文堂)を用いる。
「甲戌仲秋
木母寺に歌の会ありけふの月 晋子
三春の花一夜の月風光うつりゆけども友かはらず。ことしは石山寺に詣て湖水を見ん、いや嵯峨の法輪にとまりて広沢をなどと、とりどり心定めかね遠き思ひをつくして出たつ日をいそぎけるに、思の外の風雨に旅行をさえられて今さらに身をやるかたなく人々一夜の逍遥をうらやみ侍るなり。
九月六日とかくして江戸をたつ俳連だれかれ送り申され綰柳の吟もあり。
首途をみよ千秋の秋のかぜ 岩翁
幾人の送りていさむ初紅葉 亀翁
六郷のわたりにて
草枕稲干縄のしづくかな 横几
箱根峠にて
杉の上に馬ぞみえ来る村櫨 晋子
秋の空尾上の松をはなれたりといふ吟ここにもかなふべし。
三嶋にて旅行の重陽を
門酒や馬屋の脇の菊を折 晋子
朝影や駕籠で礼するきくの酒 岩翁
きく酒や畠の中の小家まで 尺草
間鍋に所のきくや旅屋形 亀翁」
九月六日に江戸を出て九月九日に三島に泊まるというのは、九月六日に江戸から戸塚まで、九月七日に戸塚から小田原まで、九月八日に三島までという、一日十里平均の標準的な日程で三島へ行き、一泊してから翌日九月九日の重陽を迎えたということだろう。この日芭蕉は奈良にいた。
甲戌仲秋
木母寺に歌の会ありけふの月 晋子
木母寺(もくぼじ)はウィキペディアに、
「東京都墨田区にある天台宗の寺院。」
で、
「この寺の寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子であったが、梅若丸5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入ったが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられたのであった。」
とあり、
「1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。江戸に下向する勅使たちが度々訪れている。」
とある。東向島の白髭神社より北の方の隅田川沿いになる。
名月の夜にはここで和歌の会があったのだろう。いつも同じメンバーで春は花見して秋は月見する。
それは楽しいことだけど何か物足らず、今年こそは近江石山寺へ詣でて湖水の名月を見たいなだとか、嵯峨の広沢の池の月も捨てがたいとか思いつつ、天候に恵まれず、結局出発が九月になってしまった。
綰柳(わんりゅう)は柳の枝を輪にした飾りで、張喬の「寄維揚故人」の詩に、
離別河邊綰柳條 千山萬水玉人遙
の句があるという。離別の吟ということになる。
首途をみよ千秋の秋のかぜ 岩翁
「首途」はは「かどで」と読むと字足らずなので「たびだち」だろうか。千秋(せんしう)は長い月日の意味があり、今吹いているこの秋風は、長年吹き続けて昔と変わらぬ秋の風で、そこの古人の旅を偲ぶという意味であろう。
岩翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷巌翁」の解説」に、
「?-1722 江戸時代前期-中期の俳人。
江戸の人。幕府の桶(おけ)御用をつとめる。松尾芭蕉(ばしょう)初期の門人のひとりで,のち榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。狩野昌運について,画もよくした。享保(きょうほう)7年6月8日死去。通称は長左衛門。号は岩翁ともかく。編著に「若葉合」。」
とある。
菊植て我と水くむ明日かな 岩翁(続虚栗)
隈篠の廣葉うるはし餅粽 岩翁(猿蓑)
などの句がある。
幾人の送りていさむ初紅葉 亀翁
これは見送りが沢山来たというよりも、大勢での旅立ちを見送るかのようにようやく色づき始めた紅葉も勇んでいるようだ、という意味だろう。
亀翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷亀翁」の解説」に、
「?-? 江戸時代前期-中期の俳人。
多賀谷巌翁の子。父の影響ではやくから俳諧(はいかい)をはじめ,榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。元禄(げんろく)3年(1690)「一夏百句」をよみ,八十村(やそむら)路通編「俳諧勧進牒(かんじんちょう)」におさめられた。通称は万右衛門。」
とある。
むめの花しばし置けり卓の上 キ翁
はる風に脱もさだめぬ羽織哉 同
などの句が『俳諧勧進牒』にある。
この二人は同行者で、このほかにも横几、尺草、松翁の句が道中の句に記されている所を見ると、最低でも六人のグループで旅をしていたことになる。芭蕉の旅とはやはりちがう。
六郷のわたりにて
草枕稲干縄のしづくかな 横几
六郷橋は貞享五年に流されて、この時は渡し舟になっていた。
草枕はここに泊まったということではなく、単に旅という意味で用いたのであろう。
六郷の辺りの田んぼは稲刈りが終わっていて、稲を干す繩が張られている。「しづく」は旅の悲しみという古典の羇旅歌の本意で添えたものであろう。
横几は、
星出て明日の花見のきほひ哉 横几
追ひ落す鮎のよどみや石の音 同
などの句が『雑談集』にある。
箱根峠にて
杉の上に馬ぞみえ来る村櫨 晋子
山は紅葉しているが、街道の関所の辺りの平地は杉並木なので、杉並木を出て山を登って行く馬が紅葉の中を行くのが見える。
櫨は「はぜ」あるいは和歌では「はじ」と読むが、村櫨で五文字だとどう読むのかよくわからない。ここでは「むらもみぢ」か。紅葉するので、
山ふかみ窓のつれづれとふものは
色づきそむるはじの立ち枝
西行法師
鶉なく交野にたてるはじ紅葉
ちりぬばかりに秋風ぞふく
藤原親隆
といった歌がある。
「秋の空尾上の松をはなれたり」というのは
秋の空尾上の杉にはなれたり 其角(炭俵)
の句のことで、まさに箱根峠の秋の空は街道の杉を離れたり、ということになる。
三島に着くと翌日は重陽で、
三嶋にて旅行の重陽を
門酒や馬屋の脇の菊を折 晋子
という句を詠むことになる。宿屋には馬屋があって乗掛馬がいたのだろう。そこの脇の菊を折って、旅の重陽とする。
重陽は菊の花を折って菊酒にするので、
心あてに折らばや折らむ初霜の
おきまどはせる白菊の花
凡河内躬恒
の歌があるように、菊の花は折ることを本意とする。
朝影や駕籠で礼するきくの酒 岩翁
朝三島宿を発つとき、駕籠の前で重陽の挨拶をして菊酒を飲み交わす。
きく酒や畠の中の小家まで 尺草
菊酒を籠の中に持ち込んで、宿場を離れて畑の中に出るまでゆっくりと飲む。
尺草は、
雨に折れて穂麦にせばき径哉 尺草
の句が『俳諧勧進牒』にある。
間鍋に所のきくや旅屋形 亀翁
間鍋(かんなべ)はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「酒の燗をするための鍋。多くは銅製で、つると注ぎ口がある。」
とある。燗鍋という字だとわかりやすい。
旅の途中の重陽はその場所の菊を使った菊酒を燗にして飲む。
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