2019年9月30日月曜日

 昨日の四句目。

   町の門追はるる鹿のとび越えて
 きてはゆかたの裾を引ずる    雪芝

 「夏に転じてサウナの後の夕涼みの情景とした。」と書いてしまったが、次の句が「二十日とも覚へずに行うつかりと」でその次にホトトギスが出てくる。ひょっとしてこの頃はまだ「浴衣」は夏の季語ではなかったか。
 江戸後期の曲亭馬琴の『俳諧歳時記栞草』の夏のところには確かに「内衣(ゆかたびら)」とあるが、貞徳の『俳諧御傘』や立圃の『増補はなひ草』には出てこない。「かたびら」は夏だが。
 となるとこの句は秋の温泉街を思い浮かべたほうがいいのかもしれない。

 五句目。

   きてはゆかたの裾を引ずる
 二十日とも覚へずに行うつかりと 惟然

 二十日は特に何月と指定はないが湯屋の紋日か。
 「紋日(もんび)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「ものび(物日)」の変化した語。「もんぴ」とも) 江戸時代、主として官許の遊里で五節供やその他特別の日と定められた日。この日遊女は必ず客をとらねばならず、揚代もこの日は特に高く、その他、祝儀など客も特別の出費を要した。一月は松の内、一一日、一五日、一六日、二〇日、続いて二月一〇日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日。吉原では三月一八日三社祭、六月朔日富士詣、七月一〇日四万六千日、八朔白無垢、八月一五日名月、九月一三日後の月、一二月一七・一八日浅草歳の市、など多かった。〔評判記・色道大鏡(1678)〕」

とある。
 湯女のいる湯屋はもとより、普通の銭湯でもこれに準じた行事があった。健全な湯屋では客に茶をふるまい、返礼におひねりを置いていったという。
 六句目。

   二十日とも覚へずに行うつかりと
 此山かりて時鳥まつ       卓袋

 卓袋(たくたい)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「1659-1706 江戸時代前期-中期の俳人。
万治(まんじ)2年生まれ。伊賀(いが)(三重県)上野の富商。松尾芭蕉にまなび,その作品は「猿蓑」などにおさめられている。宝永3年8月14日死去。48歳。通称は市兵衛。屋号は絈屋(かせや)。別号に如是庵。」

とある。
 ほととぎすといえば、

 卯の花の咲ける垣根の月清み
     寝ねず聞けとや鳴くほととぎす
             よみ人知らず(後撰集)
 夕月夜入るさの山の木隠れに
     ほのかに名のるほととぎすかな
             藤原宗家(千載集)
 五月雨の雲まの月の晴れゆくを
     しばしまちける郭公かな
             二条院讃岐(新古今集)

など月の時鳥を詠むことも多い。ただ、二十日ともなると月の出も遅く真っ暗な中で時鳥を待つことになる。
 七句目。

   此山かりて時鳥まつ
 麁相なる草履の尻はきれかかり  望翠

 望翠も伊賀上野の門人。これより少し前の八月二十四日の興行では、

 つぶつぶと掃木をもるる榎実哉  望翠

の発句を詠んでいる。
 「麁相(そそう)」はここでは粗末なこと。軽率の意味だと打越の「うつかりと」とかぶってしまう。
 時鳥を待つ人を粗末な草履の侘び人とした。
 八句目。

   麁相なる草履の尻はきれかかり
 床であたまをごそごそとそる   支考

 粗末な草履の男は剃髪して僧形になる。
 ここまでの八句、上句と下句を合わせると、

 松風に新酒をすます夜寒哉月もかたぶく石垣の上
 町の門追はるる鹿のとび越えて月もかたぶく石垣の上
 町の門追はるる鹿のとび越えてきてはゆかたの裾を引ずる
 二十日とも覚へずに行うつかりときてはゆかたの裾を引ずる
 二十日とも覚へずに行うつかりと此山かりて時鳥まつ
 麁相なる草履の尻はきれかかり此山かりて時鳥まつ
 麁相なる草履の尻はきれかかり床であたまをごそごそとそる

ときれいに付いていることが分かる。これが俳諧だ。現代連句とは違う。

2019年9月29日日曜日

 さて、今日は旧暦の九月一日。あまり実感はないけどもう晩秋なのか。今日も時折日が射す三十度近い暑さだ。
 さて、九月の俳諧ということで、元禄七年の、

   戌九月四日會猿雖亭
 松風に新酒をすます夜寒哉    支考

を発句とする五十韻を読んでいこうかと思う。
 元禄七年(一六九四)の干支は甲戌。猿雖は伊賀の門人で、芭蕉の最後の旅での伊賀滞在中の興行になる。
 新酒は前に「一泊り」の巻の三十一句目、

   そろそろ寒き秋の炭焼
 谷越しに新酒のめと呼る也    蘭夕

の時にも触れたが、江戸初期の四季醸造の頃の古米で秋に仕込む新酒ではなく、延宝元年に寒造り以外の醸造が禁止されたあとなので、早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える「あらばしり」だったと思われる。
 その一方で安価な酒としてどぶろくも飲まれていたし、自家醸造することも多かった。「名月や」の巻の四句目、

   秋をへて庭に定る石の色
 未生なれの酒のこころみ     涼葉

はどぶろくだったと思われる。
 酒を木炭で濾過する方法は既に室町時代に確立されていたが、この場合の新酒があらばしりのことだとしたら、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程ではないかと思われる。
 こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
 寒い夜に澄んだ新酒はありがたい。ただ、飲むのは興行が終わってからで、それまで新酒を澄ませておきましょう、ということか。
 いずれにせよ猿雖への感謝の意が込められた発句になっている。その亭主の猿雖が脇を付ける。

   松風に新酒をすます夜寒哉
 月もかたぶく石垣の上      猿雖

 興行開始が夕暮れだったのだろう。四日の月が西の空に、今にも沈みそうになっている。石垣は伊賀上野のお城の石垣だろうか。かつて芭蕉はそこで藤堂家に仕えていた。
 そして、芭蕉が第三を付ける。

   月もかたぶく石垣の上
 町の門追はるる鹿のとび越えて  芭蕉

 町中に鹿が出てくるあたりはさすが伊賀上野。田舎ですと自分の故郷をやや自嘲気味に詠んでいる。門を飛び越えて出て行った鹿には若い頃の芭蕉自身を重ねているのかもしれない。
 四句目。

   町の門追はるる鹿のとび越えて
 きてはゆかたの裾を引ずる    雪芝

 雪芝(せっし)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「1670-1711 江戸時代前期-中期の俳人。
寛文10年生まれ。松尾芭蕉(ばしょう)門人。伊賀(いが)(三重県)上野で酒造業をいとなむ。屋号は山田屋。服部土芳(どほう),窪田猿雖(えんすい)らの縁者。句は「続猿蓑(さるみの)」などにのこる。正徳(しょうとく)元年9月28日死去。42歳。名は保俊。通称は七郎右衛門。別号に野松亭。」

とある。発句の「新酒」は雪芝さんの差し入れだったか。
 鹿がいきなり出てきたので、あわてたのか浴衣の裾を引きずる。
 前句の「とびこえて」に続けることで、「きて」が来てと着ての両方に掛かる。夏に転じてサウナの後の夕涼みの情景とした。

2019年9月28日土曜日

 ラグビーで日本がアイルランドに勝ったというが、いまいちラグビーはよくわからない。
 以前ネット上の連句に参加したとき感じたのは、サッカーをやってると思ってきてみたらラグビーだったということだった。伝統の連歌や俳諧とは似て非なるもので、あるとき誰かが「句が付かなくて何が悪い」とばかりにボールを手で持って走り出してしまったか、という感じだった。
 まあそれはそれで楽しんでいる人たちを批判するつもりはない。ただゲームが違うだけだ。
 現代連句は基本的に句を付ける、つまり上句と下句を合わせて五七五七七の形で意味が通るように作るというのを放棄している。
 たとえば、高橋順子の『連句のたのしみ』(1997、新潮選書)には、こんなことが書いてある。

 「子規はこのとき連句を、隣り合った二句の上の句や下の句を共有して読むものだと思っていたようだ。これには驚かされた。こういう解釈では連句は知的ゲーム以外のなにものでもないだろう。『文学に非ず』と打ち棄てたとき、子規は連句を読んでみようともしなかったのではないか。」(p.60)

 まず何で「知的ゲーム」であってはいけないのか、その説明がない。それは連句をやる人の間での暗黙のルールなのだろう。
 もちろん、正岡子規の認識は間違ったものではない。だからこそ近代俳句から言葉遊びを排除した際、同時に連句も排除したのではなかったか。
 そして後になってから近代俳句の中で連句を取り込もうとしたとき、連歌・俳諧は最初から上句と下句をつける知的ゲームではなかったというふうに、歴史を改竄する必要があっただけのことだ。
 実際に子規と虚子の両吟(これは『連句のたのしみ』の中で引用されている)を見ても、

 萩咲くや崩れ初めたる雲の峯   子規
   かげたる月の出づる川上   虚子
 うそ寒み里は鎖さぬ家もなし   子規
   駕舁二人銭かりに来る    虚子
 洗足の湯を流したる夜の雪    子規
   残りすくなに風呂吹の味噌  虚子

これを五七五七七の形に直すと、

 萩咲くや崩れ初めたる雲の峯かげたる月の出づる川上
 うそ寒み里は鎖さぬ家もなしかげたる月の出づる川上
 うそ寒み里は鎖さぬ家もなし駕舁二人銭かりに来る
 洗足の湯を流したる夜の雪駕舁二人銭かりに来る
 洗足の湯を流したる夜の雪残りすくなに風呂吹の味噌

となる。五七五七七の形に直してもそれほど違和感はなく、句がしっかりと付いているのがわかるだろう。

  なお、このことに関して、高橋順子はこうも書いている。
 「付き過ぎが多いのが目立つが、それはあえて言えば、この時点での子規の連句解釈の誤りから来ていると思われる。歌仙は前句を上半句として、下半句を付けるように詠むと思い込んでいたようだ。三十六首の俳諧歌を並べたようなものだと言っているのだから(つまり、第一句目と第二句目とで一首、第二句目と第三句目とで一首の俳諧歌と考えていったようだ。挙句は発句と並べて一首とするのだろう)。」(p.73)

 しかし、間違っているのはどっちだろうか。ためしに中世連歌の代表作である『水無瀬三吟』と、蕉門俳諧の代表作である『灰汁桶の巻』の最初の六句を五七五七七の形にして並べてみよう。

 雪ながら山もと霞む夕べかな行く水遠く梅匂う里
 川風にひとむら柳春見えて行く水遠く梅匂う里
 川風にひとむら柳春見えて船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん霜置く野原秋は暮れけり

 灰汁桶の雫やみけりきりぎりすあぶらかすりて宵寝する秋
 新畳敷しきならしたる月かげにあぶらかすりて宵寝する秋
 新畳敷しきならしたる月かげにならべて嬉し十のさかづき
 千代経べき物を様々子日してならべて嬉し十のさかづき
 千代経べき物を様々子日して鶯の音にたびら雪降る

 ここでも句がきっちり付いているのは明白だ。
 また、「挙句は発句と並べて一首とする」との説は全く意味がない。そのようなルールはかつて存在したことはない。まあ、新たに作って永劫回帰とでも呼ぶのは勝手だが。
 少なくとも私が見る限り、正岡子規の連句に対する認識に大きな間違いはなかったと思う。近代連句の推進者たちが勝手にルールを変えてしまっただけのことだ。そしてあとから作ったルールをもとに文学史の改竄に着手する。恐るべき歴史的修正主義だが、子規が芭蕉に写生説を仮託した時点で当然予想できることだった。
 ただ、実際のところ、現代連句もちょっと手直しすればちゃんと句が付くようになる。
 高橋順子の『連句のたのしみ』に掲載されている連句にしても、

 蟲しぐれ坂を上れば宴かな      牙青
   忘れたきこと捨てる百舌鳴き   長吉
 月笑う子供二人が影踏みて      螢明
   狸いできて肩を組みたり     仁衛
 遠来の友は名刺をたづさへし     光鬼
   半島にあり歌の碑        富士男

という表六句は、

 蟲しぐれ坂を上れば宴かな      牙青
   忘れたきこと捨てる百舌鳴き   長吉
 月笑う子供二人の影ありて      螢明
   出でくる狸肩を組みたり     仁衛
 遠来の名刺たづさふ友ならん     光鬼
   その半島に歌碑建立し      富士男

とでもすれば、ちゃんと付くのだが、それをわざわざ付けないようにして、いかにも言葉遊びなんかないよ、立派な文学だよ、と言っているだけのことだ。
 
   忘れたきこと捨てる百舌鳴き
 月笑う子供二人が影踏みて   螢明

 この句が付かない原因は、前句の「忘れたきこと捨てる」が子供の考えにしては重過ぎるせいで、もちろん、子供の世界にもいじめはあるし、塾や宿題など、忘れたいことは山ほどある。ただ、影ふみをして遊んでるさなかの子供には、やはりつりあわない。「影ありて」と一歩引いた視点に切り替えれば、この問題は解消される。「忘れたきこと」は子供の遊ぶのを見ている大人の情になる。

   月笑う子供二人が影踏みて
 狸いできて肩を組みたり    仁衛

 この句の付きがまずいのは、「影踏みて」と「狸いできて」と「て」が重複することで、上句と下句をつなげた場合、この二つの「て」が並列されるにもかかわらず、主語が異なることだ。これは「て」重なりを解消すれば、それですむ。

   狸いできて肩を組みたり
 遠来の友は名刺をたづさへし     光鬼

 この句が付かないのは、前句が「狸」という主語に「肩を組みたり」という述語があり、付け句のほうにも「遠来の友」という主語に「たづさへし」という述語があるため、この二つが全く独立してしまい、せっかくの狸=友のあだ名という取り成しが生かされてないためだ。付け句のほうを推量にすれば、友だろうか→狸だと無理なくつながる。

   遠来の名刺たづさふ友ならん
 半島にあり歌の碑          富士男

 遠来の友ならば、半島の歌碑はこの友のものと思われるから、単に「ある」のではなく「作った」ものになる。よって「その半島に歌碑建立し」の方がいい、これで次の、

 鳥曇る魔手のかたちの定置網     泣魚

にもすんなりと繋がる。
 「鳥曇る」は「鳥曇り」の動詞化した言葉で、鳥曇はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「春、渡り鳥が北へ帰る頃の曇り空。《季 春》「ゆく春に佐渡や越後の―/許六」

とある。魔手はそのまんま魔の手のこと。
 日本海の定置網の上に魔手のような雲が垂れ込めている。あの海の向こうの半島に歌碑を建立したが、雲行きは良くない。「定置網魔手のかたちに鳥曇る」の方がいいか。
 まあ、別に近代俳句や現代連句が悪いということではない。ただ連歌・俳諧とは別のゲームなので特に関心もない。

 蟲しぐれ坂を上れば宴かな忘れたきこと捨てる百舌鳴き
 月笑う子供二人の影ありて忘れたきこと捨てる百舌鳴き
 月笑う子供二人の影ありて出でくる狸肩を組みたり
 遠来の名刺たづさふ友ならん出でくる狸肩を組みたり
 遠来の名刺たづさふ友ならんその半島に歌碑建立し

これなら同じゲームとして認めるが。

2019年9月26日木曜日

 きょうは旧暦八月二十八日。もうすぐ九月。ただ、今年は秋の花が遅いように思える。彼岸花がようやく咲き出した。このあたりも温暖化の影響があるのかもしれない。
 地球の温暖化は大きな問題だが、原発はひとたび事故を起こしたときの損失が大きすぎるのでお勧めはできない。福島を抱える国民としてそれは断言したい。基本的には再生可能エネルギーを最大限に活用するべきであろう。
 また、文明を否定して極度に生産性を下げてしまうと、人は飢餓の恐怖に直面することになる。そうなると地球の養える人口が減り、生活を守るために過酷な生存競争が生じることになる。かつての共産圏では生存競争が密告や讒言によって仲間を蹴落とす戦いとなり、飢餓と粛清の嵐が吹き荒れた。
 地球の養える定員が減れば、それだけ口減らしが必要になる。最悪の場合はかつてオウム真理教の説いたハルマゲドンということになる。
 再生可能エネルギーの最大限の活用の下に、極力生産性を落とさないようにして、今の豊かさを維持しながら炭酸ガスの排出を抑制しなくてはならない。温暖化対策は苦労や貧困を強いるものではあってはならない。それがセクシーということだ。セクシーは古語で言えば「ゆかし」ということか。
 持続的成長は御伽噺ではない。生産性が落ちてもみんなで貧しさを分かち合えるという発想のほうが御伽噺だ。生産性が落ちれば必ず過酷な生存競争になり、飢餓と粛清と戦争で多くの命が失われる。
 理性は非情を命じるかもしれないが、惻隠の情はそれを回避する事を求める。
 さて、昨日は惻隠の情と羞悪の情の話をしたので、今日はその続きで辞譲と是非について考えてみよう。

 「辞譲」の心については、実際にはかなり打算が働いているように思える。つまり、譲ることで譲ってもらえることを期待する、いわゆる恩を着せるということに、どうしても係わってきてしまう。
 順位制社会で「譲る」ということは単純に放棄することを意味する。
 美味しそうな食べ物を見つけた。だけど強そうなやつがこちらを見ている。ここで食べようとすると襲われそうな気がする。すばやく口の中に入れてしまっても、口の中に手を突っ込まれて奪われるかもしれない。怪我するのはいやだ。ならせっかく見つけた食べ物だけど、ここに置いて逃げることにしよう。これが順位制社会の辞譲だ。
 チンパンジーくらいだともう少し頭が良くて、半分千切って投げ捨てていき、安全なところまで逃げて残りの半分を食う。これはお人好しの研究者の目には、仲良く半分こして何ともほほえましい、というように映るようだ。
 さて、人間の社会となると、原始的な社会であればあるほど、生活のほとんどの者を譲り合う。狩猟民族は他人が作ってくれた弓矢を用い、捕らえた獲物はどんな小さくてもみんなに分配する。こうしてお互い依存しあうことで仲間の絆を深めるといえば聞こえがいいが、これをしないと排除されるという不安からくるものだ。
 有限な大地に無限の恵みはない。しかし人口は常に増えようとする。有限な大地で無限の人口を養うことはできないから、何らかの形で誰かを排除しなくてはならない。これが生存競争の厳しい掟だ。
 順位制社会では弱いものから脱落してゆくが、出る杭は打たれる状態に陥った人類は横暴なもの、ケチなものから排除されてゆく。あるいは排除される前に、恥ずかしさから自ら命を絶つ。
 それでも人口が増え続ければ、結局隣の村に戦争を仕掛け、一人殺して一人前の大人とみなす。ただ、一方で隣の村も同じことをするからバランスが取れる。
 原始的な社会のみならず、多くの社会の下層部では、ギブアンドテイクなんてものはない。ギブは貸しを作ることで、テイクは借りを作ることだ。貸しを作ったままの状態、借りを作ったままの状態でいることで、人間関係というのはいやおうなしに継続させなくてはならなくなる。
 それをギブアンドテイクのようにその場で返済が済んでしまえば、人間関係はそれきりになる。現代のように毎日夥しい数の人に接しなければならない社会では、すべての人と永続的関係を維持することは難しい。それどころか名前すら覚えられないだろう。ギブアンドテイクは関係をその場限りで終えたい近代社会で発達した考え方だった。
 永六輔作詞の「いきてゆくことは」の歌詞には、

 生きているということは誰かに借りをつくること
 生きているということはその借りを返していくこと

とあるが、人類は原始からそうして生きてきた。
 人類学では「互酬性(ごしゅうせい)」という言葉が使われる、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「互恵性ともいう。人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。有形無形にかかわらず,それが受取られたならば,その返礼が期待されるというもの。アメリカの人類学者,M.サーリンズは互酬性を3つに分類した。 (1) 一般的互酬性 親族間で食物を分ち合う行為など,すぐにその返礼が実行されなくてもよいもの。 (2) 均衡的互酬性 与えられたものに対して,できるかぎり決った期限内に返済されることが期待されるもの。 (3) 否定的互酬性 みずからは何も与えず相手からは最大限に奪おうとするもの。詐欺,賭け,どろぼうなどを含む敵対関係の行為といえる。そのほか,フランスの人類学者 C.レビ=ストロースは,婚姻を女性の交換ととらえ,そこでも互酬性が適用されると指摘した。これらの互酬性による均衡が破られたとき,当事者間には社会的地位の上下が生じるが,これはときには負い目意識となって,再び均衡がはかられる。このように均衡を求め続けることによって人間関係は継続し,進展しているともいえる。アメリカの R.ベネディクトによれば,日本社会における「恩」は無限の,「義理」は有限の負い目意識としてとらえられる。」

とある。
 家庭だけでなく、村社会でも、人間関係の永続性を必要とする時には、できる限り返済を遅らせたほうがいい。不均衡の状態が維持されている限り、人は恩と義理で縛られ、その社会の中に繋ぎとめられる。ひとたび均衡に至ると、貸し借りなしということで、そこで関係が切れてしまうことになる。昔は飲み屋の付けは完済するなと言われていたらしい。完済は「もう来ない」という意味になるからだ。
 永続的な関係が求められる時には基本的に「一般的互酬性」になる。「均衡的互酬性」は一時的な関係で済ませたいときに用いられる。たとえばヤクザに何かをもらった時には、そのもらった物の値段の相場を調べ、速やかに返済しなくてはならない。返済が遅れるとずるずると腐れ縁になってしまう。基本的には受け取らないのが一番いいのだけど。
 「否定的互酬性」は村同士の戦争のように、その時は一方的に始まるが、やられた方はいつかやり返しても文句はないだろうという所で関係性を維持する事ができる。
 今日の考え方だと、やられたら即謝罪と賠償ということになるが、それだと「均衡的互酬性」になり、関係が切れてしまう。
 まあ、いくら謝罪と賠償が行われても、なおも請求し続ければ腐れ縁のように関係は維持されるわけだが、請求され続けるほうに不満がたまるのは避けられない。
 辞譲は人間が社会的関係を維持するのに欠かせない心情で、基本的には譲るけど返済を求めない気前良さを特徴とする。無理に返済を求め本当に返済されてしまうとそこで関係が切れてしまい、社会から孤立する恐れがあるからだ。太っ腹は慕われ、ケチは孤立する。孤立すれば社会からの排除の対象になりやすくなる。そこから人は気前良さを進化させた。
 だからといって与えっぱなしということではない。贈与を恩義と感じ、返済を義務だというのが暗黙の前提にあって、はじめて太っ腹が人間関係の永続に繋がる。相手が恩知らずだったら、ただ損してそれで終わりになる。辞譲は一般的互酬性が前提されて初めて成立する。
 礼という意味では、頭を下げるというのは自分を小さく見せることで、順位制社会では降参を意味する。微笑みは勝ち誇った笑いとは異なり、無防備である事をさらけ出す。基本的には相手に勝ちを譲ることを意味し、譲ることで債権者となる。俳諧の笑いも、基本的に挨拶の微笑であり、誰かを笑いものにして勝ち誇ることではない。
 「是非」の情は西洋的な実践理性に近いのかもしれない。是非の字を重ねて是々非々と言うこともあるが、ようするに「なるものはなる、ならぬものはならぬ」ということだが、このことは「掟」あるいは「法」に関係する。「けじめ」という日本語もある。
 辞譲は行動に関しても、ある程度の迷惑には目をつぶることで恩を着せることができるし、ある程度の不均衡を容認することも、恩を着せることになる。ただそれが有り余る時、「一般的互酬性」の維持が困難になり、「均衡的互酬性」を求めることに繋がる。
 つまり、縁をこれ以上維持しても割が合わないときには、縁を切るという選択肢がある。これは原始的な社会ではそのまま排除ということになり、追放されて野垂れ死にするか、それ以前に恥ずかしさから自殺するか、あるいは突発的に生じる過剰なストレスによってそのまま突然死に至ることすらある。ある程度文明化した社会なら、都市へ行って生きながらえることもできるが。
 ただ、その判断は生殺与奪に係わるものなので、怒りに任せてのものであってはいけない。それだと不公平が生じ恨みを残すことになる。
 そこから、ここまでは許せるがこれ以上は許せないという線引きが必要になる。これが立法の起源になる。
 「均衡的互酬性」はそのまま関係の断絶にするのではなく、一度過去の負債を清算して、そこから新たな関係を始めるということもできる。「罰」というのは責任を有限にすることに意味がある。
 法を定め、責任を有限化し、恨みと報復の連鎖で社会が破滅すのを防ぐのは人間の知恵であり、この知恵は「是非」の情から始まる。
 「惻隠の情」は人間同士、助けと許しをもたらすことで「仁」のもととなる。
 「羞悪の情」は仲間はずれを恐れることで、排除されないためにすべきことという意味での「義」をもたらす。
 「辞譲の情」は気前良くふるまうことで永続的な人間関係を築く。ここに「礼」が生じる。
 「是非の情」は許せるものと許せないものに一定の基準をもたらすことで責任を有限化し、掟によって律するという「智」をもたらす。
 これらは順位制社会の中で進化した他の感情とは異なり、出る杭は打たれる社会で育まれた、新たな感情の層を生み出す。古い感情は「気」に属し、新しい感情は「理」の属する。支考が『俳諧十論』で言ったように、気が先にあって理は後から進化した。
 人間が人間になることで生じた「理」は「道」とも「誠」とも呼ばれ、風流の道は基本的にそれを目指すことになる。

2019年9月25日水曜日

 トゥンベリさんはリアル・ナウシカだね。「天気の子」は見たのかな。
 日本で温暖化対策が盛り上がらないのは、これを声高に言うといわゆる原発村(原発推進派の政府、官僚、電力会社、重電メーカーなどの癒着構造)の人たちが調子づいてしまうからだ。
 二〇〇九年に民主党の鳩山首相がニューヨークの国連気候変動サミットで温室効果ガスの二十五%削減を公約し、そのために翌年原発十四基の大増設を承認したことは今でもトラウマとなっている。福島第一原発の事故はその翌年の二〇一一年だった。
 そういうわけでトゥンベリさんにお願いしたいのは、温暖化だけでなく脱原発についても同じくらい重点をおいて活動してほしいなということで、そこんとこよろしく。
 
 さて昨日の続きで、今日は四端の惻隠と羞悪について考えてみようと思う。
 「惻隠」は単なる共感能力ではない。共感能力はただ他人の状態を推し量るだけのもので、この能力があるが故にむしろ人間は「意地悪」が可能になる。
 つまり相手が何をされると一番困るかを知っているから、その一番困ることをして攻撃することもできる。相手の悲しみがわかるから、その悲しみに鞭打つようなこともできてしまう。
 惻隠の情は単なる共感能力ではなく、むしろ相手の気持ちがわかるかどうか以前に「助けたい」と思う気持ちだと考えたほうがいい。
 親が我子を守るのは本能だが、人間はそれを他人に対してのみならず、動物や植物や自然そのものへとほとんど際限なく拡大することができる。
 ただ、そこには当然優先順位はある。人類を滅ぼしてまで自然を守るというのは理性では可能かもしれないが、自然の情には反する。
 同様、他人のこと自分の子が溺れていた時どちらを先に助けるかといえば、自分の子供に決まっている。自分の子も他人の子も平等に生きる権利を有すると言うのは理性としては可能だが、自然の情に反する。
 誰にだって特別な人はいるし、誰よりも優先的に守りたい人はいる。それは自然の情だが、理性は時として非情で、生理的に嫌悪をもよおすようなことでも平気で命じることができる。思想の恐さというのはそこにある。
 順位制社会では常に相手より優位に立つことが大事だから、共感能力も意地悪にしか利用しない。ただ、そうして弱いものを痛めつけていると、被害者同士が共感しあって、みんなで一緒にあいつをやっつけよう、ということになる。そうなってくると一対一での強さは無意味になる。人間は共感能力が発達しすぎたため、結局誰もが集団で袋叩き似合うことを恐れるようになり、それを防ぐには相手を痛めつけたりして恨みを買わないようにする事が重要になる。
 生きるためには相手が嫌がるようなことを極力しないようにする。それをやれば袋叩きにあう。それが惻隠の情の起源と言えよう。
 こうして人は進んで利他行動を行うようになった。こうした中で、生まれながらに利他的にふるまう遺伝子が生まれれば、打算で利他的にふるまうものよりも多くの人に信用され、生存率や子孫を残す率を高めてゆく。
 孟子も言っているように、井戸に落ちかけた子供を助けるのは、その父母に恩を売るためでもなければ、子供の命を救った英雄になるためでもないし、これをしなくては非難されるかれでもない。
 ただし、こうした行動が進化できたのは、実際にはそのことによって自分もまた危険な目にあったときに助けてもらえたし、集団の中での信頼を得る事ができたし、それをやらなかったものが集団から排除されることもあったからだ。似せものでも利他行動によって成り立つ社会は、天然の利他主義者を産む土壌になる。
 現代の社会でも実際の所孟子の考えるような善人ばかりではない。ただ、たとえ建前でも利他行動によって成り立つ社会では、お人よしも生きられる。そのために仁義礼知の徳を説かなくてはならないのであって、本当に善人ばかりだったら、老子の言うようなそれを仁と呼ぶこともない無為自然の社会になっていたはずだ。
 惻隠の情(心)というと、芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川での、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

の句に対し、素堂が波静本への序で、

 「富士川の捨子ハ惻隠(そくいん)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」

と言い、濁子本の後書きで、

 「富士の捨子ハ其(その)親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」

とあるのを思い起こさせる。
 これは『野ざらし紀行』の句の後の地の文、

 「いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

に応じたもので、突き放した非情とも取れる文章の中に、捨て子の命だけでなく、父や母のやむを得ぬ事情にまで想像をめぐらし、今の自分に最善の回答がないことを悲しむことを惻隠の心としている。もちろん当時は孤児院なんてものはなかったし、行政が捨て子を保護することもなかった。
 ただ、こういう心の叫びが多くの人の心を動かせば、いつか誰かが孤児院を思いつき、行政に捨て子の保護を義務付けるという発想も生まれてくることになる。そのための風流だといってもいい。風流は回答は出せなくても心を動かすことならできる。
 惻隠の情は人間だけでなく、広く自然全体にも拡張できる。花の咲くのを喜び散るのを惜しむのも、春の万物を生じるのを喜び秋に止むのを悲しむのも、基本的には同じ情ではないかと思う。
 羞惡の情については繰返しになるが、2018年11月28日の俳話で、

 「恥というのは本来は危険に対して回避を促す反応である。動悸や赤面や体の震えなどの身体的な変化も、本来は危機を回避するためのものだった。
 ただ、順位制社会においては、危険は毒蛇や猛獣などの外敵であったり、内部的には自分より強い個体であったり、対象がはっきり特定しやすい。これに対し、出る杭は打たれる状態に陥った人類の祖先にとって、人間関係の中で、不特定多数の他者が結束して襲ってくるかもしれないというものが重要となる。しかし、これは具体的に誰と誰がというふうに特定しにくく、あくまで想像上の漠然とした危険となる。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応として、人間独自の恥の意識が生じる。」

と書いている。
 恥は単に人と違うということが不安をもたらすだけで、必ずしも善悪には関係しない。以前にも、

 「恥というのは基本的には所属する人間関係からの排除の恐怖であり、必ずしも倫理的に善であるとは限らない。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ったり、奉仕活動で道端のゴミを拾うような、明らかな善行であっても、実際にはそこに気恥ずかしさをともなう場合が多い。これに対し、実際には悪いことであっても、みんながやっていることについては、それほど恥の意識はない。
 恥ずかしさは、善か悪かにかかわらず、みんなとちがうことをやっているのではないかという不安から生じる。」

と書いた。
 ただ、人間関係が基本的に善だとするなら、そこから排除されるものは悪だということにもなる。社会が複雑で重層的になれば、ある社会で善なものがある社会で悪になったりもするが、単純な田舎の村落ではそれほど問題にはならないのだろう。
 羞恥心に関して最も重要なのは性的羞恥心かもしれない。
 恋は集団の中での人間関係を大きく変える可能性を含んでいる。婚姻によって両家のみならず他家との勢力関係も変わるかもしれないし、婚姻に至らなければまた恨みが残り、それがまた人間関係に微妙に影響する。それに加えて恋は恋敵を生じ、激しい嫉妬からしばしば刃傷沙汰にも発展するし、過度な執着はストーカー行為に至る。
 こうした人間関係の劇的な変化を予感させる恋の情に、不安がないはずがない。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応が「恥」ならば、恋はまさに「嬉し恥ずかし」だ。
 恋が風流の最大のテーマとなるのは、単なる犯罪以上に恋は人間関係を大きく動かすからだ。しかもそこに何が善なのか悪なのか、簡単に答えの出ないことばかりだから、恋は人間にとっての永遠の謎だ。
 性交を隠すこと自体は順位制社会の頃から行われている。ただ、この場合は強いものによる妨害を恐れるためで、恥ずかしさからではない。恐怖はあくまで直接的で具体的なもので、潜在的なものではない。
 羞悪は「廉恥」ともいう。この廉恥も死語だが、破廉恥という言葉も最近はあまり聞かなくなっている。筆者の子供の頃には永井豪の『ハレンチ学園』という漫画が一世を風靡したが、ハレンチももはや死語か。なんか世の中が赤城大空の小説のタイトルではないが「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」になりつつあるように思えてくる。
 赤城大空といえば『出会ってひと突きで絶頂除霊!』は世代的に筒井康隆の再来ではないかと思わせてくれる。
 「廉恥」は一応コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「心が清らかで、恥を知る心が強いこと。「破廉恥」
 「一身の―既に地を払て尽きたり」〈福沢・学問のすゝめ〉

とある。

2019年9月24日火曜日

 やれ反日だ嫌韓だのネットやマスコミはやたら騒がしいし、国論が二分されているかのような印象操作がなされているが、実際の所ほとんどの日本人からすればどうでもいいことだ。
 反日もごく一部の人たち、多分反安倍と一緒で十五パーセントもいればいい。嫌韓に至ってはおそらく一パーセントにも満たないと思う。
 ネットやマスコミはやれ差別だのヘイトだの言っているけど、今の日韓の対立はもっと単純なもので、米中第二の冷戦といわれる中でどっちに付くかという地政学的問題だと思う。沖縄の基地問題も基本的に同じだと思う。むしろその辺のイデオロギーの問題をごまかすために、左翼やマスコミは人道の問題にすり替えようとしている。
 まあ、そういうなかで、あまり感情的に声を荒げる連中とは係わりたくないし、だからといって日韓の問題を無視するつもりもない。風流の道と関係する所は一応押えておこうかと思う。

 おそらく日本の俳諧に最も大きな影響を与えた韓国人といえば、李退渓(イ・テゲ)をおいて他にないだろう。
 なぜ俳諧にかというと、李退渓は藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎といった江戸時代の朱子学を確立した人たちに大きな影響を与えたし、その藤原惺窩・林羅山と親交のあった松永貞徳によって貞門俳諧が確立され、江戸の俳諧ブームの端緒になった。
 そして、こうした朱子学の神道への応用が盛んに試みられる中、吉川惟足の神道が曾良を通じて芭蕉に伝わり、不易流行説のもととなっている。不易流行説が弟子たちに受け入れられた背景にも、朱子学が広く当時の教養として周知されていたということがあった。
 李退渓の最大の業績というか、少なくとも日本の朱子学に与えた影響という点で一番大きいのは、四端七情の理気を分かつという説で、四端、つまり惻隠、羞悪、辞譲、是非は情とは言うものの生まれながら具わっている理に発し、七情、つまり喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲は気に発するという説だ。
 この区別によって、理と気、未発と已発、性と情、体と用の区別が確定し、体系化できるようになった。
 今日で言えば四端も七情もいわゆる西洋的な「精神」と「肉体」ではなく、どちらも進化の過程で獲得した遺伝的資質によるものと見なされよう。理は西洋的な理性のことではなく、あくまで人間の自然の情の発露であり、それは今日の科学からすれば、やはりダーウィン的な自然選択によって進化したと考えるべきであろう。
 違うとすれば、その獲得された年代による古い層と新しい層との違いで、七情は多くの順位制社会の中で培われた古い層に属しているのに対し、四端は人間へと向う進化の中で新たに獲得された層だといえよう。
 それは人間の生存競争が一対一での強さの争いではなく、共感能力を発達させたことで多数派工作の争いに変わってしまい、どんなに屈強なものでも集団には勝てないばかりか、むしろ出る杭は打たれる状態に陥り、強さは却って生存に不利に働くようになってしまったことにより、我々の生存戦略を大きく変更せざるを得なくなったことによる。
 その中で四端は一見利他的なようでも、結果的に多数派工作に有利に働くということで、人間らしい新たな性質として進化することになった。
 たとえば幼児が井戸に落ちそうなのをみれば誰でも助けようと思うといういわゆる惻隠の情は、時として溺れそうになった子供を助けようとして自分も溺れてしまうというリスクをもともなう。
 それでも周りの人はこういう人と一緒にいれば自分もいつか助けてもらえると思うし、他人を犠牲にしてでも生き残ろうとする人よりは、こういう人を自分のそばにおいておきたいと願うはずだ。
 惻隠の情を突然変異的に獲得した個体は、群の中の他の者たちから優先的に仲間に引き入れられ、結果的にはそれが多くの子孫を残すことに繋がる。こうした変異は意図して起こるものではない。意図するというのはラマルキズムであってダーウィニズムではない。
 羞悪の情は基本的には利己的にふるまうことで仲間はずれにされることへの漠然とした不安によるもので、具体的にどうこうというものではない。たとえば性的羞恥心というのは、衆人環視の中で性的行動をすることで多くの者の嫉妬心を買い、妨害されるのみならず、嬲り殺される危険すらあるから適者生存できるもので、それを計算ではなく、突然変異的に獲得した場合には一つの本能となる。
 順位制社会では、嫉妬するものがあっても一対一の戦いであれば力でねじ伏せることが出来る。これに対して弱い個体は強い個体の目の届かないところでこっそりと性交をする。子孫を残せるかどうかはこの駆け引きの中にあり、そこでは人間のような恋愛感情は生まれない。
 人間はむしろ生まれながらに性的行動に関して羞恥心をもち、自らの羞恥心と戦いながら愛を告白し、その羞恥を社会で共有する所に性の秩序が保たれる。コイサン人(俗に言うブッシュマン)の社会では、レイプが発覚すると被害者の女性ではなく、加害者の男性のほうが自殺する事が多いという。
 辞譲の情も、出る杭は打たれる社会の中では自己中は嫌われ、仲間はずれにされる危険が大きいところから進化した情といえよう。
 是非の情もまた同様に危険察知の能力といえる。
 順位制社会では一対一での強さをアピールすることが生存を有利にし、子孫を残すことに繋がるが、出る杭は打たれる社会ではむしろ利他的にふるまうことが結果的に生存を有利にし、子孫を残すことに繋がる。それゆえ人間は利他行動を進化させることになった。
 ときとしてそれが裏目に出て、正直者は馬鹿を見るということもあるが、確率的には利己的にふるまうより利他的にふるまうほうがより多くの子孫を残すことに成功してきた。
 こういう人間らしさというのは、実際には四つだけに分類できるものではない。もっと人間の行動は多様で、それらをひっくるめて言うなら「誠」と言ったほうがいい。それは朱子学だけでなく俳諧も究極的に目指すところのものだ。
 喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲も人間として不可欠な情ではあるし、これらは常に俳諧の種(俗語ではこれをひっくり返してネタともいう)ではあるが、それだけでは風流とは言えない。それが風雅の誠に結びついた時に風流と呼ぶことが出来る。
 たとえば「いい女だからやりたい」というのは風流ではない。いい女と思いつつも、羞恥の情と戦いながらかすかに思いを伝えた時に風流となる。

   精進あげの三位入道
 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

のような句は風流とは言い難い。かかのことを気遣い、嫉妬を恐れながらも、それでも他の女に目移りすることは止められない、というならまだ風流がある。

   花の時千方といつし若衆の
 恋のくせもの王代の春      卜尺

の句にしても若衆の情への思いやりを欠いたまま、一方的に「くせもの」だなどと言うのは風流が足りない。
 恨みの情に関しても、憎悪をあからさまに言い立て罵るのは風流ではない。お互いの立場を理解し合い、自らの情を抑えながらも、それでも二度とこうした恨みつらみごとの起きないような最終的な解決を願うなら、そこに風流が生まれる。
 四端と七情は区別されねばならず、七情を述べる時にも心の中に四端を忘れないなら、それは風雅の誠となる。我々の風流の道は李退渓の教えにより開かれた。
 韓国の恨(ハン)は、思うに四端に発する恨みであり、七情の恨みとは区別されてたのではないかと思う。七情の恨みであってもその背後に四端が働いているなら、四端に発する恨みと言ってもいいだろう。
 この区別は、古来「本意」と呼ばれていたものを俗情、あるいは私情と区別する際に、合理性をもたらすことができる。
 まあ、そういうわけで今、日韓が険悪な状態になる中、私に出来るのは李退渓から引き継がれた風流の道を学び、守るだけのことで、反日も嫌韓も関係ない。

2019年9月23日月曜日

 台風が日本海を通過していったせいか、暑くて風が強かった。
 そういえば、日本海って韓国だと東海(トンへ)というんだっけ。まあ、難波の芦は伊勢の浜荻ってところか。
 呼び名なんてのは人間が便宜的につけたものだからいくつあってもいい。猫の名前と一緒だ。それを一つにしようとすれば争いが起こったりする。
 それでは「名月や」の巻の続き。

 十五句目。

   食のこわきも喰なるる秋
 月影は夢かとおもふ烏帽子髪   濁子

 「烏帽子髪」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「 烏帽子をかぶる時の髪の結い方。髪を後部で束ねて、そのまままっすぐに上へ立てた型。烏帽子下(えぼしした)。」

とあり、烏帽子下のところには、

 「俳諧・桜川(1674)春一「大ふくの茶筅髪かや烏帽子下」

の句が引用されている。烏帽子下を茶筅にに喩えることにこの頃新味があったとするなら、茶筅髷という言葉はこの頃生まれた言葉か。織田信長が有名だが。本来はこの髷で烏帽子が落ちないように固定した。
 強飯は『源氏物語』末摘花巻にも出てきて、二条院に戻って寝込んいた源氏の所に頭中将がやってきて、

 「朝寝とは随分いい身分じゃないか。さては何かあると見たな。」
と言うのでむくっと起き上がり、
 「独り気楽に寝床でくつろいでいるところに何だ?内裏からか?」
と答えると、
 「そうだ。ちょっとした用事のついでだ。
 朱雀院の紅葉狩りの件で、参加する演奏者や舞い手が今日発表されるので、この俺が内定したことを左大臣にも伝えようと思って来たんだ。
 すぐに帰らなくてはならないんだ。」
と急がしそうなので、
 「だったら一緒に。」
ということで、お粥やおこわを食べて、二人一緒に内裏へと向い、二台の車を連ねたけど一緒の車に乗って、頭の中将は、
 「にしても、眠そうだな。」
と何か言わせようとするものの、
 「隠し事が多すぎるぞ。」
とぼやくのでした。

 (二条院におはして、うちふし給ひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそと、おぼしつづけて、かるらかならぬ人の御ほどを、心ぐるしとぞおぼしける。思ひみだれておはするに、頭中将おはして、こよなき御あさいかな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひ給へらるれといへば、おきあがり給ひて、こころやすきひとりねの床にて、ゆるびにけり、うちよりかとのたまへば、しか、まかではべるままなり。朱雀院の行幸、けふなん、がく人、まひ人さだめらるべきよし、うけたまはりしを、おとどにもつたへ申さんとてなむ、まかで侍る。やがてかへり参りぬべう侍りと、いそがしげなれば、さらば、もろともにとて、御かゆ、こはいひめして、まらうどにもまゐり給ひて、引きつづけたれど、ひとつに奉りて、猶いとねぶたげなりと、とがめ出でつつ、かくい給ふことおほかりとぞ、うらみ聞え給ふ。)

という場面がある。王朝時代では遅れた朝食をとるときにお粥と強飯を食べることはよくあったことなのか。それにしても炭水化物に炭水化物だ。
 古代では強飯のほうが普通で、むしろ水で炊いたご飯をお粥と呼んでいたという。
 ただ、この場合普段食べないものを食べなれてということだから、舞台は古代ではなく、既に烏帽子をかぶる習慣のなくなって烏帽子髪(茶筅髪)だけが残った戦国時代、落武者の風情と見た方がいいのだろう。

 「人間五十年
 下天の内をくらぶれば
 夢幻のごとくなり」

なんて敦盛を歌いだしそうだ。
 十六句目。

   月影は夢かとおもふ烏帽子髪
 殿の畳のふるびたる露      千川

 畳の上に寝ているのなら落武者ではない。江戸時代の改易や減封によって没落したお殿様のことだろう。
 十七句目。

   殿の畳のふるびたる露
 花咲ば木馬の車引出して     芭蕉

 当時の木馬は子供の遊び道具ではなく、乗馬の練習に使うものだった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「日本では江戸時代に、武士の子弟の馬術の練習用としての木馬があった。木馬に、手綱(たづな)、障泥(あおり)などをつけ、鐙(あぶみ)の乗り降り、鞭(むち)の当て方を練習した。馬術を習うのに木馬を用いることは中国でもあったといわれている。また木馬は、乗馬に使用する鞍(くら)を掛けておく道具として用いられ、鞍掛とよばれた。」

とある。ある程度の重さがあるので、大八車に乗せて運んだか。
 老いて隠居した殿様は庭に桜の花が咲く頃には昔のことを思い出して木馬を庭に引っ張り出してみるが、木馬が去ったあとの部屋の畳もいつしか古びてしまった。これぞ「さび」といったところか。
 挙句。

   花咲ば木馬の車引出して
 ほこりもたたぬ春の南風     此筋

 強い春風は土ぼこりを巻き上げるが、ほこりも立たぬ程度のかすかな温かい風で、どうやらまだ花も散ることはないと、この巻は目出度く終わる。
 半歌仙ということでやや物足りないが、芭蕉さんの体調もそれほど良くなかったのだろう。冬になれば許六・洒堂を加えて、不易と流行のバランスを取った猿蓑調から、より初期衝動を重視する炭俵調の完成へ向かって加速してゆくことになる。

2019年9月22日日曜日

 今日は向島百花園に行った。萩のトンネルもようやく見頃になり、彼岸花も咲いていた。女郎花、桔梗、紫苑などの花はもとより、瓢箪、糸瓜、蛇瓜などの実もなっていた。
 園内には句碑がたくさんあって、

 朧夜やたれをあるしの墨沱川   永機
 黄昏や又ひとり行く雪の人    梅年
 うつくしきものは月日ぞ年の花  月彦

など明治初期に活躍した最後の俳諧師たちの息吹が感じられる。
 それでは「名月や」の巻の続き。

 十一句目。

   きりかい鷹の鈴板をとく
 船上り狭ばおりて夕すずみ    涼葉

 鷹狩りも終わり、船で戻って夕涼みといったところか。
 十二句目。

   船上り狭ばおりて夕すずみ
 軽ふ着こなすあらひかたびら   千川

 「あらひかたびら」は西鶴の『好色一代男』に出てくる「あらひがきの袷帷子」か。「あらひがき」は色の名前で、洗われて色が薄くなったような柿色のことだという。
 芭蕉の元禄三年の発句に、

 川風や薄柿着たる夕涼み     芭蕉

というのがあるが、この薄柿より更に薄い柿色なのだろう。
 柿渋の衣はかつては穢多・非人の着るものだったが、まあ歌舞伎役者も身分としては非人だし、むしろそのアウトローっぽさがかっこよかったのではないかと思う。
 十三句目。

   軽ふ着こなすあらひかたびら
 伏見まで行にも足袋の底ぬきて  芭蕉

 この頃の伏見は秀吉の時代の繫栄の跡形もなく荒れ果てていた。
 伏見の撞木(しゅもく)町には遊郭があったが規模も小さく高級な遊女がいるわけでもなく、京のあまり金のない男が徒歩で遊びに行くようなところだった。
 芭蕉の時代より十年くらい後になるが、大石内蔵助がここで遊んでたといわれている。今の近鉄伏見駅の近く。
 伏見も広く、最近悲惨な事件のあった京アニ第一スタジオは六地蔵のほうで、だいぶ離れている。
 十四句目。

   伏見まで行にも足袋の底ぬきて
 食のこわきも喰なるる秋     此筋

 「食(めし)のこわき」は強飯(こわいい)のことで、小豆の入ってない強飯は白蒸(しらむし)とも言った。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 小豆(あずき)を入れない白いこわめし。小豆を入れた赤飯に

対していう。しろむし。
  ※浮世草子・当世乙女織(1706)六「伏見までの夜食にせよとて赤飯白(シラ)むし餠酒を小船に積でくばりありく」

とある。伏見へ行くときの弁当の定番だったか。

2019年9月20日金曜日

 朝鮮通信使(朝鮮来聘使)に関しては、ウィキペディアに、

 「一方で、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[注釈 16]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[48] 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[49]といった乱暴狼藉を働くものもあった。」

とある。
 ここで注意しなくてはならないのは、この情報の出典で、

 「屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる」

に関しては、[注釈 16]、つまり「以上洪禹載『東槎録』(1682)にみられる対馬側から要望された禁止事項の一部」が根拠となっている。禁止されたと言うからにはやっていた、という推測によるものだ。
 ただ、対馬藩は朝鮮(チョソン)との貿易の窓口だったから、来聘使ではなく貿易のためにやってきた商人や船乗りの下っ端がそういうことをやっていたから、念のために来聘使にもということだったのかもしれない。

 「供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる」

の根拠として引用されているのは、[48]の「通信使のおとし子」(2007.7.18 民団新聞)という新聞記事で、そこには、

 「第11回通信使が往復に11カ月も費やした最大の理由は、復路の大阪で一行の一人が対馬藩の役人に殺されるという「殺人事件」があったからだが、ここではその大阪で、通訳官の一人が一行の世話をしていた日本人下女をはらませたという「別の事件」に注目したい。

 なぜかといえば、その下女が産んだ子供は、何と『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九という説があるからだ。それは李寧煕氏の『もう一人の写楽』という著書に記されている。謎の浮世絵師・東洲斎写楽とは韓国人絵師・金弘道であるというのが書の主題だが、この主題は十返舎一九が通信使のおとし子でないと成り立たない。

 主題への賛否は留保するが、一行の滞日中、善隣友好という大義名分の他にも様々なレベルの交流があったことをここでは指摘したい。当然ながら、本当の友好関係とは草の根交流がその基礎になっているからだ。」

とある。まあ、どうみてもトンデモ本の法螺話で信憑性はない。

 「魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり」

の根拠としている[49]の山本博文『江戸時代を「探検」する』(新潮社)も大衆向けの本で、この記述がどのような資料を基にしているのかは書かれてない。
 ウィキペディアに書いてあるとはいえ、このあたりは噂話の類で、諸説ありとしておくべきだろう。まあ昔の人のことだし、日本の参勤交代の行列でも色々トラブルが起きているから、ありそうなことではあるが、それ以上の意味はないと思う。
 まあ、前振りが長くなったけど、「名月や」の巻の続きにいってみよう。

 初裏、七句目。

   曲れば坂の下にみる瀧
 猟人の矢先迯よと手をふりて   芭蕉

 「猟人」は「かりうど」、「迯よ」は「のけよ」と読む。
 これは何に向って手を振っているのだろうか。おそらく前句に記されてない何かに向ってであろう。つまり、かかれてないけど前句から匂うもの、おそらくは李白観瀑図や観瀑僧図のような絵によく描かれる、滝を見る風流の徒であろう。
 滝は同時に鹿が水を飲みに来る場所でもある。風流の徒も狩人からすれば迷惑な存在だったりして。
 八句目。

   猟人の矢先迯よと手をふりて
 青き空より雪のちらめく     千川

 これは、

   罪も報いもさもあらばあれ
 月残る狩場の雪の朝ぼらけ    救済

の心だろうか。青空は青雲のように明け方の空を思わせる。
 空が晴れているのに雪がちらちらと降ってくるのを見て、ふと殺生の罪のことが気に掛かり、狙ってた鹿に逃げよと手を振る。
 九句目。

   青き空より雪のちらめく
 入口の鎌預れと頼むなり     此筋

 『校本芭蕉全集』第五巻の注には、「鍵(かぎ)の誤りか。」とある。
 雪の明け方に鍵というと、『源氏物語』末摘花の鍵の爺さんか。
 元禄三年の「市中や」の巻の十二句目、

   魚の骨しはぶる迄の老を見て
 待人入し小御門の鎰       去来

は「待ち人」がいて、鍵は「小御門」の鍵でという具体的な情景が記されているが、それをさらに出典から離れて軽くするとこういう感じになる。
 猿蓑調と炭俵調の違いであろう。
 十句目。

   入口の鎌預れと頼むなり
 きりかい鷹の鈴板をとく     濁子

 「きりかい」はよくわからない。「鈴板」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 鷹の尾につける鈴を支える板。〔運歩色葉(1548)〕
  ※俳諧・糸屑(重安編)(1675)三「鈴板は小鷹の印のむすひ哉〈芳際〉」

とある。鈴板を解くために鷹小屋の入口の鍵を預れということか。

2019年9月19日木曜日

 昨日のちょっと訂正。
 芭蕉が江戸に戻ったのは元禄四年の十月二十九日で、しばらくは日本橋橘町に仮住まいしていた。今でいえば馬喰町の駅の南側の東日本橋三丁目のあたりだ。
 第三次芭蕉庵は翌元禄五年五月に竣工した。
 それでは四句目。

   秋をへて庭に定る石の色
 未生なれの酒のこころみ     涼葉

 「未生なれの」は「まだなまなれの」と読む。
 「なまなれ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 熟れ鮨で、十分熟成していないもの。
  2 果物などで、十分熟していないもの。
  3 十分に熟達していないこと。また、そのさまや、そのような人。
「―な商人の来る節句前」〈川柳評万句合〉

とある。酒の場合はまだ十分に発酵が進んでないということか。「なれる」というのは輪郭がなくなることをいうから、まだ米の粒が残っている状態のどぶろくかであろう。熟成するのを待ちきれずに試し飲みというところか。
 庭の石といってもここでは枯山水などに用いる白砂のことで、これがまだ米粒の残るどぶろくを連想させる。
 五句目。

   未生なれの酒のこころみ
 端裁ぬ鼻紙重きふところに    此筋

 当時鼻紙として用いられていたのはちり紙で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「廃物利用の下等紙のこと。本来は手漉(す)き和紙の材料であるコウゾ(楮)やミツマタ(三椏)などを前処理する際にたまる、余分の外皮などのくずを集めて漉いた。宮城県白石(しろいし)地方では、コウゾの外皮を薬品を使わずに自然発酵で精製して漉いたものをちり紙といい、外皮のくずを主原料としたかす紙とは区別している。塵紙(ちりがみ)の名はすでに1506年(永正3)の『実隆公記(さねたかこうき)』にみられる。1777年(安永6)刊の木村青竹(せいちく)編『新撰紙鑑(しんせんかみかがみ)』には「およそ半紙の出るところみな塵紙あり、半紙のちりかすなり」とあるように、江戸時代には各地で種々のちり紙が生産され、鼻紙、包み紙、紙袋、壁紙、屏風(びょうぶ)や襖(ふすま)の下張りなどに広く用いられた。」

とある。
 遊郭などで用いる高級な鼻紙となると、延紙がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「大和国(奈良県)吉野地方から多く産した縦七寸(約二一センチメートル)横九寸(約二七センチメートル)程度の小型の杉原(すぎわら)紙。鼻紙の上品として、遊里などで用いられた。小杉原。七九寸。のべ鼻紙。のべ。
 ※浮世草子・好色一代男(1682)一「朝鮮さやの二の物をほのかにのべ紙(カミ)に数歯枝(かずやうじ)をみせ懸」

とある。「朝鮮さや」は「朝鮮紗綾」で「二の物」は「二布(ふたの)」のことか。
 この句の場合、「端裁(はしたた)ぬ」と漉いたまま縁をカットしてない状態の物なので、安価なちり紙の方か。
 今のポケットティッシュのような小さなものではないので、懐に入れるとそれなりの重さがあったようだ。
 江戸中期の四方赤良の狂歌に、

 山吹の鼻紙ばかり紙入れに
     実の一つだになきぞ悲しき

とあるように、懐に鼻紙というのは、金がないという意味だろう。だから自家製のどぶろくの熟成を待ちきれずに飲んでしまう。
 懐に入れるという意味で「懐紙」という言葉もある。連歌は元々はこの懐紙に記入した。二つ折りなので、表裏両方に書ける。
 六句目。

   端裁ぬ鼻紙重きふところに
 曲れば坂の下にみる瀧      濁子

 前句の「端裁ぬ」を「橋立たぬ」に取り成したか。橋がないので川の手前で曲がれば瀧になってしまう。
 瀧は近代では夏の季語だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「滝殿」はあっても「瀧」は夏の季語になっていない。貞徳の『俳諧御傘』にも季節への言及はない。

2019年9月18日水曜日

 今日も午後から雨が降った。朝には月が見えていたが。
 まあ、とりあえず何を書くか決まらない時には、俳諧を読んで行くのがいいだろう。まだ読んでない俳諧は無数にあるし、読めば何かしら得るものがあると思う。
 なかなか晴れなくても、雲間に月が顔をのぞかせた時にはやはり感動するし、何か救われたような気分になる。仕事帰りで疲れているときならなおさら癒される。
 そういうわけで元禄五年の江戸も雨が多かったのか、八月十五日の興行で江戸在勤中の大垣藩士が集まった時の発句はこれだった。

 名月や篠吹雨の晴をまて     濁子

 「篠」は『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)では「ささ」とルビがふってあるが、『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)では「すず」となっている。
 コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「すずたけ(篠竹)」の異名。 「今夜誰-吹く風を身にしめて/新古今 秋上」

とある。引用されている歌は、

 今宵誰すず吹く風を身にしめて
     吉野の嶽の月を見るらむ
           従三位頼政(源頼政、新古今集)

で、従三位頼政は「実や月」の巻の十五句目での「三位入道」の取り成しのところでも登場した。
 後ろに「吹」の文字があるから、「篠吹」を「すずふく」と詠むのはなるほどと思う。
 この句は「名月は篠吹雨の晴をまてや」の倒置だが、頼政の歌を踏まえてるとして読むなら、篠吹く風だけでなく雨まで降っているが、晴れるのを待てば身に染みる名月を見るだろう、という意味になる。
 濁子は元禄六年一月の大垣藩邸千川亭興行の「野は雪に鰒の非をしる若菜哉」の巻のところでも紹介したが、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-? 江戸時代前期-中期の武士,俳人。美濃(みの)(岐阜県)大垣藩士。江戸詰めのとき松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。絵もよくし「野ざらし紀行絵巻」の絵をかく。杉山杉風(さんぷう),大石良雄らと親交をむすんだ。名は守雄。通称は甚五兵衛,甚五郎。別号に惟誰軒素水(いすいけん-そすい)。」

とある。
 この発句に芭蕉は、

   名月や篠吹雨の晴をまて
 客にまくらのたらぬ虫の音    芭蕉

と和す。
 芭蕉が脇を詠んでいるところから、芭蕉庵での興行と思われる。
 たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、といったところか。この日は濁子、千川、凉葉、此筋の四人が訪れていた。
 「虫の音」はこの場合は放り込み。雨が止めば一斉に鳴きだす虫も、今はどこかで眠っていると見るならば、足らないのは虫のための枕とも取れる。
 第三。

   客にまくらのたらぬ虫の音
 秋をへて庭に定る石の色     千川

 新しく建てられた第三次芭蕉庵もひと秋をへて、ようやく庭石の置き場所も定まり、虫が鳴いているが、まだ枕は足りない、となる。
 第一次芭蕉庵は最初の深川隠棲の時のもので、天和の大火で焼失した。
 第二次芭蕉庵はそのあと再建されたが、『奥の細道』に旅立つ時に人に譲った。
 『奥の細道』の旅のあと、しばらく関西に滞在していた芭蕉が、元禄五年に江戸に戻ってきて、その時に作られたのがこの第三次芭蕉庵だった。

2019年9月15日日曜日

 今日は小石川植物園に行った。
 この前の台風で木が倒れていたり、かなり荒れた感じになっていた。
 秋の花は少ないが、それでも萩、ミソハギ、女郎花、オトコエシ、キクイモなどが咲いていた。芭蕉の木には花と実があった。花は大きく花びらは散った後か。身は小さく短く青いがバナナだった。
 今日はあちこちで祭をやっていて、神輿も何台か見た。植物園の隣の簸川(ひかわ)神社も縁日の屋台が出ていた。
 帰る途中、新大久保を通った。いつもどおり賑わっていた。
 それでは「実や月」の巻、挙句まで。

 三十三句目。

   大坂くづれ瓦のこれる
 神鳴の火入とかやは是とかや  桃青

 「火入(ひいれ)」にはいろいろな意味がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「① タバコを吸うための炭火などを入れておく小さな器。ひいり。
 ※評判記・色道大鏡(1678)四「呑(のみ)さしたるたばこを火入(ヒイレ)にうちあけ」
  ② 山野・秣場(まぐさば)などを肥やすために、そこの枯れ草や小さい木などを焼くこと。
 ※森林法(明治四〇年)(1907)七八条「森林又は之に接近せる土地に火入を為さむとするときは」
  ③ 清酒などの腐敗を防ぐために加熱すること。
 ※歌舞伎・曾我梅菊念力弦(1818)三立「あの酒も火入(ヒイ)れだの」
  ④ 製鉄所の溶鉱炉や火力発電所などの燃焼設備が、落成したり改修したりして、操業を開始すること。吹き入れ。「火入れ式」
  ⑤ 江戸時代、山林の保護や火災の予防などのために山林の周囲を前もって焼きはらうこと。ほそげやき。」

 元は単に火を入れるということだから、火の入れ物か、何かの目的のために火を導入する事かの二つに分けられる。
 前句の「瓦」を生かすなら、この瓦が雷の火の入れて保管しておくものか、と読んだ方がいいのだろう。「茶道入門」のホームページには、

 「火入(ひいれ)は、煙草盆の中に組み込み、煙草につける火種を入れておく器のことです。
 火入は、中に灰を入れ、熾した切炭を中央に埋めて、喫煙の際の火種とします。」

とある。
 この句を大坂冬の陣で大砲が用いられたことと結びつけると、同じネタが連続する事になるので、ここは普通に雷が落ちて火事になって残った瓦とすべきであろう。
 三十四句目。

   神鳴の火入とかやは是とかや
 鬼一口に伽羅を喰割      二葉子

 「伽羅(きゃら)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「香木の一種。沈香,白檀などとともに珍重された。伽羅はサンスクリット語で黒の意。一説には香気のすぐれたものは黒色であるということからこの名がつけられたという。茶道では真の香とされている。」

とある。
 火入も茶道具なので、同じ茶道具として伽羅を出す。とはいえ、雷様の茶会だから茶室に招かれたのも鬼。香を焚くための伽羅をむしゃむしゃと貪り食ってしまう。
 三十五句目。

   鬼一口に伽羅を喰割
 花の時千方といつし若衆の   紀子

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「謡曲・田村『千方といひし逆臣に仕えし鬼も』」とある。「いつし」は「いひし」の間違いか。
 田村は坂上田村麻呂のことで、東国から京に登ってきた僧が坂上田村麻呂に由来する清水寺を訪れる。折から花の季節だった。
 「千方」は藤原千方の四鬼のことで、ウィキペディアには、

 「様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名。
 その話によると、平安時代、時の豪族藤原千方は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる。」

とある。このときの和歌は、

 草も木もわが大君の國なれば
     いづくか鬼のすみかなるべき

で、芭蕉が伊賀にいたころの「野は雪に」の巻の十二句目にも、

   あれこそは鬼の崖と目を付て
 我大君の国とよむ哥      一以

の句が見られ、良く知られていた歌だった。

 田村には、後半に坂上田村麻呂の霊が登場し、

 いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。
 千方といひし。
 逆臣に仕へし鬼も王位を背く天罰にて。
 千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。
 ましてやま近き鈴鹿耶麻。

と、鈴鹿山の敵を打ち破ったときのことを語る。
 句の方は、千方がまだ若衆だった頃の鬼のエピソードに作る。
 若衆とくれば、当然あれを呼び出すことになる。
 挙句。

   花の時千方といつし若衆の
 恋のくせもの王代の春     卜尺

 「王代」は王朝時代のこと。
 ホモネタは芭蕉も得意としたが、ここでは卜尺に譲ったか。とはいえ、「くせもの」扱いするところはやはりオヤジだ。
 この巻で芭蕉の句はあまり立っていない。卜尺と二葉子(喋々子?)のペースにはまってしまっている。このあと桃青は卜尺から離れ、『次韻』に向けて独自の風を作り上げてゆくことになる。

2019年9月14日土曜日

 今朝は有明の月が見えた。薄月ではなく澄んだ月だった。
 それでは「実や月」の巻の続き。

 二十九句目。

   俎板の月摺鉢の不二
 昔の秋三千よ人の拂物     二葉子

 「拂物」は不用品のこと。「三千余人」は漢文ではよくある言い回し。戦記物だと「三千余騎」とともによく用いられる。
 『荘子』の「説剣篇」には、「昔趙文王喜剣。剣士夾門而客三千余人。日夜相撃於前、死傷者歳百余人、好之不厭。」とある。三千余人の剣士が日夜試合を行い、死傷者が年に百余人に及び、国も衰えて行くのを嘆き荘周に相談すると、荘周は「天子剣、諸侯剣、庶人剣」の三剣の話をする。天子には三つの剣がある。一つは天地自然を治める天子の剣、一つは家臣を用いて政道を行い国を治める諸侯の剣、もう一つはただ斬って殺すだけの庶人の剣。これを聞いて考え込んでしまった王は三ヶ月引き籠り、「剣士皆服斃其処也」となった。
 雁、月と秋が二句続いたので、「昔の秋」の「秋」は秋を三句続けるための放り込みで特に意味は無いのではないかと思う。
 前句の「俎板の月摺鉢の不二」を絵に描いた餅のような食べられないものの事として、三千余人が食事も与えられずお払い箱(拂物)になった。
 三十句目。

   昔の秋三千よ人の拂物
 釈迦も此よを欠落の時     桃青

 「欠落」は「かけおち」と読む。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「江戸時代に、貧困、借財その他の原因で失踪(しっそう)することを欠落(かけおち)といった。一般に出奔、逐電、立退(たちのき)などの語も用いられたが、法律上は欠落が多用された。」

とある。今日では男女の示し合わせて逃げる意味以外ではほとんど用いられなくなったが、逆に当時はまだこの意味がなかった。
 延宝三年の「いと凉しき」の巻の五十一句目に、

   うり家淋し春の黄昏
 欠落の跡は霞の立替り     似春

の句がある。
 「釈迦も此よを欠落の時」はお釈迦様の出家のことをいう。お釈迦様も出家する前は王子で、後宮にはたくさんの女性がいたとされている。「三千よ人の拂物」は釈迦の出家のせいで彼女達がお払い箱にされたと付ける。
 二裏、三十一句目。

   釈迦も此よを欠落の時
 放埓に精舎のかねをつかひ捨  卜尺

 釈迦の出家の理由を借金取りに追われての夜逃げにとする。この辺の下世話に落とすところが卜尺らしいというか。
 三十二句目。

   放埓に精舎のかねをつかひ捨
 大坂くづれ瓦のこれる     紀子

 「大坂くづれ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、「大坂夏の陣の戦」だという。
 前句を方広寺鐘銘事件のこととし、冬の陣で豊臣家は敗北する。江戸時代だからもちろん徳川中心の歴史観に立ち、方広寺の鐘銘で不敬なことをするからこうなるのだ、ということになる。

2019年9月13日金曜日

 今日は中秋の名月だが朝から空はどんより曇っていた。
 ただ夜になるとところどころ雲に切れ目が生じ、時々薄月が見えた。疲れては雲より漏るる月の距離という随分昔に作った句を思い出す。
 何に関しても程よい距離というものはある。人と人もあまり近いとうざいように、国と国も適度の距離というのが必要なのかもしれない。
 徳川の三百年の平和の時代は、朝鮮半島も平和だったし、清朝も西洋人が侵略してくるまでは平和だった。この時代は貿易は盛んだったが、対馬や長崎や琉球など入口は限られ、それほど多くの人が行き来していたわけではなかった。適度の距離を保つことも平和には必要なのかもしれない。
 遠くにいてあこがれているときのほうが良い場合もある。
 近代に入って西洋文明が入ってきて、やれ世界は一つ、真理は一つ、神はただ一人とばかりに、何でもかんでも一つにしようとして、結局世界全体が悲惨な戦争を繰返してきた。
 同じになるはずのないものを無理矢理一つにしようとすれば、必ず争いになる。人も国も同じだと思う。
 それでは「実や月」の巻の続き。今日はちょっと少ないけど。

 二十七句目。

   殿様かたへゆくあらしかな
 雁鶴も高ねの雲の立まよひ   紀子

 「高嶺の花」という言葉は本来は高い山の上で咲く花で手が届かないという意味だったが、今日では「高値の花」つまり値段が高くて手の届かないという意味で用いられている。
 この両義性は昔からあったのだろう。ここでは食材だが、雁も鶴も高価で、庶民から見れば高い山の雲の彼方で、殿様のところへ買われていってしまう。
 ただ、雁は元禄六年には、

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

と詠まれているから、恵比寿講の特別なご馳走だとは言え、一応庶民の手の届くものになっていたか。
 二十八句目。

   雁鶴も高ねの雲の立まよひ
 俎板の月摺鉢の不二      卜尺

 俎板というと日本では一般的に長方形のものが用いられ、昔は足がついていた。ただ、俎板を月に見立てるというと、円形の俎板も存在していたか。あるとしたらおそらく中華料理に用いるような、丸太を切ったような俎板であろう。
 摺鉢の不二(富士)はすり鉢を伏せた形状からか。
 前句の「雲の立まよひ」から俎板と摺鉢を空の景色に見立てた。

2019年9月12日木曜日

 今日は夕方から雲が出て月は見えなかった。明日は中秋の名月。天気予報だと曇りらしい。
 それでは「実や月」の巻の続き。

 二十三句目。

   鼡に羽が郭公とぶ
 押入や淀のわたりの箱階子   卜尺

 箱階子(はこばしご)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「段の裏の下部の空間に、側面から利用する、引き出しや戸棚を設けた階段。段と段との間にとりだし口を設けたものもある。はこばし。」

とある。今では階段箪笥と呼ばれることが多い。常設の階段ではなく、二階へ抜ける穴のところに梯子代わりに架けるもので、押入れに収納することも多い。
 「淀のわたり」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 いづ方になきてゆくらむ郭公
     淀のわたりのまだ夜ぶかきに
               壬生忠見(拾遺集)

の歌が引用されている。ホトトギスと淀の渡りはこの歌を本歌として付け合いになる。
 前句の羽の生えた鼠のホトトギスを、あたかも羽が生えているかのようなドタバタうるさく走り回る鼠の比喩とし、「押入や」の「や」は「は」に替る「や」で、「押入は淀のわたりの箱階子や」と疑いつつ治定し、「鼡に羽が(はえて、歌に詠まれた淀のわたりの)郭公(であるかのように)とぶ」、となる。
 二十四句目。

   押入や淀のわたりの箱階子
 織もの巻もの衣笠の森     紀子

 衣笠の森は京都の衣笠山の周辺で、衣笠山の麓一体もかつて衣笠と呼ば

れていた。龍安寺や等持院や金閣寺などがある。
 句は呉服店の様子を描写したもので、箱階子のある押入を淀の渡りに見立て、織物や巻いた布などの陳列されているところを衣笠の森に喩える。ものが衣(きぬ)だけに。
 対句のような構成なので、相対付け(向え付け)と見ていいだろう。
 二十五句目。

   織もの巻もの衣笠の森
 能太夫末は時雨の松見えて   桃青

 能太夫(のうだゆう)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「元来は,能の四座 (観世,宝生,金春,金剛) の宗家の称。ただし喜多流宗家だけは喜多太夫と呼ばなかった。転じて,能のシテ役のことをも太夫と称した。」

とある。
 きらびやかな織もの巻ものの森に囲まれてきた能太夫も、やがて年を取れば時雨の松のように色を失ってゆく。
 時雨の松といえば、

 わが恋は松を時雨の染めかねて
     真葛が原に風さわぐなり
              慈円(新古今集)

の歌が知られている。時雨に染まらない人を松(待つ)に、裏を見せる(うらむる)真葛が原の恨みだけが残ってゆく。
 そこには定家卿が時雨亭の、

 しのばれむものともなしに小倉山
     軒端の松に慣れて久しき
              藤原定家

のイメージとも重なり合って、謡曲『定家』の定家葛にも通じ合う。
 ここではあえて恋に限定する必要もないだろう。なかなか思い通りにならない世の中に、いつしか年を取り、果たされなかった夢の様々な恨みが、もはや怒ることも取り乱すこともなく静かに心の底に積もってゆく。(本来韓国の「恨(ハン)」もそういうものだったと思う。)
 ひょっとしたらこの能太夫は遊女の最高位としての太夫かもしれない。遊女の太夫も最初は女歌舞伎の能太夫から来ている。
 失われてゆく美貌というテーマは、後の元禄三年の「市中は」の巻の三十二句目、

    さまざまに品かはりたる恋をして
 浮世の果は皆小町なり     芭蕉

の先駆けかもしれない。
 二十六句目。

   能太夫末は時雨の松見えて
 殿様かたへゆくあらしかな   二葉子

 能太夫はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「能役者のうち、公の席でシテを務める立場の者。江戸時代は四座一流の家元や各藩所属役者で格の高い者などをさした。のち、能役者一般をいう。」

とあるように、ここでは各藩所属役者の意味になる。
 あるいは遊女の太夫が寄る年波に勝てずに、一人の殿方の所に落ちて行くとも取れる。

 葛の葉のおつるの恨夜の霜    宗因

の心だ。この句は後に芭蕉が『野ざらし紀行』の西行谷の帰りに寄った茶店での因縁の句になる。

2019年9月11日水曜日

 今日は夕立があり、その後晴れて月が見えた。
 それでは「実や月」の巻の続き。

 二表、十九句目。

   龍田のおくに博奕こうじて
 毛氈を御門の目には錦かと   紀子

 「毛氈」はフェルトのことで、ウィキペディアに、

 「現存する日本最古のフェルトは、正倉院所蔵の毛氈(もうせん)である。奈良時代に新羅を通じてもたらされたとされる。近世以後は羅紗・羅背板なども含めて「毛氈」と呼ばれるようになるが、中国や朝鮮半島のみならず、ヨーロッパからも大量の毛氈が輸入され、江戸時代後期には富裕層を中心とした庶民生活にも用いられるようになった。現在でも、畳大の大きさに揃えられた赤い毛氈は緋毛氈と呼ばれ茶道の茶席や寺院の廊下などに、和風カーペットとして用いられている。」

とある。このころはまだ緋毛氈は一般的ではなかったのだろう。
 「錦」が数種類の色糸で織り上げる華麗な織物であったように、ここでいう毛氈も緋毛氈ではなく、色数の多い華やかなものを指していたと思われる。正倉院の毛氈も「花氈(かせん)」や「色氈(しきせん)」だった。
 前句の「博奕」を中世に大流行した闘茶のこととしたのだろう。賭け茶とも呼ばれている。闘茶の会場には唐物の毛氈が敷き詰められていたという記述が『太平記』にあるらしい。
 闘茶は戦国時代に侘び茶が流行ると、急速に衰退していったが、江戸時代に入っても行われていた。
 竜田川の紅葉は、

 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
     竜田の川の錦なりけり
             能因法師(後拾遺集)

のように錦に喩えられた。
 龍田山の奥で闘茶があれば、紅葉よりそこの毛氈が錦だということになる。
 二十句目。

   毛氈を御門の目には錦かと
 そよや霓裳羅漢舞する     卜尺

 「霓裳(げいしょう)」は「霓裳羽衣の曲」で、ウィキペディアには、

 「霓裳羽衣の曲は玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲と言われる。玄宗は愛妾である楊玉環のお披露目の際、この曲を群臣に披露し、群臣に楊玉環が特別な存在であると意識させた。」

とある。
 「楊玉環」は楊貴妃。ウィキペディアには「姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。」とある。
 「そよや霓裳」は謡曲『楊貴妃』の地歌に、

 「そよや霓裳羽衣の曲。そよや霓裳羽衣の曲。そぞろにぬるる袂かな。」

とある。
 楊貴妃なら錦だが、毛氈を着て舞うとなると、ということで羅漢舞(らかんまひ)になったか。
 羅漢舞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「羅漢講に行なわれた羅漢の面をかぶって舞う舞。また、酒席などで、羅漢のまねをして、はやしたり踊ったりすること。」

とある。
 こういう古い時代の薀蓄に詳しいことと「かかと寝て」みたいな句との共存する卜尺という人は、やはり典型的なオヤジだ。今でも町内会だとか商工会だとかの偉い人にありがちなキャラだ。
 芭蕉の蕉風確立は、ある意味こういう旦那芸的なものから脱却するところにあったのではなかったか。まあ、その過程で、結局卜尺は素堂や杉風のようになれずに取り残されてしまったのだろう。
 二十一句目。

   そよや霓裳羅漢舞する
 やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ 二葉子

 これは、

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
     をとめの姿しばしとどめむ
             僧正遍照(古今集)

だが、舞っているのは乙女ではなくお坊さん。きているのも天の羽衣ではなく破れ袈裟。何か狐に化かされたみたいだ。
 二十二句目。

   やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ
 鼡に羽が郭公とぶ       桃青

 鼡は鼠。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「和漢三才図会『伏翼(かわほり)、鼠モ亦蝠ニ化ス』」とある。
 蝙蝠は確かに哺乳類だから羽がなければ鼠に似ている。出典そのままではなく、あえて少し変えてホトトギスにするとかなりシュールになる。こうした発想は『次韻』調につながってゆく。

2019年9月9日月曜日

 台風は去って渋滞が残った。こういう日は休みにして欲しい。
 それでは「実や月」の巻の続き。

 十三句目。

   秋を坐布の床の山風
 焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ   二葉子

 秋風に鶉は、

 夕されば野辺の秋風身にしみて
     鶉鳴くなり深草の里
           藤原俊成(千載和歌集)

が本歌になる。それを焼鳥の鶉にして卑俗に落とす。
 十四句目。

   焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ
 精進あげの三位入道      桃青

 「三位入道」は「夕されば」の歌の作者、藤原俊成が正三位の位に就き俊成卿と呼ばれていたが、後に出家し、五条三位入道と呼ばれるようになった。
 同じ本歌で三句続けることはできないが、ここは単に作者名だけだし、まあ、他の三位入道だと言って逃れることもできる。
 精進上げといえば、貞徳独吟「歌いづれ」の巻の八十一句目に、

   祝言の夜ぞ酔ぐるひする
 生魚を夕食過て精進あげ    貞徳

の句があった。精進潔斎が必要な行事が終ったあとの肉や酒や性の解禁をいう。
 十五句目。

   精進あげの三位入道
 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 埋木の花咲くこともなかりしに
     身のなる果はあはれなりけり
               源頼政

の歌を引いている。辞世の歌で、埋もれた木のように花さくこともなかった身を嘆く。
 源頼政は従三位にまで上り、源三位と呼ばれた。晩年には出家している。
 句の内容はというと、「かかあと寝て何が嬉しいんだ」といかにもオヤジの言いそうなことだ。精進上げは肉・酒・性の解禁だから、最後の「性」を付ける。
 ちなみに源三位の妻は源斉頼女(源斉頼の孫娘)だが、菖蒲御前という側室もいた。
 十六句目。

   かかと寝て花さく事もなかりしに
 又孕ませて蛙子ぞなく     紀子

 これは貧乏人の子沢山ということか。
 まあ、浮気するほどの金もなければ、男としてももてもせず、というところでせっせとかかあ相手に子作りに励み、あちこちで子供が泣いている。
 「蛙子」はおたまじゃくしのことで鯰の孫ではない。本物のおたまじゃくしは鳴かないが‥。
 蛙子は「あこ」とも読めるので、「吾子」と掛けているのかもしれない。
 十七句目。

   又孕ませて蛙子ぞなく
 鶯の宿が金子をねだるらむ   桃青

 さて、二句続いたオヤジギャグをどう収めるかというところだ。
 「鶯の宿」は、

 勅なればいともかしこしうぐひすの
     宿はと問はばいかが答へむ
            よみ人知らず(拾遺集)

という出典がある。これは御門の命令で梅の木を持ってかれてしまったときに、その家の女主人が木にこの歌を結び付けておいて、それを読んだ御門が梅の木を返すという物語だ。
 桃青の句の場合は、金子(きんす)を持って行こうとする亭主に女房が、「ほら、蛙子が泣いてるでしょ」とたしなめる場面にする。
 十八句目。

   鶯の宿が金子をねだるらむ
 龍田のおくに博奕こうじて   二葉子

 鶯に龍田は、

 花の散ることやわびしき春霞 
     たつたの山の鶯の声
             藤原後蔭(古今集)

の歌を本歌とする。
 鶯の主人が何で金子をねだるかと思ったら、龍田山の奥に賭博ができたからだった。龍田山IRか。

2019年9月8日日曜日

 今日は出光美術館で「奥の細道330年 芭蕉」展を見た。「旅路の画巻」があった。
 最初の絵は、

 旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉

 次の絵は、

 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 芭蕉

かなと思った。
 破笠の「柏に木菟蒔絵料紙箱」があった。破笠が漆芸家だったのは知らなかった。これはなかなかの名品だ。
 許六の「百華賦」の絵の入ったものがあった。
 近代の小杉放菴の「奥の細道 那須野」の馬はデカ過ぎ。近代の馬の大きさだとこうなる。江戸時代の馬は小さかった。許六の「発句画賛 野をよこに」の比率でいい。
 台風も近づいてきている。昼頃銀座で雨に降られて帰った。
 日本は今日も平和で「私達は生きるか死ぬかの瀬戸際。在日は明日殺されるかもしれない。」なんて状況はどこにもない。まあ、あの連中は何十年も同じことを言っているから、日本人はわかっているが、他所の国の人は騙されないように。
 それでは、「実や月」の巻の続き。

 五句目。

   芦の葉こゆるたれ味噌の浪
 台所棚なし小舟こぎかへり   二葉子

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 堀江こぐたななしを舟こぎかへり
     おなじ人にやこひわたるらん
               よみ人しらず(古今集)

の歌が引用されている。「たななし小舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 棚板すなわち舷側板を設けない小船。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。ただし近世では、一枚棚(いちまいだな)すなわち三枚板造りの典型的な和船の小船をいう。棚無船。
 ※万葉(8C後)一・五八「いづくにか舟泊(ふなはて)すらむ安礼(あれ)の崎こぎたみ行きし棚無小舟(たななしをぶね)」

とある。まあ、小さな手漕ぎボートを想像すればいいのだろう。
 これに台所がつくと「台所舟」になる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 船遊びなどの屋形船に付随して料理を作りまかなう小船。厨船(くりやぶね)とも称し、江戸や大坂の川筋での船遊びに多く使われた。また、近世大名の川御座船にも台所御座船と呼ぶ同じ目的のものがあり、これはかなり大型船であった。賄舟(まかないぶね)。
※俳諧・談林十百韻(1675)「磯うつなみのその鮒鱠〈卜尺〉 客帆の台所ふねかすみ来て〈一鉄〉」

とある。
 台所舟が漕ぎ帰っていったため、たれ味噌が芦の葉の向こうに行ってしまった、となる。
 六句目。

   台所棚なし小舟こぎかへり
 下男には与市その時      桃青

 「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。
 初裏に入る。
 七句目。

   下男には与市その時
 乗物を光悦流にかかれたり   卜尺

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、与市を角倉素庵(すみのくらそあん)のこととする。角倉素庵はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「江戸前期の学者・書家・貿易商。了以の長男。名は光昌・玄之、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵等がある。藤原惺窩の門人で本阿弥光悦に書を学び一家を成し、角倉流を創始、近世の能書家の五人の一人に挙げられる。了以の業を継ぎ、晩年には家業を子供に譲り、嵯峨本の刊行に力を尽くす。また詩歌・茶の湯も能くする。寛永9年(1632)歿、61才。」

とある。
 「乗物」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①人の乗る物。馬・車・輿(こし)・駕籠(かご)など。
  ②江戸時代、公卿(くぎよう)・高級武士、また儒者・医者・婦女子などの限られた町人が乗ることを許された、引き戸のある上等な駕籠。」

とある。陸上の乗物に限られていて、今のような船や飛行機を含めた人を乗せるもの一般としての乗物の概念はない。もちろん連歌でも植え物、降り物はあっても乗り物はない。よって打越の小舟は問題にならない。
 駕籠を担ぐことを「駕籠をかく」というところから、ここでは与市という駕籠かきがいるが光悦流か?という冗談。
 八句目。

   乗物を光悦流にかかれたり
 薬草喩品くすりごしらへ    紀子

 「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。
 本阿弥家は日蓮宗の家系でそこから「薬草喩品」が出てくる。
 前句の光悦流に駕籠をかくところから、薬の製法の書いてない「薬草喩品」で薬を作ると洒落には洒落で応じたということか。かなり苦しい。
 九句目。

   薬草喩品くすりごしらへ
 真鍮の弥陀の剣を戴て     桃青

 剣を持っているのは普通は不動明王で、阿弥陀如来の剣というのはあまり聞かない。まあ、そこはあまりこだわらずにというところなのか。まあ、頭の後ろの放射光背が沢山の剣に見えなくもないか。その剣で薬草を採取し、薬を拵える。これもどうにも苦しい。
 十句目。

   真鍮の弥陀の剣を戴て
 西をはるかに緑青の山     二葉子

 真鍮だから錆びれば緑青(ろくしょう)を吹く。それを西の山の青い色に喩える。
 上手く窮地を脱した感じがする。やはりこの二葉子はただものではない。
 十一句目。

   西をはるかに緑青の山
 隈どりの嶺より月の落かかり  紀子

 初代市川團十郎が貞享二年に『金平六条通』の坂田金平を勤めた時が歌舞伎の隈取の始めと言われているから、ここでの隈取は歌舞伎のそれではない。
 日本画の技法である「隈取」も、はたして「日本画」が誕生する以前の伝統絵画に遡れるのかどうか定かでない。
 ここでは単に影になるという意味であろう。シルエットとなった嶺に月が沈もうとすると、空も明るくなり、次第に緑青の色をした山が浮かび上がってくる。こういう景色の句になると展開は楽になる。
 十二句目。

   隈どりの嶺より月の落かかり
 秋を坐布の床の山風      卜尺

 「坐布」は「ざしき」、「床」は「とこ」と読む。
 前句の「隈どり」を隈を書き込んだ、絵に描いたという意味に取り成して、「嶺より月」という絵が落ちかかったとし、その原因を座敷の床に吹き込んできた秋の山風とする。

2019年9月7日土曜日

 今日も晴れて気温も上がった。夕暮れには半月よりやや膨らんだ月が見えた。明日の夜には台風が来るらしい。

 さて、それでは第三だが、

   爰に数ならぬ看板の露
 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て 紀子

 紀子についてはよくわからないが、言水撰の『東日記』(延宝九年)に、

 年忘れたり跡へは取にかへられず 紀子

の句がある。
 延宝五年に千八百句独吟を行い延宝六年五月に『大矢数千八百韵』を刊行した大和国多武峰寺塔頭西院の僧、紀子と同一人物かどうかもよくわからない。俳号がかぶることは時々ある。
 岸和田市のhttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/attachment/1248.pdfという短冊目録(江戸時代)のファイルに、「紀子、我袖や、俳諧、『江府住人 我袖や』」というのがあるから、多武峰の紀子とは別に江戸の紀子がいたと考える方がいいのだろう。
 句の方は、『校本芭蕉全集 第三巻』の注が『源氏物語』澪標巻の、

 数ならぬ三島がくれになく鶴を
     けふもいかにと問ふ人ぞなき

の歌を引用している通り、この歌を本歌にしながら、前句の「数ならぬ看板」を蕎麦屋の看板として、閑古鳥ならぬ鶴の鳴く問う人もなき風情としている。
 四句目。

   新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
 芦の葉こゆるたれ味噌の浪   卜尺

 卜尺(ぼくせき)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-1695 江戸時代前期の俳人。
江戸日本橋大舟町の名主。はじめ北村季吟に,のち松尾芭蕉にまなぶ。延宝年間江戸で宗匠となった芭蕉に日本橋小田原町の住居を提供した。延宝8年「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加。元禄(げんろく)8年11月20日死去。通称は太郎兵衛。別号に孤吟,踞斎(きょさい)。」

とある。
 喋々子撰の『誹諧當世男(はいかいいまやうをとこ)』(延宝四年刊)に、小澤氏卜尺と記され、

 丸き代やふくりんかけし千々の春 卜尺
 まま事の昔なりけり花の山    同
 たぞ有か編笠もてこいけふの月  同
 ふぐ汁や生前一樽のにごり酒   同

の句がある。それ以前の松意撰『談林十百韵(だんりんとつぴゃくゐん)』(延宝三年刊)にも多くの句が選ばれている。
 醤油が普及する前の江戸では、蕎麦はたれ味噌で食べていた。
 田鶴に芦とくれば、

 若の浦に潮みちくれば潟をなみ
     葦辺をさして田鶴鳴き渡る
               山部赤人

の歌の縁とわかる。
 「芦の葉こゆる」は、

 夕月夜しほ満ち来らし難波江の
     あしの若葉を越ゆる白波
               藤原秀能(新古今)

を證歌としている。

 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
     芦の葉こゆるたれ味噌の浪

と和歌の形にして読めば、「新蕎麦や」の「や」は疑いの「や」として、このあとに比喩として「三嶋がくれに田鶴鳴て芦の葉こゆる」ような至高の「たれ味噌の浪」となる。

2019年9月6日金曜日

 今日は久しぶりに晴れて半月が見えた。一週間後には十五夜。
 時差はあるにしても月は世界中で見えるし、どこから見る月も同じ月だ。月を見る心にもそんなに差はあるまい。
 さあ、そろそろ今月の俳諧ということで、延宝六年の「四吟哥僊」を選んでみた。歌と哥は同じだし、仙と僊も同じ意味だから普通に四吟歌仙でもいいところだ。
 発句は、

 実や月間口千金の通り町    桃青

で、「実や」は「げにや」と読む。「月間口千金」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「一間間口で千金もするという地価の高い場所。」

とある。
 地価とは言っても、近代的な地価の概念は明治五年の地租改正からはじまるもので、江戸時代の土地は基本的には幕府のもので、田畑の売買などは禁令が出ていたが、そこは建前で実際は地主がいて事実上の土地の私有化が行われていて、売買も行われていた。商人の多くは地主に店賃(たなちん)を払って商売をしていた。
 ただ、ここでいう「千金」が店賃のことなのかどうかはよくわからない。千金を稼げる場所という意味かもしれない。とにかく多くの金が動く場所であることには変わりない。
 「通り町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「① 目抜きの大通り。またそれにそった町筋。
  ② ◇ 江戸の町を南北に通じる大通りの名。神田須田町から日本橋・京橋・新橋を経て、芝の金杉橋に至る。」

とある。
 ここで地名を出すのは、おそらくこの興行が脇句を詠む二葉子の家で行われたからであろう。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、二葉子は、

 「喋々子の息。十二歳。『俳家大系図』によれば『喋々子住鍛冶橋』とあり。鍛冶橋は通り町に近い。」

だという。鍛冶橋は江戸城の外堀に架けられた橋で、その外側に鍛冶橋御門があった。東京駅と有楽町駅の間あたりにある鍛冶屋橋交差点に「鍛冶屋橋跡」という説明書きがある。通り町が現在の中央通りなので、確かにそう遠くはない。
 この頃芭蕉も日本橋小田原町にいたが、そこも通り町のすぐそばだった。
 間口千金の通り町から見る今日の月は、実に値千金というわけだが、この「千金」は当然、

    春宵      蘇軾
 春宵一刻直千金 花有清香月有陰
 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈
 春の宵の一刻は値千金、
 花清らかに香り月も朧げに
 歌に笛に楼台の声も聞こえてきて
 中庭の鞦韆に夜はしんしん

の詩をふまえている。
 「千金」という響きから、ちょっと生々しい経済ネタに持ってゆこうという欲求は、この句に留まらなかった。
 延宝九年の常矩撰『俳諧雑巾』には、

 春宵のやす売あてありけふの月 重以

 千金の春宵も今日の月と較べれば安く買い叩けるのではないか、とする。
 同じ延宝九年の言水撰『東日記』には、

 千金や閏の一字月のけふ    秀勝

 延宝八年には閏八月があり、中秋の名月が二回あった。滅多にない二度の名月は千金の値がある、となる。
 このネタは結局、

 夏の月蚊を疵にして五百両   其角

に窮まることになる。
 それでは二葉子の脇、

   実や月間口千金の通り町
 爰に数ならぬ看板の露     二葉子

 十二歳とは思えぬ堂々たる脇で、伝承は本当なのか、喋々子自身ではないかと疑いたくもなる。
 発句の「千金の通り町」に対して、自分の家を「数ならぬ看板の露」とへりくだって受ける。

2019年9月4日水曜日

 まだ中坊だった頃聞いた話で、朝鮮人学校の生徒にからまれて、そいつは喧嘩が強かったのでやり返して喧嘩では勝ったのだが、その夜家が放火されたという種の、出所のわからないいわゆる都市伝説みたいなものが流布していた。
 そこでの教訓はあいつ等には絶対にかかわるなだった。今でいえば「断韓」ということか。まあ、今こんな話をするとヘイトスピーチだなんて言われかねないが。
 力によって権利や自由を獲得するというのは、西洋哲学では基本なのかもしれないが、そうやって獲得した権利や自由を守るには、結局力を誇示し続けなくてはならなくなる。日本では「力を入れずして天地を動かす」風流の道、共通体験を語り心情的にに共鳴しあうことが重視された。
 それでは今日も『談林俳諧集』から。

 幽山撰『誹枕』(延宝八年刊)には、諸国をテーマにした沢山の発句が収められている。
 たとえば美濃なら、

 養老の瀧つぼやたんほ春の水  正勝

のように、養老の瀧の瀧壺から痰壺を連想し、田んぼの春の水と続く。
 飛騨なら、

 蓬莱や飛騨の工の鳥の千代   泰徳

 飛騨の止利仏師に掛けている。
 信濃は、

 新そばや打詠行ば信濃なる   幽山

 と信州蕎麦の蕎麦打ちに掛けている。
 この幽山という人はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:元禄15.9.14(1702.11.3)
 生年:生年不詳
 江戸前期の俳人。名は直重。通称は孫兵衛。丁々軒と号す。晩年は竹内為入と号したという。初め京に住して,俳諧を松江重頼に学ぶ。寛文(1661~73)のころは,諸国を行脚し,その実績をもとに『和歌名所追考』12冊を出版。延宝2(1674)年ごろには江戸に下り,重頼の友人で奥州磐城平の城主内藤風虎の周辺で活躍した。修業時代の松尾芭蕉が,幽山の記録係を勤めたとの伝もある。延宝8年には,『誹枕』を刊行。やがて頭角をあらわしていく芭蕉と入れかわるごとく,俳壇から姿を消していく。晩年は,江戸から藤堂高通(俳号は任口)が初代藩主として立藩した久居(三重県)に移住した。」

とある。なお、藤堂高通の任口は伏見の任口と同名で紛らわしい。
 北は陸奥から南は薩摩までの諸国に留まらず、佐渡や隠岐、壱岐対馬などの離島も部立てされている。
 対馬では、

 対馬根や組蓬莱の髭人参    幽山

と対馬を通じて朝鮮(チョソン)から輸入されていた朝鮮人参が詠まれている。
 このあと、

   惣軸
 五文字や日本にむすぶ飾縄   云奴

と日本全体が詠まれ、そのあとに「外国」の部がある。

 唐船よ随分渡せきそ始     元好

と中国に始まり、

 蓬莱や琉球の島羊米      肩柳

と琉球の句が続く。
 琉球国の時代には山羊だけでなく羊も飼われていた。その羊に掛けて、稲刈りをした後の株に再生した稲のことをいう稲孫(ひつじ)米を導き出す。

 うら白や数波越て長鬚国    如葉

 長鬚国は『酉陽雑俎』に登場する伝説の国。

 はま弓も君にあげけりしやくしやいん 宇八

 シャクシャインの戦いは寛文の頃で延宝の時代ではまだ記憶に新しい。

 こぶのりやとられてなみの鬼がしま 三昌

 鬼が島も伝説の島だが、昆布や海苔が取れるのか。こぶ取り爺さんと桃太郎が一緒くたになった感じだ。

 楊貴妃を馬嵬が原や花のかぜ  維舟

 これは中国で、楊貴妃は馬嵬で殺害され埋葬された。

 他国もつむるやかぼちゃるすんつぼ 如貞

 ルソンの壺というと堺の商人呂宋助左衛門が大河ドラマにもなって有名だが、ルソンで作られたのではない。中国南部で作られたものをフィリピンのルソン島を経由してきたのでこの名がある。
 かぼちゃはカンボジアが語源と言われている。

 夏の夜やね姿恨む小人嶋    才丸
 五月雨に芦の葉こぐべし小人嶋 恕流

 小人嶋は『山海経』に記された東の果ての島。『魏志倭人伝』に邪馬台国の南にあるとされた侏儒国(又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里)も同じものなのか。
 ひょっとしたら一万二千年前までインドネシアのフローレス島で生存していたとされるホモ・フロレシエンシスという身長一メートルあまりの人類の記憶が、何らかの伝承として残っていたのかもしれない。

 天竺川伽羅に竿させ妻迎    調和

 天竺(インド)は仏様の国としてよく知られた外国だった。ここでは七夕にされている。

 桂男なぐさめ兼つ女護のしま  幽山

 女護島は日本の伝説の島で、ウィキペディアには、

 「女護島(にょごのしま、にょごがしま)は、日本に伝わる伝説上の地名である。海上にある女性のみが暮らしている島であるとされる。女護ヶ島などとも表記される。」

とあり、また、

 「井原西鶴による浮世草子『好色一代男』では、主人公である世之介が最終的に向かう土地として登場している。」

ともある。『好色一代男』は天和二年刊なのでこの頃はまだ書かれていない。

 仲丸が三笠の月や唐の芋    西武

 仲丸は阿倍仲麻呂のこと。江戸時代には人麻呂も人丸と呼ばれていた。
 阿倍仲麻呂といえば、

 天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
             阿倍仲麻呂(古今集)

だが、ここではやはり「唐の芋」と芋落ちになる。唐の芋はサトイモのこと。サツマイモが伝わるのはもう少し後の時代になる。

 入札や心当にもおらんだ荷   三昌
 阿蘭陀や札もおち塩湊舟    宗旦

 ウィキペディアによると、オランダとの「自由貿易が認められたことにより貿易量は増大したが、その支払いのための金銀の流出も増大した。これを抑制するために寛文12年(1672年)に貨物市法が制定された。これは『市法会所』が入札により輸入品の値段を決定し、一括購入する制度である。」とのこと。

 からびたる声や朝鮮筆つ虫   意朔

 朝鮮(チョソン)とは対馬を通じて盛んに貿易が行われていた。ただ、ここではそれに関係なく、朝鮮の筆に筆津虫(コオロギ)を掛けて、その声が唐びているというだけの句。
 まあ、江戸時代の人にとっての外国のイメージというのが何となく伝わってくる。
 最後に地元相模の句。

 金沢の猫や忍び路けはひ坂   幽山

 金沢は金沢八景の金沢。「けはひ坂」は鎌倉の化粧坂(けわいざか)。
 金沢から朝比奈を越えて鎌倉に入り、鎌倉を通り過ぎて出る時は化粧坂になる。この猫は随分遠くまで遠征したもんだ。
 化粧坂に「気配」と「毛生え」を掛けている。

2019年9月3日火曜日

 名月も近いというのに、今日も夕方から激しい雨が降り、まだ今月の月を見ていない。
 それでも気分だけはということで、常矩撰の『俳諧雑巾』から、月の句を拾ってみよう。常矩は許六が「中ごろ談林の風起て急ニ風を移し、京師田中氏常矩法師が門人ト成て、俳諧する事七・八年、昼夜をわすれて、一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す。」と『俳諧問答』に書いているように、許六にも大きな影響を与えた人のようだ。
 巻末には秋風の独吟もある。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに秋風の花林園を尋ねている。

 百合若もちりけをすへんけふの月 さは

 鉄弓をふるう豪傑も、月を見ながら肩にお灸を据えてもらって癒される時もあったのか。百合若の御台所の視点に立っている。
 月見というとやはり酒で、

 あき樽や明夜うらみん牖(まど)の月 廣干立
 酒家の門明てうらみなしけふの月   不水

 樽が空になると恨み、酒屋の門が開くとうらみなし。二句セットになっている。

 秋は月聾(つんぼ)に盲(めくら)影もなし 一之

 これはちょっと芸がない。

 盲より唖のかハゆき月見哉つきみかな 去来

の句には及ばない。このネタは、

 座頭かと人に見られて月見哉     芭蕉

に窮まるといっていいだろう。

 月夜よし酒屋芋売須磨明石      常矩

 名月といえば酒だが「芋名月」という言葉もあるくらいで、この日は芋を供え、また芋を食う。この句は酒屋と芋売りが須磨明石のように月によく付くということか。

 たづぬべし月は日来の芋畠      尒木

 月を見るなら須磨明石もいいが、まずはそこいらの芋畑でということか。

 ほれば月青葉の波の疇よりこそ    陳次

 これも芋ネタで、芋畑の疇(うね)を青葉の波に見立て、そこを彫れば月のような芋がある。この頃の芋はサトイモ。葉は大きく、波も腰から胸というところか。

 楊枝の猿こよひの芋を望みける    可因

 「楊枝の猿」は「猿屋の楊枝」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、猿を看板にして楊枝を売っていた店の称。特に、京都粟田口、江戸浅草・日本橋照降町などにあった楊枝屋が有名。一説に、猿は歯が白いところから楊枝をいうとも。猿屋。猿屋楊枝。〔仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)〕」

とある。楊枝の看板のあの猿も今夜は芋が食いたそうだ。

 心ある下女がたもとや芋の月     宗雅

 下女が袂に芋を入れて差し入れに来てくれるとは気が利いている。

 月の塩河原の院の芋なりける     如生

 「河原院(かわらのいん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「東六条院ともいう。平安時代初期,嵯峨天皇の皇子源融 (みなもとのとおる) の別荘。京都六条大路の北,東京極大路の西にあった。庭に陸奥塩釜の風景を模した山や池を造り,毎日,難波の浦から運ばせた海水で塩焼きをしたという。融の死後,その子の湛が宇多上皇に献じたが,上皇の死後,寺とした。 (→平等院 )」

とある。
 月の光の白さを塩に見立てて、唯の芋も河原の院の芋になる。

 親芋や心のやみもけふの月      一帆

 親芋は徒然草第六十段の盛親僧都の芋頭のことか。

 「いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚さめぬれば、幾夜も寝いねず、心を澄ましてうそぶきありき」

とあり。心の闇も親芋で晴れる。

 けふや月三百貫を楊枝にふる     定房

も同じ盛親僧都の芋頭が出典か。

 浮世哉つきにはまふた芋に砂     杉風

 蕉門から杉風の登場。「はまふた」がよくわからない。

 月ひとつこよひぞ菜汁の最中なる   秋風

 みんなが芋だ芋だと言ってるときに菜汁とは、やはり金持ちは違う。

 水に影三五の月や一二ノ二      常二

 三五は三×五で十五夜のこと。貞門に、

 松にすめ月も三五夜中納言      貞室

の句もある。元ネタは白居易の「八月十五日夜禁中独直対月憶元九」の「三五夜中新月色」。
 三五の月も水に映れば揺らいで見えて一、二、二となる。
 後に芭蕉は、

 名月や池をめぐりて夜もすがら    芭蕉

の句を読んでいる。これを平仮名で縦書きにしてよく見ると、めいげつ、つ(や)池(を)めと、池に名月が逆さになって映っている。
 名月の芋への情熱は言水撰『東日記』にも見られるが、やや違ったものになる。

 芋洗ふ翁影を濁すな神田川      蒼席

 月を見て酒に芋といういかにも庶民的な感覚から、芋洗ふ翁といういかにもいそうな人物を登場させ、川に映る月を濁すな、と展開する。

 芋洗ふ女に月は落にけり       言水

 芋を洗っているのを女の色気には、月のような僧も落ちるか。これを発展させると。

 芋洗ふ女西行ならば歌詠まむ     芭蕉

の句になる。
 

2019年9月2日月曜日

 今日は「蕉門俳諧前集」「蕉門俳諧後集」と一緒に買った「談林俳諧集」上下をパラパラとめくってみた。ちゃんと読もうとすると何年かかるかわからないから、せいぜい拾い読み程度で、それでも談林時代から天和調へ至る時期が芭蕉だけでなく、談林全体で関東関西にまたがって生じてた現象だったというのが何となく分かる。
 常矩撰の『俳諧雑巾』(延宝九年)にも、『武蔵曲』のような破調句がいくつもある。

 梶の葉売ル声に天下の鰥露けき秋也 常矩

 梶の葉は船の梶に通じるというので、昔は願い事を梶の葉に書いて川に流したという。そのため梶の葉売りもいたとか。その声を聞くと七夕の織姫彦星の会う夜が来るというので、世の鰥夫(やもめ)たちは悲しくなるというわけだ。
 天の川は地上と天界を隔てる川でもあり、天に連れ去られた織女は地上においては死を暗示させる。一年に一度逢えるというのも、ちょうどお盆の時期に近く、死んだ妻に逢える日という連想もあったのかもしれない。

 おほん目には天川の岩を牛と見給ふべし 如葉

 天にいる織女に、天の川の石を見ても牛(牽牛)だと思ってくれ、という意味か。よくわからない。
 言水は天和二年に京都へ行ったが、『東日記(あづまのにっき)』(延宝九年)の撰の時には江戸にいた。談林の集とされているが、桃青、其角、杉風、素堂なども参加している。まだ談林と蕉門とが別れる前で、言水も、

   山居雪
 雪ならぬ日の鉢。かくあらば欲を山庵リ 言水

と破調を楽しんでいる。

 青梅の梢を見ては息休めけり炉路男   東水子
 端午の御祝義として柏木の森冬枯そむ  盲月

 このあたりは伊丹流の長発句にも負けない長さなのではないか。
 下巻の『俳諧庵桜』は西吟の撰で貞享三年とかなり後になるが、天和の破調の最後の名残を留めている。この集には、鬼貫、青人(あおんど)、馬桜、百丸といった伊丹の面々も参加しているし、

 市中に牛啼て春けしきセリ我独リ    馬桜
 蚊に埋ミ犬ないて乞食涅槃の姿哉    百丸
 華の滅度釈迦や来ぬらん吉野山     青人
 躑躅桜南朝の跡見にいらむ       鬼津ら

芭蕉の古池の句の別バージョン、

 古池や蛙飛ンだる水の音        芭蕉

の句も収められている。
 そのほかにも、

   落月庵の雨など聞、戯ル
 茅檐雨すごく芭蕉の琵琶を聞夜哉    鸞動

などは芭蕉野分の句を髣髴させる。
 猫の句もある。

 痩猫や木槿がもとの青蝘(どかき)   鐵卵
 有様や猫が世中置炬燵         青人

2019年9月1日日曜日

 八月にネットで買った「日本俳書大系」の「蕉門俳諧前集」の上下、「蕉門俳諧後集」の上を少しづつぱらぱらとめくっている。「蕉門俳諧後集」の下と「蕉門俳諧続集」は前から持っていた。
 千春撰の『武蔵曲(むさしぶり)』(天和二年刊)の破調は、字数に囚われないことで、近代の自由律に近くなる。

 舟あり川の隅ニ夕涼む少年哥うたふ  素堂

なんかは近代詩の一節みたいだ。

 覆盆子取女棘袖引にひかれきや    嗒山

ってこれは蕪村の『春風馬堤曲』の、

○堤下摘芳草 荆与蕀塞路
 荆蕀何妬情 裂裙且傷股

 堤を降りて芳しい草を摘もうとしたら、イバラとカラタチが道をふさぐ。
 イバラにカラタチ、何やきもち焼いてるの、裾を裂いては股を引っ掻く。

の元ネタみたいだ。

   信濃催馬楽
 君こずば寐粉にせん しなのの眞そば初眞そば 嵐雪

 「しなのの」以下は小さな字で二行で記され、注釈みたいだが、蕎麦屋のコピーみたいでもある。
 「寐粉(ねこ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 古くなって使えなくなった粉。ひねこ。
  2 継粉(ままこ)のこと。」

とある。

   末の五器頭巾に帯て夕月夜
 猫口ばしる荻のさはさは       素堂

 「頭巾」は「トキン」仮名が振ってあり、この場合は山伏のかぶる帽子の「頭襟(ときん)」のこと。お椀をひっくり返したような形をしている。
 芝居か何かの場面に見立てているのだろう。お椀を紐で縛って頭襟に似せた偽山伏に、猫が荻を揺らして「さはさは」と言う。
 芭蕉の句は今更言うまでもない。

 夕顔の白ク夜ルの後架に紙燭とりて  芭蕉
 侘テすめ月侘斎がなら茶哥      同
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉     同
 櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ  同

 其角の「樽うた」も何だこれはという感じだ。

   樽うた
  鉢たたき鉢たたき 暁がたの一声に
  初音きかれて 初がつほ
  花はしら魚 紅葉のはぜ
  雪にや鰒を ねざむらん
  おもしろや此 樽たたき
  ねざめねざめて つねならぬ
  世を驚けば 年のくれ
  気のふるう成 ばかり也
  七十古来 まれなりと
  やつこ道心 捨ごろも
  酒にかへてん 樽たたき
  あらなまぐさの樽扣やな
 凍死ぬ身の暁や樽たたき       其角

 だいぶはっちゃけてます。
 最後に千春の表題作。

 流石におかし桜折ル下女の武蔵ぶり  千春

 千春は京都の人で、何とあの季吟が序を添えている。