やれ反日だ嫌韓だのネットやマスコミはやたら騒がしいし、国論が二分されているかのような印象操作がなされているが、実際の所ほとんどの日本人からすればどうでもいいことだ。
反日もごく一部の人たち、多分反安倍と一緒で十五パーセントもいればいい。嫌韓に至ってはおそらく一パーセントにも満たないと思う。
ネットやマスコミはやれ差別だのヘイトだの言っているけど、今の日韓の対立はもっと単純なもので、米中第二の冷戦といわれる中でどっちに付くかという地政学的問題だと思う。沖縄の基地問題も基本的に同じだと思う。むしろその辺のイデオロギーの問題をごまかすために、左翼やマスコミは人道の問題にすり替えようとしている。
まあ、そういうなかで、あまり感情的に声を荒げる連中とは係わりたくないし、だからといって日韓の問題を無視するつもりもない。風流の道と関係する所は一応押えておこうかと思う。
おそらく日本の俳諧に最も大きな影響を与えた韓国人といえば、李退渓(イ・テゲ)をおいて他にないだろう。
なぜ俳諧にかというと、李退渓は藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎といった江戸時代の朱子学を確立した人たちに大きな影響を与えたし、その藤原惺窩・林羅山と親交のあった松永貞徳によって貞門俳諧が確立され、江戸の俳諧ブームの端緒になった。
そして、こうした朱子学の神道への応用が盛んに試みられる中、吉川惟足の神道が曾良を通じて芭蕉に伝わり、不易流行説のもととなっている。不易流行説が弟子たちに受け入れられた背景にも、朱子学が広く当時の教養として周知されていたということがあった。
李退渓の最大の業績というか、少なくとも日本の朱子学に与えた影響という点で一番大きいのは、四端七情の理気を分かつという説で、四端、つまり惻隠、羞悪、辞譲、是非は情とは言うものの生まれながら具わっている理に発し、七情、つまり喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲は気に発するという説だ。
この区別によって、理と気、未発と已発、性と情、体と用の区別が確定し、体系化できるようになった。
今日で言えば四端も七情もいわゆる西洋的な「精神」と「肉体」ではなく、どちらも進化の過程で獲得した遺伝的資質によるものと見なされよう。理は西洋的な理性のことではなく、あくまで人間の自然の情の発露であり、それは今日の科学からすれば、やはりダーウィン的な自然選択によって進化したと考えるべきであろう。
違うとすれば、その獲得された年代による古い層と新しい層との違いで、七情は多くの順位制社会の中で培われた古い層に属しているのに対し、四端は人間へと向う進化の中で新たに獲得された層だといえよう。
それは人間の生存競争が一対一での強さの争いではなく、共感能力を発達させたことで多数派工作の争いに変わってしまい、どんなに屈強なものでも集団には勝てないばかりか、むしろ出る杭は打たれる状態に陥り、強さは却って生存に不利に働くようになってしまったことにより、我々の生存戦略を大きく変更せざるを得なくなったことによる。
その中で四端は一見利他的なようでも、結果的に多数派工作に有利に働くということで、人間らしい新たな性質として進化することになった。
たとえば幼児が井戸に落ちそうなのをみれば誰でも助けようと思うといういわゆる惻隠の情は、時として溺れそうになった子供を助けようとして自分も溺れてしまうというリスクをもともなう。
それでも周りの人はこういう人と一緒にいれば自分もいつか助けてもらえると思うし、他人を犠牲にしてでも生き残ろうとする人よりは、こういう人を自分のそばにおいておきたいと願うはずだ。
惻隠の情を突然変異的に獲得した個体は、群の中の他の者たちから優先的に仲間に引き入れられ、結果的にはそれが多くの子孫を残すことに繋がる。こうした変異は意図して起こるものではない。意図するというのはラマルキズムであってダーウィニズムではない。
羞悪の情は基本的には利己的にふるまうことで仲間はずれにされることへの漠然とした不安によるもので、具体的にどうこうというものではない。たとえば性的羞恥心というのは、衆人環視の中で性的行動をすることで多くの者の嫉妬心を買い、妨害されるのみならず、嬲り殺される危険すらあるから適者生存できるもので、それを計算ではなく、突然変異的に獲得した場合には一つの本能となる。
順位制社会では、嫉妬するものがあっても一対一の戦いであれば力でねじ伏せることが出来る。これに対して弱い個体は強い個体の目の届かないところでこっそりと性交をする。子孫を残せるかどうかはこの駆け引きの中にあり、そこでは人間のような恋愛感情は生まれない。
人間はむしろ生まれながらに性的行動に関して羞恥心をもち、自らの羞恥心と戦いながら愛を告白し、その羞恥を社会で共有する所に性の秩序が保たれる。コイサン人(俗に言うブッシュマン)の社会では、レイプが発覚すると被害者の女性ではなく、加害者の男性のほうが自殺する事が多いという。
辞譲の情も、出る杭は打たれる社会の中では自己中は嫌われ、仲間はずれにされる危険が大きいところから進化した情といえよう。
是非の情もまた同様に危険察知の能力といえる。
順位制社会では一対一での強さをアピールすることが生存を有利にし、子孫を残すことに繋がるが、出る杭は打たれる社会ではむしろ利他的にふるまうことが結果的に生存を有利にし、子孫を残すことに繋がる。それゆえ人間は利他行動を進化させることになった。
ときとしてそれが裏目に出て、正直者は馬鹿を見るということもあるが、確率的には利己的にふるまうより利他的にふるまうほうがより多くの子孫を残すことに成功してきた。
こういう人間らしさというのは、実際には四つだけに分類できるものではない。もっと人間の行動は多様で、それらをひっくるめて言うなら「誠」と言ったほうがいい。それは朱子学だけでなく俳諧も究極的に目指すところのものだ。
喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲も人間として不可欠な情ではあるし、これらは常に俳諧の種(俗語ではこれをひっくり返してネタともいう)ではあるが、それだけでは風流とは言えない。それが風雅の誠に結びついた時に風流と呼ぶことが出来る。
たとえば「いい女だからやりたい」というのは風流ではない。いい女と思いつつも、羞恥の情と戦いながらかすかに思いを伝えた時に風流となる。
精進あげの三位入道
かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
のような句は風流とは言い難い。かかのことを気遣い、嫉妬を恐れながらも、それでも他の女に目移りすることは止められない、というならまだ風流がある。
花の時千方といつし若衆の
恋のくせもの王代の春 卜尺
の句にしても若衆の情への思いやりを欠いたまま、一方的に「くせもの」だなどと言うのは風流が足りない。
恨みの情に関しても、憎悪をあからさまに言い立て罵るのは風流ではない。お互いの立場を理解し合い、自らの情を抑えながらも、それでも二度とこうした恨みつらみごとの起きないような最終的な解決を願うなら、そこに風流が生まれる。
四端と七情は区別されねばならず、七情を述べる時にも心の中に四端を忘れないなら、それは風雅の誠となる。我々の風流の道は李退渓の教えにより開かれた。
韓国の恨(ハン)は、思うに四端に発する恨みであり、七情の恨みとは区別されてたのではないかと思う。七情の恨みであってもその背後に四端が働いているなら、四端に発する恨みと言ってもいいだろう。
この区別は、古来「本意」と呼ばれていたものを俗情、あるいは私情と区別する際に、合理性をもたらすことができる。
まあ、そういうわけで今、日韓が険悪な状態になる中、私に出来るのは李退渓から引き継がれた風流の道を学び、守るだけのことで、反日も嫌韓も関係ない。
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