今日は夕立があり、その後晴れて月が見えた。
それでは「実や月」の巻の続き。
二表、十九句目。
龍田のおくに博奕こうじて
毛氈を御門の目には錦かと 紀子
「毛氈」はフェルトのことで、ウィキペディアに、
「現存する日本最古のフェルトは、正倉院所蔵の毛氈(もうせん)である。奈良時代に新羅を通じてもたらされたとされる。近世以後は羅紗・羅背板なども含めて「毛氈」と呼ばれるようになるが、中国や朝鮮半島のみならず、ヨーロッパからも大量の毛氈が輸入され、江戸時代後期には富裕層を中心とした庶民生活にも用いられるようになった。現在でも、畳大の大きさに揃えられた赤い毛氈は緋毛氈と呼ばれ茶道の茶席や寺院の廊下などに、和風カーペットとして用いられている。」
とある。このころはまだ緋毛氈は一般的ではなかったのだろう。
「錦」が数種類の色糸で織り上げる華麗な織物であったように、ここでいう毛氈も緋毛氈ではなく、色数の多い華やかなものを指していたと思われる。正倉院の毛氈も「花氈(かせん)」や「色氈(しきせん)」だった。
前句の「博奕」を中世に大流行した闘茶のこととしたのだろう。賭け茶とも呼ばれている。闘茶の会場には唐物の毛氈が敷き詰められていたという記述が『太平記』にあるらしい。
闘茶は戦国時代に侘び茶が流行ると、急速に衰退していったが、江戸時代に入っても行われていた。
竜田川の紅葉は、
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
竜田の川の錦なりけり
能因法師(後拾遺集)
のように錦に喩えられた。
龍田山の奥で闘茶があれば、紅葉よりそこの毛氈が錦だということになる。
二十句目。
毛氈を御門の目には錦かと
そよや霓裳羅漢舞する 卜尺
「霓裳(げいしょう)」は「霓裳羽衣の曲」で、ウィキペディアには、
「霓裳羽衣の曲は玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲と言われる。玄宗は愛妾である楊玉環のお披露目の際、この曲を群臣に披露し、群臣に楊玉環が特別な存在であると意識させた。」
とある。
「楊玉環」は楊貴妃。ウィキペディアには「姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。」とある。
「そよや霓裳」は謡曲『楊貴妃』の地歌に、
「そよや霓裳羽衣の曲。そよや霓裳羽衣の曲。そぞろにぬるる袂かな。」
とある。
楊貴妃なら錦だが、毛氈を着て舞うとなると、ということで羅漢舞(らかんまひ)になったか。
羅漢舞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「羅漢講に行なわれた羅漢の面をかぶって舞う舞。また、酒席などで、羅漢のまねをして、はやしたり踊ったりすること。」
とある。
こういう古い時代の薀蓄に詳しいことと「かかと寝て」みたいな句との共存する卜尺という人は、やはり典型的なオヤジだ。今でも町内会だとか商工会だとかの偉い人にありがちなキャラだ。
芭蕉の蕉風確立は、ある意味こういう旦那芸的なものから脱却するところにあったのではなかったか。まあ、その過程で、結局卜尺は素堂や杉風のようになれずに取り残されてしまったのだろう。
二十一句目。
そよや霓裳羅漢舞する
やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ 二葉子
これは、
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
僧正遍照(古今集)
だが、舞っているのは乙女ではなくお坊さん。きているのも天の羽衣ではなく破れ袈裟。何か狐に化かされたみたいだ。
二十二句目。
やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ
鼡に羽が郭公とぶ 桃青
鼡は鼠。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「和漢三才図会『伏翼(かわほり)、鼠モ亦蝠ニ化ス』」とある。
蝙蝠は確かに哺乳類だから羽がなければ鼠に似ている。出典そのままではなく、あえて少し変えてホトトギスにするとかなりシュールになる。こうした発想は『次韻』調につながってゆく。
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