今日は久しぶりに晴れて半月が見えた。一週間後には十五夜。
時差はあるにしても月は世界中で見えるし、どこから見る月も同じ月だ。月を見る心にもそんなに差はあるまい。
さあ、そろそろ今月の俳諧ということで、延宝六年の「四吟哥僊」を選んでみた。歌と哥は同じだし、仙と僊も同じ意味だから普通に四吟歌仙でもいいところだ。
発句は、
実や月間口千金の通り町 桃青
で、「実や」は「げにや」と読む。「月間口千金」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、
「一間間口で千金もするという地価の高い場所。」
とある。
地価とは言っても、近代的な地価の概念は明治五年の地租改正からはじまるもので、江戸時代の土地は基本的には幕府のもので、田畑の売買などは禁令が出ていたが、そこは建前で実際は地主がいて事実上の土地の私有化が行われていて、売買も行われていた。商人の多くは地主に店賃(たなちん)を払って商売をしていた。
ただ、ここでいう「千金」が店賃のことなのかどうかはよくわからない。千金を稼げる場所という意味かもしれない。とにかく多くの金が動く場所であることには変わりない。
「通り町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「① 目抜きの大通り。またそれにそった町筋。
② ◇ 江戸の町を南北に通じる大通りの名。神田須田町から日本橋・京橋・新橋を経て、芝の金杉橋に至る。」
とある。
ここで地名を出すのは、おそらくこの興行が脇句を詠む二葉子の家で行われたからであろう。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、二葉子は、
「喋々子の息。十二歳。『俳家大系図』によれば『喋々子住鍛冶橋』とあり。鍛冶橋は通り町に近い。」
だという。鍛冶橋は江戸城の外堀に架けられた橋で、その外側に鍛冶橋御門があった。東京駅と有楽町駅の間あたりにある鍛冶屋橋交差点に「鍛冶屋橋跡」という説明書きがある。通り町が現在の中央通りなので、確かにそう遠くはない。
この頃芭蕉も日本橋小田原町にいたが、そこも通り町のすぐそばだった。
間口千金の通り町から見る今日の月は、実に値千金というわけだが、この「千金」は当然、
春宵 蘇軾
春宵一刻直千金 花有清香月有陰
歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈
春の宵の一刻は値千金、
花清らかに香り月も朧げに
歌に笛に楼台の声も聞こえてきて
中庭の鞦韆に夜はしんしん
の詩をふまえている。
「千金」という響きから、ちょっと生々しい経済ネタに持ってゆこうという欲求は、この句に留まらなかった。
延宝九年の常矩撰『俳諧雑巾』には、
春宵のやす売あてありけふの月 重以
千金の春宵も今日の月と較べれば安く買い叩けるのではないか、とする。
同じ延宝九年の言水撰『東日記』には、
千金や閏の一字月のけふ 秀勝
延宝八年には閏八月があり、中秋の名月が二回あった。滅多にない二度の名月は千金の値がある、となる。
このネタは結局、
夏の月蚊を疵にして五百両 其角
に窮まることになる。
それでは二葉子の脇、
実や月間口千金の通り町
爰に数ならぬ看板の露 二葉子
十二歳とは思えぬ堂々たる脇で、伝承は本当なのか、喋々子自身ではないかと疑いたくもなる。
発句の「千金の通り町」に対して、自分の家を「数ならぬ看板の露」とへりくだって受ける。
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