2019年9月26日木曜日

 きょうは旧暦八月二十八日。もうすぐ九月。ただ、今年は秋の花が遅いように思える。彼岸花がようやく咲き出した。このあたりも温暖化の影響があるのかもしれない。
 地球の温暖化は大きな問題だが、原発はひとたび事故を起こしたときの損失が大きすぎるのでお勧めはできない。福島を抱える国民としてそれは断言したい。基本的には再生可能エネルギーを最大限に活用するべきであろう。
 また、文明を否定して極度に生産性を下げてしまうと、人は飢餓の恐怖に直面することになる。そうなると地球の養える人口が減り、生活を守るために過酷な生存競争が生じることになる。かつての共産圏では生存競争が密告や讒言によって仲間を蹴落とす戦いとなり、飢餓と粛清の嵐が吹き荒れた。
 地球の養える定員が減れば、それだけ口減らしが必要になる。最悪の場合はかつてオウム真理教の説いたハルマゲドンということになる。
 再生可能エネルギーの最大限の活用の下に、極力生産性を落とさないようにして、今の豊かさを維持しながら炭酸ガスの排出を抑制しなくてはならない。温暖化対策は苦労や貧困を強いるものではあってはならない。それがセクシーということだ。セクシーは古語で言えば「ゆかし」ということか。
 持続的成長は御伽噺ではない。生産性が落ちてもみんなで貧しさを分かち合えるという発想のほうが御伽噺だ。生産性が落ちれば必ず過酷な生存競争になり、飢餓と粛清と戦争で多くの命が失われる。
 理性は非情を命じるかもしれないが、惻隠の情はそれを回避する事を求める。
 さて、昨日は惻隠の情と羞悪の情の話をしたので、今日はその続きで辞譲と是非について考えてみよう。

 「辞譲」の心については、実際にはかなり打算が働いているように思える。つまり、譲ることで譲ってもらえることを期待する、いわゆる恩を着せるということに、どうしても係わってきてしまう。
 順位制社会で「譲る」ということは単純に放棄することを意味する。
 美味しそうな食べ物を見つけた。だけど強そうなやつがこちらを見ている。ここで食べようとすると襲われそうな気がする。すばやく口の中に入れてしまっても、口の中に手を突っ込まれて奪われるかもしれない。怪我するのはいやだ。ならせっかく見つけた食べ物だけど、ここに置いて逃げることにしよう。これが順位制社会の辞譲だ。
 チンパンジーくらいだともう少し頭が良くて、半分千切って投げ捨てていき、安全なところまで逃げて残りの半分を食う。これはお人好しの研究者の目には、仲良く半分こして何ともほほえましい、というように映るようだ。
 さて、人間の社会となると、原始的な社会であればあるほど、生活のほとんどの者を譲り合う。狩猟民族は他人が作ってくれた弓矢を用い、捕らえた獲物はどんな小さくてもみんなに分配する。こうしてお互い依存しあうことで仲間の絆を深めるといえば聞こえがいいが、これをしないと排除されるという不安からくるものだ。
 有限な大地に無限の恵みはない。しかし人口は常に増えようとする。有限な大地で無限の人口を養うことはできないから、何らかの形で誰かを排除しなくてはならない。これが生存競争の厳しい掟だ。
 順位制社会では弱いものから脱落してゆくが、出る杭は打たれる状態に陥った人類は横暴なもの、ケチなものから排除されてゆく。あるいは排除される前に、恥ずかしさから自ら命を絶つ。
 それでも人口が増え続ければ、結局隣の村に戦争を仕掛け、一人殺して一人前の大人とみなす。ただ、一方で隣の村も同じことをするからバランスが取れる。
 原始的な社会のみならず、多くの社会の下層部では、ギブアンドテイクなんてものはない。ギブは貸しを作ることで、テイクは借りを作ることだ。貸しを作ったままの状態、借りを作ったままの状態でいることで、人間関係というのはいやおうなしに継続させなくてはならなくなる。
 それをギブアンドテイクのようにその場で返済が済んでしまえば、人間関係はそれきりになる。現代のように毎日夥しい数の人に接しなければならない社会では、すべての人と永続的関係を維持することは難しい。それどころか名前すら覚えられないだろう。ギブアンドテイクは関係をその場限りで終えたい近代社会で発達した考え方だった。
 永六輔作詞の「いきてゆくことは」の歌詞には、

 生きているということは誰かに借りをつくること
 生きているということはその借りを返していくこと

とあるが、人類は原始からそうして生きてきた。
 人類学では「互酬性(ごしゅうせい)」という言葉が使われる、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「互恵性ともいう。人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。有形無形にかかわらず,それが受取られたならば,その返礼が期待されるというもの。アメリカの人類学者,M.サーリンズは互酬性を3つに分類した。 (1) 一般的互酬性 親族間で食物を分ち合う行為など,すぐにその返礼が実行されなくてもよいもの。 (2) 均衡的互酬性 与えられたものに対して,できるかぎり決った期限内に返済されることが期待されるもの。 (3) 否定的互酬性 みずからは何も与えず相手からは最大限に奪おうとするもの。詐欺,賭け,どろぼうなどを含む敵対関係の行為といえる。そのほか,フランスの人類学者 C.レビ=ストロースは,婚姻を女性の交換ととらえ,そこでも互酬性が適用されると指摘した。これらの互酬性による均衡が破られたとき,当事者間には社会的地位の上下が生じるが,これはときには負い目意識となって,再び均衡がはかられる。このように均衡を求め続けることによって人間関係は継続し,進展しているともいえる。アメリカの R.ベネディクトによれば,日本社会における「恩」は無限の,「義理」は有限の負い目意識としてとらえられる。」

とある。
 家庭だけでなく、村社会でも、人間関係の永続性を必要とする時には、できる限り返済を遅らせたほうがいい。不均衡の状態が維持されている限り、人は恩と義理で縛られ、その社会の中に繋ぎとめられる。ひとたび均衡に至ると、貸し借りなしということで、そこで関係が切れてしまうことになる。昔は飲み屋の付けは完済するなと言われていたらしい。完済は「もう来ない」という意味になるからだ。
 永続的な関係が求められる時には基本的に「一般的互酬性」になる。「均衡的互酬性」は一時的な関係で済ませたいときに用いられる。たとえばヤクザに何かをもらった時には、そのもらった物の値段の相場を調べ、速やかに返済しなくてはならない。返済が遅れるとずるずると腐れ縁になってしまう。基本的には受け取らないのが一番いいのだけど。
 「否定的互酬性」は村同士の戦争のように、その時は一方的に始まるが、やられた方はいつかやり返しても文句はないだろうという所で関係性を維持する事ができる。
 今日の考え方だと、やられたら即謝罪と賠償ということになるが、それだと「均衡的互酬性」になり、関係が切れてしまう。
 まあ、いくら謝罪と賠償が行われても、なおも請求し続ければ腐れ縁のように関係は維持されるわけだが、請求され続けるほうに不満がたまるのは避けられない。
 辞譲は人間が社会的関係を維持するのに欠かせない心情で、基本的には譲るけど返済を求めない気前良さを特徴とする。無理に返済を求め本当に返済されてしまうとそこで関係が切れてしまい、社会から孤立する恐れがあるからだ。太っ腹は慕われ、ケチは孤立する。孤立すれば社会からの排除の対象になりやすくなる。そこから人は気前良さを進化させた。
 だからといって与えっぱなしということではない。贈与を恩義と感じ、返済を義務だというのが暗黙の前提にあって、はじめて太っ腹が人間関係の永続に繋がる。相手が恩知らずだったら、ただ損してそれで終わりになる。辞譲は一般的互酬性が前提されて初めて成立する。
 礼という意味では、頭を下げるというのは自分を小さく見せることで、順位制社会では降参を意味する。微笑みは勝ち誇った笑いとは異なり、無防備である事をさらけ出す。基本的には相手に勝ちを譲ることを意味し、譲ることで債権者となる。俳諧の笑いも、基本的に挨拶の微笑であり、誰かを笑いものにして勝ち誇ることではない。
 「是非」の情は西洋的な実践理性に近いのかもしれない。是非の字を重ねて是々非々と言うこともあるが、ようするに「なるものはなる、ならぬものはならぬ」ということだが、このことは「掟」あるいは「法」に関係する。「けじめ」という日本語もある。
 辞譲は行動に関しても、ある程度の迷惑には目をつぶることで恩を着せることができるし、ある程度の不均衡を容認することも、恩を着せることになる。ただそれが有り余る時、「一般的互酬性」の維持が困難になり、「均衡的互酬性」を求めることに繋がる。
 つまり、縁をこれ以上維持しても割が合わないときには、縁を切るという選択肢がある。これは原始的な社会ではそのまま排除ということになり、追放されて野垂れ死にするか、それ以前に恥ずかしさから自殺するか、あるいは突発的に生じる過剰なストレスによってそのまま突然死に至ることすらある。ある程度文明化した社会なら、都市へ行って生きながらえることもできるが。
 ただ、その判断は生殺与奪に係わるものなので、怒りに任せてのものであってはいけない。それだと不公平が生じ恨みを残すことになる。
 そこから、ここまでは許せるがこれ以上は許せないという線引きが必要になる。これが立法の起源になる。
 「均衡的互酬性」はそのまま関係の断絶にするのではなく、一度過去の負債を清算して、そこから新たな関係を始めるということもできる。「罰」というのは責任を有限にすることに意味がある。
 法を定め、責任を有限化し、恨みと報復の連鎖で社会が破滅すのを防ぐのは人間の知恵であり、この知恵は「是非」の情から始まる。
 「惻隠の情」は人間同士、助けと許しをもたらすことで「仁」のもととなる。
 「羞悪の情」は仲間はずれを恐れることで、排除されないためにすべきことという意味での「義」をもたらす。
 「辞譲の情」は気前良くふるまうことで永続的な人間関係を築く。ここに「礼」が生じる。
 「是非の情」は許せるものと許せないものに一定の基準をもたらすことで責任を有限化し、掟によって律するという「智」をもたらす。
 これらは順位制社会の中で進化した他の感情とは異なり、出る杭は打たれる社会で育まれた、新たな感情の層を生み出す。古い感情は「気」に属し、新しい感情は「理」の属する。支考が『俳諧十論』で言ったように、気が先にあって理は後から進化した。
 人間が人間になることで生じた「理」は「道」とも「誠」とも呼ばれ、風流の道は基本的にそれを目指すことになる。

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