昨日のちょっと訂正。
芭蕉が江戸に戻ったのは元禄四年の十月二十九日で、しばらくは日本橋橘町に仮住まいしていた。今でいえば馬喰町の駅の南側の東日本橋三丁目のあたりだ。
第三次芭蕉庵は翌元禄五年五月に竣工した。
それでは四句目。
秋をへて庭に定る石の色
未生なれの酒のこころみ 涼葉
「未生なれの」は「まだなまなれの」と読む。
「なまなれ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 熟れ鮨で、十分熟成していないもの。
2 果物などで、十分熟していないもの。
3 十分に熟達していないこと。また、そのさまや、そのような人。
「―な商人の来る節句前」〈川柳評万句合〉
とある。酒の場合はまだ十分に発酵が進んでないということか。「なれる」というのは輪郭がなくなることをいうから、まだ米の粒が残っている状態のどぶろくかであろう。熟成するのを待ちきれずに試し飲みというところか。
庭の石といってもここでは枯山水などに用いる白砂のことで、これがまだ米粒の残るどぶろくを連想させる。
五句目。
未生なれの酒のこころみ
端裁ぬ鼻紙重きふところに 此筋
当時鼻紙として用いられていたのはちり紙で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「廃物利用の下等紙のこと。本来は手漉(す)き和紙の材料であるコウゾ(楮)やミツマタ(三椏)などを前処理する際にたまる、余分の外皮などのくずを集めて漉いた。宮城県白石(しろいし)地方では、コウゾの外皮を薬品を使わずに自然発酵で精製して漉いたものをちり紙といい、外皮のくずを主原料としたかす紙とは区別している。塵紙(ちりがみ)の名はすでに1506年(永正3)の『実隆公記(さねたかこうき)』にみられる。1777年(安永6)刊の木村青竹(せいちく)編『新撰紙鑑(しんせんかみかがみ)』には「およそ半紙の出るところみな塵紙あり、半紙のちりかすなり」とあるように、江戸時代には各地で種々のちり紙が生産され、鼻紙、包み紙、紙袋、壁紙、屏風(びょうぶ)や襖(ふすま)の下張りなどに広く用いられた。」
とある。
遊郭などで用いる高級な鼻紙となると、延紙がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「大和国(奈良県)吉野地方から多く産した縦七寸(約二一センチメートル)横九寸(約二七センチメートル)程度の小型の杉原(すぎわら)紙。鼻紙の上品として、遊里などで用いられた。小杉原。七九寸。のべ鼻紙。のべ。
※浮世草子・好色一代男(1682)一「朝鮮さやの二の物をほのかにのべ紙(カミ)に数歯枝(かずやうじ)をみせ懸」
とある。「朝鮮さや」は「朝鮮紗綾」で「二の物」は「二布(ふたの)」のことか。
この句の場合、「端裁(はしたた)ぬ」と漉いたまま縁をカットしてない状態の物なので、安価なちり紙の方か。
今のポケットティッシュのような小さなものではないので、懐に入れるとそれなりの重さがあったようだ。
江戸中期の四方赤良の狂歌に、
山吹の鼻紙ばかり紙入れに
実の一つだになきぞ悲しき
とあるように、懐に鼻紙というのは、金がないという意味だろう。だから自家製のどぶろくの熟成を待ちきれずに飲んでしまう。
懐に入れるという意味で「懐紙」という言葉もある。連歌は元々はこの懐紙に記入した。二つ折りなので、表裏両方に書ける。
六句目。
端裁ぬ鼻紙重きふところに
曲れば坂の下にみる瀧 濁子
前句の「端裁ぬ」を「橋立たぬ」に取り成したか。橋がないので川の手前で曲がれば瀧になってしまう。
瀧は近代では夏の季語だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「滝殿」はあっても「瀧」は夏の季語になっていない。貞徳の『俳諧御傘』にも季節への言及はない。
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