今日は出光美術館で「奥の細道330年 芭蕉」展を見た。「旅路の画巻」があった。
最初の絵は、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
次の絵は、
寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 芭蕉
かなと思った。
破笠の「柏に木菟蒔絵料紙箱」があった。破笠が漆芸家だったのは知らなかった。これはなかなかの名品だ。
許六の「百華賦」の絵の入ったものがあった。
近代の小杉放菴の「奥の細道 那須野」の馬はデカ過ぎ。近代の馬の大きさだとこうなる。江戸時代の馬は小さかった。許六の「発句画賛 野をよこに」の比率でいい。
台風も近づいてきている。昼頃銀座で雨に降られて帰った。
日本は今日も平和で「私達は生きるか死ぬかの瀬戸際。在日は明日殺されるかもしれない。」なんて状況はどこにもない。まあ、あの連中は何十年も同じことを言っているから、日本人はわかっているが、他所の国の人は騙されないように。
それでは、「実や月」の巻の続き。
五句目。
芦の葉こゆるたれ味噌の浪
台所棚なし小舟こぎかへり 二葉子
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、
堀江こぐたななしを舟こぎかへり
おなじ人にやこひわたるらん
よみ人しらず(古今集)
の歌が引用されている。「たななし小舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 棚板すなわち舷側板を設けない小船。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。ただし近世では、一枚棚(いちまいだな)すなわち三枚板造りの典型的な和船の小船をいう。棚無船。
※万葉(8C後)一・五八「いづくにか舟泊(ふなはて)すらむ安礼(あれ)の崎こぎたみ行きし棚無小舟(たななしをぶね)」
とある。まあ、小さな手漕ぎボートを想像すればいいのだろう。
これに台所がつくと「台所舟」になる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 船遊びなどの屋形船に付随して料理を作りまかなう小船。厨船(くりやぶね)とも称し、江戸や大坂の川筋での船遊びに多く使われた。また、近世大名の川御座船にも台所御座船と呼ぶ同じ目的のものがあり、これはかなり大型船であった。賄舟(まかないぶね)。
※俳諧・談林十百韻(1675)「磯うつなみのその鮒鱠〈卜尺〉 客帆の台所ふねかすみ来て〈一鉄〉」
とある。
台所舟が漕ぎ帰っていったため、たれ味噌が芦の葉の向こうに行ってしまった、となる。
六句目。
台所棚なし小舟こぎかへり
下男には与市その時 桃青
「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。
初裏に入る。
七句目。
下男には与市その時
乗物を光悦流にかかれたり 卜尺
『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、与市を角倉素庵(すみのくらそあん)のこととする。角倉素庵はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、
「江戸前期の学者・書家・貿易商。了以の長男。名は光昌・玄之、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵等がある。藤原惺窩の門人で本阿弥光悦に書を学び一家を成し、角倉流を創始、近世の能書家の五人の一人に挙げられる。了以の業を継ぎ、晩年には家業を子供に譲り、嵯峨本の刊行に力を尽くす。また詩歌・茶の湯も能くする。寛永9年(1632)歿、61才。」
とある。
「乗物」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①人の乗る物。馬・車・輿(こし)・駕籠(かご)など。
②江戸時代、公卿(くぎよう)・高級武士、また儒者・医者・婦女子などの限られた町人が乗ることを許された、引き戸のある上等な駕籠。」
とある。陸上の乗物に限られていて、今のような船や飛行機を含めた人を乗せるもの一般としての乗物の概念はない。もちろん連歌でも植え物、降り物はあっても乗り物はない。よって打越の小舟は問題にならない。
駕籠を担ぐことを「駕籠をかく」というところから、ここでは与市という駕籠かきがいるが光悦流か?という冗談。
八句目。
乗物を光悦流にかかれたり
薬草喩品くすりごしらへ 紀子
「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。
本阿弥家は日蓮宗の家系でそこから「薬草喩品」が出てくる。
前句の光悦流に駕籠をかくところから、薬の製法の書いてない「薬草喩品」で薬を作ると洒落には洒落で応じたということか。かなり苦しい。
九句目。
薬草喩品くすりごしらへ
真鍮の弥陀の剣を戴て 桃青
剣を持っているのは普通は不動明王で、阿弥陀如来の剣というのはあまり聞かない。まあ、そこはあまりこだわらずにというところなのか。まあ、頭の後ろの放射光背が沢山の剣に見えなくもないか。その剣で薬草を採取し、薬を拵える。これもどうにも苦しい。
十句目。
真鍮の弥陀の剣を戴て
西をはるかに緑青の山 二葉子
真鍮だから錆びれば緑青(ろくしょう)を吹く。それを西の山の青い色に喩える。
上手く窮地を脱した感じがする。やはりこの二葉子はただものではない。
十一句目。
西をはるかに緑青の山
隈どりの嶺より月の落かかり 紀子
初代市川團十郎が貞享二年に『金平六条通』の坂田金平を勤めた時が歌舞伎の隈取の始めと言われているから、ここでの隈取は歌舞伎のそれではない。
日本画の技法である「隈取」も、はたして「日本画」が誕生する以前の伝統絵画に遡れるのかどうか定かでない。
ここでは単に影になるという意味であろう。シルエットとなった嶺に月が沈もうとすると、空も明るくなり、次第に緑青の色をした山が浮かび上がってくる。こういう景色の句になると展開は楽になる。
十二句目。
隈どりの嶺より月の落かかり
秋を坐布の床の山風 卜尺
「坐布」は「ざしき」、「床」は「とこ」と読む。
前句の「隈どり」を隈を書き込んだ、絵に描いたという意味に取り成して、「嶺より月」という絵が落ちかかったとし、その原因を座敷の床に吹き込んできた秋の山風とする。
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