今日は中秋の名月だが朝から空はどんより曇っていた。
ただ夜になるとところどころ雲に切れ目が生じ、時々薄月が見えた。疲れては雲より漏るる月の距離という随分昔に作った句を思い出す。
何に関しても程よい距離というものはある。人と人もあまり近いとうざいように、国と国も適度の距離というのが必要なのかもしれない。
徳川の三百年の平和の時代は、朝鮮半島も平和だったし、清朝も西洋人が侵略してくるまでは平和だった。この時代は貿易は盛んだったが、対馬や長崎や琉球など入口は限られ、それほど多くの人が行き来していたわけではなかった。適度の距離を保つことも平和には必要なのかもしれない。
遠くにいてあこがれているときのほうが良い場合もある。
近代に入って西洋文明が入ってきて、やれ世界は一つ、真理は一つ、神はただ一人とばかりに、何でもかんでも一つにしようとして、結局世界全体が悲惨な戦争を繰返してきた。
同じになるはずのないものを無理矢理一つにしようとすれば、必ず争いになる。人も国も同じだと思う。
それでは「実や月」の巻の続き。今日はちょっと少ないけど。
二十七句目。
殿様かたへゆくあらしかな
雁鶴も高ねの雲の立まよひ 紀子
「高嶺の花」という言葉は本来は高い山の上で咲く花で手が届かないという意味だったが、今日では「高値の花」つまり値段が高くて手の届かないという意味で用いられている。
この両義性は昔からあったのだろう。ここでは食材だが、雁も鶴も高価で、庶民から見れば高い山の雲の彼方で、殿様のところへ買われていってしまう。
ただ、雁は元禄六年には、
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
と詠まれているから、恵比寿講の特別なご馳走だとは言え、一応庶民の手の届くものになっていたか。
二十八句目。
雁鶴も高ねの雲の立まよひ
俎板の月摺鉢の不二 卜尺
俎板というと日本では一般的に長方形のものが用いられ、昔は足がついていた。ただ、俎板を月に見立てるというと、円形の俎板も存在していたか。あるとしたらおそらく中華料理に用いるような、丸太を切ったような俎板であろう。
摺鉢の不二(富士)はすり鉢を伏せた形状からか。
前句の「雲の立まよひ」から俎板と摺鉢を空の景色に見立てた。
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