2019年9月4日水曜日

 まだ中坊だった頃聞いた話で、朝鮮人学校の生徒にからまれて、そいつは喧嘩が強かったのでやり返して喧嘩では勝ったのだが、その夜家が放火されたという種の、出所のわからないいわゆる都市伝説みたいなものが流布していた。
 そこでの教訓はあいつ等には絶対にかかわるなだった。今でいえば「断韓」ということか。まあ、今こんな話をするとヘイトスピーチだなんて言われかねないが。
 力によって権利や自由を獲得するというのは、西洋哲学では基本なのかもしれないが、そうやって獲得した権利や自由を守るには、結局力を誇示し続けなくてはならなくなる。日本では「力を入れずして天地を動かす」風流の道、共通体験を語り心情的にに共鳴しあうことが重視された。
 それでは今日も『談林俳諧集』から。

 幽山撰『誹枕』(延宝八年刊)には、諸国をテーマにした沢山の発句が収められている。
 たとえば美濃なら、

 養老の瀧つぼやたんほ春の水  正勝

のように、養老の瀧の瀧壺から痰壺を連想し、田んぼの春の水と続く。
 飛騨なら、

 蓬莱や飛騨の工の鳥の千代   泰徳

 飛騨の止利仏師に掛けている。
 信濃は、

 新そばや打詠行ば信濃なる   幽山

 と信州蕎麦の蕎麦打ちに掛けている。
 この幽山という人はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:元禄15.9.14(1702.11.3)
 生年:生年不詳
 江戸前期の俳人。名は直重。通称は孫兵衛。丁々軒と号す。晩年は竹内為入と号したという。初め京に住して,俳諧を松江重頼に学ぶ。寛文(1661~73)のころは,諸国を行脚し,その実績をもとに『和歌名所追考』12冊を出版。延宝2(1674)年ごろには江戸に下り,重頼の友人で奥州磐城平の城主内藤風虎の周辺で活躍した。修業時代の松尾芭蕉が,幽山の記録係を勤めたとの伝もある。延宝8年には,『誹枕』を刊行。やがて頭角をあらわしていく芭蕉と入れかわるごとく,俳壇から姿を消していく。晩年は,江戸から藤堂高通(俳号は任口)が初代藩主として立藩した久居(三重県)に移住した。」

とある。なお、藤堂高通の任口は伏見の任口と同名で紛らわしい。
 北は陸奥から南は薩摩までの諸国に留まらず、佐渡や隠岐、壱岐対馬などの離島も部立てされている。
 対馬では、

 対馬根や組蓬莱の髭人参    幽山

と対馬を通じて朝鮮(チョソン)から輸入されていた朝鮮人参が詠まれている。
 このあと、

   惣軸
 五文字や日本にむすぶ飾縄   云奴

と日本全体が詠まれ、そのあとに「外国」の部がある。

 唐船よ随分渡せきそ始     元好

と中国に始まり、

 蓬莱や琉球の島羊米      肩柳

と琉球の句が続く。
 琉球国の時代には山羊だけでなく羊も飼われていた。その羊に掛けて、稲刈りをした後の株に再生した稲のことをいう稲孫(ひつじ)米を導き出す。

 うら白や数波越て長鬚国    如葉

 長鬚国は『酉陽雑俎』に登場する伝説の国。

 はま弓も君にあげけりしやくしやいん 宇八

 シャクシャインの戦いは寛文の頃で延宝の時代ではまだ記憶に新しい。

 こぶのりやとられてなみの鬼がしま 三昌

 鬼が島も伝説の島だが、昆布や海苔が取れるのか。こぶ取り爺さんと桃太郎が一緒くたになった感じだ。

 楊貴妃を馬嵬が原や花のかぜ  維舟

 これは中国で、楊貴妃は馬嵬で殺害され埋葬された。

 他国もつむるやかぼちゃるすんつぼ 如貞

 ルソンの壺というと堺の商人呂宋助左衛門が大河ドラマにもなって有名だが、ルソンで作られたのではない。中国南部で作られたものをフィリピンのルソン島を経由してきたのでこの名がある。
 かぼちゃはカンボジアが語源と言われている。

 夏の夜やね姿恨む小人嶋    才丸
 五月雨に芦の葉こぐべし小人嶋 恕流

 小人嶋は『山海経』に記された東の果ての島。『魏志倭人伝』に邪馬台国の南にあるとされた侏儒国(又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里)も同じものなのか。
 ひょっとしたら一万二千年前までインドネシアのフローレス島で生存していたとされるホモ・フロレシエンシスという身長一メートルあまりの人類の記憶が、何らかの伝承として残っていたのかもしれない。

 天竺川伽羅に竿させ妻迎    調和

 天竺(インド)は仏様の国としてよく知られた外国だった。ここでは七夕にされている。

 桂男なぐさめ兼つ女護のしま  幽山

 女護島は日本の伝説の島で、ウィキペディアには、

 「女護島(にょごのしま、にょごがしま)は、日本に伝わる伝説上の地名である。海上にある女性のみが暮らしている島であるとされる。女護ヶ島などとも表記される。」

とあり、また、

 「井原西鶴による浮世草子『好色一代男』では、主人公である世之介が最終的に向かう土地として登場している。」

ともある。『好色一代男』は天和二年刊なのでこの頃はまだ書かれていない。

 仲丸が三笠の月や唐の芋    西武

 仲丸は阿倍仲麻呂のこと。江戸時代には人麻呂も人丸と呼ばれていた。
 阿倍仲麻呂といえば、

 天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
             阿倍仲麻呂(古今集)

だが、ここではやはり「唐の芋」と芋落ちになる。唐の芋はサトイモのこと。サツマイモが伝わるのはもう少し後の時代になる。

 入札や心当にもおらんだ荷   三昌
 阿蘭陀や札もおち塩湊舟    宗旦

 ウィキペディアによると、オランダとの「自由貿易が認められたことにより貿易量は増大したが、その支払いのための金銀の流出も増大した。これを抑制するために寛文12年(1672年)に貨物市法が制定された。これは『市法会所』が入札により輸入品の値段を決定し、一括購入する制度である。」とのこと。

 からびたる声や朝鮮筆つ虫   意朔

 朝鮮(チョソン)とは対馬を通じて盛んに貿易が行われていた。ただ、ここではそれに関係なく、朝鮮の筆に筆津虫(コオロギ)を掛けて、その声が唐びているというだけの句。
 まあ、江戸時代の人にとっての外国のイメージというのが何となく伝わってくる。
 最後に地元相模の句。

 金沢の猫や忍び路けはひ坂   幽山

 金沢は金沢八景の金沢。「けはひ坂」は鎌倉の化粧坂(けわいざか)。
 金沢から朝比奈を越えて鎌倉に入り、鎌倉を通り過ぎて出る時は化粧坂になる。この猫は随分遠くまで遠征したもんだ。
 化粧坂に「気配」と「毛生え」を掛けている。

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