トゥンベリさんはリアル・ナウシカだね。「天気の子」は見たのかな。
日本で温暖化対策が盛り上がらないのは、これを声高に言うといわゆる原発村(原発推進派の政府、官僚、電力会社、重電メーカーなどの癒着構造)の人たちが調子づいてしまうからだ。
二〇〇九年に民主党の鳩山首相がニューヨークの国連気候変動サミットで温室効果ガスの二十五%削減を公約し、そのために翌年原発十四基の大増設を承認したことは今でもトラウマとなっている。福島第一原発の事故はその翌年の二〇一一年だった。
そういうわけでトゥンベリさんにお願いしたいのは、温暖化だけでなく脱原発についても同じくらい重点をおいて活動してほしいなということで、そこんとこよろしく。
さて昨日の続きで、今日は四端の惻隠と羞悪について考えてみようと思う。
「惻隠」は単なる共感能力ではない。共感能力はただ他人の状態を推し量るだけのもので、この能力があるが故にむしろ人間は「意地悪」が可能になる。
つまり相手が何をされると一番困るかを知っているから、その一番困ることをして攻撃することもできる。相手の悲しみがわかるから、その悲しみに鞭打つようなこともできてしまう。
惻隠の情は単なる共感能力ではなく、むしろ相手の気持ちがわかるかどうか以前に「助けたい」と思う気持ちだと考えたほうがいい。
親が我子を守るのは本能だが、人間はそれを他人に対してのみならず、動物や植物や自然そのものへとほとんど際限なく拡大することができる。
ただ、そこには当然優先順位はある。人類を滅ぼしてまで自然を守るというのは理性では可能かもしれないが、自然の情には反する。
同様、他人のこと自分の子が溺れていた時どちらを先に助けるかといえば、自分の子供に決まっている。自分の子も他人の子も平等に生きる権利を有すると言うのは理性としては可能だが、自然の情に反する。
誰にだって特別な人はいるし、誰よりも優先的に守りたい人はいる。それは自然の情だが、理性は時として非情で、生理的に嫌悪をもよおすようなことでも平気で命じることができる。思想の恐さというのはそこにある。
順位制社会では常に相手より優位に立つことが大事だから、共感能力も意地悪にしか利用しない。ただ、そうして弱いものを痛めつけていると、被害者同士が共感しあって、みんなで一緒にあいつをやっつけよう、ということになる。そうなってくると一対一での強さは無意味になる。人間は共感能力が発達しすぎたため、結局誰もが集団で袋叩き似合うことを恐れるようになり、それを防ぐには相手を痛めつけたりして恨みを買わないようにする事が重要になる。
生きるためには相手が嫌がるようなことを極力しないようにする。それをやれば袋叩きにあう。それが惻隠の情の起源と言えよう。
こうして人は進んで利他行動を行うようになった。こうした中で、生まれながらに利他的にふるまう遺伝子が生まれれば、打算で利他的にふるまうものよりも多くの人に信用され、生存率や子孫を残す率を高めてゆく。
孟子も言っているように、井戸に落ちかけた子供を助けるのは、その父母に恩を売るためでもなければ、子供の命を救った英雄になるためでもないし、これをしなくては非難されるかれでもない。
ただし、こうした行動が進化できたのは、実際にはそのことによって自分もまた危険な目にあったときに助けてもらえたし、集団の中での信頼を得る事ができたし、それをやらなかったものが集団から排除されることもあったからだ。似せものでも利他行動によって成り立つ社会は、天然の利他主義者を産む土壌になる。
現代の社会でも実際の所孟子の考えるような善人ばかりではない。ただ、たとえ建前でも利他行動によって成り立つ社会では、お人よしも生きられる。そのために仁義礼知の徳を説かなくてはならないのであって、本当に善人ばかりだったら、老子の言うようなそれを仁と呼ぶこともない無為自然の社会になっていたはずだ。
惻隠の情(心)というと、芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川での、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに 芭蕉
の句に対し、素堂が波静本への序で、
「富士川の捨子ハ惻隠(そくいん)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」
と言い、濁子本の後書きで、
「富士の捨子ハ其(その)親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」
とあるのを思い起こさせる。
これは『野ざらし紀行』の句の後の地の文、
「いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」
に応じたもので、突き放した非情とも取れる文章の中に、捨て子の命だけでなく、父や母のやむを得ぬ事情にまで想像をめぐらし、今の自分に最善の回答がないことを悲しむことを惻隠の心としている。もちろん当時は孤児院なんてものはなかったし、行政が捨て子を保護することもなかった。
ただ、こういう心の叫びが多くの人の心を動かせば、いつか誰かが孤児院を思いつき、行政に捨て子の保護を義務付けるという発想も生まれてくることになる。そのための風流だといってもいい。風流は回答は出せなくても心を動かすことならできる。
惻隠の情は人間だけでなく、広く自然全体にも拡張できる。花の咲くのを喜び散るのを惜しむのも、春の万物を生じるのを喜び秋に止むのを悲しむのも、基本的には同じ情ではないかと思う。
羞惡の情については繰返しになるが、2018年11月28日の俳話で、
「恥というのは本来は危険に対して回避を促す反応である。動悸や赤面や体の震えなどの身体的な変化も、本来は危機を回避するためのものだった。
ただ、順位制社会においては、危険は毒蛇や猛獣などの外敵であったり、内部的には自分より強い個体であったり、対象がはっきり特定しやすい。これに対し、出る杭は打たれる状態に陥った人類の祖先にとって、人間関係の中で、不特定多数の他者が結束して襲ってくるかもしれないというものが重要となる。しかし、これは具体的に誰と誰がというふうに特定しにくく、あくまで想像上の漠然とした危険となる。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応として、人間独自の恥の意識が生じる。」
と書いている。
恥は単に人と違うということが不安をもたらすだけで、必ずしも善悪には関係しない。以前にも、
「恥というのは基本的には所属する人間関係からの排除の恐怖であり、必ずしも倫理的に善であるとは限らない。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ったり、奉仕活動で道端のゴミを拾うような、明らかな善行であっても、実際にはそこに気恥ずかしさをともなう場合が多い。これに対し、実際には悪いことであっても、みんながやっていることについては、それほど恥の意識はない。
恥ずかしさは、善か悪かにかかわらず、みんなとちがうことをやっているのではないかという不安から生じる。」
と書いた。
ただ、人間関係が基本的に善だとするなら、そこから排除されるものは悪だということにもなる。社会が複雑で重層的になれば、ある社会で善なものがある社会で悪になったりもするが、単純な田舎の村落ではそれほど問題にはならないのだろう。
羞恥心に関して最も重要なのは性的羞恥心かもしれない。
恋は集団の中での人間関係を大きく変える可能性を含んでいる。婚姻によって両家のみならず他家との勢力関係も変わるかもしれないし、婚姻に至らなければまた恨みが残り、それがまた人間関係に微妙に影響する。それに加えて恋は恋敵を生じ、激しい嫉妬からしばしば刃傷沙汰にも発展するし、過度な執着はストーカー行為に至る。
こうした人間関係の劇的な変化を予感させる恋の情に、不安がないはずがない。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応が「恥」ならば、恋はまさに「嬉し恥ずかし」だ。
恋が風流の最大のテーマとなるのは、単なる犯罪以上に恋は人間関係を大きく動かすからだ。しかもそこに何が善なのか悪なのか、簡単に答えの出ないことばかりだから、恋は人間にとっての永遠の謎だ。
性交を隠すこと自体は順位制社会の頃から行われている。ただ、この場合は強いものによる妨害を恐れるためで、恥ずかしさからではない。恐怖はあくまで直接的で具体的なもので、潜在的なものではない。
羞悪は「廉恥」ともいう。この廉恥も死語だが、破廉恥という言葉も最近はあまり聞かなくなっている。筆者の子供の頃には永井豪の『ハレンチ学園』という漫画が一世を風靡したが、ハレンチももはや死語か。なんか世の中が赤城大空の小説のタイトルではないが「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」になりつつあるように思えてくる。
赤城大空といえば『出会ってひと突きで絶頂除霊!』は世代的に筒井康隆の再来ではないかと思わせてくれる。
「廉恥」は一応コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、
「心が清らかで、恥を知る心が強いこと。「破廉恥」
「一身の―既に地を払て尽きたり」〈福沢・学問のすゝめ〉
とある。
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