2019年9月14日土曜日

 今朝は有明の月が見えた。薄月ではなく澄んだ月だった。
 それでは「実や月」の巻の続き。

 二十九句目。

   俎板の月摺鉢の不二
 昔の秋三千よ人の拂物     二葉子

 「拂物」は不用品のこと。「三千余人」は漢文ではよくある言い回し。戦記物だと「三千余騎」とともによく用いられる。
 『荘子』の「説剣篇」には、「昔趙文王喜剣。剣士夾門而客三千余人。日夜相撃於前、死傷者歳百余人、好之不厭。」とある。三千余人の剣士が日夜試合を行い、死傷者が年に百余人に及び、国も衰えて行くのを嘆き荘周に相談すると、荘周は「天子剣、諸侯剣、庶人剣」の三剣の話をする。天子には三つの剣がある。一つは天地自然を治める天子の剣、一つは家臣を用いて政道を行い国を治める諸侯の剣、もう一つはただ斬って殺すだけの庶人の剣。これを聞いて考え込んでしまった王は三ヶ月引き籠り、「剣士皆服斃其処也」となった。
 雁、月と秋が二句続いたので、「昔の秋」の「秋」は秋を三句続けるための放り込みで特に意味は無いのではないかと思う。
 前句の「俎板の月摺鉢の不二」を絵に描いた餅のような食べられないものの事として、三千余人が食事も与えられずお払い箱(拂物)になった。
 三十句目。

   昔の秋三千よ人の拂物
 釈迦も此よを欠落の時     桃青

 「欠落」は「かけおち」と読む。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「江戸時代に、貧困、借財その他の原因で失踪(しっそう)することを欠落(かけおち)といった。一般に出奔、逐電、立退(たちのき)などの語も用いられたが、法律上は欠落が多用された。」

とある。今日では男女の示し合わせて逃げる意味以外ではほとんど用いられなくなったが、逆に当時はまだこの意味がなかった。
 延宝三年の「いと凉しき」の巻の五十一句目に、

   うり家淋し春の黄昏
 欠落の跡は霞の立替り     似春

の句がある。
 「釈迦も此よを欠落の時」はお釈迦様の出家のことをいう。お釈迦様も出家する前は王子で、後宮にはたくさんの女性がいたとされている。「三千よ人の拂物」は釈迦の出家のせいで彼女達がお払い箱にされたと付ける。
 二裏、三十一句目。

   釈迦も此よを欠落の時
 放埓に精舎のかねをつかひ捨  卜尺

 釈迦の出家の理由を借金取りに追われての夜逃げにとする。この辺の下世話に落とすところが卜尺らしいというか。
 三十二句目。

   放埓に精舎のかねをつかひ捨
 大坂くづれ瓦のこれる     紀子

 「大坂くづれ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、「大坂夏の陣の戦」だという。
 前句を方広寺鐘銘事件のこととし、冬の陣で豊臣家は敗北する。江戸時代だからもちろん徳川中心の歴史観に立ち、方広寺の鐘銘で不敬なことをするからこうなるのだ、ということになる。

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